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死闘

「俺に、そんな力あらしません……。槇村会長は、すべてお見通しでした」宇治宮の指先が、燻る煙草を支えきれずに小さく震えている。その微かな震動は、彼が拠って立つ足場がすでに崩れ去っていることの証明だった。「取引相手は、六穣会だけやない……」吐き出された言葉は、乾いた夜風に宛てもなく霧散していく。見え透いた虚勢。それは、溺れる者が藁の代わりに掴んだ、あまりにも脆い刃のようだった。その無様な足掻きを、京司はただ冷ややかに見下ろしている。唇の端に刻まれたのは、憐れみすら削ぎ落とされた酷薄な笑みだ。「大阪港湾は、すべて六穣会の手の中ですよ」京司の低い声が、夜の闇に宣告のように響く。その一言は、宇治宮が必死に守ろうとした最期の幻想を、容赦なく踏みつぶしていった。「港なら、こ、神戸や東京かて……」宇治宮の口から漏れたのは、未練という名の泥に足を取られた男の、見苦しい足掻きに過ぎなかった。「好きにしてください。俺はもう……降りさせてもらいます」京司の言葉は静かだったが、そこには切り落とされた大木のような、絶対の拒絶が横たわっていた。彼は重力に抗うように、ゆっくりと、しかし確実に腰を上げる。「そんな道理が通ると思うとんのか‼」宇治宮の咆哮が、狭い室内の空気を狂暴に震わせた。それは、崩壊しゆく己の領土を必死で繋ぎ止めようとする、老いた獣の断末魔のようでもあった。「絶縁でも破門でも、好きにしてください」吐き捨てるように告げ、京司は襖に手をかけた。背を向けたその瞬間、背後から。「絶縁? 破門? ――そんな生ぬるいもんで済むと思うとんのか」地鳴りのような宇治宮の声が響いた。それは怒りという名の濁流となって室内に溢れ、京司の背中に鋭い刃のように突き刺さる。京司の戸惑いを押し潰すようにして、宇治宮が荒々しく襖を開け放った。乾いた衝撃音が廊下に響き渡り、彼の叫びが空間を切り裂く。「おいッ! こいつを地下に連れていけ!」凍りついていた空気が一瞬で反転する。屋敷の闇に潜んでいた男たちの足音が、うねりのように一箇所へと収束していった。京司を取り囲む男たちの間で、じりじりと肌を刺すような緊張感が高まっていく。「はようせぇ!」宇治宮の、焦れたような怒号が再び響いた。けれど、誰も動けない。男たちは互いに視線を泳がせ、困惑を隠せ
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襲撃

最前線の男が鉄パイプを振り下ろす。京司は半歩だけ横にズレてそれを紙一重でかわすと、男の懐に踏み込み、顎の下から拳を突き上げた。脳を揺らされた男が白目を剥いて崩れ落ちる。京司はその男の手から鉄パイプを奪い取り、すかさず反転したその直後、背後から斬りかかってきたドス持ちの腕を、容赦なく叩き折った。「ぐあああ!」苦痛に満ちた男の叫び声が庭園に響き渡る。京司の動きには一切の無駄がない。彼は乱戦の真っただ中にいながら、常に一対一の状況を作り出し、一人ずつ確実に沈めていく。組員たちが数に任せて四方から同時に掴みかかろうとした瞬間、京司はあえて自ら飛び込み、一人の胸ぐらを掴んで強引に投げ飛ばした。人間を「盾」にして他の組員たちを巻き込み、ドミノ倒しのように群衆を崩す。中央に立つ京司は、激しい息を吐きながらも、その鋭い眼光を一切衰えさせていない。返り血が彼の顔を伝って顎から滴り落ちる。彼が一歩踏み出すと、生き残った組員たちは怯えたように一斉に後ずさりした。静寂を切り裂き、広大な邸宅の空間に一発の銃声がこだました。放たれた弾丸は、京司の腕を容赦なくかすめていく。「ぐっ!…」という短い呻き。夜の深淵を溶かし込んだような漆黒のスーツに、じわりと、仄暗い赤が滲み、広がっていった。引き金にかけられた指は、見苦しいほどに震えていた。弾丸を放ったのは、組織の底辺にうごめく末端の組員。その瞳には、自らが犯したことへの圧倒的な恐怖が醜くも哀れな涙となって溢れそうに揺れていた。「あホンダラ‼ 銃なんざ使うて通報されたらどないするんや!」宇治宮の濁った声が空間を震わせる。その顔から血の気が引いていくのが、ありありと見て取れた。京司の指先は、べっとりと付着した生暖かい血を厭うこともなく、内ポケットの銃身へと滑り込んでいく。張り詰めた空気のなかで、京司の口元に歪な笑みが刻まれた。「……試してみようか?」覚悟の決まった男が放つその一言は、ただそれだけで、宇治宮の息の根を止めるに十分な重みを持っていた。張り詰めた中庭の緊迫を破り、遠方から硬質な衝撃音が轟いた。「な、何や⁉」浮き足立つ者たちの動揺を置き去りに、京司の視線は一直線に門へと向けられる。その眼差しは、音の正体を冷酷に値踏みしていた。(……増援か?)思考の刃を研ぎ澄
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京司の予感

宇治宮の顔から血の気が引いていくのが分かった。その狼狽ぶりは、見る者に生々しい恐怖を伝染させる。「誰や! こないな時に、誰がやっとんのや!」「それが――」次の言葉は、乾いた銃声にかき消された。「チャカを隠せ! 本当にさつが押し寄せてくるぞ!」すでに邸内は、統制の利かない混沌に飲み込まれていた。「や、山城補佐と女が、乗り込んできてやがります!」息を荒げる組員の声が、京司の脳髄を直撃した。(女……やと?)刹那、冷たい悪寒が背筋を駆け抜ける。脳裏をよぎったのは、あってはならない一つの名前。(まさか……鈴華か!?)思考より先に肉体が動いていた。京司は地面を蹴り、門へと向かって猛然と突進した。宇治宮の顔が歪み、怨嗟の歯軋りが夜気に響いた。「山城の奴……生きとったんか」怨念の籠った声音は、吹き抜ける秋風のなかに、はかなく掻き消されるばかりであった。京司は門へとひた走る。行く手を阻む有象無象を、拳で、蹴脚で、ただ機械的に薙ぎ払いながら、一歩たりともその歩みを緩めない。「どうか――君以外の、見知らぬ誰かであってくれ」脳裏をよぎる祈りは、祈りという名の絶望だ。そんな都合のいい奇跡などありはしないと知りながら、虚しい期待ばかりが、今の彼の胸を容赦なく支配していた。 一方で、門の守りは驚くほどに手薄であった。宇治宮の放った怒号に煽られ、誰も彼もが京司の元へと馳せ参じていたがためである。門を穿つほどの荒々しさで、鈴華は車を滑り込ませて急停止させた。刹那、怒声とともに群がってきた数人の男たちを、一足先に降り立った山城が、電光石火の勢いで打ち伏せていく。逆上した男の懐から、ぎらりと長ドスが躍り出た。――その刹那、すべてを切り裂くような爆音が轟き、屋敷の空気を震わせる。「……え?」男の口から漏れたのは、間の抜けた呻きだった。脳の理解を置き去りにするほどに、それは文字通りの一瞬の出来事。男はわななく唇を噛み締め、戸惑うように自身の右手に視線を落とした。つい先刻まで、確かに掌に馴染んでいた鉄の重みはどこにもない。ただ、火花と共にはじけ飛んだ凶器の代わりに、彼の右手には、ただ赤黒く、ざくろのように弾けた己の肉体だけだった。視線を向けた先に佇む鈴華は、凍てついた仮面を被ったかのように無表情だった。その手にある銃口は
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カシラの元へ

「……見事なものだな」山城の唇から漏れたのは、ため息に似た感嘆だった。「九龍では、これが生きるための最低条件です」鈴華の冷徹な返答が、彼女の歩んできた地獄の過酷さを物語る。山城の胸に、言葉にならない痛みが走った。「中が騒がしくなってきた。急ぎましょう」鈴華が促す。二人は影を重ねるようにして、重厚な門の向こう側へと姿を消した。 突如静寂を破り、庭の植え込みから飛び出してきたのは狂気を孕んだ男。とっさの事態に鈴華の反応が一瞬遅れる。男の右腕が、冷徹なバールを頭上へと掲げたその瞬間。「鈴華さんっ!」遮られた視界に映ったのは、山城の広い背中だった。「山城さんっ‼」鈴華の叫びをかき消すように、山城の剛腕が容赦なく振り下ろされた鉄塊を正面から組み伏せる。力任せにそれを奪い取ると、返す刀でバールを一閃させた。「ぐっ…‼」鈍い衝撃が男を直撃し、男は抵抗する術もなく、糸が切れた人形のように地面へと崩れ落ちた。「山城さん!」自分の代わりに衝撃を受け止めた山城の姿を見て、鈴華は息を詰めた。アスファルトを蹴って駆け寄る。「大丈夫ですよ。このくらい、かすり傷ですらないです。無駄に頑丈なことだけが取り柄ですから」山城の唇の端に刻まれた、自嘲気味でありながらも温かい笑み。その不敵なまでの落ち着きが、取り乱す鈴華の心を平穏へと引き戻していった。銃声が静寂を切り裂いたためか、あるいは門衛の誰かが素早く手配を回したのか、屋敷の奥から次々と人影が湧き出し、門前へと集まり始めていた。しかし、集結した組員たちの間に走ったのは、迎撃の緊張感ではなく、にわかには信じ難いものを見た動揺だった。「山城補佐……生きて、おられたのですか……!?」生死不明のまま闇に消えていたはずの男の出現に、誰もが目を見張り、驚愕を隠しきれない。「しかし補佐……これは一体、どういう風の吹き回しですか?」困惑と疑念が入り混じる組員たちの視線を正面から受け止めながら、山城の唇が、不敵な弧を描いて吊り上がった。「カシラを迎えに来たんだ。――おい、お前ら、カシラの居場所を知ってるな?」山城の低く、逃げ場のない声。男たちは一様に押し黙り、互いの顔を見合わせた。その視線の交差には、困惑と、口を開いてはならないという暗黙の枷が張り付いている。「か、カシラなら……
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老兵の末路

静まり返る空間に、低くかすれた声が響いた。「山城……」京司が呼んでいた。「カシラ!」張り詰めていた空気が弾け、全員の視線が一斉に一点へと収束する。そこに佇んでいたのは、死線をくぐり抜けてなお、息を繋いでいる京司の姿だった。ボロボロに傷ついたその身体は、過酷な闘いの凄惨さを物語っている。「よう生きとった……」京司は、己の生存と目の前の奇跡を噛みしめるように、低く、重い言葉を山城に投げつけた。山城の無事を見届けた京司の胸に、束の間の安堵が広がった、その視線は鋭く、傍らに立つ鈴華へと向けられた。「鈴華……君、なんでここにおるんや!」詰問するような京司の声には、彼女の身を焦がすほどの案じる情と、それを覆い隠しきれない烈しい怒気が孕まれていた。しかし、鈴華は怯むことなく、静かに、だが岩のように揺るぎない眼差しを彼に返す。「……言ったはずです。私が貴方を守るって。絶対に……京司さんを死なせはしません」凛としたその声は、張り詰めた空気を静かに震わせた。守られるだけの存在ではないという、頑なまでの決意がそこには宿っている。「君に何かあったらどないするんや!」京司の胸中で、恐怖と焦燥が激しい炎となって燃え上がる。ぶつけられた言葉の温度は一気に沸点を迎え、冷たい戦場を熱く狂わせていくようだった。 再会に歓喜する暇さえ、無慈悲な現実が押し流していく。気付けば、三人の周囲をどす黒い人の波が埋め尽くしていた。その先頭に立つのは、怒りと憎悪に身を焦がし、さながら般若の如き異相と化した宇治宮である。「京司に山城……お前ら、生きてここから出られるなんぞ思うんやないぞ!」地を這うような執念の呪詛とともに、数十人の男たちが静かに包囲を狭めていく。その手に握られたドスやバールといった凶器の群れが、鈍色の鈍い光を放ちながら、容赦のない殺意を雄弁に物語っていた。「オヤジ! カシラを失えば、九条組は終わりなんだ!」その圧倒的な威圧感のなか、山城の悲痛な叫びが、張り詰めた夜の空気を切り裂くように響き渡った。「終わり? 舐めるなよ。儂が作った九条組や!儂の看板がある限り、九条組は終わらへん!」宇治宮の叫びは、どこか痛々しく、空っぽに響いた。「金の流れを管理して、シノギを回して、他所の組織と頭を下げて交渉してきたのは、全部カシラ
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終焉

「――何をしとる。早う殺れ」宇治宮の喉の奥から、地を震わせるような重低音が響いた。京司と山城を射すくめるその双眸には、凄絶な怒りの劫火がゆらめいている。その言葉が導火線となった。場に満ちていた殺気が一気に跳ね上がる。理性を血で染めた若者の一人が、抜き放ったドスを閃かせ、突風のごとき速さで突っ込んできた。京司へと突進する若者の視界を、突如として鈴華の静かな体躯が遮る。刹那、彼女の懐から放たれたロッドが、一筋の銀光となって若者の顔面へ叩きつけられた。空気を鋭く抉る音が響いた刹那、あとに残されたのは耳を切り裂くほどの絶叫だ。顔を押さえ、悶絶しながら地面を転がるその男に、もはや先ほどの勢いは微塵も残されていなかった。その無惨に変わり果てた男の姿に、一瞬、場に冷たい戦慄が走った。しかし、圧倒的な数の優位に拠って立つ男たちは、すぐにその怯えをかき消すように、狂暴な獣の群れと化して京司たちへと牙を剥いた。京司は一歩も引かず、背に庇った鈴華の盾となった。容赦なく浴びせられる拳や鈍器の衝撃を肉体で受け止め、血を吐きながらも、執念に満ちた一撃を次々と叩き込んでいく。その傍らでは、山城が嵐の如き剛腕を振るっていた。彼の拳が空を切るたび、骨の砕ける鈍い音とともに、敵の身体が木の葉のように宙を舞い、地面へと叩きつけられていく。暴力と狂気が渦巻き、まさに地獄絵図と化した修羅場。ーーその混沌を切り裂くように、突如として高らかに、そして冷徹に、赤色灯の咆哮が夜の闇に響き渡った。「サツだ……! サツが来やがったぞ!」※サツ・・・警察誰かの悲鳴に似た叫びが、熱狂に浮かれていた男たちを瞬時に現実に引き戻した。「サツが乗り込んで来る前に始末せぇ!」宇治宮の口からほとばしる殺意は、まだ生々しく空気を灼いていた。しかし、その混沌を切り裂くようにして、遠雷じみた一発の銃声が鼓膜を震わせる。「……え?」 その瞬間、世界から一切の音が剥ぎ取られた。訪れたのは、耳が痛むほどの絶対的な静寂。その真空のなかで、宇治宮の身体がゆっくりと、重力に身を委ねるようにして傾いていく。周囲の者たちはただ、硝煙の香りが満ちゆく中で、彼の命が闇へと墜ちていく引き延ばされた時間を、瞬きさえ忘れて見届けることしかできなかった。「……オヤジ?」震える声が静寂
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脱出

周囲の喧騒を掻き消すように、ただサイレンの悲鳴だけが冷たい夜気へと溶けていく。生気のない地面に横たわる宇治宮を囲み、取り残された三人の影。「……鈴華さんが?」沈黙を破った山城の問いかけだった。「いいえ。私では……」(一体誰が…)鈴華の唇から漏れた言葉が、夜の闇に吸い込まれて途切れる。その消え入りそうな声を遮るように、ざわめく茂みの奥から、一人の影が不気味にせり上がった。「カシラ。早くこちらに。間もなく警察が到着します」冷徹な響きを帯びたその声に、山城の瞳が微かに揺れる。「錨……」闇の奥から姿を現したのは、その手に銃を握った、錨の冷ややかな顔だった。「錨……お前がオヤジを?」京司の声が低く、重く響く。錨は表情を微塵も動かさない。「ええ。ですがレスリーサル(弱致死性)の拳銃です。死にやしませんよ。急ぎましょう」錨に促されるまま、足早に裏門に待機させていた車へ。三人の影が滑り込み、ドアが閉まる。次の瞬間、彼らは夜の底へと疾走し、忌むべきその場所を置き去りにした。 喧騒の去った車内に、ようやく平穏な沈黙が戻ってきた。京司は隣を顧み、低く掠れた声でその名を呼んだ。「鈴華……怪我はないか?」「はい…私は、平気ですから」鈴華は小さく頷いたものの、その視線は京司の腕に釘付けになっていた。衣服を赤黒く染め、じわりと滲み出る生々しい傷口。彼女は震える手で白いハンカチを広げると、祈りを込めるようにその痛々しい腕へと巻き付けた。「京司さんこそ、こんなにひどい怪我をして……。すぐ、病院へ向かいましょう」結び目をきゅっと締める鈴華の指先には、隠しきれない動揺と、彼を想う痛切な響きがこもっていた。鈴華の無事を見届け、張り詰めていた糸がふっと切れたような安堵が京司の胸を去来した。しかし、その瞳が次にとらえたのは、重い沈黙を纏って佇む錨の姿だった。「錨……なんでお前がオヤジを?」絞り出すような声で山城が問いかけた。錨はただ、感情の機微を一切削ぎ落とした氷の塊のような声で応じた。「お前と同じカシラを救い出すため……。ですが、理由はそれだけではありません」「……どういうことや」その言葉の裏に潜む、底知れぬ深淵を覗き込んだかのように、京司の眉間に険しい疑念の影が刻まれた。
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錨の真実

深夜の張り詰めた空気の中、彼らは九条組の息がかかった息苦しいほどに静かな病院へと、滑り込むように身を寄せた。山城と鈴華の怪我は、幸いにもかすり傷程度。だが、京司の腕には容赦なく弾丸の軌跡が刻まれており、医師による数針の縫合を必要とした。それでも、命に関わる傷ではなかったのは、不幸中の幸いと言うべきだろう。 すべての処置が終わり、あてがわれたVIPルームの重いドアが閉まった瞬間、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れた。消毒液の匂いがかすかに漂う静寂の中で、三人はようやく、生き延びたことを実感する深い息を吐き出した。「オヤジは別の病院に運ばれたようです。命は取り留めました」ドアを開け、部屋に滑り込んできた錨の報告に、一同の肩からようやく張り詰めた力が抜けた。「カシラ。傷の具合はどうです、動けそうですか」「問題ない。……錨、お前がいなけりゃ今頃はあの世やった。恩に着る」万感の思いを込めた頭の言葉を、錨はただ静かに受け止めた。死線をくぐり抜けた者たちの気配が満ちる部屋で、彼は三人が並ぶソファへと歩み寄り、安堵と疲労を分かち合うようにゆっくりと腰を下ろした。数瞬の沈黙の後、京司は重い唇をゆっくりと割った。「錨……聞かせてくれへんか?」請うような、あるいは恐れるようなその問いかけに対し、錨の佇まいは不気味なほどに凪いでいた。いつもの、何の変哲もない日常の延長線上にあるかのような、淡々とした声音で、彼は静かに語り始める。「すべて六穣会、槇村会長のご指示です」その名が空間に落とされた瞬間、凍りついたような衝撃が一同の身体を貫いた。「どういう事や――っ⁉」言葉よりも先に、京司の身体が弾かれたように立ち上がる。激昂と動揺を孕んだ椅子の擦れる高い音が、静寂を切り裂いて響き渡った。錨の淡々とした告白は、まだ続いていた。まるで他人事のニュースでも読み上げているかのような、ひどく平坦で、温度のない声だった。「――宇治宮のオヤジが六穣会とクスリの取引を始めたころ、槇村会長に声をかけられました。『六穣会に来ないか』……とね」山城の顔から一瞬で血の気が引き、容貌が鋭利に尖った。「貴様……っ! 他組織と裏で繋がってやがったのか!」水を打ったように静まり返っていた室内に、山城の怒号が銃撃のように炸裂した。錨は山城の、いま
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槇村の想い

「父が……どうして……」鈴華の声は小さく震えていた。今にも崩れ落ちそうな彼女を前にして、錨はふっと表情を和らげる。その男の、どこか掴みどころのない温度が言葉を継いだ。「あなたが思っている以上に、槇村会長はあなたを大切に考えているんですよ。……まあ、私がその『お守り』を追加で依頼されたのは、あなたが京都に入ってからのことでしたけどね」「……全部、あの人の手のひらの上やったわけか」京司が吐き捨てるように呟いた。その自嘲気味な笑みには、どれだけ足掻いても巨大な力に翻弄されるだけの自分たちに対する、苦い諦めが滲んでいる。錨はそんな京司の視線を真っ向から受け止め、淡々と言葉を返した。「会長は、宇治宮が六穣会を裏切ることを最初から予測していました。だからこそ、いつでも首を刎ねられるよう監視をつけながら、泳がせて取引を続けていたんです」与えられた文章の持つ、緊迫感、男たちの不器用な絆、そして底に流れる静かな情愛を、情景描写と心理描写を深めた文学的な表現にリライトしました。錨は音もなく身を起こし、扉へと歩みを運んだ。その背中に、鋭い声が突き刺さる。「どこ行くつもりや?」錨は足を止めず、ただ淡々と、しかし拒絶のない声音で応じた。「オヤジの邸宅の騒動の件で、警察からの報せが引きも切りません。一度組へ戻り、火消しをしてまいります」「なら、俺も――」山城が弾かれたように立ち上がり、その背を追おうとした。だが、錨の冷徹な言葉がそれを遮る。「満身創痍の病み上がりが赴いたところで、足手まといになるだけです」それだけを言い残し、錨は振り返ることもなく部屋を去った。無機質なドアの閉まる音が、部屋の空気を一層冷え込ませる。山城は悔しさに唇を噛み締め、血が滲むほどに力を込めた。拳は行き場を失い、微かに震えている。「……あれは、錨なりの気遣いや。お前もわかっとるやろ?」沈黙を破ったのは、京司の静謐な声だった。その言葉は、苛立つ山城の心をなだめるように、深く、優しく響いた。「……はい」山城は肺腑のすべてを吐き出すかのように深く息を漏らし、諦念と感謝の混じった面持ちで、再び重い身体をソファへと沈めた。 一方、鈴華の心の内は、千々に乱れる感情の嵐にさらされていた。私はあの人に買われた身。 槇村という男を守るため、戦うためだけに買
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抱擁

錨が去ったのち、部屋には再び濃密な沈黙が降りてきた。その静寂を破るように、山城は重い腰をゆっくりと上げる。「カシラ。自分は一旦、自宅へ戻ります。……鈴華さん、ヤオに謝っておいてくれないか。飛び出してきちまったからな」決まりが悪そうに頭を掻く山城の言葉には、不器用な後悔が滲んでいた。そんな彼を見て、鈴華の唇から小さな、しかし温かい微笑がこぼれる。「ええ、分かったわ」彼女の快諾は、静まり返った部屋に柔らかな光を落とすようだった。「……ヤオ?」腑に落ちないといった風に、京司が鈴華の横顔を覗き込む。鈴華はくすっと小さく笑い、京司に答えた。「山城さんが入院されていた闇医者の、あそこにいる看護師です」「おっかない女ですよ」苦笑をにじませて山城が去ると、部屋は再び、濃密な沈黙の底へと沈んでいった。 時間が、ひどく緩慢に流れていく。伝えたいこと、確かめたいことは、それこそ星の数ほどあった。けれど、互いの喉元まで出かかった言葉は、空気の重さに圧し潰されるようにして消えてしまう。どちらもが、沈黙を破る最初の一歩を躊躇ったまま、ただ相手の呼吸に耳を澄ませていた。差し出された静寂を、先に破ったのは鈴華だった。「……それでは私も……大阪へ戻ります」京司へ向けて小さく頭を下げ、そのまま立ち上がろうとする。その刹那、京司の右手が無意識のうちに動き、彼女の細い手首を掴まえていた。不意の体温に、鈴華の瞳にさざ波のような戸惑いが広がる。「京司……さん?」衣服の擦れるかすかな音だけが、二人の間に流れる濃密な時間を刻んでいた。京司の腕がにわかに硬度を増し、抗う隙も与えず鈴華の身体を引き寄せ、その胸中へと強く抱きすくめた。「っ……!」突如として奪われた呼気と視界の中で、鈴華はただ言葉を失う。しかし、彼女を拘束する彼の腕は、まるで壊れやすい硝子細工を繋ぎ止めるかのように、微かに、そして頼りなく震えていた。「なんで君は……こないな無茶ばかりするんや」押し殺されたその声音には、怒りよりも深い、せつなすぎるほどの懇願が滲んでいた。「俺が、どないな思いで君を諦めたか……」絞り出すような京司の声に追従するように、その腕が狂おしく強まる。それは、断ち切ったはずの未練をなぞるような、痛切な抱擁だった。鈴華は何も言わなかった。ただ、彼の背に
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