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吐き出された本音

鈴華から放たれる圧倒的な熱量に、京司の理性の輪郭が融けかけていた。溺れまいと必死に己を繋ぎ止め、彼はあえて氷のような声を絞り出す。「これは九条組の話や。部外者の君に出来る事はあらへん」その唇から零れ落ちたのは、関係を断ち切るための苦い毒。自らの胸を苛む痛みを隠すように、京司は煙草をくわえ、静かに火を灯した。揺れる小さな焔が、二人を一瞬だけ照らし出した。「そ、それなら……私が個人的に京都に滞在するのは、自由ですよね?」必死に気丈さを装う彼女の瞳を見つめた瞬間、京司の中で何かが千切れた。「あかん! 九条組が火種を抱えてる今、京都は危険や! そんな場所に君を置いとくことなんてできるわけないやろっ!」喉の奥から絞り出されたのは、いつも彼が身にまとっている大人の余裕など微塵もない、無防備なまでの本心だった。彼女を危険に晒したくないという祈りにも似た拒絶が、静かに、しかし決定的に、二人の間の境界線を踏み越えていく。「京司さん……貴方が私を心配してくださるように私もまた……貴方の事が心配なのです」鈴華の言葉は、まるで雪のように京司の胸に降り積もる。応える京司の指先で、紫煙がわずかに乱れた。「……もうじき他の女を妻に迎える男に、そんな言葉をかけて、一体どうしようというんや」突き放す言葉とは裏腹に、彼の心は裏腹な歓喜に震えていた。行ってはならない、求めてはならない。そう自戒するほどに、鈴華が向けてくれる情愛が、愛おしくてならなかった。「……言ったはずです。あなたが誰と生きようが、誰に心を奪われようが、私の気持ちは変わらない。京司さん、あなたを愛し続ける、と」鈴華の口調は、凪いだ海のように静かだった。その顔は慈愛に満ちて、ひどく純粋な微笑みが浮かんでいた。鈴華の一言一言が、京司の胸に鋭い楔をを打ち込んでいく。指先からこぼれ落ちる灰の行方にも目もくれず、彼はただ、目の前の存在だけを視界に焼き付けようとしていた。「他の誰かに心を奪われる……やて?」絞り出すような声が、僅かに、しかし確実に震えた。「そんな真似、できるはずがないやろ!俺の人生に、君以外の選択肢なんて最初から用意されていないんやから」
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京司の決断

京司が吐き出した、飾りのない無骨な本音。それが鈴華の胸に触れた瞬間、彼女の内で抑えきれない歓喜が、静かに、けれど激しく湧き上がった。「その言葉だけで、私……充分です、京司さん」震える声で紡がれたその一言が、京司の理性を容易く焼き切る。「……っつ!」息を詰まらせた彼は、衝動のままに鈴華をその腕の中へと強く引き寄せた。壊れ物を扱うような優しさと、決して離さないという執着が混ざり合った、烈しい抱擁。鈴華は溢れる愛おしさに突き動かされるように、震える指先を彼の肩へと伸ばす。二人の距離が完全にゼロになろうとした、その刹那。静寂を切り裂くように、京司のスマートフォンが冷徹な電子音を響かせた。それは、重なり合おうとした二人の世界を無慈悲に引き剥がす、現実からの冷ややかな呼び鈴だった。受話器の向こうから、低く地を這うような声が響いた。「京司、儂や」紛れもない、組長・宇治宮の声であった。「――はい、オヤジ」京司はすっと背筋を伸ばし、声のトーンを落とした。その喉は微かにこわばっている。「オヤジから直々にお電話をいただくとは……何か、不測の事態でも?」「例のシノギの件やが……」宇治宮はそこで言葉を切り、短く煙草を吸い込むような気配を見せた。落とされた沈黙が、受話器を通じて京司の耳の奥へと染み込んでいく。「いや、それよりもお前――梨花さんとは、うまい事やってるんやろうな?」宇治宮の問いを、京司は適当な言葉ではぐらかした。「ええまあ……」「今のうちから可愛がってやらなあかんで」受話器から漏れる宇治宮の笑みには、卑俗な粘り気があった。その不快な音が神経を逆撫でする。京司は受話器を握る手に無意識に力を込め、込み上げる苛立ちを噛み殺した。宇治宮との会話を終えた京司は、すっと視線を落とし、それから静かに鈴華の方を向いた。「……薬と山城の件。オヤジと直接、腹割って話してくる」「危険すぎます、それでは……!」「大丈夫や。オヤジはまだ、俺を切る訳にはいかへん理由があるんやからな」その言葉が引き金となり、鈴華の脳裏に“梨花”の存在が鮮烈に浮かび上がる。押し寄せる焦燥感が鈴華を支配していた。「そう……ですね……」抗えない現実を前に、鈴華は小さく息を吐き出した。「でも、本当にお気をつけてください」「こないな無理を言える義理やな
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隠れ家にて

夕暮れのの第二京阪道路。漆黒のセダンが、滑るように闇を切り裂いていく。ハンドルを握る京司の唇には、一本の煙草がくわえられていた。しかし、立ち上る煙のゆらぎさえ、今の彼の焦燥を隠しきれはしない。いつもなら氷のように研ぎ澄まされている彼の佇まいが、今日に限っては、ひどく脆く、落ち着きを欠いていた。無理もない。彼がこれから対峙するのは、六穣会の頂点に君臨する男・槇村なのだ。白日の下に決して姿を現さない…大阪の“顔のない支配者”。その見えない掌の上に、自分もまた転がされているのではないか――そんな予感が、京司の胸をざわつかせていた。都市の灯りを遠ざけ、車はさらに郊外の奥深くへ。導かれるように行き着いたのは、槇村が告げたこぢんまりとした邸宅だった。車を降りれば、庭の木々の向こうに、長い歳月を眠り続けてきたかのような古い建築がひっそりと息を潜めている。周囲はしんと静まり返り、人の気配はどこにもなかった。車のドアが閉まる鈍い音を、夜の静寂がたちまち飲み込んでいく。アスファルトに降り立った京司の前に、音もなく影が滑り込んできた。端正な和装に身を包んだ女性が、音を立てずに深く頭を垂れる。「烏丸様、ようこそお越しくださいました」京司は怪訝そうに眉をひそめ、あたりに視線を走らせた。漆黒の闇に浮かぶ瀟洒な門構え。しかし、そこに場所を誇示するような看板も、灯火の文字も見当たらない。「ここは……料亭か?」 「はい。本日は、槇村様の貸し切りとなっております」女性の静かな微笑みが、闇の奥へと京司を誘うようだった。誘われるままに門をまたぐ。途端に、息づく季節の植物たちが京司の視界を占めた。色とりどりの季節を宿した木々が、京司の訪れを待っていたかのようにざわめいる。館を包み隠すほどに見事な枝ぶりの大樹が、歴史の深さを物語っている。その厳かな佇まいの玄関口で、二人の護衛が佇んでいた。京司の歩みを受け止めた彼らは、無言のまま、規律正しく、深く頭を下げて敬意を表した。「失礼いたします。烏丸様がお見えになりました」襖の向こうから、そっと静寂を揺らすような声が届く。衣服の擦れる微かな音とともに、洗練された所作で襖が引かれた。音もなく開かれた視界の先、夜の闇に浮かび上がる庭園の灯りを、窓辺に佇む一人の男がじっと見つめていた。男の眼光に射
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酒の味

京司の胸中に、にわかには信じがたい驚愕が走った。視線の先にいるのは、自身と齢も変わらぬとおぼしき、いかにも線の細い、世俗に埋没した一個の男に過ぎない。その“平凡”という仮面を剥ぎ取るように、男は静かに名乗った。「烏丸京司さんですね。はじめまして。六穣会会長の槇村駿です」――青年が口を開いた瞬間、そのあまりにも平穏な声が、室内の空気を張り詰めさせた。槇村から放たれた不意の一撃に、京司の内に一瞬の動揺が走る。しかし、それを見せることなど許されない。彼はすぐさま、張り詰めた空気を切り裂くように言葉を返した。「京都九条組若頭を務めさせていただいております。烏丸京司と申します。以後お見知りおきを」畳の上に端然と正座し、己の軸を正す。その姿は、一寸の乱れもない研ぎ澄まされた刃のようであった。京司は、静寂のなかで深く、丁寧に頭を垂れた。極道の矜持と礼節が、その一礼の軌跡に美しく宿っていた。「今日はわざわざ京都からお呼びだてしてすみません。どうぞお座りください」槇村の口から零れたのは、拍子抜けするほど穏やかな誘いの言葉だった。京司を促すその手つきにも、声音にも、一切の歪みがない。それは、よく馴染んだ隣人と朝の挨拶を交わすような、あまりにも無垢な日常の模倣。そのあまりの「普通」のなかに、京司は形容しがたい薄気味悪さを嗅ぎ取っていた。(この男が、六穣会のトップ……。おまけに、鈴華の父親やと?)激震が走った。京司が必死に繕おうとした仮面は、その一瞬の躊躇いによって容易くひび割れてしまう。「驚きました? 戸籍の上だけとはいえ、こんな若い父親がいるものかって。あるいは……こんな若造に、あの暴力団の会長が務まるのか…ってとこかな?」射抜くような視線が京司の動揺を正確に値踏みしている。喉の渇きを覚えながら、京司はあわてて首を振った。「い、いえ! 決してそのような……。滅相もないことです」「まあ実際、僕は貴方より少し年上なだけで、裏社会の経験も長い方ではありませんから」謙遜を装ったその台詞が終わるや否や、まるで計ったように襖が左右に引かれた。卓の上に並べられた懐石料理は、血の匂いのする世界とは無縁の、残酷なほど鮮烈な色彩を放っている。「まあ、食べながら話しましょうか? お酒はいかがですか?」槇村の声音には、相手の懐に滑り
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数字の並ぶ小切手

京司の氷のように強張った気配を敏感に察知したのだろう。槇村はむしろその声をいっそう弾ませ、滑らかな口調でその緊張を解かそうとした。「嫌だなあ。そう身構えないでくださいよ。今日はただ、貴方に感謝を伝えたくて、ささやかな席を設けただけなんですから」「感謝、ですか……?」槇村が口にした言葉は、京司の予測を鮮やかに裏切るものだった。押し寄せる困惑を隠しきれず、京司の声音に細い亀裂が入る。「どういう……ことでしょうか。私があなたに、感謝されるような覚えなど……」「成田洋治――いや、〝マコト”の件ですよ」マコト。その名が鼓膜を震わせた瞬間、京司の脳裏に生々しい記憶が蘇る。鈴華の親友を見殺しにした男。鈴華がその手を血に染め、命を奪った男の忌まわしき名であった。激しく動揺する京司の視線を射抜くように、槇村は胸元から一枚の小切手を差し出しす。小切手には8桁の数字が並んでいた。「六穣会が自ら片付けるべき不始末でした。これは貴方のその“労苦”に報いるためのものです。どうか受け取ってください」京司は頑ななまでにそれを拒んだ。「あれは……ただ、私の独断に過ぎません。感謝を受ける筋合いのものではないのです」「鈴華のために?」槇村の言葉には、二人の間に流れる密やかな結びつきを、すべて見通しているかのような響きがあった。「……はい」京司は肺の空気をすべて入れ替えるように、深く息を吸い込んだ。(槇村は、自分と鈴華の関係性まで完全に掴んでいる。今さらどんな言葉を並べ立てたところで、それは自己保身にすぎんな)「私の個人的な独断で、鈴華さんに加担しただけです。……ですから、そのお金を受け取る理由はどこにもありません」槇村は、おもしろそうに細めた眼差しを京司へと注いでいた。そこには責めるような色は微塵もなく、ただただ純粋な好奇心が揺れている。「うーん……普通はさ、こういう時って何だかんだ言っても最後は受け取るもんじゃない? 一応俺、これでも上の立場だしさ」悪戯っぽく、しかし確かな重みを含んだ声音が室内に落ちる。「……無作法者で、申し訳ありません」京司は静かに息を吐き、畳の青い匂いに額を押し当てるようにして、深く、深く頭を垂れた。「烏丸さん……面白い人ですね。うちの宏一に喧嘩を売るだけのことはある」京司の額をじっとりとした嫌
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鈴華の過去①

槇村が京司に抱く感情の秤には、怨恨のひとかけらも載ってはいなかった。そこにあるのは、底の知れない、けれど透明な好奇心という名の渇きだけ。「しかし……そのせいで鈴華さんは謹慎を強いられることに……」「あれは避難、と呼ぶべき謹慎だよ。宏一の鈴華に対する執着はすでに常軌を逸しているからね」槇村は、声音の温度をさらに一段下げて言葉を継いだ。「もっとも、それは世俗で言う恋愛感情とは似て非なるものだけどね。僕たちは“家族”というコミュニティの中にいる。それはどこまでいってもその境界線を互いに超えることはありえない」槇村は鮮やかなオレンジ色の甘い液体で喉を潤した。「血は水より濃い、なんて言葉があるけれどさ」槇村はふっと自嘲気味に、しかし確かな体温を宿した声で笑った。「僕は違うと思うんだよね。鈴華も宏一も、自分をこの世に繋ぎ止めたはずの生みの親の顔を知らない。血の繋がりなんて、僕たちを縛る理由にはならないんだ。僕らは確かに、あちこちから不揃いに集められた“寄せ集め”の家族かもしれない。けれど、あの見知らぬ誰かとの絆のほうが、僕たちの重ねてきた日々より強いなんて――そんなこと、この家の誰も、信じてやしないよ」彼の言葉の端々には、揺るぎない絶対の自信が、静かな灯火のように宿っていた。料理を口に含みながら槇村がふいに京司の過去を口にした。「烏丸さんは京都の名家のご出身だとか」京司の輪郭が、一瞬にして硬質な拒絶を帯びた。家族という存在は、彼の魂の最も深い場所に沈められた、触れればたちまち血を流す古傷だった。その言葉が耳に届くだけで、過去の暗い痛みが容赦なく胸を抉るのだ。「……この世界に足を踏み入れたその日から、肉親との繋がりなどとうに捨て去っています」「物好きもいたものだな。何ひとつ不自由のない陽だまりの生活を放り出して、わざわざこの世界に飛び込むなんて」槇村はそれ以上、京司の過去という名の傷に触れようとはしなかった。ただ、目の前に並ぶ彩られた前菜へと、無造作に箸を伸ばす。「――鈴華のこと、知りたい?」──「……はい」絞り出すような答えを余所に、槇村は何事もない顔で次の器へと無慈悲に手を伸ばす。「鈴華が九龍城塞出身なのは知ってるんだろ?」「はい」「俺が鈴華を三合会から買い取ったことも」「……はい」部屋の空気が
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鈴華の過去②

自らその手を放したのだ。いまさら鈴華の過去を知ったところで、何が変わるわけでもない。そう自分に言い聞かせるものの、彼女を求める本能は、京司の浅薄な理性を容赦なく踏みにじっていく。理屈じゃない。ただ、抗いようもなく彼女に飢えていた。槇村は、まるで昨日の天気でも話すかのような気安さで、鈴華の壮絶な過去を紐解き始めた。「三合会との商談のために香港へ渡った時、俺の護衛としてあてがわれたのが鈴華さ。いやはや、実に物騒な街だったよ。もし鈴華が傍にいなかったら、俺の命はいくつあっても足りなかった」戯れ言のように紡がれる言葉が続く。京司の沈黙は重かった。ピクリとも動かず、槇村の口から溢れる過去に神経を集中させている。「あの頃の鈴華はまだ十代でさ、こんな子供に何ができるんだって三合会を疑ったよ。でも、俺は奴らにとって特別な上客だった。だから、紅棍部隊のトップクラス、鈴華が俺の後ろに付いた。そういうカラクリさ」「鈴華は……それほどまでに、切れる人間だったんですか」「そうだね……けれど、俺が彼を日本へ連れ帰った理由は、決してそれだけじゃないんだ」「では、何故……。籍を入れ、我が子としてまで連れ帰る必要が、どこにあったのでしょうか」槇村の手が不意に止まった。問いかける男の視線を、京司はまっすぐに受け止める。「……上手くは言えないけれど。ただ、本能が告げていたんだ。あの子をここに置き去りにすれば、遠からず死ぬ。その未来だけが、嫌に鮮明に見えてしまったんだよね。…鈴華には“死”の概念がない。銃弾の前に身を晒す。刃を向けられても眉ひとつ動かさない。自分の生死に…命に、あの子はまるで興味がないんだ」槇村の声が止む。あとに残された言葉は、銃弾よりも重い鉛となって京司の胸に撃ち込まれた。心臓の奥が、冷たく、重く、沈んでいった。 続く槇村の言葉が、夜の淀んだ空気に溶けていく。「柄にもなく、不幸だと思ってしまったんだ。九龍の泥に塗れた路地裏を歩けば、そんな子供など星の数ほど転がっているというのに。ただ、俺の目の前にいたその命だけは、どうしても引き上げずにはいられなかった」彼はそれきり口を閉じ、何事もなかったかのように再び箸を動かした。目の前の器に向かうその手元だけが、妙に淡々としている。「三合会という組織に囚われている以上、
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鈴華の過去③

「それで、会長の護衛を?」「俺の護衛をするようになったのは、二年ほど前からだよ。鈴華が、どうしてもと言ってきかなくてね」「彼女が、ですか」「この国に降り立ったばかりの彼女には、一般社会の“常識”なんて概念は存在しなかった。香港の組織で彼女が教え込まれてきたのは、ただ一つ――いかにして確実に息の根を止めるか、それだけだったからね」男の淡々とした声が、座敷の空気を凍らせる。その冷気に抗うように襖が静かに開き、次の皿が、二人の間にそっと差し出された。「日本語もろくに話せなかった彼女の面倒を、ゼロから見たのは宏一なんだよ」「あの男が? ……すみません、意外だったもので」槇村の唇が、愉快そうに弧を描いた。その笑みには、過去を知る者特有の余裕が滲んでいる。「他人のために泥を被るような男には見えないだろう?」「……ええ、正直なところ」「鈴華が日本にやってきた頃、俺はまだ六穣会を立ち上げる前だった。ビジネスの足場が大阪になく、あちこちを飛び回る日々でね。だから、彼女のすべてを、宏一に委ねるしかなかったんだ」「宏一さんが……鈴華さんの面倒を、ですか?」「ああ。はじめは随分と嫌がっていたよ。けれど、あいつ自身も親の温もりを知らずに育った身だ。見過ごすことなど出来なかったのだろうね」それは、京司の記憶にある“宏一”という男の冷徹な輪郭からは、どうしても結びつかない光景だった。「今うちで若頭補佐をやってる早緑と二人で日本語の読み書きから、卓上の作法、この世界の生きていくための常識に至るまで……すべてはあの二人が、あの娘の真っ白な頭に根気強く刻み込んだものさ」京司は今更のように、宏一と鈴華の間に横たわる絆の深さに、ただ圧倒されていた。「……無礼を承知で申し上げますが。宏一さんの彼女への執着は、少々、常軌を逸しているように映るのですが」「そうなんだよね……」槇村は淡々と箸を動かしながら、諦念の混じったため息を零れさせる。「ああ、けれど誤解しないでくれ。宏一のそれは、男女の情愛とは一線を画するものだ。――君が彼女に抱いているものとはね」鈴華との関係性を薄皮一枚隔てて鋭く突かれたような、じっとりとした居心地の悪さが、京司の胸の奥底へと染み込んでいった。
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槇村の誘い

「山城銀行頭取の娘さんとの結婚の話、進んでるの?」向けられた言葉が、京司の背中にじっとりとした冷たい汗を滲ませていく。「……ご存知だったのですね」絞り出すような声とともに、彼は再び、額が擦り切れるほど畳に深く頭を垂れた。室内を包む沈黙が、罪人を断罪するように重くのしかかる。「私の分不相応な身勝手が、鈴華さんを深く傷つけてしまいました。どのようなお咎めを受けようとも、弁解の余地などございません」喉の奥から絞り出したのは、彼が持ち得る限りの、一切の虚飾を排した本心の謝罪だった。「それは鈴華と君、二人の間の問題だ。俺が口を挟むような筋合いじゃない。ただ……わざわざ神野の厳父に頭を下げてまで、君をこの奈良の地に呼び寄せてもらった意味は、どうやら泡沫に帰してしまったようだな」「あれは……会長の、お計らいだったのですか」その瞬間、京司の脳裏に、これまで霧の彼方にあった神野からの招きの真意が、鮮烈な光を伴って結像した。すべては仕組まれた、しかしあまりにも不器用で温かい、救いの手だったのだと。「九条組のために、君の人生全部を放り出すつもり?」槇村の口からこぼれたのは、場の空気にそぐわないほど軽やかな問いだった。しかし、それがかえって刃のように鋭く、京司の胸の奥を抉る。「……それが、盃を交わした者の、恩義ですから」喉の奥で幾重にも渦巻く迷いを無理やり押し殺し、京司はあらかじめ用意されていたかのような、味気ない言葉を吐き出した。割り切れない自らの心を、冷え切った義務感の仮面で覆い隠すように。「九条組は、君が人生のすべてを賭すに値する器かい?」槇村の放った言葉は、夜の静寂を切り裂く容赦のない光となって、京司の胸の空洞を射抜いた。「それは……」唇を衝いて出るべき言葉が、喉の奥で凍りつく。望まぬ婚姻、闇を這う薬物の白濁した澱み――。それらは、彼がかつて憧憬を抱き、命を捧げると誓った“”九条組の気高き輪郭を、内側からじわじわと侵食し、意図せぬ形へと歪めていくようだった。「実はね。君をここに呼んだのは、京都での恩義に報いるためだけではないんだ」京司はゆっくりと顔を上げ、その真っ直ぐな視線を槇村へと注いだ。「烏丸君……どうだろう、六穣会に身を委ねてみる気はないかい?」
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九条組の取引

「……俺に、九条組を裏切れと?」京司の射抜くような眼光が、まっすぐに槇村を捉えた。刃めいたその視線を浴びながらも、槇村のなかの静寂が揺らぐことはない。傾けられたグラスから、琥珀にも似たオレンジ色の甘い液体が滑り落ち、彼の喉を艶やかに潤していく。「裏切る、か……」槇村は低く、どこか楽しげにその言葉をなぞった。「誤解しないでほしいな。俺はなにも、九条の金や利権を、手土産に持ってこいと言っているわけじゃない。俺が渇望しているのは、君という存在そのものだよ。――それでも君は、それを『裏切り』という安直な言葉で片付けるのかい?」「それが……盃で結ばれた血の結束でしょう」槇村の放った言葉が、じわじわと己の深層へと染み込んでいくのを京司は感じていた。ありえない――自分が九条組を裏切るなど、天地が覆ろうとも。その絶対の矜持によって形作られている自らの輪郭が、足元から音を立てて崩れ去るような、底寒い恐怖が彼の胸奥を支配し始めていた。「そうか。では九条組が解散すれば少しは考えてくれるかな?」「……は?」槇村の口から零れ落ちた一言は、京司の足元の世界を根底から融解させるほどに重いものだった。それなのに、彼の口調はどこまでも乾いていて、軽い。そのあまりに無邪気な軽快さこそが、京司の胸の奥底へ、底なし沼のような不安をじわじわと広げていくのだった。(なんなんや、この人は……。一体何を言うてんねん。九条組が解散? ありえへん、そんなこと……)京司の脳裏を支配した怯えを、槇村は冷酷に射抜いていた。紡がれる言葉は、甘い幻想を容赦なく打ち砕く、剥き出しの現実。その圧倒的な冷たさに、京司はただ息を呑むしかなかった。「九条組が捌いてるクスリのルート、あれ全部、大阪湾の六穣会のシマ(港湾)を通ってるんだよ。俺が首を横に振った時点で、九条組の取引は完全にストップする。……その顔を見る限り、本当に何も知らされてなかったみたいだな」その言葉は、京司の脳をダイレクトに殴りつけた。あまりに唐突で、あまりに致命的な真実。自分がこれまで信じていた世界の前提が、足元から音を立てて崩壊していく。頭が真っ白になり、京司は喉の奥がカラカラに乾いていくのを自覚した。槇村の顔から、営業用の笑みが綺麗に消えた。「うちの組織は、香港の三合会と利権の深いところ
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