結局のところ、慎也は莉子を邸宅には連れて帰らなかった。あの家は麻美と自分だけの場所であり、第三者を連れて行くべきではないのだと、彼は初めてはっきりと悟ったからだ。それは相手が莉子であっても、例外ではない。それから、莉子を澄波ヶ丘まで送ったあと、慎也は遠方の古い路地裏へと車を走らせた。そこに、麻美が大好きな、お菓子屋さんがあるから。昔、麻美が怒ったりすると必ずこのお菓子屋さんにきていた。あの時、慎也が仕事を終わらせて来ると、いつもきな粉の団子を美味しそうに頬張って、満足げにはしゃぐ麻美の姿があった。その可愛らしい声と、幸せそうに目を輝かせる姿を見るのが、慎也は何よりも好きだった。麻美は本当に素直で、聞き分けがよかった。しかし、いつの頃からだろう。麻美のそんな笑顔を、ずっと見ていない気がした。こうして、麻美のために団子を買ったあと、慎也はさらに花屋へ立ち寄り、ピンクのバラを買った。それは数日前、レストランで莉子に贈ったのと同じものだった。かつて同じ花をもらって大喜びし、その後、事実を知って一瞬だけ見せた寂しげな麻美の表情を見て見ぬふりをしてきたことを思い出すと、それらの出来事が、まるで錆びたナイフのように慎也の胸に刺さった。家へ向かう途中の天気はどんよりしていて、渋滞もやけに酷く、いつもの倍以上の時間がかかってしまった。そして、2時間も経ってから、やっと家にたどり着いた慎也は、靴を脱ぐ間も惜しんで麻美の寝室へと急いだ。「麻美、仕事が長引いて遅くなって悪かった。今日は結婚記念日だろ。君の好きなものを買ってきたから……」そう言いかけたが、すぐに彼は何かがおかしいと、直感的に思った。寝室には麻美の気配がなく、ただひんやりとした空気だけが体を駆け抜けていった。窓辺の観葉植物は世話をされずに枯れ、結婚式の記念写真があったはずの場所には何もなくなっていた。胸の奥がぽっかりと空いたように感じた、慎也はテーブルの上にあった診断書に目が留まった。そこには「佐々木麻美」、「交通事故」、「妊娠初期流産」の文字が記されていた。その瞬間彼の頭の中が真っ白になった。息を荒くして、慎也は思わず目を赤くした。結婚して3年、麻美は子供をとても欲しがっていた。そしてどれだけ辛くても彼女は諦めず、妊活を頑張ってきたことを思い出した。
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