Semua Bab 妹を殺された兄が、偽りの聖女候補になって王弟に溺愛されるまで~妹を殺した奴らに、ハッピーエンドなど与えない~: Bab 11 - Bab 20

49 Bab

第11話 聖なる欺瞞

 次に俺が接触したのは、大神官セドリック=ヴァレンツィアだった。 神殿の奥にある彼の執務室は、昼間であるにもかかわらず薄暗く、窓からの光すら届かない。 香炉から立ち上る甘い香りが部屋中に漂っており、それはまるで――腐臭を覆い隠すための過剰な香水のようだった。 俺が部屋に入るがセドリックは椅子から動かず、細く白い指先を軽く持ち上げ、歓迎の意を示した。 その指は、祈りを捧げるためのものではない。遠く離れた場所から、まるで人形の糸を操る操り師の手に見えた。「アリス様。ようこそ……まさか貴女から直接お声がけいただけるとは光栄の極みでございます」 声音も言葉も、完璧に整えられた芝居のような台詞。そして仮面のような微笑み――だが、その瞳の奥に宿るのは、冷たい打算と鑑定眼。 彼は、俺を【聖女】として見ていない。 器の価値を計る商人のように、その目は値踏みしていた。「……こんにちは、セドリック様」 とりあえず俺は一礼し、案内された場所に座った後、すぐさま口を開いた。「……セドリック殿。単刀直入にお伺いします。あなたは様がリリスを……ねえさまを【導いた】のですか?」 聖女候補としての柔らかな微笑みを浮かべたまま、俺はその名を刃にして突き立てた。 その瞬間、セドリックの笑みが――ほんの一瞬だけ、硬直するが、それもすぐに仮面の奥へと沈んだ。 ……揺らいだ。 この男は、この件について嘘を抱えている。「……ああ、リリス様……ええ、私も彼女に神の教えを説きました。ですが――彼女は神の選定を乗り越えることができなかった。残念なことです」「神の……選定、ですか」 その言葉に、胸の奥で怒りが音を立てて燃え上がるのを感じてくる。 妹の死を、あまりにも冷たく、あっさりと語る。まるでそれが、自然淘汰であったかのように。
Baca selengkapnya

第12話 沈黙の画家

 次に俺が向かったのは、宮廷画家エミリオ=レイモンドの画室だった。 王宮の北東、他の部屋とは隔絶されたその一角は、外界から切り離された別世界のような空気を纏っていた。 一歩足を踏み入れた瞬間、絵具と油の匂いが鼻をつく。それは生の躍動ではなく、乾ききった死体のように冷たく、どこか無機質な匂いだった。 エミリオは、大きなキャンバスに向かって、夢中で筆を走らせていた。 俺が部屋に入っても、振り返ることすらしない。 その背中からは、常軌を逸した【没入】の気配が濃く立ち上っていた。まるで、描くという行為だけが、彼をこの現実に繋ぎ止めている唯一の鎖であるかのように。「こんにちは、エミリオ様」「……」「その……エミリオ様。私の肖像画を描いていただけると伺いました」 そう声をかけた瞬間、彼はゆっくりと振り返った。 金茶の瞳が、昼間よりもさらに爛々と輝いていた。 まるで、獲物を見つけたばかりの獣のように獰猛で熱に浮かされた光だった。「……ああ、アリス様!どうか、こちらへ。お座りください」 その声は興奮に震え、頬に浮かんだ朱が彼の陶酔を物語っていた。 俺は促されるまま椅子に腰を下ろし、彼の正面に向かい合う。 傍らにはもう一つのイーゼルが立てかけられている。 そこに描かれていたのは、妹・リリスの肖像だった。 遠くを見つめるような、寂しげな微笑。 無邪気さよりも、どこか諦めと静けさを湛えた表情が、絵具の層に深く沈んでいる。 完成まで、あと一筆――だが、筆は止まったままだ。 その中断の気配は、偶然ではない。まるで、命の灯が途絶えた【その瞬間】で、絵もまた息を引き取ったかのように。「……彼女の面影が、まだ……消えないんです」 エミリオは囁くように言い、そっとその絵に手を伸ばす。 白い指先がリリスの頬をなぞる様は、まるで生者に触れるようで――いや、むしろ死者
Baca selengkapnya

第13話 政略の王子

 次に俺が対面したのは、この国の王太子――ユディス=ロレンツォだった。 玉座の間にほど近い、王太子の私室。 重厚な扉が開かれた瞬間、書物と古書の匂いが鼻をついた。 それは、この国の歴史と、権力の変遷が積み重ねられた【匂い】。 だが、その空気の奥底にあるのは、確かな冷たさだった。 故郷の砦にはなかった、理性という名の支配――それが、この部屋には満ちていた。 ユディスは、窓辺の椅子に腰かけ、分厚い本に目を落としていた。姿勢は隙なく整えられ、一分の乱れもない。まるで一枚の完成された肖像画。 けれど、その完璧さの裏にある【冷えきった心】を、俺は直感していた。 彼は、クララとの婚約を控えた王太子。 そして聖女候補という存在を、ただの【政治的道具】として扱う男だ。「……どうぞおかけください。アリス」 俺が声をかける前に、彼は視線を本から移し、静かに促した。 その声は淡々としていて、まるで人間の感情を模した機械のようだった。 感情の抑制ではない。最初から、感情を必要としていない声。 それは、人を【個】として扱わない者の声だ。 俺は彼の向かいに座り、聖女候補としての微笑みを浮かべた。リリスがよく浮かべていた、あの無垢な笑みをなぞるように。「王太子殿下が、わたくしのような者にご関心をお持ちとは……光栄にございます」 だがユディスの瞳は、俺の表情にも、言葉にも揺れなかった。彼の視線は目の前の人物を【観察対象】として扱う、それだけの光だ。「関心ではありませんよ……価値を見極めるために、会話を交わすだけです。あなたがこの国の行く末に影響を与える存在であるならば――その重さを計る必要がある」 彼は本を閉じ、真正面から俺を見つめた。 その瞳には、一切の感情がない。 まるで数字や構造物を見るかのように【|俺《アリス》】という存在の構成を分析している。「貴女は、元聖女・リリスの代わりだと聞いています。神殿はそう説明している
Baca selengkapnya

第14話 見据える瞳

 王宮の回廊には、夜の静寂が深く満ちていた。 謁見も儀式も終わり、人々がそれぞれの私室へと戻る時刻。昼の喧騒が嘘のように、神殿からは人の気配が消え去っていた。 石造りの廊下に、俺の靴音だけが孤独に響く。 【聖女候補アリス】としての滞在初日――ユディスとの面会を終え、ようやく一息つけるはずだった。だが、その背後から、不意に低く鋭い声が投げかけられる。「……アリス嬢。少しよろしいか?」 振り返ると、闇の中に佇む男の姿。 王弟殿下である――ルーカス。 漆黒の服は夜に溶け、まるで影そのもののように気配を殺していた。 昼間、彼がまだ【貴族らしさ】を装っていたとするなら――いま目の前にいるこの男は、まるで獣だ。剥き出しの本性を、何の迷いもなく露わにしている。「えっと、あの……」「……」 彼は笑いながら軽く手招きをした後、そのまま無言で歩き出す。返答の隙を与えぬまま。 それは誘いではなく、明確な【命令】に感じた俺は一拍遅れて、静かにその背中を追った。 辿り着いたのは、月光に濡れる中庭だった。夜露に覆われた草花が、銀の粉をまとったように淡く光っている。 ユリウスやセドリックが俺に抱いていたのは、あくまで【聖女候補の一人、アリス】という外面への敬意。 だが、この男だけは最初から――俺の内側を見ようとしてくる。「……この庭はな、王族ですら滅多に足を踏み入れぬ場所なんだ」 ルーカスは空を仰ぎ、月を見上げながらぽつりと呟く。「夜風と沈黙の中で話すには、ちょうど良い」 そして、静かに視線を戻す。 その目は――獲物を追い詰める狩人の目だった。「……殿下はその、わたしに何かご用件を?」 俺は微笑を崩さずに応じる。 穏やかで柔らかく、何も知らない無垢な【聖女】としての仮面を被ったまま。しかしルーカスは、その問いには答えず――ただ、じっと俺の右目
Baca selengkapnya

第15話 王弟の執着

 王宮での夜会は、社交という名の化け物だった。  きらびやかな光、絢爛な衣装。祝福の仮面を被った、毒の香り。貴族たちの笑い声は甘く――だが、吐き気を催すほど粘ついていた。  それは、人間の欲望を煮詰めて香水にしたような匂い――グラスの氷がカランと鳴り、軽薄な讃美の囁きが耳を撫でる。  遠くから聞こえるワルツの旋律――その全てが、俺の心を静かに、冷たく、無機質に染めていく。  俺はその中心で、聖女候補の一人、【アリス】として、完璧な微笑を浮かべていた。  身に纏う純白のドレスは、穢れなき聖性の象徴――だがそれは、最も巧妙な偽装だ。  完璧なほどに作り込まれたその姿が、俺自身の内側をどこまでも冷たく、孤独にしていく。  ユリウス、セドリック、ユディス、そしてエミリオ――彼らは順に、俺のもとへと歩み寄ってきた。  言葉、視線、仕草、そのすべてが、俺にとっては復讐の材料に過ぎない。  ユリウスは、今にも俺の足元に跪きそうなほど肩を落とし、後悔の色を滲ませていた。  騎士としての誇りよりも、護れなかったという罪悪感が、彼の背骨を蝕んでいる。  その揺れる瞳を、俺は冷徹に観察した。  セドリックは、甘い声で信仰を語る。  だがその言葉には、よく調合された毒が混ざっていた。  彼の口から紡がれるのは、俺の存在を【神の選抜】として肯定しながら――同時に【リリスではなかった】事を優しく、そして容赦なく突きつけてくる台詞だった。  最も悪辣な毒は、いつだって【善意】の顔をして迫るものだ。  ユディスは冷徹だった。  打算を隠そうともせず、聖女を王族に迎える【意味】を淡々と語る。  その目に映るのは、俺ではない。国家、数字、血統といった【価値】のみ。まるで俺が、一枚の証書か何かであるかのようだった。  そして、エミリオ。  彼の視線だけは、生理的な嫌悪を覚えるほど、ねっとりとしていた。  俺の右目を貪るように見つめ、そこにリリスの幻影を重ねている。  その眼差しは、哀悼ではなく――執着だ。彼の【愛】は死者を抱き続ける者の、それに近い呪いだ。  彼らの言葉は
Baca selengkapnya

第16話 嘘の重さと、本音の軽さ

 ――この城では、どこにいても、視線を感じる。 廊下を歩けば侍女たちが顔を伏せてひそひそと囁き、庭を散歩すれば遠くの窓辺から貴族たちが好奇の目を向けてくる。 それは、聖女候補という【特別な存在】である事の代償――表向きには、そう見えるのだろう。 けれど、俺が感じているのは、そんな無邪気な好奇心ではない。 背中に常に突き刺さるような気配がある。呼吸の隙間すら覗かれるような、冷え冷えとした監視の目。 その視線には熱も感情もなく、ただ淡々と、俺の行動をなぞってくる。 それは、まるで――生き物を観察する実験者のようだ。 きっとそれは、ルーカスが【護衛】と称して配置した配下たち。 彼らは、俺がどこへ行こうと、誰と話そうと、その一挙手一投足を記録して、そして報告している。 ――【護衛】などという言葉は、ただの飾りに過ぎない。 朝、窓を開ければ、庭の茂みに隠れた兵の姿がある。 夜、寝台に身を横たえれば、扉の向こうから気配が滲んでくる。 この城の中に、逃げ場はない。 光を纏った【顔】をした、檻の中に閉じ込められている。 まるで、綺麗に磨かれた鳥籠の中で自由を与えられたふりをして生きる鳥のように。 ――俺は、その息苦しさに、もう慣れてしまっていた。 いや、慣れるしかなかった。 けれど、沈黙に耐えるたび、心はゆっくりと削れていく。 信じられるものなど、この城にはない。 ユリウスは、妹を護れなかった罪を胸に抱いている。 その罪悪感は、利用できる【弱点】だ。 セドリックは、偽りの信仰を甘く囁き続ける。 その聖職者としての顔は、ただの仮面に過ぎない。 ユディスは冷徹な計算で俺に近づき、エミリオは、死んだはずの妹に執着する狂気を、瞳の奥に宿していた。 彼らが見ているのは、俺の作り上げた【アリス】という幻想。禁術を使って【妹の姿】をなぞった器に過ぎない存在――そこにしか彼らの興味はない。 その奥にある、俺という人間、【ヨシュア】を見ようとする者は誰もいない。 
Baca selengkapnya

第17話 誰が、彼女を殺したのか?

 書き物机に散らされた証言記録と報告書の束を前に、俺は静かに息を吐いた。  冷え切った紙の匂いが、吐息とともに喉の奥から肺へと押し戻される。  この数週間、俺が個別に接触した男たちの証言が、それぞれ紙片に記されていた。  それらは、単なる文字の羅列ではない。嘘と隠蔽、そして罪悪感という名の重みが一枚一枚の紙に染みついているかのようだった。  机上に並ぶ名を再度見つめる。 ――神殿騎士団長・ユリウス。  ――宮廷画家・エミリオ。  ――大神官・セドリック。  ――王太子・ユディス。 彼らは皆、この【物語】の中心にいる。  それぞれの紙には、リリスが死んだ日について語った内容が淡々とした筆致で記されていた。  まるで、事前に打ち合わせでもしていたかのように、彼らの証言には無駄がなかった。だからこそ、それは不自然に思える。  俺は一枚ずつ紙を指でなぞりながら、静かに読み上げる。「『リリス様は、あの日の朝、確かに神殿にいらっしゃいました。しかしその後は姿を見ておりません』……これはユリウスの証言」 軍人らしく、無駄のない、簡潔な言葉。  その中に、余計な情報を与えまいとする警戒心が滲んでいる。  彼は明らかに何かを【隠して】いた。  目を細め、次の紙へと視線を移す。「セドリックは……『夕方、祈祷の場で彼女に会った。神の声を聞きたいと、瞑想していた』」 首を小さく傾げる――朝に姿を消したのなら、なぜ夕方に祈祷の場にいたという話になる?  そして、なぜ【聖職者】である二人の証言が、ここまで食い違っている?  ユリウスとセドリックは旧知の仲で、神殿内の動きを把握しているはずだった。  にもかかわらず、その日だけは互いの記憶が完全にズレている。  偶然とは、思えなかった。「……故意か、無意識か。どちらにしても、これは【嘘】だ」 低く漏らした声が、書斎の静寂に染み渡る。  ユリウスは、リリスが神殿にいたことを知っている――だが、それ以降を語
Baca selengkapnya

第18話 壊れゆく仮面

 天井には星を模した光が揺れ、静かな旋律が舞踏会の空気を染めている。それは、現実から切り離された幻想的な舞台のように見えてしまったのは気のせいだろうか? だがこのきらびやかな装飾も、虚栄と醜い欲望を覆い隠すための薄い膜に過ぎない。 王城の奥――誰もが踏み入れぬ、特別な夜会の会場。 そこは開催されていたのは仮面舞踏会。表情を隠し、本音を覆うために仮面が許される場所。 【アリス】としてそこに立っていた。 絹のような濃藍のドレスは、夜空の色をそのまま閉じ込めたかのように。華奢に整えられた身体には異質なまでに馴染まぬその衣装が、冷たく肌に張りついている。 胸元には、祝福の紋章を象った銀の刺繍。長く伸ばした銀髪は夜会用に緩く巻かれ、仮面の奥からは琥珀の瞳が覗く。(……胸が、少しきつい) 姿形はアリスに似ているのだが、性別は変えられない。少しだけ胸を見せるようにしないといけないと頑張った結果、呼吸が少ししづらい感じになってしまった。 自分自身に呆れながらも、俺は視線を向ける。 その視線の先――仮面を纏ったルーカスが立っていた。 彼の仮面は、黒曜石のように光を吸い込み、表情を完全に隠している。しかしその奥、金の瞳だけが俺を、ただ俺だけを見つめていた。 その視線は、他の誰とも違う――【聖女】という偶像を崇めるものではなく、その内側――【真実】だけを、剥き出しの刃のように見つめている。 この仮面舞踏会に来るのは初めてだ。 そして目の前の男――ルーカスに、招かれた。 あの男がわざわざ誘ってきたことには、きっと理由がある。俺はその意図を探るため、あえて誘いに乗った。「来てくれて光栄だよ。アリス」 その声は軽やかでありながら、どこか芯に熱を含んでいるように感じながら――相変わらず、きな臭い男だ。 社交辞令ではないのであろうと感じながら、俺は静かに一礼する。「……招待を断る自由があれば、良かったのですが」 ヨシュアはそう返しつつも、仮面の下の表情は見せぬまま、差し
Baca selengkapnya

第19話 一つの嘘

 天井まで届く書架の森は、昼間でさえ薄暗い。 そこは、ひっそりと息を潜める場所。俺は気配を押し殺して、侵入していた。 王城の奥深くに長らく使われていない、古びた図書室――静寂だけが満ちる空間で俺は埃をかぶった羊皮紙の束を黙々とめくっていた。 神殿の儀式記録。聖女の任命文書。そして、古い手記――それらはこの歪んだ世界の真実を暴くための、わずかな手がかりだ。 そして、その中に――明らかな違和感を放つ一冊を見つけた。「……この字……」 小さな帳面――紙質は異様に良く、王城に収蔵されている他の資料とは明らかに異なる。 筆跡を見た瞬間、指先が止まってしまった心臓が静かに跳ね、呼吸が浅くなる。「……りり、す」 それは――リリスの字だった。 ――セドリックは、聖女を信じていない。 ――あの人の言葉には、いつも底が見えない。 ――私が私であるうちに、本当の神に祈りたい。 ――兄さま、ごめんなさい。 走り書きの文字は滲み、インクのかすれは乱れ、ページの端は小さく折れている。 書かれたのは、きっと――最後の数日。彼女が恐れを抱きながらも、何かを信じようとしていた、その痕跡。 そして、俺の謝罪が最後の文章だ。「リリス……お前……」 喉の奥から、思わず声が漏れる。一瞬だけ俺は【兄】としての顔を見せてしまった。 怒りか。悔しさか。それとも、ただの哀しみか。 もはや、自分でも識別できなかった。 ただ――彼女の遺言めいた言葉が、心に刺さって抜けない。 ――セドリックは、聖女を信じていない。 ならば、なぜ彼は【|クララ《聖女》】を担ぎ上げたのか? 【真の聖女】とは誰で、誰がそれを捨てたのか?(……この手記が真実であるのなら、セドリックは神に仕える者ではない……)
Baca selengkapnya

第20話 嘗ての面影を思い出す【ルーカス視点】

 彼女が図書室から飛び出していった瞬間、空気が変わり、まるで薄い氷がひび割れる音を聞いたようだった。 獲物が罠に気づいたのだ。 その小さな背中が、恐怖に満ちた何かから逃げるように遠ざかっていく。 ――その【何か】が、自分自身であることに、俺は笑みを浮かべた。 口の端が冷たく引きつる。 皮膚の下で、熱いものがじりじりと滲んでくる。 動かない。俺はただ、その場に立ち尽くしていた。 焦る必要など、ない。すでに、仮面の裏側はほんの少し覗けたのだから。 静寂の中に、アリスの気配が残っている。肌に触れるような呼気の温度。ページをめくる指の震え。そして冷たく濁った水の底に沈めた本音――ようやく、ここまで来た。 ふと、机の端に一枚、置き去りにされた紙片があった。それは羊皮紙の断片。 見るからに異質な質感に見える。そして、この図書室のものではない。 彼女が必死に隠そうとしていた【答え】が、こんなにも無防備に残されている。 静かに手に取る。触れた指先に、かすかに震えが走った。 ――セドリックは、聖女を信じていない。 震える筆致に力なく滲んだインク。 最後の意志を絞るように書かれた、少女の告白。 ――リリス。 俺は、その名を心の奥で呟いた。 記憶の底から、ひとつの光景がゆっくりと浮かび上がってくる。 十数年前の謁見の間。 あれは、葬儀だった。 正装に身を包んだ少年が、母の死を前に、一言も発せずに立っており、そして右目を大きな包帯で覆いながら、それでもこちらを睨みつけていた。 痛々しく、そして、異様なほど強い目だった。泣きもせず、怯えもせず――ただ、怒りを滲ませて。(あの少年の名前は確か……ヨシュア……ヨシュア・グレイヴ) 思い出した途端、掌の中の紙片が熱を帯びる。 熱い――まるで、心臓を握られているようだった。 ――仮面舞踏会の夜、仄かに覗いたアリスの右目。
Baca selengkapnya
Sebelumnya
12345
Pindai kode untuk membaca di Aplikasi
DMCA.com Protection Status