All Chapters of 愛の減点表、初恋を選ぶ夫を0点で捨てる: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

結局のところ、慎也は莉子を邸宅には連れて帰らなかった。あの家は麻美と自分だけの場所であり、第三者を連れて行くべきではないのだと、彼は初めてはっきりと悟ったからだ。それは相手が莉子であっても、例外ではない。それから、莉子を澄波ヶ丘まで送ったあと、慎也は遠方の古い路地裏へと車を走らせた。そこに、麻美が大好きな、お菓子屋さんがあるから。昔、麻美が怒ったりすると必ずこのお菓子屋さんにきていた。あの時、慎也が仕事を終わらせて来ると、いつもきな粉の団子を美味しそうに頬張って、満足げにはしゃぐ麻美の姿があった。その可愛らしい声と、幸せそうに目を輝かせる姿を見るのが、慎也は何よりも好きだった。麻美は本当に素直で、聞き分けがよかった。しかし、いつの頃からだろう。麻美のそんな笑顔を、ずっと見ていない気がした。こうして、麻美のために団子を買ったあと、慎也はさらに花屋へ立ち寄り、ピンクのバラを買った。それは数日前、レストランで莉子に贈ったのと同じものだった。かつて同じ花をもらって大喜びし、その後、事実を知って一瞬だけ見せた寂しげな麻美の表情を見て見ぬふりをしてきたことを思い出すと、それらの出来事が、まるで錆びたナイフのように慎也の胸に刺さった。家へ向かう途中の天気はどんよりしていて、渋滞もやけに酷く、いつもの倍以上の時間がかかってしまった。そして、2時間も経ってから、やっと家にたどり着いた慎也は、靴を脱ぐ間も惜しんで麻美の寝室へと急いだ。「麻美、仕事が長引いて遅くなって悪かった。今日は結婚記念日だろ。君の好きなものを買ってきたから……」そう言いかけたが、すぐに彼は何かがおかしいと、直感的に思った。寝室には麻美の気配がなく、ただひんやりとした空気だけが体を駆け抜けていった。窓辺の観葉植物は世話をされずに枯れ、結婚式の記念写真があったはずの場所には何もなくなっていた。胸の奥がぽっかりと空いたように感じた、慎也はテーブルの上にあった診断書に目が留まった。そこには「佐々木麻美」、「交通事故」、「妊娠初期流産」の文字が記されていた。その瞬間彼の頭の中が真っ白になった。息を荒くして、慎也は思わず目を赤くした。結婚して3年、麻美は子供をとても欲しがっていた。そしてどれだけ辛くても彼女は諦めず、妊活を頑張ってきたことを思い出した。
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第12話

麻美はそのことを知っているのだろうか?ようやく授かった大切な命が、自分の決断によって奪われたということを。もしそれを知ったら、麻美は許してくれるのだろうか?込み上げる焦燥感を抑えきれず、慎也はガラスケースを素手で殴りつけた。すると、手から止めどなく血が溢れ出した。そして、持っていた診断書が真っ赤な血で赤く染まっていく中、慎也はあることを思い出し、彼はおぼつかない足取りで子供部屋へと走った。すると、かつて温かな光に包まれていたはずのその部屋は、今や見る影もなく荒れ果てていた。壁紙には墨汁が塗りたくられ、あちこちに砕け散ったスノードームや、散らばったベビーベッドやおもちゃ、そして冷めきった暖炉の中には焼き捨てられた服の残骸が……二人で大切に整えた思い出の場所の変わり果てた姿を目にして、慎也は胸のうちにチクチクとした痛みが駆け巡って、呼吸することさえ苦しくなるほどだった。まさか麻美が二人で夢見たこの子の未来をすべて木っ端みじんにするなんて、彼は想像もしていなかったから。「大丈夫だ、壊れても構わない。麻美との間にはきっとまた子供ができるはずだから」慎也は自分にそう言い聞かせ、息を深く吸い込むとなんとか気持ちを落ち着かせようとした。しかし、麻美と子供に対する罪悪感は止むことなく彼に押し寄せてくるのだった。この時彼はただ、麻美を見つけ出したい、その一心だった。その想いを胸に、慎也は震える手でスマホを取り出し、慣れた手つきで番号を入力した。「おかけになった電話は、電源が入っていないためかかりません……」だが、ガランとした家の中でただ機械的な音が鳴り響くだけだった。それでも諦めきれず、彼はダメ元でラインを開いた。すると、一向に返信がないから、彼はすぐにブロックされているのだと気が付いた。その事実に衝撃を受け、彼はまるで辺りの音がすべて遠ざかっていくように感じ、思わず体がグラついた。麻美の両親はもうこの世になく、実家があった場所も再開発でなくなっている。それなら、麻美はいったいどこへ行ったのだ?突然慎也は、自分が麻美のことを何一つ分かっていなかったという事実に直面した。友達のことや趣味、失踪してどこへ向かうのかすら知らない。唯一知っているのは、麻美が最近、デザイナーとして復帰したがっていたことくらいだった。し
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第13話

しかし現れたのは、慎也が期待していた姿ではなく、莉子だった。長年にわたる慎也の莉子への特別扱いは周知の事実であり、莉子が彼の家に何の前触れもなく上がり込んでも、家政婦や執事がそれを止めることはないのだ。一方、莉子は書斎にいる慎也を見つけるとすぐに顔を輝かせ、小走りで近づいていった。「慎也、ずっと待ってたのよ。どうしてまだ家にいるの?」莉子が話したかったのはバーテンダーの件だった。莉子が経営するレストランでトラブルがあった際、慎也は彼女を励ますために即座にその店でバーテンダーとして勤めることに同意していたのだ。それで、改装が終わればすぐにでもそこで働くと約束していたのだ。一方、莉子が書斎に入ってくるのをみた慎也は反射的に追い返そうとした。しかし莉子は、慎也の手にある離婚協議書を先に見つけてしまった。彼女はさらに目を輝かせると、途端にわざとらしい残念そうな表情を浮かべた。「麻美さんと離婚しちゃうの?こんなにも優しい慎也を、どうして大事にしないのかしら……本当に、酷いことするわね」そう言って、莉子は耳にかけた髪をかき上げ、甘えた声で慎也のために麻美を窘めた。それを聞いて、慎也は「違うんだ」と否定しかけた。麻美を傷つけたのは自分であり、それが原因で麻美は去ったのだと。しかし、目の前で煌びやかな笑みを浮かべる莉子を前にすると、その言葉はなぜか喉につかえて出てこなかった。自分がいったいどうしたのか分からなかった。あんなに好きだった莉子をようやく手に入れられるチャンスなのに。彼女の言葉に従ってやり直そうと言うべきなのに。しかし、頭をよぎるのは麻美をこれほどまで傷つけてきた無数の記録だ。息苦しさが胸を締め付けた。そう思って、慎也が言葉を飲み込んでいると、莉子は驚いたように声を上げた。「慎也、これ、まだ全部とっておいてくれたのね!」慎也はふと顔を上げた。書斎にある品々を改めて見る。そのすべてが、かつて莉子と関係したものだ。交際当時、莉子に本気だった慎也は、思い出の品をすべて手元に残していた。麻美と結婚してからもそれを処分することなく、書斎のようにして保管していたのだ。いつか莉子がこれを見て、自分の変わらぬ想いに気づいて戻ってきてくれたらと願っていた。しかし、その瞬間が現実となった今、なぜか沸き上がるのは喜びではなく、胸を切り裂か
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第14話

一方、慎也からすぐに返事をもらえなかった莉子は怒ることなく、むしろ慎也に、かつての約束を守って仕事に行くよう勧めた。こうして、慎也はぼんやりとしたまま、同意してしまった。そしてレストランに着くと、店内はすっかり改装されていた。以前、シャンデリアが落ちた場所もきれいに掃除されており、痕跡は一つ残されていなかった。莉子は莫大な費用をかけて根回しを済ませていたのだろう。しばらく休業していたこともあり、事故の影響が薄まって、多くの客が戻っていた。それからバーカウンターで、慎也は客の注文通りにカクテルを作っていた。彼はかつて莉子の一言でパイロットの道を歩み、また彼女のそんな店を持ちたいという理想に感化されて、独学でバーテンダーの技術まで習得したのだった。すらりとした指先でシェイカーを振るうその姿は、まるで一つのショーのように客の視線を集めた。それがまた、店の評判を呼んでいた。それを見た莉子は隣に座り、嬉しそうに慎也を褒めちぎった。「慎也、本当によかったわ。私の言ったことを全部覚えていてくれて。私たちにはまだ未来がある。ねえ、前の結婚は本当に地獄だった。絶望に沈んでいた時にようやく気づいたのよ。本当に大切にしてくれるのはあなただけだって……」そう言いながら莉子は艶めかしい視線を慎也に向けて、吐息混じりに囁いた。「慎也、あなたが今はまだ私と向き合えないのは知ってるわ。麻美さんのことがあるからね。でも、時間をかけて互いに歩み寄っていけばいいわ……」莉子が言葉を紡ぐ最中、突然「ドンッ」と大きな音がして、何かが崩れ落ちた。慎也は反射的に顔を上げた。そして胸に激しい動悸が駆け巡った。以前と同じ場所、同じはずのシャンデリアが、またしても地面に叩きつけられていた。すると、あの日、崩落したシャンデリアの下に麻美の裾が巻き込まれていたのを見たはずなのに、自分は助けに行かなかった……そんな嫌な記憶が蘇った。こうして、店内にまたしても悲鳴が響き渡った。これほどの事故が起きれば、食事を楽しむ余裕などあるはずもなく、スマホで撮影しながら、罵倒する客が続出していた。「ありえない!またこんな大きいのが落ちてきたのか!この店の安全性はどうなってるんだ!」「そういえば、前にも同じ事故があったよな。店主はちっとも懲りてないのかよ!また安物を使って手を
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第15話

こうして、ネットでも莉子のレストランが炎上し、そのあおりで慎也も佐々木家に呼び戻されるほどだった。これまで、慎也はパイロットとしてのキャリアを追うために実家と距離を置いていた。そして莉子を助けるため、重度の火傷を負い、パイロットの道を断念せざるを得なくなってしまったのだった。その後、佐々木家からは即座に帰宅を促された。承諾すれば、巨額の財産を継承し、将来も保証されるようになるはずだった。しかし、莉子に乞われた慎也は佐々木家の提案を拒絶し、自分はバーテンダーとして生きると告げた。だが、それから2ヶ月もしないうちに、皮肉にも慎也は佐々木家の本家で頭を下げていた。「お前は、とんでもないことをしでかした!以前から莉子はやめておけと忠告したはずだ。お前は耳を貸さず、あまつさえ他人の店のバーテンダーなどになり下がり、挙げ句の果てには杜撰な経営の店を庇ったそうじゃないか。それでこれ以上佐々木家の名を傷つけるつもりなのか!」そう言う、慎也の父親である佐々木史緒(ささき ふみお)の怒りは頂点に達していた。一方、慎也は何も言い返せなかった。麻美が去ってから、慎也の頭の中は霧に包まれたようだった。この時も莉子からの電話を無視し、彼は深々と頭をさげ謝罪し続けた。「これは俺の落ち度だ。責任を取って、跡継ぎの座から退くよ」だが、史緒も情をかけることはなく、その勢いで慎也の顔にビンタを食らわせると彼を佐々木家から勘当することに踏み切ったのだった。思いっきり殴られた慎也は顔を腫らせたまま口から血を吐いたが、史緒は誰一人として彼に構わせなかった。慎也も反論することなく、痛みに耐え、一歩ずつ足を引きずりながら屋敷を後にした。それから慎也が家に帰ると、莉子は慎也の姿を見るなり泣きついてきた。「慎也!どこに行ってたの?ネットで私を罵ってるネタが出回っているのよ。怖くて家からも出られないわ。でも、わざとやったわけじゃないのに!みんな意地悪すぎるわ。脅迫の画像まで送りつけてきて、おかしくなりそうよ。ねえ、あなたには佐々木家のバックがあるんでしょ?何とかしてよ!」莉子は目を赤くして泣きじゃくった。以前の慎也なら、愛しさのあまりそんなわがままもすべて甘んじて受け、彼女の望みを全て叶えていただろう。しかし今の慎也には、その姿を直視しても何の感情も湧かな
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第16話

莉子は文句を並べるばかりで、怪我の手当ても労いの言葉もなかった。彼女の頭にあるのは、自分の評判のことだけだ。そんな彼女を目の前にして、慎也はますます切ない気持ちになった。それに比べ、かつて、自分が少しでも傷を負えば、麻美はすぐに駆け寄り、病院へ連れていこうとしてくれたのだ。そして、家にもいつも常備薬を置いていた。突発的に起きた事件に対応できるように。だけど、莉子は、傷の手当どころか気にかけてあげることすらなかった。そう思って何か言おうとしたが、慎也は佐々木家の本家から戻ってきただけでもすべての精神力を使い果たしていた。もう限界だ、彼は顔面蒼白のまま、視界が真っ暗になり、その場に倒れ込んだ。気がつくと、病室の天井が目に映った。そしてざわつく音の方へ視線を向けると、そこでは莉子がカメラに向かってライブ配信をしていた。莉子はレンズ越しに、瞳を潤ませながら訴えかけていた。「みんなさん、聞いてください。うちのレストランが不評なのは知ってます。食材の質が悪いとか、高いだけとか……特にシャンデリアの落下事故については。でもね、あれは人為的な嫌がらせなのですよ!」そう言って莉子が取り出したのは、慎也と麻美の離婚協議書だった。それを見て慎也は病室から飛び出して、何とか状況を止めようと試みた。しかし、莉子の言葉はもっと早かった。「レストランを陥れたのは、慎也の元妻の麻美さんです。慎也は彼女を愛しておらず、本当は穏便に別れて私と一緒になるはずだったんだけど、彼女が腹いせに私のレストランの工事に工作をしたのです。開店初日に起きた事故も、麻美さんが仕組んだことでした!私に復讐するためにこんなことをしたのでしょう……でも、もう二人は正式に離婚済みです。慎也は私と一緒になるために、佐々木グループの跡取りの身分さえ捨てたのよ。だからお願い、私たちを信じてください」こうして莉子は精一杯の感情を振り絞って配信を終わらせた。一方で体を引きずって出てきた、慎也は莉子からその離婚協議書をガバッと奪い返した。そして、彼女が配信で話したあまりにもデタラメすぎる内容に、慎也は怒りを爆発させた。「なぜこんな嘘をつくんだ!レストランの事故は麻美のせいじゃない、麻美はずっと前にここから離れているんだから、そんなことできるわけがないだろ!」しかし、怒鳴る慎也に対し、
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第17話

その疑問を胸に慎也は、麻美が去ってからの日々を思い返した。すると、莉子が隣にいても心が満たされることはなく、逆に莉子の悪どい画策に嫌気をさしていた。そう考えれば考えるほど、麻美のことで頭がいっぱいになっていた。共に暮らしていた頃、彼女の優しい気遣いや、寝顔で見せたあどけない表情を思い出すと、慎也の胸が高鳴った。何かに気づいたように、彼は次第に過去の記憶に引き込まれていった。だが、麻美はもういない。慎也は不意に胸を押さえると、そこには引き裂かれるような痛みが走った。彼はようやく悟った。自分はずっと前から、麻美を愛してしまったのだと。そして今沈黙を貫く慎也の表情が、莉子が口にした真実のすべてを物語っていたようだった。それを見た莉子は不満が募り、次第に疑いが深まっていき、ついに激昂した。自分を愛し続けていた男が心変わりし、しかも自分が見下していたはずの麻美に惹かれてしまったなど、莉子にとって断じて許せないことだった。すると、莉子は感情を制御できず、ヒステリックに叫んだ。「愛しているのは私だけって言ったじゃない?今更どういうつもり?あの女が好きになったの?答えてよ!」莉子の問い詰める声に、慎也は頭が混乱し、何も答えられなかった。莉子はこれまで慎也の愛を一身に受けてきただけに、冷遇されるとその原因である麻美をますます憎んだ。そして彼女は怒りに任せて手近な物を投げつけ、その大きな物音に、立ち去りかけていたメディア関係者が踵を返して戻ってきた。彼らはカメラを掲げ、マイクを突きつけて一斉に質問を浴びせた。「どういうことでしょうか?和田さんは佐々木さんと麻美さんに愛情はないとおっしゃっていましたが?」「今のはすべて嘘なのですか?佐々木さん、納得のいく説明をお願いします」「佐々木さん、あなたは和田さんが言うように、本当に麻美さんを少しも愛していないのですか?」そしてカメラはどんどん近づき、メディアから莉子に詰め寄る質問も容赦なく彼女に迫った。もしここで麻美を愛していると認めれば、莉子の名声は完全に崩壊する。しかし、理不尽に追い込まれた麻美を思い、慎也は強く拳を握りしめた。我慢が限界に至り、慎也の莉子を見る目から愛は消え去り、今となってはわがままで独りよがりなこの女のために麻美を追い詰めた自分の行動が、全く理解で
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第18話

一方、慎也と別れてから、麻美は深津市で新しい生活を始めていた。深津市に着いてすぐ、夏帆がメンバーを連れて出迎えにきた。彼らは誰もが夢を語り、瞳をキラキラさせていた。麻美は、もし慎也と結婚していなければ、自分もこんな風に輝かしい未来に向かって駆け出していたのだろうと思った。そしてその日は皆で食事をした後、休む間もなく仕事に取りかかった。立ち上げたばかりの事務所は、何から何まで手探りだ。場所探し、内装、登記、採用……ゼロから何かを作るのは簡単じゃない。それでも麻美は一つ一つ慎重に進めていった。忙しい日々に追われるうち、彼女は慎也のことを考える間もなくなっていた。こうして、数ヶ月の猛烈な仕事の末、事務所はやっと形を成した。屋号を決める時、麻美は少し考えて「イナホ・デザイン」と決めた。彼女はこの事務所に自分のこれからの人生への期待を込めていたのだった。将来は必ず、自身とともに事務所も輝かしく成長していくのだろう。それに対して夏帆もこころから、成功を祝ってくれた。この再出発は、麻美の人生に新たな命を吹き込んでくれた。こうして、麻美はわずかな仲間と共にデザインの世界へ飛び込んだ。最初は本当に過酷だった。仕事も貰えず、信用も無かった。一番苦しい時期はパン一つを分け合うほどだった。それでも、みんなの夢が詰まった場所だから、麻美は何としてもやり抜くつもりで踏ん張ったのだった。そして努力が報われ、満足のいく作品を世に出した時、イナホ・デザインは軌道に乗り始めた。さらにその勢いに乗り、麻美たちは自らの評判を確実なものにしていった。次第にイナホ・デザインの名は深津市で広がっていった。デザイン業界に関わる者なら誰もがその実力を知るようになり、大きな案件を任されるようになった。「また一つ、億単位のプロジェクトが無事終わったわね。乾杯!」スタジオの中で、麻美は笑顔でグラスを掲げた。「乾杯!麻美さんの腕は本当に最高です!」「そうです。でも、翼さんのサポートもあってこその成功ですね。これからもいろいろと教えてください」「お二人のコンビはまさに無敵ですね!」こうして皆が声を揃えてグラスを合わせた。一方、話題の中心にいた望月翼(もちづき つばさ)は控えめに笑い、ずっと麻美のことを見つめていた。「いや。やっぱり麻美の実力のおかげで
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第19話

お酒もほどほどに進んだところ、麻美は2階のテラスで夜風に当たっていた。少し酔ってはいるが、気分は晴れやかだ。慎也のもとを去って2年。自分はもはや、あの頃の苦しみから抜け出し、過去に縛られることもなくなった。もう慎也のために自分を失い、悲しむこともなくなったのだ。心地よい夜風に吹かれ、髪を靡かせながら佇む彼女の姿はまるで一枚の絵のようだった。そこへ、誰かがそっとやってきて、隣の欄干に身を預けた。「一人でここにいたの?みんなが探してたんだよ」と翼が声をかけてきた。「少し風に当たりたくて。なんだかすべてが夢みたいで、私たちが本当にここまでやってこれたなんてね」麻美は細めた瞳に、微かな笑みを浮かべていた。「そうだね。僕たちは成し遂げたんだ」麻美を見て、翼もつられて笑った。2年前、麻美と夏帆が立ち上げた事務所の一番重要な局面を迎える時に誘ってくれた。当時、麻美の名前は聞いていたが、あの時はこんな小さな事務所が業界大手になるなんて想像もしていなかった。けれど、麻美の真っすぐな瞳と熱意を前に、翼は断れなかった。そして、イナホ・デザインのメンバーとなった彼は、麻美のその強烈な情熱を間近で感じることができた。麻美は仕事に命をかけていた。ほんの少しのデザインの修正にも納得するまでこだわり、何日も徹夜を繰り返して完璧を目指した。いつから麻美に惹かれていたんだろう?最初の大きな契約をとった時か?初めて認めてもらえた瞬間?それとも喜びのあまり抱き合ったあの日か?翼がその感情に気づいた時には、既に麻美のために胸をときめかせるようになっていた。麻美の過去を知っているからこそ、翼はあせらず、彼女をサポートしていこうと決めたのだ。麻美の準備ができるその時まで陰ながら支えようと。自分たちには、まだたくさんの時間が残されている。翼は煌めく星空を見上げたが、それも麻美の瞳の輝きにはかなわないと思った。その想いを胸に翼が笑みを浮かべながら風に髪を揺らす麻美を見つめていると、遠くの湖面に広がる波紋のように、彼の胸の鼓動も次第に大きくなっていった。支え合っているうちに互いの気持ちは音もなく近づいていくものだ。そして、夜も深まり冷えてきた頃、翼は麻美を支えて階下へと降りた。スタジオには、夜遅くまで仕事をする人が休息を取れるよう、宿泊できる
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第20話

そこで、麻美は涼しい顔でそのインタビューを観ていた。内容はほとんどイナホ・デザインの作品についてで、麻美としての素性や、慎也との関係に触れる部分はほんの一部だった。インタビュー公開後、ネットで少し話題にはなったが、麻美は軽くチェックしただけで興味を失った。麻美が退屈そうにしているのを察したのか、翼が近づいてきた。彼は一枚の招待状を手に持ち、麻美の目の前でひらひらと揺らしてみせた。読み通り、麻美の目が瞬時に輝きを放った。「あれなの?」すると、翼は得意げに微笑んだ。「その通り。今日の朝届いたばかりなんだ」麻美はすぐにそれを受け取り、嬉しさのあまり招待状を掲げてくるくるとその場で回った。これはデザイン業界への登竜門となるイベントへの切符だ。そこには業界の権威だけでなく、各地から名だたるコレクターや実業家も集まる。イナホ・デザインの名がようやく業界に轟いた今こそ長年の夢をようやく成し遂げられそうだ。「よかった、翼!」麻美は感激のあまり翼に飛びつき、力いっぱい抱きしめた。それは麻美がずっと待ち焦がれていた瞬間だった。一人で必死にもがき、一から始めた日から、仲間と共に努力を重ねた今日まで。ついに実力で認められる時がきた。麻美の瞳が涙で潤んだ。学生時代にもチャンスはあったが、慎也と結婚したことで諦めなければならなかった。何年も経ってゼロからやり直し、数々の困難を乗り越えてようやく光が見えたのだ。「ありがとう、翼……」麻美は言い切れないほどの感謝に溢れていた。自分の成功は一人だけの力じゃない。夏帆からの誘いや、翼の加入、みんなの努力がなければとうに失敗していただろう。一方、翼は麻美の背中を優しく叩いた。「麻美の実力さ。本当にすごいよ」翼は麻美の頑張りを見てきた。最後まで諦めなかったのは麻美自身だ。自分はただ、麻美に引き寄せられ、そんな眩く輝く光を纏う彼女を追いかけて突き進んできただけだから。それから、二人は顔を見合わせ微笑んだ。この時二人は言葉を交わさずとも、互いの心は通じ合っていた。その後、麻美は早速夏帆にこの朗報を伝えたが、残念ながら夏帆は事務所の切り盛りで忙しく、この宴会には参加できないとのことだった。他のメンバーにも確認したが皆時間が取れず、結局麻美と翼の二人で参加することになった。その日、麻美と翼はそ
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