篠原昂(しのはら こう)の秘書が、またうつ病を再発させたらしい。彼は離婚協議書を突き出してきた。「ただの手続きだ。彼女の具合が良くなったら、すぐに復縁しよう」私は紙の束を手に取り、数ページめくってから彼を見上げた。「私に、身一つで出て行けってこと?」彼はあからさまに眉をひそめた。「ただの偽装離婚だろ。そんな細かいことまでいちいち口出しするなよ」私は微笑んだまま無言で、静かに自分の名前を書き込んだ。橘凛(たちばな りん)。彼には到底分からないだろう。私がこの日を、どれほど長く待ち望んでいたかなど。私がサインを終えると、昂はあからさまに安堵の息を吐き、久しく見ていなかった笑みを浮かべた。「凛、心配するな。これはただの形式的なものだ。彼女が母さんの遠い親戚じゃなかったら、俺だってこんな面倒なことしないさ」私は頷き、分かったと笑顔を作った。踵を返して寝室に戻り、荷物をまとめ始めると、彼は不意を突かれたように尋ねてきた。「何してるんだ?出て行けなんて言ってないぞ。だいたい、お前に行く当てなんてないだろ?」私はキャリーケースのジッパーを閉め、淡々と返した。「芝居をするなら徹底的にやらないと。森本結衣(もりもと ゆい)にバレて、病状が悪化したら大変じゃない」彼の顔が一瞬引きつったが、すぐに気を取り直して調子を合わせた。「……それもそうだな」彼がさらに何かを言いかけた時、特定の相手を知らせる着信音が鳴り響いた。「急な仕事の連絡だ。電話に出るから、後で送っていくよ」ベランダに出た彼の表情は、電話に出た瞬間にひどく甘いものへと変わった。その顔は、かつて私と恋人同士だった頃の彼と同じだった。私が荷物をまとめ終えても、彼はまだベランダで相手をなだめている。どうしようもないと呆れつつも、とろけるような愛情が滲み出ていた。私は静かに家を出て、親友にメッセージを送った。道端で迎えを待つ間、昂との過去が脳裏をよぎった。大学時代からの四年間の交際、そして六年に及ぶ結婚生活。一生を共に歩んでいける相手に出会えたのだと信じて疑わなかった。彼のために公務員という安定した職を捨て、実家から遠く離れた青葉市(あおばし)という見知らぬ土地へやって来て、身を粉にして働いた。家族や友人は皆、私がどうか
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