Home / 恋愛 / 洛陽夜曲 / Chapter 81 - Chapter 90

All Chapters of 洛陽夜曲: Chapter 81 - Chapter 90

100 Chapters

窮地①

重苦しい雲を心に引きずったまま、京司は見合いの当日を迎えた。日常の鎧であるブラックスーツを脱ぎ捨て、袖を通したのは沈殿した空の色にも似たダークグレーの織物。薄浅葱色のネクタイを締めながら、(俺に添い遂げる気がないわかれば、諦めてくれるやろう)そう、冷めた独白を鏡の中の自分に投げかける。その時の彼はまだ、己の運命を甘く見積もっていた。たかが形式上の儀礼、その程度にしか考えていなかったのだ。しかし、見合いの席に腰を下ろした瞬間、その傲慢な目論見は音を立てて崩れ去る。静謐な空気の中に潜む抗いがたい重圧に触れ、彼はようやく悟った。自分がどれほど浅はかな認識で、この逃れられぬ円卓に臨んでしまったのかを。眼前に座す令嬢は、春の陽だまりを凝縮したような無邪気な笑みを湛え、ただじっと京司を射抜いている。その瞳には、彼が抱く葛藤の欠片さえ映っていないかのようだった。傍らでは、九条組を統べる宇治宮崇と、山城銀行の頂に立つ高頭義弘が、戸惑いに沈む京司を置き去りにして、祝祭の気配を膨らませていく。二人の巨頭が交わす言葉は、まるで完成図の決まったパズルを埋める作業のように滑らかで、容赦がなかった。(……何や、この茶番は)京司の胸中に、冷ややかな乾いた風が吹き抜ける。「――して、日取りはいつ時分がよろしいかな?」「その前に、結納の品について詰めねばなりますまい」飛び交う言葉の礫は、もはや“見合い”という名の慎ましき段階をとうに踏み越えていた。そこにあるのは、互いの利権と血脈を強固に結びつけるための、逃れられぬ『契約の儀』。それは見合いなどという生易しいものではなく、すでに京司の意思を奪い去った、決定事項という名の断頭台であった。窮地に立たされた京司は、剥き出しの焦燥を“誠実さ”という薄皮一枚で包み込み、その場を凌ぐための賭けに出た。「大変恐縮ですが……梨花さんと、二人きりで、お話しさせていただけないでしょうか」その言葉が落ちた瞬間、部屋を満たしていた喧騒が、まるで真空に吸い込まれたかのように消えた。静寂が痛いほどにその場を支配する。しかし、その静寂を破ったのは拒絶ではなかった。梨花の瞳には、期待と歓喜が混じり合った火が灯り、老いた二人組の口元には、湿り気を帯びた卑俗な笑みがじわりと広がった。彼らはその沈黙を、
Read more

窮地②

静寂が支配する料亭の奥庭。先ほどまでの、組長と頭取という相反する権力者たちが火花を散らしていた喧騒は、今はもう遠い夢の跡のようだった。湿り気を帯びた苔の香りと、規則正しく響く鹿威しの音が、京司のささくれ立った神経をゆっくりと撫で、鎮めていく。ようやく、肺の奥まで夜の清澄な空気が行き渡るのを感じ、京司は隣を歩く影にそっと言葉を投げた。「梨花さんは……今回のお話、どう考えてはるんですか?」その問いは、静水に投じられた小石のように波紋を広げた。梨花が足を止める。彼女が顔を上げた瞬間、京司は射竦められるような感覚に陥った。向けられたその瞳は、抗いがたい熱を孕んで揺らめいている。それは、理性の言葉を待つ眼差しではない。ただ静かに、狂おしいほどに雄弁な「情」が、ねっとりと絡みつくように京司の心へと流れ込んできた。「どうって…それはもちろん大変に光栄に思っていますわ。京司さん程の方と結婚できるなんて」微塵の揺らぎもないその声音は、甘やかな確信に満ちていた。梨花の瞳には、未だ訪れぬ未来が既定の事実として鮮やかに映り込んでいる。彼女にとって、京司との婚姻は追い求める夢などではない。それは、明日には必ず昇る陽光のごとく、疑いようのない世界の理となっていた。「申し訳ありませんけど、俺には結婚する気持ちはあらへんのです」梨花の顔から血の気が引いたのは、瞬きひとつの間だった。彼女は手慣れた手つきで愛想を繕い直し、艶然と微笑む。「困りましたわ、京司さん。これは組長の強いご意向でもありますのに」「オヤジは関係あらへん。これは俺たちの問題や」京司の言葉に、梨花の表情から余裕が剥がれ落ちる。陶器のような滑らかな肌の下で、隠しきれない険が露わになった。「俺達?……貴方個人の意向で、私との縁を断つと仰るの?」京司は言葉を失い、喉の奥で硬い塊を飲み込んだ。「今は、組の動揺を鎮めるのが先決で……。私情を挟む余地など今の俺にはないんです」梨花の顔からは一切の生気が失せ、白磁の面に描かれた静謐な怒りだけが残った。永遠かとも思える静寂が二人の間を通り過ぎ、やがて彼女の唇からこぼれ落ちたのは、冷え切った月の光のような言葉だった。
Read more

絶望

「組の将来を案じるのであればなおのこと、私との結婚を絶てないこと、本当はご理解なさっているのでしょう?」京司を見据える梨花の瞳は、闇を裂く鷹のそれであった。一切の逃走を許さぬその冷徹な光の奥底で、けれど場違いなほどの哀れみが、澱のように沈殿している。「……何が言いたいんや?」京司の声が震えた。彼女の視線に射すくめられた瞬間、彼は自分がすでに、逃げ場のない檻の中にいることを悟ったのだ。「九条組のフロント企業のメインバンクは、そのほとんどが山城銀行……頭取である父の掌の上ですよ」残酷なまでの事実が、乾いた音を立てて並べられる。「組長、貴方が私的に営まれる店も、近頃は火の車のご様子。父の元には、恥を忍んだ融資の請願が届いておりますわ」京司の喉の奥で、獣が唸り声を上げた。全身の筋肉が鋼のように強張り、悲鳴を上げる。「俺がこの話を蹴れば、銀行は九条組を切り捨てる……。そういう脅しか、これは」震える声には、沸点に達した怒りと、抗いようのない絶望が混濁していた。梨花の唇に、氷の刃を彷彿とさせる凄惨な微笑が兆した。「あら、嫌ですわ。そんな顔にならないで。わたくしが、未来を共にする殿方を窮地に突き落とすはずがございませんもの」射抜くような眼差しと、慇懃な言葉の裏に隠された鋭利な毒。京司はただ、絞り出すような声にもならない沈黙に身を委ね、握りしめた拳を小刻みに震わせることしかできなかった。言葉は喉の奥で凍りつき、反論の術を奪われていた。「わたくし、良き妻となりますわ。九条組の栄華のため、この身を粉にして尽力させていただきます」慈悲を装ったその声音は、目に見えぬ首枷となって京司の自由を奪っていく。『九条組』。その名を人質に取られた今、彼に許されたのは、破滅への扉を自ら開くという残酷な降伏のみであった。退路は断たれ、もはや婚姻という名の永劫の幽閉を拒む術は、どこにも残されていなかった。 鴨川のせせらぎが夕陽の残照に溶け、古都が朱金に染まる頃、は自室へと辿り着いた。自らの足で歩んだのか、あるいは誰かの手によって運ばれたのか。その記憶は、暮れゆく光のなかに朧げに霧散している。ふと我に返れば、彼はただ一人、薄闇の降り積もるリビングのソファに、魂を抜き取られた抜け殻のごとく沈み込んでいた。梨花との会話を終えたのち、京司の
Read more

九条の看板

九条組の資金源は、法と不法の境界線上で危うい均衡を保っていた。フロント企業を切り盛りする協力者たちは、組織の「外皮」として忠実にその役割を演じている。京司が動いた。数人を選び、短い言葉を投げかける。応じる男たちの声には、隠しきれない戦慄が混じっていた。「若頭自らの御出ましとは、穏やかではありませんな。……何かトラブルでも?」「いや。……単なる、詮索や」京司はわずかに視線を泳がせ、胸ポケットの煙草を指先で弄んだ後、ようやく火をつけた。吐き出された煙が、二人の間に見えない境界線を描く。「うちは山城銀行一本でやってきたのはわかってるが…、他の金融機関との回路はどうや?」社長の眼に、困惑と警戒の色が混じる。「他の、ですか?」「……やはり、門前払いか」「…“九条組”という名は、京都ではあまりに有名すぎます。老舗の重みは、同時に呪縛でもある。いくら私が『堅気の社長』という仮面を被り、反社との無関係を標榜したところで、連中は看板の奥に潜む『組織』を嗅ぎ取ってしまう。彼らにとって、我々と手を組むことは、自らの聖域を汚すのと同義なのです」「そうやな……」社長の低い声が、静まり返った部屋に波紋を広げる。それは京司が疾うの昔に悟っていた諦念であったが、他人の唇から零れ落ちた途端、逃れようのない真実となって彼を縛りつけた。自ら抱く自覚が“予感”だとするならば、他人から告げられるそれは、逃げ場を奪う“宣告”であった。「山城銀行がうちと取引を続けているのは、創業以来の泥臭い縁と、何より頭取である高頭という男の剛腕に依るところが大きいです」京司の耳を打ったのは、最も忌まわしく、記憶の底に封じ込めておきたかった名だった。「高頭……な」「まあ、彼もまた影の絶えない男です。黒い噂の絶えない男ですから、我々との繋がりは、いわば“必要悪”なのでしょう」潮が引くように男たちが去った静寂の中で、京司はただ、燻り続ける煙の行方を追っていた。口を付けることのなかったかつて熱を帯びていたコーヒーは、今や一滴の温もりも残さず沈黙していた。その鏡面のような漆黒の澱みは、救いようのない絶望を湛えた、彼自身の眺める世界の写し鏡だった。
Read more

大阪の雨の夜

極道の絆とは、血縁を超えた絶対の枷だ。親が黒と言えば、真っ白な雪ですら墨色に染まる掟。その闇に身を投じた男にとって、親の命に背くという選択肢は、生まれる前に剥奪された贅沢に過ぎなかった。「鈴華……」窓外には、沈みゆく陽光が鴨川を鮮血のような朱に染め上げている。その揺らめく水面を、光を失った濁った眼差しでぼんやりと追いながら、京司はただ、愛しい女の名を祈りのように、あるいは呪詛のように、唇から零していた。鈴華を選び、すべてを捨てる。そんな甘い幻影は、一瞬の火花のように散った。彼の背中に彫り込まれた九条組の看板は、あまりにも深く、あまりにも重い。血で贖い、義理で積み上げた歳月が、彼を裏切りへと向かわせることを許さなかった。「組の為や……。しかたがあらへん」呟きは、ひどく乾いていた。未練という名の毒を飲み干し、彼は冷徹な極道の顔を、再び仮面のように被り直した。 秋雨がひどく底冷えする、深い夜のしじまであった。集金の任を終え、事務所へと足を向ける鈴華の、傘を握る指先は凍てつく氷のごとく感覚を失い、吐き出す溜息は白く濁って夜の闇に溶けてゆく。「もうじき冬ね……。京都は、もっと凍えているのかしら」降りしきる雨の彼方、鉛色の空を仰ぎ見ながら、彼女はあの別れの日以来、音信の途絶えた京司の面影を、冷えた胸の内に手繰り寄せていた。六穣会のビルの前に辿り着いた鈴華の視界を、見覚えのある黒塗りの高級車が遮った。「あの車は……」唇から零れた呟きは、雨音に溶けて消える。しかし、それと引き換えに、胸の奥で早鐘を打つ鼓動が激しく叩き始める。指先にじわりと滲む汗が、握り締めた傘の柄に重い体温を伝えていく。その黒光りする鉄の塊に吸い寄せられるように、あるいは逃れられない運命を確かめるように、彼女は自らの震える足取りで、一歩、また一歩と、沈黙の塊へと近づいていった。静寂を切り裂くように、運転席のドアが重厚な音を立てて開かれた。その姿を認めた瞬間、鈴華の瞳に宿っていた不安の影は、差し込む陽光に払われる霧のように霧散していく。「京司さん!」歓喜に震える声が響き、強張っていた彼女の表情は、蕾が一気に綻ぶかのような鮮やかさで輝き出した。もはや雨も、握りしめていた傘の重さも意識にはない。鈴華は弾かれたように、愛しいその影へと駆け
Read more

別離

鈴華の腕を捕らえる京司の指先は、生まれたての小鳥のように微かに震えていた。その肌から伝わる愛しい熱が、指の間をすり抜けて永遠の虚無へと消えてゆく——。そんな残酷な予感だけが、厭わしいほど鮮明に彼の胸をかき乱す。降りしきる雨は、拒む間もなく二人を容赦なく濡らし、重苦しい沈黙が冷えた大気を支配していた。やがて、せき止めていた絶望を吐き出すかのように、京司の唇から嗄れた声がこぼれ落ちる。 「君を…迎え入れることができへんようになってもうた」「えっ……」短く漏れた吐息は、鋭利な刃となって鈴華の心臓を深々と貫いた。あまりに残酷な宣告に、体中の血が凍りついたかのような錯覚を覚える。震える唇を必死に動かし、鈴華がようやく掠れた声を絞り出す。「私のことが……嫌いに、なったからですか?」その一言が、京司の中で張り詰めていた理性の糸を無残に断ち切った。せきを切ったように、抑え込んでいた激情が溢れ出す。「そないなこと、あるわけないやろ!!」吠えるような叫びと共に、京司は雨に濡れるのも厭わず、壊れ物を扱うような、それでいて離すまいとする狂おしい力で鈴華を強く抱きしめた。「……君のことを、誰よりも愛しとる。せやけどな……」京司の喉から零れる言葉は、砂を噛むような苦渋に満ちていた。一語一語を血を吐くような思いで紡いでゆく。「組長の命には逆らえん……。山城銀行の令嬢と、添い遂げることになった。もし、俺がこれを断れば……九条組は…」鈴華もまた、極道という非情な世界に生きる住人である。組長の一言が人の生を左右するこの界隈で、親に背くなどという不敵な真似が叶わぬことは、骨の髄まで染み付いている。だが、道理は感情を救わない。愛する男が、二度と戻らぬ闇の向こうへ消えゆこうとするのを、黙って見送るなど、人間の心を持つ彼女には到底できぬ事である。その不条理な現実に、彼女の心は千々に乱れ、ただただ震えるばかりであった。「待っててくれなんて、どの口が言えたんやろうな。……無様すぎて、笑いも出えへん」自嘲の笑いは、降りしきる雨の音にかき消されていく。京司は、すがりつくような未練を振り払うべく、鈴華の腕を離した。降りしきる雨が、彼の身体を冷酷に打ち据える。深々と頭を下げたその背中は、もはや雨粒に溶けてしまいそうだった。「俺のことは……最
Read more

心の叫び

京司の放った無慈悲な言の葉は、冷たい鉛となって鈴華の心に沈み、彼女を底知れぬ深淵へと突き落とした。京の闇夜に溶けた情事も、大和の山嶺を吹き抜ける風の中で交わした温もりも、今や指の隙間からこぼれ落ちる砂の一粒にすぎない。愛したはずの記憶は、音もなく剥落していった。鈴華の指先から力がこぼれ、主を失った傘はアスファルトの上を無機質な音を立てて転がっていく。遠ざかるその輪郭を追う者もなく、ただ重苦しい沈黙だけが、雨の匂いと共に二人を深く、深く塗りつぶしていった。鈴華はこぼれ落ちそうになる感情を掬い上げ、懸命に言葉を編もうとした。しかし、震える唇がどれほど足掻こうとも、京司へと届くはずの言の葉は、深い霧の底に沈んだまま形を成すことはなかった。鈴華は縋りつくことも、激しい言葉を叩きつけることもしなかった。ただ、その瞳の奥に底知れぬ哀しみの淵を湛えている。彼女が流さない涙の重さが、言葉にせぬ嘆きの深さが、刃となって京司を責め立てる。罵倒されるほうがどれほど救いになっただろうか。降りしきる冷たい雨が、二人の間に横たわる沈黙を重く、どこまでも長く引き延ばしていく。その静寂の糸を断ち切ったのは、京司が絞り出した最後の言葉だった。「風邪……ひかんようにな」微かな震えを孕んだその声は、雨音に溶けてしまいそうなほどに儚い。京司は鈴華に向け、今にも壊れてしまいそうな、悲哀に満ちた微笑を一度だけ残した。そして、未練を振り払うかのように背を向け車のドアに手をかけた。「わ、私はっ……」京司が車へ身体を滑り込ませようとした刹那、背後から鈴華の、魂を削り出すような叫びが響いた。「私は……たとえあなたが誰を伴侶に選んでも、私という存在を記憶の彼方へ葬り去ったとしても……貴方のことを、愛し続けますから!」その絶叫は、京司の背中に鋭い楔のように打ち込まれた。しかし彼は、一度も振り返ることはない。ただエンジンの低鳴りとともに、彼女の祈りにも似た言葉を置き去りにして、夜の闇へと消えていった。バックミラーの中に置き去りにされた彼女の姿を、京司は一度も視界に捉えようとはしなかった。遠ざかるテールランプの赤が、濡れたアスファルトに滲んでは溶けていく。ハンドルを握る指先は、まるで凍てつく寒さに晒されたかのように、微かな、しかし止めることのでき
Read more

双翼の盾

九条組の若頭、京司の背後には、対照的な色を持つ二人の“盾”が控えていた。一人は、氷のような冷静さで組織の急所を守り抜く知略家、錨。もう一人は、剥き出しの闘争本能で道を切り拓く武闘派、山城。静と動、正反対の性質を持ちながらも、二人が京司に寄せる忠誠心と、彼から向けられる絶対的な信頼だけは、寸分違わず重なっていた。しかし現在、その均衡は危うい。忽然と姿を消した山城の行方は、厚い沈黙に閉ざされたままだ。組の総力を挙げた決死の捜索は、今もなお、暗闇の中を彷徨い続けている。「錨、山城の足取りはまだ掴めへんか?」「すみません……。子飼いの情報屋を総動員して探らせてはいますが、決定的な情報は上がってきていません」錨が苦虫を噛み潰したような表情で俯く。常に冷静沈着、鉄の仮面を崩さない彼が、これほどまでに脆い焦燥を剥き出しにするのは、これまで一度もなかったことだ。その眉間の皺ひとつが、今の彼らの置かれた絶望的な状況を何よりも如実に物語っていた。「山城の奴、どこぞの不興でも買っとったんか?」錨が答えを渋る。ようやく返ってきたのは、錨の苦笑。「およそ、波風を立てずに生きられる性分ではありませんでしたが」京司は火を灯した煙草を深く吸い込み、肺の奥で燻らせる。「……死体が雲隠れとは、一体どういう趣向やろな」紫煙の向こう側で、彼は独りごちた。血で血を洗う報復でも、宣戦の通達でもない。その不可解な欠落は、答えのない問いとなって、事務所の重苦しい空気をより深く、より暗く沈殿させていった。鈴華と決別したあの大阪の街角を、京司は今も仕事の合間に幻視する。どれほど多忙のなかに身を隠そうとも、瞼を閉じれば、絶望を抱えた彼女の瞳が鮮やかに蘇る。それは消したくとも消えぬ残像のように、彼の魂に深く、鋭く楔を打ち込んでいた。重苦しい沈黙を切り裂くように、京司のスマートフォンが甲高い電子音を撒き散らした。しかし、彼は静寂を保ち、その音を意識の彼方へ追いやっているかのようだった。その空虚な無関心に耐えかねたように、錨が怪訝な眼差しを向け、静かに言葉を紡ぐ。「でなくてよろしいのですか?」「ええんや」ディスプレイに浮かび上がったのは、「梨花」という二文字だった。あのお仕着せの見合いの日を境に、彼女から執拗に届けられる着信の波。京司の胸中には、
Read more

鈴華と藤四郎

彼女の内側にある景色は、あの雨の夜を境に一変していた。網膜に映るすべてが、まるで彩度を極限まで落とした古い映画のように、砂嵐混じりのモノクロームへと変色している。京司という、自分の世界を定義づけていた絶対的な座標を失った今、この場所がどこであろうと、世界の果てであろうと、彼女にとっては大した違いはなかった。日常という名のシステムは、彼女の意志を置き去りにしたまま、精緻な歯車を回し続ける。そのあまりに滑らかな回転が、かえって残酷だった。支柱を失い、がらんどうになった胸を、冷たい事務処理の音だけが虚しく通り抜けていった。「お嬢」冬の気配を孕んだ夜風が、ビルの屋上で独り天空を仰ぐ鈴華の髪を揺らしていた。その静寂を破り、背後から投げかけられたのは早緑の、どこか湿度を含んだ声だった。「早緑さん……」振り返る鈴華の視線の先で、早緑はビルを駆け上がる突風に小さく身を震わせた。「寒っ……。もう、冬の足音がすぐそこまで来とるなぁ」「ふふ。早緑さんは、昔から寒さには弱かったものね」慈しむような鈴華の微笑に、早緑は自嘲気味な笑みを返した。「そうやなぁ。隙間風どころか、寒空の下と変わらんようなあばら家で育ったからなぁ。どれだけ月日が流れても、この骨身に染みる寒さだけは、どうしても好きになれんわ」早緑は身を屈め、掌で小さな風除けを築きながら、煙草の先に火を灯した。揺れる残り火がその横顔を淡く焦がす。「……なんかあったん?」その問いは、隣にいる鈴華へと向けられたものではなく、眼下に広がる街の喧噪へと溶けていく独り言のようだった。「……どうして?」「なんとなく、そう見えただけや。言いたうないこともあるやろうし……無理にとは言わんけどな」紫煙は風に千切られ、鉄柵の向こう側へと吸い込まれていく。饒舌な夜景を前に、二人の間にはただ、重みを増した沈黙だけが横たわっていた。「……気づかなかった。私、随分と身の丈に合わない贅沢に溺れていたのね」鈴華の独白に、早緑は怪訝そうに眉を寄せた。彼の記憶に刻まれた彼女は、常に慎ましやかで、華美な色を拒むように生きていたからだ。その清貧な指先が何を『贅』と呼ぶのか、彼には見当もつかなかった。「何や、高いもんでも欲しゅうなったんかいな」早緑の軽口を、鈴華は困り果てたような、だが慈しむ
Read more

返る場所

「ふふふ……。ほんとに早緑さんたら」鈴華の唇からこぼれた久方ぶりの笑い声は、夕暮れの湿り気を帯びた風に洗われ、透き通ったまま消えていった。その横顔を、早緑は、慈愛を含んだ眼差しで見つめている。「お嬢……お嬢は、もっと欲深く生きてええんやで?」諭すような声が、二人の間の狭い空気を震わせた。早緑の言葉は、まるで静かな水面に落とされた一滴の墨のように、ゆっくりと、確実に広がっていく。「たとえ今の環境が、他人様から恵んでもろた『借り物の居場所』やったとしてもや。もっと欲しい、もっと満たされたいって願うて、一体誰が悪いって言うんや?欲こそが、人が生きる証なんやから」「生きる……証……」鈴華の唇から零れ落ちたその言葉は、鈴華の心の奥底、硬く閉ざされていたはずの琴線を震わせ、切ないまでの共鳴を呼び起こした。 事務所へと引き返す早緑の背は、秋風に冷やされ微かに震えていた。迎え入れたのは、規則的に刻まれる打鍵音と、冷徹なまでの静寂だった。「——どうだった。鈴華の様子は」宏一は視線をディスプレイに固定したまま、キーボードを叩く指を止めることなく問いを投げかける。「なーんも……。お嬢、もともと自分の内側を語るような言葉は持ち合わせとらんからなぁ」早緑は力なく笑みを浮かべ、はぐらかすように答えた。湿り気を帯びたその声は、事務所の乾いた空気に溶け、行き場を失ったまま消えていった。「そんなに気になるんやったら、カシラが直接聞きはったらよろしいやん……。なんやかんや言うても、血は…分けたわけやないけど兄妹なんやから」早緑が投げた言葉に、宏一の指先が初めてその無機質な運動を止めた。「家族だからこそ……言いたくない秘め事ってのがあるとは思わないか?」その問いかけは、早緑に投げられたようでいて、自らの深淵を覗き込む独白のようでもあった。「……そういうもんなん?」家族という絆に縁遠く、その温もりも呪縛も知らぬ早緑にとって、宏一の紡いだ言葉は、霧の向こう側に浮かぶ実体のない輪郭のようにしか感じられなかった。「もし鈴華に何かあったとしても、俺だけはあいつの帰る場所でいたい。……そう願ってる」独り言ちる宏一の横顔に、早緑は言葉の体温を感じた。それは愛という名の執着よりもずっと深く、祈りにも似た慈しみ。己の想像を遥かに超えるその情
Read more
PREV
1
...
5678910
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status