Semua Bab 妹を殺された兄が、偽りの聖女候補になって王弟に溺愛されるまで~妹を殺した奴らに、ハッピーエンドなど与えない~: Bab 21 - Bab 30

49 Bab

第21話 ヒロインは私なのに!?【クララ視点】

 図書室は、まるで死んだように静かだった。 書架が幾重にも連なるその空間には、時間さえ入り込むことを拒んでいるような、ひどく密閉された沈黙が満ちていた。 誰もが忘れた王城の奥、埃をかぶった本と使われなくなった椅子と、かすれた蝋燭の香り。 そういうものだけが、黙って生き残っている。 その中に、一つだけ異物がいた。 ――アリス。 私は、書架の陰から彼女を見ていた。 息を潜め、音を立てないように、心臓の鼓動すら殺して。 遠目からでも、あの女が誰よりも【浮いて】いるのが分かる。 あまりにも美しすぎて、完璧すぎて。そこにあるだけで、まるで異界から召喚された幻影のように見える。 けれど私は知ってる。あの完璧さは偽物だ――あの髪も、繊細な指先も、柔らかな微笑みも、全部、誰かを騙すために貼りつけた仮面にすぎない。(……そう、アリス……あなたは……おかしいのよ) 彼女は静かに本を捲っていた。慎重に、けれど熱を孕んで。 まるで文字の中にだけ自分の居場所があるかのように。普通の貴族令嬢なら、そんなふうに文字を漁ったりしない。聖女候補なら尚更だ。 誰かに美しく見られること、誰かに愛されること、それだけが私たちの価値だと、みんな知っているのに――彼女は違う。欲望を装いもせず、愛されることにも興味がない。 その背は、美しくもあり、怖ろしくもあった。 得体の知れない闇を背負っているようで……それが、私にはどうしようもなく、許せなかった。(おかしい、おかしい、おかしい……) アリス――そんなキャラ、この物語には存在しない。 私は全部覚えてる。 この世界は乙女ゲーム。 攻略対象は四人、ヒロインは私、ユリウス様、セドリック様、エミリオ様、ユディス様……私の選んだルートで、物語は進む。 誰がどこで何を言って、どんなエンディングに辿り着くのか、全部
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第22話 ベールの下の焔

 天井に星を模した灯が揺れ、静かな旋律が舞踏会の空気を満たしている。 王城の奥、限られた者しか踏み入れぬ特別な夜会――そこは、祝福などとは程遠い、甘く重い毒の香りに満ちていた。 グラスの氷がカランと鳴る音、軽薄な讃美の囁き、そして遠くで鳴り響くワルツの旋律――そのすべてが、俺の心を冷たく、無機質に染め上げていく。 俺は、【アリス】として、その場に立っていた。 逃げ場など、最初からなかった。 身に纏う純白のドレスも【聖女】という名の仮面も、全てがこの夜のために用意された舞台衣装にすぎない。 右目にだけかぶせた白いベールは、ただの装飾ではない。妹を護ろうとして負った火傷――決して癒えぬ過去を、今も覆い隠すための布だ。 巻かれた銀髪の奥、琥珀色の瞳で、俺は冷静に周囲を観察していた。(……さて、誰から動く?) 最初に近づいてきたのは、ユリウスだった。「……アリス様、本日はお美しい。まるで月下の加護そのもののようだ」 酷く気弱な声で声をかけてきたので振り向くと、彼は騎士としての矜持を忘れたように背を丸め、視線すら合わせてこない。 まるで俺という存在を通して、過去の幻影――リリスを見ているかのようだ。「ありがとうございます、ユリウス様……けれど、わたしなど、ただ選ばれただけの器にすぎません」 俺は穏やかに微笑みながらも、彼の瞳の奥を見つめていた。 そこにあるのは、後悔。罪悪感。そして言葉にされることのない懺悔。それら全てが俺の復讐の火種となる。 次に現れたのは、セドリック。「こんばんは、アリス様。今日のあなたは……まさに神々しいですね……貴女の周囲を、祝福が柔らかく包んでいるように感じます」「ふふ、口がお上手ですねセドリック様。ありがとうございます」「……まるで神が、貴女の存在を祝福しているようだ」 セドリックは柔らかな微笑みをして
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第23話 炎の痣【ルーカス視点】

 夜の帳に包まれた王城の庭園は、昼の喧騒が嘘のように静まり返っていた。 アリスと別れてから、すでに三十分ほどが経っていただろうか。セドリックとは結局何の話もせずに形式的な挨拶を交わしただけで、その場を離れた。 遠くで響く夜会の音楽は、まるで別の世界の出来事のように思える。 石造りのバルコニー、その冷たい床に俺はひとり腰を下ろしていた。 人払いを済ませたこの場所は、思考を巡らせるにはちょうどいい。冷えた夜風が頬を撫で、胸の奥に澱のように溜まった感情をゆっくりと解きほぐしていく。 ――ふと、背後に気配を感じた。 警戒すべき相手ではない。そう、身体が告げていた。 振り返れば、そこに立っていたのは――【アリス】だ。 舞踏会の華やかさとは不釣り合いな、静かな気配を纏っているかのように、静かに立っていた。 純白のドレスも、煌めく宝石も、彼女の存在感の前ではただの飾りにしか見えない。右目を覆う白いベールが、夜の闇の中でもなお鮮やかに目を引いた。 逃げたはずの相手が、今、目の前にいる。 この場所には誰もいない。誰にも邪魔されることはない。 彼女は俺に気づくと、少し青ざめた顔をして小さく息を静かに吐き、それでもまっすぐに俺を見る。「先ほどは……失礼いたしました、ルーカス様……こんな夜更けに一人で?」 その声は澄んでいて、だがどこか硬い。 警戒心か――いや、それだけではない。 あの図書室で見せた、怯えに満ちた表情。 それと同じものが、今も確かに、その奥にある。「君こそ、どうしてここに?」「……騒がしい場所は、苦手なんです」 その言葉は、おそらく嘘ではない。社交の場で浮かべていた完璧な笑みの裏に、どこか深い疲労が滲んでいたことを、俺は見ていた。「同感だ。嘘ばかりの社交は、疲れる」 そう言うと、彼女はほんの少しだけ口元を緩めた。 【聖女】らしい穏やかさなど微塵もなく、それは疲労と軽蔑が混じった剥き出
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第25話 誰の物語か

 夜会の喧騒から逃れるように、俺は私室の扉を閉めた。 背後で響く重たい音に心の奥に張り詰めていた糸がひとつ緩むような錯覚を覚える。「はぁ……終わった」 そう呟いた瞬間、純白のドレスが、まるで重い枷のように床へ滑り落ちる。 布の擦れる音が、静寂の中でやけに大きく響き、それは【聖女候補・アリス】という仮面を、一時的に脱ぎ捨てた音だった。 ドレスから解放された身体には、まだ微かな熱が残っている。けれど、心はひどく冷え切っていた。 あの場に立つことなど、もはや造作もない。 男たちを魅了し、偽りの微笑を浮かべ、祝福の女神を完璧に演じる。それはもう、呼吸のように自然で当たり前になっていた。 ――だが、その裏で、どれだけ心が削られていたかなんて誰も知らない。 鏡台の前に腰を下ろす。蝋燭の火が静かに揺れ、その光の中に自分の顔が浮かぶ。 それは――【リリス】の顔だった。 白く透き通った肌。緩やかに巻かれた長い銀髪。 右目を隠すベールを外せば、鏡の奥から、もうひとりの俺がじっとこちらを見返してくる。「……俺は、誰だ?」 ぽつりと落とした声が、鏡に吸い込まれる。 指先で、右目の火傷跡に触れ、熱くも、冷たくもない。だが、確かにそこにある。 ――消せない傷、それは、俺が【ヨシュア】である唯一の証。 この傷がある限り、俺は決してリリスにはなれない。 この火傷と共に、俺は【|兄《ヨシュア》】として生きると決めた。「なあ、リリス……お前、あの時は、痛かったか?」 誰に向けているとも分からない問いが、虚空に溶けていく。 死体も見つからず、どこにも存在しない【|妹《リリス》】。名ばかりの死――あるいは、失われた存在そのもの。「……俺が、死ぬべきだったのか?」 再び火傷に触れた指先が止まる。 ふと、思い出す――あの夜、ルーカスがこの傷に触れた時の感触
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第24話 クララの絶叫【クララ視点】

 夜会の喧騒が、遠い幻聴のように耳の奥で鳴り続けている。 グラスに注がれた葡萄酒は、喉を通るたびに苦く、焼けるように熱い。 胸の内に渦巻くのは、怒り、屈辱、そして何より――恐怖。 この城のすべてが、私を拒絶しているように見えた。完璧に磨き上げられた床も、きらめくシャンデリアも、祝福の音楽さえも――まるで示し合わせたかのように、私を嘲笑っている。「……おかしいわ、何かが……何かが、違うの」 ぽつりと漏れた声は、誰にも届かない。 いいえ、届くはずがない。 ユディス様は、私を見ない。 ユリウス様も、セドリック様も、エミリオ様でさえ、私の視線を避ける。 まるで、私が――【ヒロイン】である事を忘れてしまったかのように。「違う……こんなの、違う!」 私の物語は、どこで間違ったの? なぜ、誰も私を選ばない? なぜ、私だけが、こんなにも――孤独なの? 答えは、最初から分かっていた。 ――【アリス】。 あの女が現れてから、すべてが狂い始めた。 私が知っていた物語は一つ残らず、音を立てて崩れていく。 王太子も、騎士団長も、大神官も、画家も――まるで磁石に引き寄せられるように、皆、あの女を見る。 許せなかった。 どうしても、許せなかった。 リリスの代わりとして現れたあの女は、顔も、声も、立ち居振る舞いも。私よりも、ずっと――完璧な聖女に見えた。「どうして……どうして、あの女ばかり……!」 嫉妬が、内側から私を突き動かす。 理性が、音を立てて剥がれていく。 ――私は、見てしまったのだ。 人払いされたバルコニーでアリスと王弟殿下、ルーカス様が向かい合い、言葉を交わし、そして――彼が、あの女のベールに口付ける瞬間を。 手から、葡萄酒のグラスが滑り落ちた。 砕けた破片が床に散る音
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第26話 男たちの視線

 夜会の明くる日、俺は気晴らしに庭を一巡りしたあと、ふと足を止めていた。 そこに佇んでいたのは――見慣れた背だった。 騎士団長であるユリウスの姿だ。 その男が、俺の部屋の扉の前でまるで【何か】を待つように立っている。 鋼のように鍛えられたその身体は、いつも通り隙がなかったが――その表情には、明確な躊躇いがあった。 まるで、自分の決意すら信じ切れずに、ここにいることを赦してくれる誰かを待っているような。「……ユリウス様?」「っ……!」 俺が呼びかけると、彼の肩が微かに震え、そして目を上げたその顔は、騎士の顔ではなかった。 焦燥と後悔――まるで、告解を求める罪人のような目に見えた。「アリス様……いえ……聖女様……どうか、どうか……お一人で行動なさらないでください……!」 掠れた声で懇願するように言う彼の様子は、あまりにも切実で、あまりにも不器用だった。「えっと……それはどういう意味でしょうか?」 俺が静かに問い返すと、彼は一歩、こちらへ踏み出す。「この城には【何か】が潜んでいます……聖女様の命を奪おうとする……確かな【意思】が……」 言葉を選びながらも、ユリウスは必死に何かを伝えようとしていた。 けれどそれは、予言でも警告でもなく――明らかに、自責と贖罪の言葉だった。「ですから……どうか…………どうか、傍に、私を置いてください。私が……必ず、貴女をお守りします」「ユリウス様……」 その声音には、確かに“誓い”の響きがあった。 
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第27話 祈りの残響【クララ視点】

 カーテン越しの光は、まるで霧を通したようにぼんやりと室内へ落ちている。  窓の外では、王都の朝がいつも通り始まっており、遠くから鐘楼の音が聞こえ、清らかで、よく通る音。  けれどそれは、まるで別の世界から届く幻聴のように感じられた。きっと、この部屋が――あまりにも静かだからだ。  神殿の最奥、【聖女の間】と呼ばれるこの部屋は、本来ならば崇敬と祝福に満ちているはずだった。  祈りの言葉、跪く気配、感謝と畏怖に満ちた視線。それらすべてを受け止めるための場所。  けれど今、ここにあるのは――沈黙だけ。  私の周囲から、人の気配は完全に消えていた。  嘗て賛美を惜しまなかった侍女たちは、誰一人として姿を見せない。  薬膳を運んでいた神官たちの足音も、途絶えて久しい。  窓を開けてくれる者も、髪を結ってくれる者もいない。 ――軟禁。今の私には、その言葉が何よりふさわしい。 けれど。私は、笑った。「ふふ……」 枕元に置かれた祈祷書へ手を伸ばし、その表紙を指先でなぞる。磨かれた革の感触が、やけに現実的だった。「これが、私に下された罰のつもりかしら……滑稽ね」 囁いた声は、部屋の壁に吸い込まれていく。  それでも私は理解している。この静けさは終わりではない。  これは――試練の前兆。|物語《ストーリー》における、束の間の【息継ぎ】なんだから。  あの夜会、あの、忌まわしい夜。  王弟殿下であるルーカス様と、アリス――あの女と、唇が触れた瞬間を、私はこの目で見てしまった。  あの夜から、すべてが狂い始めた。誰もが私を【狂った聖女】と呼び、視線を逸らす。  セドリック様は、静かな声でこう告げた。 ――貴女は、【人の形】を失いつつある。 まるで、私の祈りが歪んでいるかのように。  私の言葉が、妄言であるかのように。 ……違う、違うのよ。「狂っているのは……あの女の方。アリス。あの異物……」 私は立ち上がり、鏡の前へ歩み寄る。  そこに映るの
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第28話 嘘に縋る手

 祭壇の裏手――白大理石の廊下を抜けたその先にある、石造りの狭い謁見室。重厚な扉が音もなく閉じられると、空間には沈黙だけが残された。「……まるで、牢だな」 ぽつりと呟いた声は、冷たい石壁に吸い込まれ、消えていく。 ここは神殿本部、その中枢に据えられた聖職者のための静謐な間だ。 だが今、この空間には聖なる気配も、神の加護もない。ただただ、無機質で、静かで、冷たい空気だけが満ちていた。 向かいの椅子に腰掛けているのは、セドリック。彼は完璧に整えられた法衣の襟を指先で直しながら、仮面のような微笑を浮かべた。「――聖女クララ殿の件について、改めてご相談したく思います……診ていただけますね、アリス様」 その声音は穏やかだったが、底に冷たい圧力を孕んでいた。「……私に、ですか」 【アリス】としての俺は、声を平らに返す。「ええ。貴女ほど、彼女の心の【揺らぎ】を見抜ける方はいない。何より、最も近くにいらしたのですから」 フフっと笑いながら答えるセドリックの姿、そしてその言葉には、明確な【踏み絵】が仕込まれている。 一歩でも誤れば、口にした瞬間から【神の御名】を使った政治の駒にされる。それが、セドリックのやり口だ。 彼は微笑を崩さず、続けた。「クララ様は、ここ最近――いささか【祈り】に執着しすぎております」「……それが問題に?」 問いながらも、答えは見えていた。 ――神託の受容力。 それは、聖女を選定する過程で神殿が用いる、極めて象徴的な言葉。 意味するのは、精神の鋭敏さ、霊的感応力、そして何より――【従順さ】の指標だ。 セドリックは、慈父のような声音で言った。「狂気と信仰の境界は常に神に最も近い場所にあります。ゆえに、彼女はまだ……聖女たり得ます」 その言葉に、思わず俺は口元を歪めそうになった。「&helli
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第29話 祈りの代償【クララ視点】

 冷たい石畳の上に、膝をつく。 ここは神殿前の広場。嘗て【聖女クララ】の名のもとに、千人を超える信徒たちがひれ伏した場所。 その同じ場所で、今――私はただ一人、祈りの姿を晒していた。 嘗ては私の一声で人々が集まり、息を詰めて私の言葉を聞いた。私の涙は彼らの信仰を揺さぶり、そして私の祈りは【奇跡】として語られた。 ――そのすべてが、過去の事に今なろうとしている。 今、目の前にいるのは、わずか数十人。 いいえ、きっとそれよりも少ない。 老いた者、着古した服を纏う者、顔を隠すようにフードを深く被った女たち。 その群れには、あの頃のような熱も、希望もない。光の届かない、沈んだ瞳。 人々の信仰は全て――あの女、アリスのモノになろうとしている。 神殿が正式に聖女候補の一人として彼女を迎え入れてから全てが変わった。 街の噂も、祈りの言葉も、商人たちの会話も、もう誰も【クララ】を口にしない。 代わりに、【アリス】の名が祝福として囁かれていく。 それでも――私は、ここにいる。 祈りを捧げる者として。 神に選ばれた存在として。 この国と民を導く【唯一の聖女】として。 ゆっくりと胸に手を当てる。 その所作は、完璧だった。 何千、何万回と繰り返してきたこの祈りは、誰の模倣でもない。 アリスの真似ではない。これは――私だけの祈り。私だけの、神への道。「――神よ。我らが国に、清らかな恵みと祝福を」 声は震えていない、凛とした、強い声が空気を震わせる。 だが――返ってくるのは、喝采ではなかった。 代わりに響いたのは、ざわめき。視線。そして、冷たい、拒絶にも似た感情の波。「あれ……あの人って、夜会で取り乱した……」「嫉妬に狂って叫んだって、噂になってた」「まだ【聖女】のつもりなの? アリス様がいるのに……」 ひそひそと交わされる声に小さな刃が、全身
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第30話 偽りの救世

 陽が傾き始めた神殿前の石畳。俺は神殿の陰から、その光景を静かに見下ろしていた。 広場の中心に、クララが祈っている。 身を包むのは真白な祈祷衣。金糸で縁取られた袖が、西日を受けて淡くきらめき――それは、まるで本物の聖女のようだった。 膝を折り、目を伏せ、両手を胸元で組む。 一つ一つの所作に、あの夜の狂気の影はない。 ただ、静謐な沈黙と穏やかな気配だけがある。 民衆が、少しずつ集まってきていた。 かつてのような歓声も熱狂もない。 だが、数人の貧しい者たちがひざまずき、彼女の祈りにそっと頭を垂れていた。その中には、子を抱えた母も、杖をつく老人も、片足を引きずる職人もいた。「……どうか、日々の糧が与えられますように。苦しみの中にある者に救いの光が降り注ぎますように――」 クララの祈りの声が、風に乗って届いてくる。 ――嘘だ。 その言葉に、神の加護はない。 彼女には神託も啓示も与えられていない。 それはただ、彼女自身が【聖女】という役割を生きるために紡いだ演技にすぎない。 ……けれど。(――それでも、人々はあの姿に救いを見出している) 俺は腕を組んだまま、その光景を見つめていた。 冷静に、静かに――それでいて、心の奥に小さく棘が刺さるような痛みを覚えながら。 【聖女】の本当の人物は、リリスだ。 しかし、リリスは死んだ。 【偽り】である聖女、クララは、今なお生きて人を救っている。 喉奥が熱を帯び、何かが込み上げてくる。 祈る彼女の背には、神の後光などない。ただ、傾いた夕日が静かにその輪郭を照らしているだけだった。 ――あれは信仰ではない。ただの演技だ。 けれど、民にとってそれで十分なのか? 真実ではなく、慰めが求められる。神の声よりも、ただ【祈る姿】こそが癒しになるのなら――(……リリスの命よりも、あの祈りが人を救うのか)
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