All Chapters of 中古PCの壁紙が婚約者の裸でした: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

私は三枝麗奈(さえぐさ れいな)。ある日、フリマアプリで中古のノートパソコンを購入した。届いた箱を開け、何気なく電源を入れる。すると、立ち上がった画面の壁紙に映し出されたのは――婚約者の手塚有博(てづか ありひろ)の、全裸の無修正写真だった。頭の中が、一瞬で真っ白になる。どういうこと?まさか神様のいたずら?有博の持ち物が巡り巡って、また私のところに戻ってきたってこと?混乱したまま、有博に電話をかけようとスマホを手に取った、そのときだった。知らない番号から、着信が何度も続けざまに入る。恐る恐る出ると、受話器の向こうから若い女の声が飛び込んできた。「すみません!彼氏のパソコンを間違えて送っちゃいました!そのパソコンの中に大事な仕事のファイルが入ってるんです。絶対に触らないでください!すぐ本来送るはずだったパソコン、送り直します!送料も全部こちらで負担しますので、中のファイル、本当に触らないでくださいね!」電話越しに響くその言葉が、胸の奥に重く沈んだ。甘ったるい声が、やけに耳に残る。有博には――いつから、私以外の彼女がいたの?電話を切ると、私は無理やり気持ちを落ち着けようとして、震える指でマウスを動かした。壁紙以外には何もない。不気味なくらい整然としたデスクトップに、「My Treasure」と名付けられたフォルダが一つだけ置かれていた。有博も昔、同じ名前のフォルダを私のために作ってくれたことがある。そこには、子どもの頃からの二人の写真がぎっしり保存されていた。心臓が「どくん」と嫌な音を立てる。あり得ないはずの考えが、不意に頭の中に浮かんだ。――有博が、浮気?その考えは一瞬だけよぎって、私はすぐに首を振って打ち消した。だって私は知っている。たとえ世の中の男がみんな裏切ったとしても、有博だけは違う。私たちは近所のみんなに見守られて育った、幼なじみなのだから。有博は私を愛していた。毎月の生理の時期をちゃんと覚えていて、前もってカイロや温かい飲み物まで用意してくれるくらいに。スマホも、パソコンも、SNSも――どれも私の誕生日をパスワードにしてしまうくらいに。それに、結婚式はもう半月後に迫っている。だからこれはきっと、何かの間違いに決まっている。私は深く息を吸い込み
Read more

第2話

有博の顔に浮かんでいた、いつもの笑みが少しずつ消えていった。彼は呆然と私を見つめたまま、しばらく何も言えずにいた。それからようやく、声を絞り出すように言った。「麗奈、何を言ってるんだ?その名前、どこで聞いた?」けれど次の瞬間には、見慣れたその顔に、傷ついたような、困り果てたような表情が浮かんでいた。有博は私の頬に触れようと手を伸ばし、低くやわらかな声で言った。「麗奈、雨宮さんはうちの部署に入ったばかりの新人だよ。今日、プロジェクトで少しトラブルがあって、手を貸しただけなんだ」身に覚えのないことで疑われた、とでも言いたげな顔だった。その表情も、声の震わせ方も、あまりにも自然だった。あの写真をこの目で見ていなかったら、私のほうが疑い深くなっているのだと思ってしまったかもしれない。有博は私を抱き寄せようとする。声はさっきよりもさらにやわらかく、まるで機嫌を損ねた子どもをなだめるみたいだった。「結婚が近いから、不安になってるんじゃないか?変なこと考えるなよ。十五年も一緒にいたんだ。俺のこと、信じてくれよ」すぐ目の前にある有博の顔を見ながら、私は反射的に彼を押し返していた。その動きに、有博の目がわずかに揺れた。その奥に浮かんだ傷ついた色が、さらに濃くなった。「麗奈、本当にどうしたんだ?誰かに何か言われたのか?」あのパソコンを取り出して、見たくもない証拠をすべて彼に叩きつけようとした、そのときだった。テーブルに伏せて置かれていた有博のスマホが、もう一度短く震えた。今度はメッセージの通知だった。有博がとっさに手を伸ばす。けれど、それより先に、私は画面に浮かんだカレンダーの通知を見てしまった。【今日17時、『ひとすじ』受け取り】胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。『ひとすじ』は、私が初めて売った絵の題名だった。大学に入ったばかりの頃、その絵は学内ギャラリーに飾られていた。けれど足を止める人はほとんどいなくて、誰にも見向きもされなかった。それでも展示期間の終わりに、名前も知らない買い手が現れ、その絵を買ってくれた。ずっと後になってから知った。その買い手が、有博だったのだと。有博はその絵を、私たちがこれから暮らすはずだった新居に飾った。そして、絵の隅に入った私の拙いサインを
Read more

第3話

胃の奥から、また吐き気がこみ上げてきた。写真を見たときとは比べものにならなかった。日菜は有博を見上げ、キスをせがむように唇を近づけた。有博は彼女を押しのけるでもなく、困ったように笑って、人差し指でその額を軽くつつく。「やめろ。誰かに見られるだろ」日菜はますます有博の腕に絡みつきながら、わざと甘えた声で言った。「見られたっていいじゃない。麗奈さん、あなたのこと大好きなんでしょ?たとえ知ったって、どうせ私が誘惑したんだって思うだけよ」その言葉に、有博の表情がぴたりと止まった。「最初に言っただろ。俺には背負うべき責任があるんだ。麗奈と結婚するのは最初から決まってる。それは変わらない」日菜は不満そうに唇を尖らせると、小さなバッグから上品なベルベットの箱を取り出し、有博の前に差し出した。「もう、怒らないでよ。麗奈さんには迷惑かけないって約束するから。ねえ、見て。何を用意したと思う?私たちの指輪も、『ひとすじ』って名前にしようよ」有博の顔が、一瞬だけこわばった。けれど日菜を見つめたあと、結局、彼は笑った。「ほんと、お前には敵わないな」私は、有博がその指輪を受け取り、左手の薬指にはめるのを黙って見ていた。その指輪は、さっき有博が私に語っていた、『ひとすじ』をモチーフにした結婚指輪と、驚くほどよく似ていた。十五年分の想いの奥に残っていた、最後のぬくもりまで。その瞬間、きれいに消えた。私は最後までその様子を録画すると、スマホをしまった。そして二人に背を向け、その場を離れてタクシーを拾った。家に戻っても、明かりはつけなかった。暗闇の中、私はソファに座ったまま、あの動画を何度も繰り返し再生した。有博があの指輪をはめた瞬間、顔をよぎった一瞬のためらいと――やがて迷いを手放したような表情。やはり、すべて偶然なんかじゃなかった。あのパソコンも、あの壁紙も、すべて日菜が少しずつ仕掛けていた罠だった。婚約者である私に、その顔を見せつけるために。そして――すべて彼女の思い通りになった。私の世界は、十五年分の想いごと、跡形もなく崩れ落ちた。その動画もまとめて美里に送ったあと、私は何事もなかったかのように過ごしながら、婚約式の日が来るのを静かに待った。有博は後ろめたさでもあったのか
Read more

第4話

「何をばかなこと言ってるんだ?」有博は呆れたように笑って、私の髪をくしゃりと撫でた。「麗奈が逃げたら、世界中どこにいたって見つけ出すよ。二度と離れられないように、俺のそばに置いておく」私は目を伏せ、浮かびかけた笑みを隠した。「有博、もし……もし私が、あなたを裏切るようなことをしたら、許してくれる?」有博の顔から、笑みが消えた。彼は両手で私の頬を包み、まっすぐ自分のほうを向かせる。その表情は、怖いくらい真剣だった。「そんなこと言うな」指先が、私の頬をゆっくりとなぞる。「麗奈、俺たちの間にそんなの必要ないだろ。麗奈が俺を裏切るはずないし、俺も絶対そんなことしない」有博は、少しの迷いもなくそう言った。あまりにも真剣で、あまりにもそれらしい声だった。私は思わず笑いそうになる。本気でそう思っているのか。それとも――うまい演技で、ただそういう顔をしているだけなのか。私はそれ以上何も言わなかった。ただ有博に抱きしめられるまま、変わらないはずのぬくもりを、どこか遠く感じていた。婚約式の当日。家を出る前に、私はスマホを取り出して美里に最後のメッセージを送った。【予定どおりに】会場は、にぎやかで和やかな空気に包まれていた。両家の両親をはじめ、親しい親戚たちが顔をそろえていた。有博の母は私の手を取り、嬉しそうに頬を緩めた。「麗奈ちゃん、本当にますます綺麗になったわね。こんな素敵な子にお嫁に来てもらえるなんて、有博は本当に幸せ者だわ」私は微笑みながら、花嫁になる幸せそうな人を演じていた。有博は私の隣に座り、さりげなく料理を取り分けてくれる。ときどき耳元で何かを囁いてきて、そのたびに両家の親たちは微笑ましそうにこちらを見守っていた。食事が半ばを過ぎた頃、有博の父が軽く咳払いをして立ち上がった。そろそろ、私たちの正式な結婚式の日取りを発表するつもりなのだろう。全員の視線がそちらに集まった、そのときだった。有博のスマホが、不意に震えた。有博は画面を一瞥し、ほんのわずかに眉を寄せた。けれどすぐに私へ微笑みかけ、声を落として言った。「会社で少し急ぎの用件が入った。電話だけしてくる。すぐ戻るよ」そう言い残して、有博は足早に会場を出ていった。扉が閉まったのを確認してから、私
Read more

第5話

有博が会場へ駆け込んだとき、大きなスクリーンには、有博と日菜が抱き合ってキスをしている場面がそのまま映し出されていた。目に入ったのは、青ざめた有博の父の顔と、ざわめく出席者たち。そして一斉に自分へ向けられた痛いほどの視線だった。反射的に弁解しようと口を開いたが、喉が詰まったように声が出ない。父に打たれた頬にはまだ赤い跡が残り、焼けつくように痛んでいた。呆然とスクリーンを見上げる。そこに映っているのは紛れもなく自分なのに、どこか遠い他人のように感じられた。母のほうを見ると、目は赤く腫れていたが、有博を一度だけ見て、何も言わず視線を逸らした。父は肩で荒く息をしながら有博を指さしたが、言葉にならなかった。有博は何か言わなければと思ったが、弁解の言葉は喉の奥で詰まったままだった。席を埋める親族たちを見回す。かつて麗奈との婚約を祝ってくれた人たちの顔には、今は軽蔑と驚きしか浮かんでいない。「……自分が何をしでかしたのか、よく見てみろ」有博の父の声は震えていた。そこには怒りよりも深い失望が滲んでいた。幼い頃から誇りに思ってきた息子が、婚約式の場でこんなことをするなど、有博の父には信じられなかったのだ。有博の母は顔を覆い、声を押し殺して泣いていた。その瞬間、手塚家の体面は粉々に砕け散った。私は会場を出た。涙も出なければ、怒りも湧かなかった。ただ、これまでにない静けさだけが胸の奥に広がっていた。家に戻ると、そのまま寝室へ向かい、スーツケースを開けて荷物をまとめ始めた。画材と、数着の着替え。それから、夢を書き留めてきた一冊のノート。それらを一つずつスーツケースに収めていった。動く手は不思議なほど静かで、途中で止まることもなかった。スマホの画面が明るくなった。母からの電話だった。私は出なかった。今は一人になりたかった。少しだけ、時間がほしかった。スマホを手に取り、家族のグループLINEにメッセージを送った。【お父さん、お母さん、私は大丈夫。少しだけ時間をください】それから、スマホの電源を切った。がらんとした部屋の真ん中に立ち、深く息を吸う。ここにあるものすべてが、かつての私にとっては憧れで、未来だった。けれど今はもう、過去のものになっていた。車を呼び、美里のマンションへ向かっ
Read more

第6話

扉の向こうで、有博の声はかすれ、涙混じりに響いていた。「麗奈……いるんだろ?お願いだ、開けてくれ。少しでいい。少しだけ、話をさせてくれ」美里が飛び出して扉を開けようとしたが、私はそれを止めた。私は深く息を吸った。気持ちを落ち着けるためじゃない。声が震えないようにするためだった。扉を開けると、有博は夜の中に立っていた。髪は乱れ、目は赤く、頬にはくっきりと手の跡が残っている。私の姿を見るなり、有博は縋るように近づいてきて、そのまま抱きしめようとした。私は身を引いた。伸ばしかけた有博の手が、宙で止まった。わずかに後ずさり、傷ついたような目で私を見ていた。「麗奈……どうして、そんな顔で見るんだよ。話を聞いてくれ。日菜のことは……違うんだ。お前が思ってるようなことじゃない。最初は、俺にとって彼女が本当に会社の新人にすぎないんだ。でも彼女が勝手に懐いてきて、俺も……突き放しきれなくて。でも、本気じゃない。あいつとは何もない。いや……何もないっていうのは違うけど、でも、俺が大事なのはお前だけなんだ」有博はその場に膝をつき、私の手を取ろうとした。「麗奈……頼む。俺たち、十五年も一緒にいたのに。こんな些細なことで終わりにしないでくれ。もう二度としない。日菜とはちゃんと切る。会社にも来させない。お前が言う通りにする。だから……もう一度だけ、信じてくれ」私は小さく笑った。「こんな些細なこと、って?」有博は顔を上げた。目は縋るように揺れていた。「……男なら、そういうことだってあるだろ。ほんの出来心なんだ。結婚したいと思ってるのは麗奈だけだ。これから先も、それは変わらない」「出来心、ね」口にした声は、自分でも驚くほど冷たかった。「じゃあ、あの指輪は?雨宮日菜からもらった指輪は、どう説明するの?」有博の顔から、一瞬で血の気が引いた。何か言おうとして、けれど声にならない。さっきまで必死に縋っていた目が、みるみる恐怖に変わっていく。「……見たのか」かすれた声だった。「見たわ」私は静かに答えた。有博の顔から血の気が引いた。立ち上がろうとして、けれど力が入らず、そのまままた膝をつく。有博は必死に言い訳を重ねた。「麗奈、聞いてくれ!あのときは……ただ話を合わせてただけな
Read more

第7話

有博に付きまとわれることは、いつの間にか日常になっていた。勤務先のビルの前、美里のマンションのエントランス、しまいには父のマンションの前にまで現れるようになった。何度も私の前に立ちはだかり、その場に膝をついて、かすれた声で許しを乞う。「麗奈……頼む。もう一回だけでいい。本当に悪かったんだ。ちゃんと反省してる。だから……頼む」けれど、その必死な姿さえ、今の私にはただ鬱陶しいだけだった。一刻も早く、この状況から離れたかった。パリ行きの航空券は明日の便に変更した。スーツケースはすでにいっぱいで、あとは夜が明けるのを待つだけだった。夜も更け、美里はもう眠っていた。私はリビングに座り、パリへ持っていく荷物をもう一度確かめていた。そのとき、不意に激しくドアが叩かれた。胸が強張る。また有博だと思った。物音で目を覚ました美里が、カーディガンを羽織って飛び出してくる。文句を言いに行くつもりなのだろう。私は静かに首を振り、ドアスコープを覗いた。ドアの向こうに立っていたのは、有博ではなく、日菜だった。薄い白のコートを羽織った日菜は、顔色が悪く、目元も赤く腫れていた。今にも泣き出しそうなその姿は、電話口で勝ち誇っていた彼女とはまるで別人だった。扉を開けると、日菜の体がふらりと揺れた。今にも倒れそうな様子で、彼女は私を見上げる。「麗奈さん……私、どうしても話したいことがあって来ました」美里がすぐに私の横へ出て、日菜を睨みつけた。「よく来られたわね。まだ何かするつもり?」日菜は美里の言葉には答えなかった。ただ私だけを見つめ、目に涙をためたまま、震える声で続ける。「麗奈さん、今さら来るべきじゃないって分かっています。でも……私、もうどうしたらいいのか分からなくて」日菜は片手で下腹を押さえた。立っているのもやっとなのか、体がまた小さく揺れる。そして、絞り出すように言った。「私、妊娠しました」日菜は震える声でそう言った。「お腹の子は……有博の子です」その言葉に、リビングがしんと静まり返った。美里の顔から怒りが消え、代わりに驚きが浮かぶ。私はただ黙って、日菜を見ていた。私が何も言わないのを見て、日菜の目からぽろぽろと涙がこぼれた。「私だって、この子を産みたいわけじゃないん
Read more

第8話

日菜は美里に玄関の外へ押し出されるなり、表情を歪めた。さっきまでのか弱げな様子は、もうどこにもない。「これで勝ったつもり?」日菜は私を指さし、憎しみをむき出しにして叫んだ。「あんたなんか、一生幸せになれない。自分のことしか考えてないんだから、裏切られて当然でしょ!有博があんたを愛してると思ってるの?そんなわけないじゃん。ただ長く一緒にいたから、離れられないだけでしょ。あの人が本当に好きなのは私。最後には絶対、私のところに戻ってくる」日菜はさらに、お腹の子のことまで持ち出した。その声には、はっきりとした脅しが混じっていた。「逃げられると思わないで。この子のこと、一生忘れられないようにしてやるから!」私は扉を閉めた。日菜の叫び声が、扉の向こうへ遠ざかる。美里がそばに来て、私の肩を軽く叩いた。「相手にしないで。あんなの、まともじゃない」明日には、必ずここを離れなければならないのだ。部屋に戻ると、スーツケースはすでに荷物でいっぱいになっていた。私はパスポートと航空券を取り出し、もう一度フライトの時間を確認する。美里が部屋に入ってきて、ホットミルクの入ったカップを差し出した。「少しでも飲んで。眠れなくても、目を閉じるだけでいいから。明日にはもう、パリへ発つんでしょう?」私はカップを受け取り、首を横に振った。「眠れそうにない」立ち上がり、窓辺へ向かう。夜は深く、街の輪郭はネオンの光にぼんやりと浮かび上がっていた。窓の外を見つめていると、胸の奥で、何かが私を急かしていた。もう待っていてはいけない。私は振り返り、美里に言った。「美里。私、今すぐ出たい」美里は一瞬だけ目を見開いた。けれどすぐに、静かにうなずく。「分かった。空港まで送る」それ以上、余計な言葉は交わさなかった。美里がスーツケースを持ってくれて、私たちは音を立てないように部屋を出た。エレベーターがゆっくりと下りていく。その短い時間の中で、胸の奥にあった重たいものが、少しずつほどけていく気がした。マンションの外へ出ると、夜風が頬を撫でた。ひんやりとした空気が、火照った心を静かに冷ましていく。タクシーを呼び止めようとした、そのときだった。一人の男が、ふいに私の前に立った。背の高い男
Read more

第9話

私は、英佑が差し出したタブレットに目を落とした。画面には、財務資料や契約書、送金記録らしきデータが並んでいた。どれも、見ただけで胸の奥が冷えていくようなものばかりだった。これは、ただの恋愛のもつれではない。父の信用と、家の利害にまで関わる問題だった。もう、逃げている場合ではなかった。私は視線を上げ、手の中の名刺を握りしめる。これは復讐のためじゃない。父を守るために、そして私たちから奪われたものを取り戻すために、必要なことだった。「相馬さん、協力します」声は静かだった。けれど、自分でも分かるほど、そこにはもう迷いがなかった。英佑は小さく笑った。それは勝ち誇った笑みではなく、すべてを見越している者の余裕に見えた。「三枝さん。あなたなら、そう言ってくださると思っていました」英佑はそう言って、一部の書類を差し出した。「こちらが、最初の段取りです。それから、手塚さんの会社が近く参加する大型入札の情報も入っています。まずは、ここから始めましょう」私は書類を受け取った。手の中の紙が、妙に冷たく感じられた。英佑の計画は、驚くほど緻密だった。私が有博の癖や考え方についてよく知っている。そして、有博が私に対してまだ罪悪感を抱いている。英佑はそれを利用して、動くための隙を作るのだ。私は有博に電話をかけた。声に少しだけ疲れを滲ませながら、それでも平静を装う。「有博、うちの両親が心配してる。最近……大丈夫?」電話の向こうで、有博が声はかすれていて、信じられないほど切羽詰まっていた。「麗奈……?麗奈なのか?やっと電話に出てくれた……」一瞬、声が震える。「大丈夫なわけないだろ。俺、もう限界なんだ。おかしくなりそうで……」有博は、何度も謝った。愛している。やり直したい。もう一度だけ信じてほしい。その言葉はどれも、私を昔に戻そうとしているように聞こえた。私は何も言わなかった。ただ、静かに聞いていた。傷つけられても、まだ完全には突き放せない元婚約者。今の私は、そんな役を演じていた。「有博、最近、会社で大きな案件を抱えているんでしょう」私は少しだけ心配そうに声を和らげた。「私のことで、仕事に影響させないで。競争もかなり厳しいって聞いたから……気をつけて」
Read more

第10話

三か月後、パリ。私の個展が始まった。母は私の腕にそっと手を添え、目を赤くしながら言った。「麗奈、本当にやり遂げたのね」父はそばに立ち、壁に並ぶ絵を長いあいだ黙って見つめていた。やがて、ぽつりと一言だけ言った。「……いい絵だ」この三か月、私は向こうにいるほとんどの人との連絡を断ち、ただ絵だけに向き合ってきた。絵具の匂いとキャンバスに囲まれながら、あの頃の痛みを、少しずつ色に変えていった。何度も塗り重ね、形を変えて。そうしてようやく、それらは壁に並ぶ静かな作品になった。そのとき、美里からメッセージが届いた。【おめでとう!今じゃ立派な大画家じゃない?打ち上げは思いきり楽しんできて!】思わず笑って返信した、そのときだった。会場の入口に、見覚えのある姿が現れた。英佑だった。深いグレーのコートをまとった英佑は、人波の中でも不思議と目を引いた。彼はまっすぐこちらへ歩いてくる。その腕には、アイリスの花束が抱えられていた。「三枝さん。突然伺ってしまって、すみません」英佑は穏やかに微笑み、花束を差し出した。「ご迷惑でなければいいのですが」その様子を見ていた両親が、少しだけ意味ありげに私を見た。私は花束を受け取り、礼儀正しく微笑み返した。「相馬さんが、どうしてパリに?」「出張です。あなたの個展があると聞いたので、少しだけ寄らせてもらいました」英佑はそれ以上多くを語らなかった。ただ、会場をゆっくり歩きながら、私の絵を一枚ずつ真剣に見ていった。オープニングパーティーが終わると、両親は先にホテルへ戻った。英佑は会場の入口のそばで足を止め、私を見る。「少し歩きませんか。セーヌ川の夜景が綺麗でよす」夜風が、セーヌ川の水面を静かに揺らしていた。私たちは肩を並べ、川沿いをゆっくり歩いた。しばらく、私たちは黙って歩いていた。けれど、その沈黙は不思議と心地悪くなかった。やがて英佑が、静かに口を開く。それは、もう誰にも聞かれることはないと思っていた問いだった。「今でも、彼のことを恨んでいますか」私は足を止め、遠くに見えるエッフェル塔へ視線を向けた。夜の中でまたたく塔の灯りは、大きな宝石のように見えた。恨んでいるのか。最初は、確かに恨んでいた。
Read more
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status