「いつだ! いつ鈴華は戻ってくるんだ!? 今日か? 今から奈良に行くぞ、藤四郎!」逸る心に突き動かされるまま、宏一は荒々しく上着を掴み取った。事務所の扉へと踏み出そうとするその背中を、早緑の切迫した声が引き留める。「落ち着いてください! お嬢が戻られるんは明後日です」「明後日か……」宏一の唇から零れたのは脆い呟きだった。彼は何かに憑かれたような足取りで、出口へと向かう。「ちょっと、どこ行く気なんです!」早緑がその体躯を投げ出すようにして、彼の行く手を阻んだ。必死に肩を掴む早緑の腕越しに、宏一の放つ焦燥の熱が伝わってくる。「決まってるだろう。今から奈良に向かう。現地で前泊して、日付が変わった瞬間に鈴華を連れ戻してくるんだよ」あまりに現実から離れた宏一の提案に早緑は一瞬、呆れを通り越して言葉を失った。愛執が男をここまで壊すのか。だが、早緑はすぐに、氷のように冷たい現実を突きつけた。「カシラ……目を覚ましてください。明日からの九州出張、まさか忘れたなんて言わせへんで!」「あ……」その一言が、宏一を縛っていた熱を急速に奪っていく。振り上げた拳の行き場を失ったかのように、彼はただ、虚空を見つめたまま立ち尽くした。ようやく静寂を取り戻した宏一の横顔に、早緑は密かな安堵の息を漏らした。「お嬢は、神野の方が大阪まで送り届けてくれはるそうです」その言葉が耳に届いた瞬間、宏一の眉間に深い溝が刻まれた。まるで口の中に苦い毒を呑んだかのような、やり場のない不快さを滲ませ、彼はただ一言「……そうか」と、吐き捨てるように応じるのみであった。宏一が胸の奥に抱え込んでいる、鈴華への重すぎるほどの情愛。それを誰よりも理解し、共犯者のような眼差しで見守ってきたのは早緑だった。早緑は、あえて湿っぽさを振り払うような明るいトーンを作ると宏一の肩を無造作に叩いた。「さあ! ちゃちゃっと出張終わらせて、一刻も早く大阪帰りましょ。お嬢、博多通りもん好きやさかい、。ようさん買うて帰らんとですね、カシラ」その軽薄なまでの快活さが、かえって早緑の深い配慮を感じさせた。宏一の頬から険が取れ、わずかに口角が上がる。「……ああ、そうだな」短く返した声には、先ほどまでの張り詰めた緊張感はなく、穏やかな凪のような響きが混じっていた。
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