私は広中紗穂(ひろなか さほ)。二時間前、心臓外科医である夫・広中優一(ひろなか ゆういち)は、娘の広中葵(ひろなか あおい)を手術台に残したまま、相川律子(あいかわ りつこ)のもとへ駆けつけた。律子は、夫がいつも私たち母娘より優先してきた女だった。二時間後、私は医師から差し出された死亡診断書を受け取り、震える手で死亡届の欄に名前を書いた。葵は霊安室へ移され、私はそのストレッチャーの横を、ただ黙ってついて歩いた。そのときになって、ようやく優一から電話がかかってきた。通話がつながった瞬間、耳をつんざくような音楽が鼓膜を打った。向こうはひどく騒がしく、優一の声は信じられないほど明るかった。「紗穂?なんでこんなに電話してきたんだ。葵が俺に会いたがってるんじゃ――」「どうして葵を手術台に残して、途中で出ていったの!?」私は奥歯を噛みしめ、叫ぶように彼の言葉を遮った。「優一、約束したじゃない。あなたの手で、葵を助けてくれるって……!」電話の向こうで、優一が息をのむ気配がした。けれど次に返ってきた声は、まるで大したことではないとでも言うように、ひどく軽かった。「紗穂、ごめん。俺が悪かった。でも律子のほうが本当に緊急だったんだ。どうしても放っておけなかった。心配するな。新しいドナー心臓の目処はもうついてる。二、三日中には手術を組めるから」二、三日中?彼は忘れてしまったのだろうか。自分の娘が胸を開かれたまま、たった一人で手術台の上に残され、死を待っていたことを。「優一、葵はもう……」「優一さん!」電話の向こうから、女の甘えた声が割り込んできた。律子の声だった。「拓馬が、クロの具合がまた悪いって言ってるの。早く見てあげて」「悪い、紗穂。話は帰ってから聞く。律子の犬の具合が悪いらしい。先に診てくる」「優一!」返ってきたのは、ツーツーという空しい音だけだった。すっかり血の気を失った葵の寝顔を見つめた瞬間、全身から力が抜けた。私はその場に、崩れるように座り込んだ。氷点下のように冷えきった霊安室にいるはずなのに、背中にはじっとりと嫌な汗がにじんでいた。背筋に冷たいものが走り、胸の奥まで凍りついていくようだった。葵が息を引き取る前に残した言葉が、耳元でよみがえる。あの子は
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