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Semua Bab 洛陽夜曲: Bab 41 - Bab 50

53 Bab

突然の終焉

賀茂川沿いに建つマンションのエントランスを出ると、鋭い冷気が二人の頬を撫でた。「 寒うないか?」鈴華は首を横に振り、京司と並んで堤防へと続く緩やかな坂を歩く。川面に目を向けると、そこには幻想的な光景が広がっていた。水温と気温の差が生み出した川霧が、白いベールのように水面を這い、対岸の景色を曖昧にぼかしている。二人の足音だけが、小気味よく舗装路に響く。いつもは観光客や学生で賑わうこの道も、今は散歩中の老犬と、数人のランナーが通り過ぎるだけだ。賀茂川と高野川が合流する地点“鴨川デルタ”は、深い霧の底に沈んでいた。亀の形をした飛び石も、今朝ばかりは霧に濡れて黒々と光り、どこか異世界の入り口のような佇まいを見せている。デルタの先端へと足を進める二人。川霧に包まれたデルタは、まるで世界に二人きりしかいないような、静謐で贅沢な孤独を彼らに与えていた。鈴華は幼子の無邪気さをその身に宿し、軽やかに飛び石を跳ねていく。彼女の弾むような生気を守るようにして、彼は一歩ずつ、静かに距離を詰めていった。---飛び石の上で、鈴華の歩みが不意に途絶えた。まるで時間が凍りついたかのように、彼女の視線は対岸から近づく人影に縫い付けられている。そのただならぬ気配に、京司も即座に眉をひそめた。「なんや、どないした?」低く問いかける声に、鈴華は震える唇をかすかに開いた。「…お兄ぃ。どうして、ここに…」“兄“と呼ばれた男は、淀みのない所作で石を渡ってくる。その静かな歩みは、逃れられない宿命が近づく足音のようであった。ゆっくりと、だが確実にこちらへと近づいてくる。飛び石を打つ靴音が、二人の間に重く響いた。兄と呼ばれた男が無表情に距離を詰めてくる。その一歩ごとに、周囲の喧騒が遠のいていく錯覚に陥った。一般人のそれとは明らかに一線を画す、硬質な佇まい。京司と同じ世界の住人だ。隠しようもなく漂ってくる、硝煙と深淵が入り混じる匂いと、鋭利な気配を彼は纏っていた。「お兄ぃ…」その呟きが宙に消えるよりも早く、濁った殺意を孕んだ足裏が鈴華の脇腹を捉えた。「――ッ!」肺の空気を強引に絞り出されるような衝撃。飛び石から弾き飛ばされた鈴華の身体は、凍てつく鴨川へと無様に打ち据えた。「――何しよるんやッ!」京司の怒声が、まだ眠りの中にあった河川
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-05-19
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確執

男の口から漏れたのは、鉛のように重い嘲笑だった。「親父を放り出して男遊びか。いい御身分だな、鈴華」鈴華は反論しなかった。というより、できなかった。ずぶ濡れのまま立ち尽くす彼女の意識は、ただ一点、白くなるほど噛みしめた唇に集中していた。乱れた髪からこぼれ落ちる雫が、震える唇の上で絶えず虚しく弾け続けている。「組長付きなんぞ、さっさと辞めちまえ!」男が吐き捨てた言葉は、湿気を帯びた朝霧の中でひどく無機質に響いた。「おんどれ、さっきから聞いとれば……何様のつもりじゃ!」京司の咆哮が鴨川の静寂の中に響き渡る。瞳には怒りの焔が宿り、その切実な叫びは彼女の背負ってきた苦悶を代弁するかのようだった。地を這うような低い熱を帯び、その瞳に宿ったのは、激情というよりは、鋭利な刃物に近い殺気だった。「彼女がこの街でどないな思いをしてきたか…ほんまにただの遊びで、京都をふらふら歩いとったんやと思っとるんか!」「あぁ? なんだてめぇ。鈴華の男か? ――部外者は黙ってろ」男の嘲笑が消えぬうちに、京司は濡れた飛び石を蹴った。一足で間合いを潰し、迷わず男の胸ぐらを掴み上げる。雨に濡れそぼった京司の拳から、冷たい雫が男のシャツにじわりと滲み、どす黒い染みを作っていく。拳を握りしめる京司の指先は、怒りで白く強張っていた。「これは六穣会の…槇村家の問題だ。てめぇには関係ねぇ」「関係ないことあるかい!」「あぁ?……殺すぞ、こら」ドスの利いた低い声が、男の喉の奥から這い出す。その眼差しに宿るのは、比喩ではない本物の殺意だ。剥き出しの敵意が、暴力的な質量を持って京司の全身にのしかかる。だが、京司は一歩も引かなかった。むしろ、挑発を噛み砕くように口角を吊り上げる。「やれるもんなら、やってみぃや!」「やめて!」鈴華の悲鳴に近い叫びが響き渡る。しかし、昂ぶった二人の鼓膜には、もはや彼女の震える声など届いてはいない。視線が絡み合い、火花を散らす。均衡は、いまにも崩れようとしていた。指先がわずかでも動けば、すべてが崩壊する…。二人は獣のように、互いの喉元を食い破る瞬間だけを凝視し続けていた。
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-05-20
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若頭 槇村宏一

張り詰めた沈黙の糸を断ち切るように、岸辺から鋭い一声が飛来した。「カシラ、あきまへんで!」対岸から響いたその切迫した叫びは、静かな川面を裂くように届いた。一人の男が、なりふり構わずこちらへ向かって駆けてくる。男は足元の危うい飛び石を、まるで獣のような躍動感で、それでいてひどく慌てた足取りで渡りきった。息を切らして現れたその男の眼光が、ふと川の中に佇む鈴華を捉える。「わぁっ1お嬢! どないしたんです、そのお姿!ずぶ濡れやないですか!」驚愕に染まった彼の声が、水飛沫の音をかき消して周囲に虚しく響き渡った。「どないな状況や、これ……」割り切れぬ思いを吐き捨てるように零しながらも、男の視線は鋭く三人との間を往復する。戸惑う鈴華を促すようにその手を取り、足場の危うい飛び石の上へと、優しく引き上げた。「カシラ、……京都で問題起こしたらあかんってオヤジにきつく言われてますやろ?」その諫言に、男は短く、苦い舌打ちを吐き出した。感情のさざなみを押し殺すように踵を返すと、彼は京司に背を向け、迷いのない足取りで飛び石を打ち鳴らす。湿った石の感触だけを残し、男の背中は遠ざかっていく。「……帰るぞ」吐き捨てられた言葉は、鴨川のせせらぎに溶けるように消えていった。。「待てや、話はまだ終わってへんで!」京司の怒号が、男の背中に叩きつけられた。だが、男は一度も振り返ろうとはしない。「すんまへん、名乗り遅れましたわ。自分六穣会で若頭補佐やらせてもらってます、早緑藤四郎ちゅうもんです。以後、よろしゅう頼んますわ。…ほんで、さっきの人ですけど、六穣会の若頭、槇村宏一…お嬢さんの兄貴ですわ」「……槇村、宏一」繰り返す声が微かに震える。その姓名が意味する圧倒的な力の奔流を、京司は肌で感じ取っていた。早緑は京司に素性を問う事なく言葉を続けた。「どなたさんかは知らへんけど、これ以上はご勘弁願いますわ。お嬢も、すっかり冷え込んでおいでやさかい」男は申し訳なさそうに、だが拒絶の意を込めて京司へと深く頭を下げた。震える鈴華の肩を抱き寄せるように支え、男はそのまま濁流の唸る対岸へと歩を進めていく。「君……っ」京司が縋るように声を絞り出す。鈴華がわずかに顔を上げ、京司の言葉を遮るようにその瞳を射抜いた。その眼差しは深い憂いを帯びていた。「……ごめん
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-05-21
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義理事での失態①

鈴華が京司の前からその姿を消して、数日の刻が流れた。京司は組事務所の静寂の中にいた。身体を深く沈めた重厚な革椅子は、今の彼にはあまりに冷たく、そして空虚だ。指先に挟んだ煙草から立ち昇る紫煙は、出口のない悔恨のようにゆらゆらと宙をさ迷い、天井の闇に溶けていく。「守ると言うて…大風呂敷を広げたんやが、なんもできへんかったな」吐き出した言葉は、乾いた咳のように虚空に消えた。脳裏を支配するのは、あの日、ずぶ濡れで立ち尽くしていた鈴華の姿だ。濡れた睫毛の奥に湛えられた、断腸の思いを秘めた瞳。自分を射抜いたその哀しげな眼差しが、網膜に焼き付いたまま剥がれようとしない。差し伸べるべき手は、ただ無力に宙をかいた。守り切れなかったという苦い記憶が、今も京司の心臓をじわじわと締め付け続けていた。「――という段取りで、万事よろしいでしょうか、カシラ」錨の静かな声が、京司を思考の沼から強引に引き剥がした。意識が急速に現実へピントを合わせ、灰皿で燻る煙草の細い煙がようやく視界に入る。「…おう。何の話やったか、もう一遍言うてくれ」京司の呆けた問いに、錨の眉間に一瞬だけ微かな困惑の影が走った。だが、彼はすぐさま表情を殺し、淀みない口調で言葉を継いだ。「明日の結縁盃に伴う義理立ての件ですよ。親父が急な出張で動けなくなりまして、代わりにカシラが顔を出していただくということで、話を通しています。」※結縁盃…擬制の血縁関係を結ぶための儀式「ああ……そうやったな」京司は短く答えた。喉の奥に張り付いた言葉を、無理やり飲み込むような響き。窓の外の喧騒とは裏腹に、部屋の中には逃れようのない組織の論理が重く淀んでいた。「場所は、どこや?」「大阪です。」その地名が耳を打った瞬間、京司の指先で燻る煙草が意志に反してわずかに震えた。吐き出そうとした紫煙が喉の奥でつかえ、彼はそれを飲み込むようにして目を伏せる。「……どうかされましたか?」訝しむ声を振り払うように、京司は灰を落とした。「…いや。なんでもあらへん」言葉が否定の色を帯びれば帯びるほど、皮肉にも彼の意識は、消えた鈴華の残像によって塗り潰されていった。「錨…、お前、槇村宏一ちゅう男を聞いたことあらへんか?」京司の問いに、錨は煙草の煙を吐き出し、その灰色の向こう側を見つめた。「…大阪六穣会の若
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-05-22
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義理事での失態②

黒塗りの最高級セダンが、会場前の静寂を切り裂くように滑り込んできた。タイヤが砂利を踏みしめるわずかな音さえ、周囲の緊張感を煽る。車が完全に停止するよりも早く、運転席から弾け飛ぶように降りた若衆が、最敬礼の姿勢で後部座席のドアに手をかけた。重厚なドアが開くと同時に、立ち並ぶ組員たちの背筋が一斉に伸びる。車内から姿を現した京司。仕立ての良い漆黒のスーツに身を包み、一切の無駄を削ぎ落としたその佇まいは、動かずとも周囲の空気を支配する圧倒的な圧を放っていた。京司がゆっくりと地面を踏みしめると、助手席から降りた若頭補佐の錨が、影のようにその斜め後ろにぴたりと付く。錨は鋭い視線で周囲を一度掃き、京司の歩みを邪魔するものが微塵もないことを瞬時に見極めた。「錨、粗相せんようにせなあかんで」京司の低く落ち着いた声が、冷たい空気の中に溶け込む。「承知しております」錨の短い返辞を受け、京司は表情一つ変えず、正面玄関へと歩を進めた。並み居る男たちが「お疲れ様です!」と地鳴りのような声を上げる中、彼はただ視線を一点に据えたまま、突如その動きを止めた。「……っ!?」京司の視界が、一点で釘付けになった。黒塗りの高級車から降りてきた宏一の背後に、影のように付き従う鈴華の姿。彼女の顔を見て、京司は戦慄した。青黒い内出血が、彼女の表情を無慈悲に奪っている。酷く腫れあがったその肌は、見るも無惨な暴虐の痕跡を物語っていた。顔の半分は、無機質な白い眼帯によって無残に占領されていて、その清潔すぎる白さが、はみ出した青紫の痣のどす黒さを、いっそう不気味に、鮮烈に浮かび上がらせている。鈴華の顔に刻まれた無残な痕跡。その出処が宏一であることに、疑いの余地などなかった。視界が爆ぜるような真紅に染まる。「貴様ぁ、何さらしとんじゃッ!!」コンクリートの静寂を暴力的に引き裂いて、野太い咆哮が駐車場内を震わせた。思考が介入する隙など微塵もない。言葉を吐き出すより早く、京司の右腕は宏一の喉元へと突き出されていた。肉が軋む音を立て、京司の拳が宏一の胸倉を無慈悲に掌握する。駐車場に満ちていたすべてが、ぷつりと糸が切れたように色を失い、静まり返った。事態の推移を呑み込めぬ京司の意識は、空白の数秒を彷徨う。その沈黙の渦中で、宏一だけが異物だった。驚きという感情を切り捨
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-05-23
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義理事での失態③

黒塗りの最高級セダンが、会場前の静寂を切り裂くように滑り込んできた。タイヤが砂利を踏みしめるわずかな音さえ、周囲の緊張感を煽る。車が完全に停止するよりも早く、運転席から弾け飛ぶように降りた若衆が、最敬礼の姿勢で後部座席のドアに手をかけた。重厚なドアが開くと同時に、立ち並ぶ組員たちの背筋が一斉に伸びる。車内から姿を現した京司。仕立ての良い漆黒のスーツに身を包み、一切の無駄を削ぎ落としたその佇まいは、動かずとも周囲の空気を支配する圧倒的な圧を放っていた。京司がゆっくりと地面を踏みしめると、助手席から降りた若頭補佐の錨が、影のようにその斜め後ろにぴたりと付く。錨は鋭い視線で周囲を一度掃き、京司の歩みを邪魔するものが微塵もないことを瞬時に見極めた。「錨、粗相せんようにせなあかんで」京司の低く落ち着いた声が、冷たい空気の中に溶け込む。「承知しております」錨の短い返辞を受け、京司は表情一つ変えず、正面玄関へと歩を進めた。並み居る男たちが「お疲れ様です!」と地鳴りのような声を上げる中、彼はただ視線を一点に据えたまま、突如その動きを止めた。「……っ!?」京司の視界が、一点で釘付けになった。黒塗りの高級車から降りてきた宏一の背後に、影のように付き従う鈴華の姿。彼女の顔を見て、京司は戦慄した。青黒い内出血が、彼女の表情を無慈悲に奪っている。酷く腫れあがったその肌は、見るも無惨な暴虐の痕跡を物語っていた。顔の半分は、無機質な白い眼帯によって無残に占領されていて、その清潔すぎる白さが、はみ出した青紫の痣のどす黒さを、いっそう不気味に、鮮烈に浮かび上がらせている。鈴華の顔に刻まれた無残な痕跡。その出処が宏一であることに、疑いの余地などなかった。視界が爆ぜるような真紅に染まる。「貴様ぁ、何さらしとんじゃッ!!」コンクリートの静寂を暴力的に引き裂いて、野太い咆哮が駐車場内を震わせた。思考が介入する隙など微塵もない。言葉を吐き出すより早く、京司の右腕は宏一の喉元へと突き出されていた。肉が軋む音を立て、京司の拳が宏一の胸倉を無慈悲に掌握する。駐車場に満ちていたすべてが、ぷつりと糸が切れたように色を失い、静まり返った。事態の推移を呑み込めぬ京司の意識は、空白の数秒を彷徨う。その沈黙の渦中で、宏一だけが異物だった。驚きという感情を切り
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-05-24
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義理事での失態④

「……殺してやる」低く震える声とともに、宏一の指先がジャケットの内側に潜む冷徹な鋼——ドスの柄へと伸びた。その刹那、鈴華が迷わず飛び込む。折れてしまいそうなほど細い肢体で、狂気を孕んだ宏一の剛腕にしがみつき、必死にその進撃を押しとどめる。「駄目です、カシラ……!」同時、背後では錨が動いていた。京司の背を影のように捉え、その自由を無慈悲に奪い去る。「カシラ! いけません! ここは義理事の場、メンツを潰す気ですか!」静まり返っていた会場に、錨の怒号が重く響き渡る。一線を越えようとする宏一の殺意と、それを引き戻そうとする者たちの叫び。張り詰めた空気は、火花ひとつで爆発しかねない極限の緊張に包まれていた。鈴華の悲鳴と錨の怒号が入り混じる混沌の中、それらすべてを嘲笑うような、低く、湿り気を帯びた笑い声が遠くから響いた。「ええなぁ。若いもんは元気よぉて…」喧騒を切り裂いて現れたのは、紋付き袴を纏った一人の老人だった。一歩、また一歩。杖が床を叩く乾いた音だけが、静寂を引き連れてくる。その歩みを守護するように、背後には鉄壁の肉壁——黒服の巨漢たちが影のように付き従う。老人の双眸に宿る老獪な光が、宏一たちの青臭い殺意を無慈悲に値踏みしていた。老人の乾いた笑い声が耳に届いた瞬間、宏一と京司を突き動かしていた猛り狂う衝動が、まるで呪縛にかけられたかのように凍りついた。老人は、死神が魂を数えるかのような緩慢な足取りで歩みを進め、二人の鼻先でその足を止めた。「しかしなぁ……場をわきまえへんのは、どないしたもんやろか」穏やかさの裏に、底知れぬ深淵を覗かせる声だった。「…箸尾のオジキ」誰かがその名を、畏怖を込めて呟いた。小柄な体躯に、朗らかな、慈愛すら感じさせる相好。だが、その仏のような微笑の奥底には、幾多の修羅場をくぐり抜けてきた老獪な冷徹さが、鋭い毒針のように隠されていた。「この場はワシが預からせてもらうで。ええな?」差し出された言葉はどこまでも穏やかで、慈雨のように静かだった。だが、その一言一言には、抗う術を許さない絶対的な質量が宿っている。宏一も京司も、喉の奥まで出かかった反論を、目に見えぬ巨大な掌で押し戻されたかのように沈黙した。「東條の親分には、ワシから話を通しておくさかい。この場は二人とも、引きなさいな」慈悲深い
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-05-25
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謹慎

(粗相…なんて次元じゃないだろ)錨は奥歯を噛み締め、心中で毒づいた。常に冷静沈着で、鉄面皮を崩さぬ孤高の若頭。京司の内面にこれほどまでの狂乱が眠っていたとは。配下となって以来、一度として見ることのなかったその“人間”の顔に、錨は言いようのない戦慄を覚えた。---宏一と京司の不手際は、関西の裏社会という静まり返った水面に投じられたつぶてのように、瞬く間にその波紋を広げていった。義理事の場を穢した二人の失態は、もはや隠し通せるものではなかった。事態の収拾に動いたのは、奈良に根を張る箸尾組組長、通称“箸尾の叔父貴”こと箸尾重則である。老練な実力者の差配により、下された裁定は峻烈であった。主催者の面目を潰したことへの多額の詫び金、そして——。両者に対し、当面の間、日の当たる場所を歩くことを禁じる「謹慎」の沙汰が言い渡されたのである。「京司……おのれ、一体何に憑りつかれたんや。こんな無様な真似、門を叩いてから今日まで一度もなかったはずやぞ」九条組の奥座敷。組長宇治宮の声は、低く、湿り気を帯びた苛立ちとなって室内に沈殿していた。彼は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、深く、重い溜息をつく。その一息が、部屋の空気をさらに重苦しく塗り替えていった。「この度は組の看板に泥を塗り、多大なるご迷惑をおかけしました。……返す言葉もございません」京司は畳に額を擦りつけるようにして、絞り出すような声で応じた。弁明の余地など、どこを削っても出てはこない。身を焦がすような悔恨と、己の未熟さへの嫌悪。言い訳という名の逃げ道は、自らの失態によって完全に塞がれていた。「ええか、京司。しばらくの間、京の土を離れることは許さへんぞ。大人しゅうしとれ」宇治宮の言葉は、慈悲という名の檻のように京司をその場に縛り付けた。「……しかと、肝に銘じます」京司は膝に置いた拳を握り締め、再度深く、畳に吸い込まれるような礼を尽くした。重苦しい沈黙を背に、居住まいを正して部屋を去ろうとしたその時、背後から宇治宮の、剃刀のように鋭い声が飛んだ。「ええな、京司。これだけは忘れるな。今後、六穣会とだけは…死んでも事を構えるな。奴らと火種を作ることは、の九条組の命脈を断つのと同じやと知れ」退路を断つようなその釘の刺し方に、京司の背中に冷たい戦慄が走った。
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-05-26
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疑念

マンションのソファに深く身を沈めると、京司はそのまま重力に身を任せた。吐き出された溜息は、行き場を失った後悔のように室内の澱んだ空気に溶けていく。「やってもうたなぁ……」つぶやくような独り言が、空虚な部屋の隅々にまで染み渡り、彼を苛む自責の念をいっそう色濃く浮き彫りにした。赤い火種がじりじりと紙を焼き、灰を落とす。燻り続ける煙を見つめながら、京司は掠れた声で零した。「鈴華のことになると、なんでこんな感情的になってまうんやろなぁ……」輪郭を失いゆく煙は、彼自身の統制を失った心のようだった。応答のない部屋に、ただ煙草の匂いだけが重く沈殿していく。鈴華の身を案じる気持ちとは別に、組長が見せたわずかな“ズレ”が、京司の胸に刺さったトゲのように離れなかった。(……せやけど、何かおかしい。なぜあの人は六穣会にあれほども固執するんやろな?確かに会長の槇村って男は、切れ者で有名やけど、六穣会なんて、この辺ではほんの小さな組織に過ぎへん。いつもの小競り合いで終わるはずや。ほっといても山火事になるようなタマちゃう。それやのに…あの過剰な反応、なんや?他に、俺の知らん“何か”があるんか?)※一本独鈷…大きな組織に属していない独立した組。小規模な暴力団のこと。喉の奥にへばりついた正体不明の疑念を、京司は無理やり飲み下した。グラスに残っていたバーボンを一気に呷る。氷のぶつかる硬い音が、静まり返った部屋にやけに冷たく響いた。「っつ!」口角の傷が熱に悲鳴を上げる。宏一という男の存在を証明するかのようなその痛みを、バーボンは焼き払い、上書きするように拭った。「消毒にはちょうどええな」皮肉げに歪めた口端から溢れるのは、冷徹な仮面の隙間から漏れ出した剥き出しの怒りだ。喉の奥に燻る火種は、どれだけ冷たい言葉を重ねても、消えるどころか赤々とその温度を増していった。「鈴華……。あの阿呆にひどい目に遭わされてへんやろなぁ」鈴華の身を案じるたび、京司の胸中には暗雲が立ち込めた。宏一という男の、あの身勝手で暴力的な振る舞いが脳裏をよぎる。今すぐにでも大阪へ駆けつけ、彼女の手を引いてやりたい。だが、謹慎という現実が、冷徹な壁となって行く手を阻む。案じることしか許されない己の無能さに、京司はただ、焼けるような焦燥に身を焦がすほかなかった。
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-05-27
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早緑補佐の受難

事務所の静寂は、乱暴に叩きつけられたドアの衝撃音によって無惨に砕かれた。戻ってきた槇村宏一の背中には、隠しきれない苛立ちがどす黒い磁場のように張り付いている。彼は逃げ場のない憤りをドアへと叩きつける。乾いた音を立てて倒れ、床を滑る椅子――その無機質な音さえも、今の彼の神経を逆撫でする。「ど、どないしたんです? カシラ⁉」凍りついた空気を切り裂くように、早緑が驚愕の表情で声を上げた。その瞳には、荒れ狂う嵐を間近に見た時のような、本能的な畏怖が浮かんでいた。「どうもこうもねぇ! あの下衆のせいで、箸尾の老いぼれに特大の貸しを作らされちまった!」宏一の背を追うようにして、鈴華が事務所の敷居を跨いだ。「お嬢……一体、何がありましたんや?」「早緑さん…」その声に、鈴華は迷うように視線を泳がせる。喉元まで出かかった言葉を飲み込み、逡巡の末、彼女はあの場での騒動を静かに吐露し始めた。鈴華の言葉を聞いた瞬間、早緑の顔からすうっと血の気が引いていった。見る間に青ざめていくその表情には、隠しようのない動揺が浮かんでいる。「……よりによって、義理事の場でなんちゅうことを……」早緑はこめかみを押さえ、逃げ場のない現実に頭を抱えた。奔放な宏一が撒き散らした不始末を片付けるのは、もはや彼にとって日常の一部だ。だが、今回ばかりは話が違った。若頭補佐という今の彼の立場では、この事態を収拾するにはあまりに荷が重すぎた。「先にアヤつけてきたのは、あいつの方なんだよ!」※アヤをつける…因縁をつける宏一の吐き捨てるような怒声が、重苦しく淀んだ空気を切り裂いた。「……あいつ?」困惑する早緑の耳元で、鈴華が氷のような事実をささやく。その男——京司の正体は、泣く子も黙る九条組の若頭であると。その瞬間、早緑の顔からさらに血の気が引いた。もともと蒼白だった顔色は、いまや命の灯火を失った石膏像のように白磁化し、ただならぬ戦慄を物語っている。「あかん……。すぐ、会長に連絡入れんと……」糸の切れた人形のように足取りを乱しながら、早緑は這々の体で部屋を後にした。
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-05-28
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