LOGIN私は三枝麗奈(さえぐさ れいな)。 ある日、フリマアプリで中古のノートパソコンを購入した。 届いた箱を開け、何気なく電源を入れる。すると、立ち上がった画面の壁紙に映し出されたのは――婚約者の手塚有博(てづか ありひろ)の、全裸の無修正写真だった。 頭の中が、一瞬で真っ白になる。 どういうこと? まさか神様のいたずら? 有博の持ち物が巡り巡って、また私のところに戻ってきたってこと? 混乱したまま、有博に電話をかけようとスマホを手に取った、そのときだった。 知らない番号から、着信が何度も続けざまに入る。 恐る恐る出ると、受話器の向こうから若い女の声が飛び込んできた。 「すみません!彼氏のパソコンを間違えて送っちゃいました!そのパソコンの中に大事な仕事のファイルが入ってるんです。絶対に触らないでください! すぐ本来送るはずだったパソコン、送り直します!送料も全部こちらで負担しますので、中のファイル、本当に触らないでくださいね!」 電話越しに響くその言葉が、胸の奥に重く沈んだ。 甘ったるい声が、やけに耳に残る。 有博には――いつから、私以外の彼女がいたの?
View More三か月後、パリ。私の個展が始まった。母は私の腕にそっと手を添え、目を赤くしながら言った。「麗奈、本当にやり遂げたのね」父はそばに立ち、壁に並ぶ絵を長いあいだ黙って見つめていた。やがて、ぽつりと一言だけ言った。「……いい絵だ」この三か月、私は向こうにいるほとんどの人との連絡を断ち、ただ絵だけに向き合ってきた。絵具の匂いとキャンバスに囲まれながら、あの頃の痛みを、少しずつ色に変えていった。何度も塗り重ね、形を変えて。そうしてようやく、それらは壁に並ぶ静かな作品になった。そのとき、美里からメッセージが届いた。【おめでとう!今じゃ立派な大画家じゃない?打ち上げは思いきり楽しんできて!】思わず笑って返信した、そのときだった。会場の入口に、見覚えのある姿が現れた。英佑だった。深いグレーのコートをまとった英佑は、人波の中でも不思議と目を引いた。彼はまっすぐこちらへ歩いてくる。その腕には、アイリスの花束が抱えられていた。「三枝さん。突然伺ってしまって、すみません」英佑は穏やかに微笑み、花束を差し出した。「ご迷惑でなければいいのですが」その様子を見ていた両親が、少しだけ意味ありげに私を見た。私は花束を受け取り、礼儀正しく微笑み返した。「相馬さんが、どうしてパリに?」「出張です。あなたの個展があると聞いたので、少しだけ寄らせてもらいました」英佑はそれ以上多くを語らなかった。ただ、会場をゆっくり歩きながら、私の絵を一枚ずつ真剣に見ていった。オープニングパーティーが終わると、両親は先にホテルへ戻った。英佑は会場の入口のそばで足を止め、私を見る。「少し歩きませんか。セーヌ川の夜景が綺麗でよす」夜風が、セーヌ川の水面を静かに揺らしていた。私たちは肩を並べ、川沿いをゆっくり歩いた。しばらく、私たちは黙って歩いていた。けれど、その沈黙は不思議と心地悪くなかった。やがて英佑が、静かに口を開く。それは、もう誰にも聞かれることはないと思っていた問いだった。「今でも、彼のことを恨んでいますか」私は足を止め、遠くに見えるエッフェル塔へ視線を向けた。夜の中でまたたく塔の灯りは、大きな宝石のように見えた。恨んでいるのか。最初は、確かに恨んでいた。
私は、英佑が差し出したタブレットに目を落とした。画面には、財務資料や契約書、送金記録らしきデータが並んでいた。どれも、見ただけで胸の奥が冷えていくようなものばかりだった。これは、ただの恋愛のもつれではない。父の信用と、家の利害にまで関わる問題だった。もう、逃げている場合ではなかった。私は視線を上げ、手の中の名刺を握りしめる。これは復讐のためじゃない。父を守るために、そして私たちから奪われたものを取り戻すために、必要なことだった。「相馬さん、協力します」声は静かだった。けれど、自分でも分かるほど、そこにはもう迷いがなかった。英佑は小さく笑った。それは勝ち誇った笑みではなく、すべてを見越している者の余裕に見えた。「三枝さん。あなたなら、そう言ってくださると思っていました」英佑はそう言って、一部の書類を差し出した。「こちらが、最初の段取りです。それから、手塚さんの会社が近く参加する大型入札の情報も入っています。まずは、ここから始めましょう」私は書類を受け取った。手の中の紙が、妙に冷たく感じられた。英佑の計画は、驚くほど緻密だった。私が有博の癖や考え方についてよく知っている。そして、有博が私に対してまだ罪悪感を抱いている。英佑はそれを利用して、動くための隙を作るのだ。私は有博に電話をかけた。声に少しだけ疲れを滲ませながら、それでも平静を装う。「有博、うちの両親が心配してる。最近……大丈夫?」電話の向こうで、有博が声はかすれていて、信じられないほど切羽詰まっていた。「麗奈……?麗奈なのか?やっと電話に出てくれた……」一瞬、声が震える。「大丈夫なわけないだろ。俺、もう限界なんだ。おかしくなりそうで……」有博は、何度も謝った。愛している。やり直したい。もう一度だけ信じてほしい。その言葉はどれも、私を昔に戻そうとしているように聞こえた。私は何も言わなかった。ただ、静かに聞いていた。傷つけられても、まだ完全には突き放せない元婚約者。今の私は、そんな役を演じていた。「有博、最近、会社で大きな案件を抱えているんでしょう」私は少しだけ心配そうに声を和らげた。「私のことで、仕事に影響させないで。競争もかなり厳しいって聞いたから……気をつけて」
日菜は美里に玄関の外へ押し出されるなり、表情を歪めた。さっきまでのか弱げな様子は、もうどこにもない。「これで勝ったつもり?」日菜は私を指さし、憎しみをむき出しにして叫んだ。「あんたなんか、一生幸せになれない。自分のことしか考えてないんだから、裏切られて当然でしょ!有博があんたを愛してると思ってるの?そんなわけないじゃん。ただ長く一緒にいたから、離れられないだけでしょ。あの人が本当に好きなのは私。最後には絶対、私のところに戻ってくる」日菜はさらに、お腹の子のことまで持ち出した。その声には、はっきりとした脅しが混じっていた。「逃げられると思わないで。この子のこと、一生忘れられないようにしてやるから!」私は扉を閉めた。日菜の叫び声が、扉の向こうへ遠ざかる。美里がそばに来て、私の肩を軽く叩いた。「相手にしないで。あんなの、まともじゃない」明日には、必ずここを離れなければならないのだ。部屋に戻ると、スーツケースはすでに荷物でいっぱいになっていた。私はパスポートと航空券を取り出し、もう一度フライトの時間を確認する。美里が部屋に入ってきて、ホットミルクの入ったカップを差し出した。「少しでも飲んで。眠れなくても、目を閉じるだけでいいから。明日にはもう、パリへ発つんでしょう?」私はカップを受け取り、首を横に振った。「眠れそうにない」立ち上がり、窓辺へ向かう。夜は深く、街の輪郭はネオンの光にぼんやりと浮かび上がっていた。窓の外を見つめていると、胸の奥で、何かが私を急かしていた。もう待っていてはいけない。私は振り返り、美里に言った。「美里。私、今すぐ出たい」美里は一瞬だけ目を見開いた。けれどすぐに、静かにうなずく。「分かった。空港まで送る」それ以上、余計な言葉は交わさなかった。美里がスーツケースを持ってくれて、私たちは音を立てないように部屋を出た。エレベーターがゆっくりと下りていく。その短い時間の中で、胸の奥にあった重たいものが、少しずつほどけていく気がした。マンションの外へ出ると、夜風が頬を撫でた。ひんやりとした空気が、火照った心を静かに冷ましていく。タクシーを呼び止めようとした、そのときだった。一人の男が、ふいに私の前に立った。背の高い男
有博に付きまとわれることは、いつの間にか日常になっていた。勤務先のビルの前、美里のマンションのエントランス、しまいには父のマンションの前にまで現れるようになった。何度も私の前に立ちはだかり、その場に膝をついて、かすれた声で許しを乞う。「麗奈……頼む。もう一回だけでいい。本当に悪かったんだ。ちゃんと反省してる。だから……頼む」けれど、その必死な姿さえ、今の私にはただ鬱陶しいだけだった。一刻も早く、この状況から離れたかった。パリ行きの航空券は明日の便に変更した。スーツケースはすでにいっぱいで、あとは夜が明けるのを待つだけだった。夜も更け、美里はもう眠っていた。私はリビングに座り、パリへ持っていく荷物をもう一度確かめていた。そのとき、不意に激しくドアが叩かれた。胸が強張る。また有博だと思った。物音で目を覚ました美里が、カーディガンを羽織って飛び出してくる。文句を言いに行くつもりなのだろう。私は静かに首を振り、ドアスコープを覗いた。ドアの向こうに立っていたのは、有博ではなく、日菜だった。薄い白のコートを羽織った日菜は、顔色が悪く、目元も赤く腫れていた。今にも泣き出しそうなその姿は、電話口で勝ち誇っていた彼女とはまるで別人だった。扉を開けると、日菜の体がふらりと揺れた。今にも倒れそうな様子で、彼女は私を見上げる。「麗奈さん……私、どうしても話したいことがあって来ました」美里がすぐに私の横へ出て、日菜を睨みつけた。「よく来られたわね。まだ何かするつもり?」日菜は美里の言葉には答えなかった。ただ私だけを見つめ、目に涙をためたまま、震える声で続ける。「麗奈さん、今さら来るべきじゃないって分かっています。でも……私、もうどうしたらいいのか分からなくて」日菜は片手で下腹を押さえた。立っているのもやっとなのか、体がまた小さく揺れる。そして、絞り出すように言った。「私、妊娠しました」日菜は震える声でそう言った。「お腹の子は……有博の子です」その言葉に、リビングがしんと静まり返った。美里の顔から怒りが消え、代わりに驚きが浮かぶ。私はただ黙って、日菜を見ていた。私が何も言わないのを見て、日菜の目からぽろぽろと涙がこぼれた。「私だって、この子を産みたいわけじゃないん