All Chapters of 夫に煙まみれの火災模擬室へ閉じ込められた: Chapter 1 - Chapter 10

11 Chapters

第1話

双子を身ごもっていても、私は毎日の昼、島崎孝一(しまざき こういち)に弁当を届けに行っていた。ある日、会社で火事が起きた。なのに、彼の秘書・天野早紀(あまの さき)が私に命令してきたのだ。「三階に行って、私の猫を抱いてきて。私、喘息だから煙を吸えないの」私は冷ややかに言い返した。「自分で行きなさい。中は煙だらけよ。お腹の子たちはどうなるの?私は妊婦よ、消防士じゃないの」結局、私は中には入らなかった。夕方、孝一が疲れ切った顔と怒りをにじませて、帰ってきた。「早紀が猫を助けようとして、発作を起こして集中治療室に入った。これで満足か?」「孝一、猫一匹のために、私と子どもを死なせるつもり?それに、ただの秘書のくせに、私に命令するなんて何様のつもり?」彼は一瞬、言葉に詰まった。それ以上は何も言わなかった。翌日、目を覚ますと、私は火災を再現する専用の模擬訓練室に閉じ込められていた。部屋の中は煙がもうもうと立ちこめている。訓練室の外では、孝一が退院したばかりの早紀を抱き寄せていた。そして、ガラス越しに私に言い放った。「夏目優里(なつめ ゆり)、お前がお嬢様気取りでわがまま言うからだ。今日こそ、お前にも喘息の苦しみを味わわせてやる!」その瞬間、胸の奥が凍りつくように冷たくなった。私はスマホを取り出し、兄に電話をかけた。「兄さん、やっぱりあいつはクズだった」電話を切った瞬間、外から耳障りな嘲笑が聞こえてきた。孝一の会社の部下たちもそこに集まり、私を見下ろしながら、口々に嘲っている。「まだ兄さんを呼ぶ気?奥さん、あなた夢でも見てるんじゃない?」「そうそう、あなたの兄さんなら半年前に海外に飛ばされたでしょ。今ごろどこで何してるやら」「島崎社長が情けで引き取ってくれなきゃ、あなた、とっくにホームレスだったわよ」私はガラスを叩き、声を嗄らして叫んだ。「やめて!兄さんを悪く言わないで!」孝一は、弱々しく咳き込む早紀を抱き寄せている。彼はガラス越しに、軽蔑の眼差しで私を見下ろしている。「優里、もう反省したか?」煙がどんどん濃くなり、喉や肺が焼けつくように痛む。化学薬品のような刺激臭が鼻をついた。激しく咳き込んだはずみに、腹の奥が不気味に疼く。違う。これはただの煙じゃない!私はガラスに駆
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第2話

煙がどんどん濃くなっていく。刺激臭が鼻をついた。目は痛みで涙があふれ、ほとんど何も見えなかった。視界はぼやけていたけれど、外から向けられる悪意のこもった視線だけは感じ取れる。孝一の部下たちが、外でこちらを指さし、嘲笑うような顔でひそひそ話をしている。「奥さんは普段あんなに上品ぶってたのに、結局あのざまだぜ」「そうそう。自分をお嬢様とでも思い込んでたんじゃない?」「島崎社長も、今回でようやくあの女の本性を見抜いたってわけだ」私は隅にうずくまり、服の布で必死に口と鼻を覆おうとした。ざらついた布が肌に触れるが、それでも煙の臭いは容赦なく鼻の奥へ届く。訓練室のドアが突然開き、二人の女がにやにや笑いながら入ってきた。早紀の親友たちだ。普段は愛想よく接してくるのに、今は意地の悪い本性をむき出しにしている。一人はハサミを手に持って弄んでいる。「早紀が言ってたよ。猫を助けたときに、大事にしてたロングヘアがひどく焼け焦げちゃったのってね」もう一人が歩み寄り、私の髪を力任せに掴んだ。その強さに頭皮がじんと痺れる。「島崎社長からの言いつけでさ。あんたにも、一番大切なものを壊されるってのがどんな気分か、たっぷり味わってもらわなきゃ」「やめて!」言い終わらないうちに、ジャキッという音がした。ハサミが私の長い髪を断ち切る。ぎざぎざのまま切り落とされた髪の束が床に散り、鋭い刃先が頭皮をかすめて血の筋が走った。痛みで全身が震える。けれどそれ以上に胸が張り裂けそうだったのは、この長い髪こそ、かつて孝一が一番好きだと言ってくれたものだからだ。彼はいつも、絹糸みたいだと言って、髪を洗うたびに自分でドライヤーをかけてくれた。なのに今、その髪を、彼自身の手で奪わせたのだ。毒の煙が傷口にしみる。鋭い痛みと焼けつくような熱が走り、頭皮にはみるみる赤い発疹が広がった。堪えきれず、苦痛のうめき声が漏れる。外で、早紀が突然小さく叫んだ。手にしていた喘息用の吸入器が、棚の下へと転がり落ちる。彼女は胸を押さえ、苦しそうに息を切らし、顔から血の気が引いていった。「孝一……わ、私……息ができない……」孝一は慌てふためき、駆け寄って彼女を抱きしめた。その目は痛ましさでいっぱいだ。彼は彼女の背中を優しくさすりながら
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第3話

長時間にわたって毒性のある煙にさらされ続けたせいで、私の肌には小さな水ぶくれができ始めた。腹部の激痛は波のように押し寄せてくる。赤い液体が、太ももを伝って流れ落ちるのを止められなかった。視線を落とすと、床に血が広がっている。その光景を目の当たりにした瞬間、私の心は完全に折れた。「孝一!血が出てる!お願い、私の子どもを助けて!子どもたちを助けて!」私は力の限りガラスを叩き続け、無数の血の手形を残した。血を見た途端、外からの嘲笑がぴたりとやんだ。孝一の顔からは一瞬で血の気が引き、それでも彼は奥歯を噛みしめて言い放った。「芝居がましいんだよ!医者は双子は安定してるって言ってるんだ!」彼の腕の中で、早紀がわざとらしく咳き込み、弱々しい声を出す。「孝一、すごい血……これ、本当なんじゃ……」「早紀、気にしなくていい」孝一は彼女を抱き寄せる。「あいつは子どもを盾に俺を脅そうとしてるんだ。そんな手には乗らない」出血はさらにひどくなり、お腹の中で命が消えかかっているのを肌で感じた。その時、孝一のスマホが鳴った。彼は苛立ちながら電話に出る。その向こうから聞こえてきたのは、冷たく、抗いがたい威圧感に満ちた声だった。「島崎、すぐに彼女を外に出せ。さもないと、俺がそっちに着いたらただじゃ済まないぞ」孝一は一瞬たじろいだが、すぐにその命令口調に逆上した。「夏目優樹(なつめ ゆうき)?彼が海外にいるのは知ってるんだよ。俺を脅すつもりか!今日こそ思い知らせてやる!」彼は乱暴に電話を切ると、胸を激しく上下させている。再び私に向き直った彼の目つきは、先ほどよりもずっと鋭くなった。「優里、お前まだ自分のことをお嬢様だとでも思ってるのか?誰かに兄のふりをさせて、俺を脅そうってか?」私は絶望に震えながら首を振った。けれど血は止めどなく流れ続ける。「孝一、あれは本当に私の兄さんなの……お願い……」「黙れ!」彼は怒鳴った。「お前の兄はとっくに海外に追いやられて、今も向こうでバイトしてるんだ!」外では孝一の部下たちが調子を合わせる。「島崎社長、この女、芝居が上手だな!」「ええ、まだ嘘をつくなんて!」「きっと誰か役者を頼んだんですよ。本当に気持ち悪い!」私の意識はだんだん遠のい
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第4話

早紀がコンソールに向かって歩いていくのを見て、かすかな希望が胸に灯った。本当に助けてくれるのか?ガンッ!次の瞬間、彼女は足をもつれさせ、頭を防火用スプリンクラーの起動スイッチに激しくぶつけた。バキンという音とともに、プラスチック製のレバーが根元から折れる。私は呆然とした。それから彼女は、慌てふためいた様子で、別の赤いボタンを押し込んだ。その瞬間、私は完全に絶望した。耳をつんざくような高音の警報が、すぐさま鳴り響く。音は鼓膜を突き破り、脳の奥深くまで突き刺さってくる。頭に激痛が走り、両手で耳を強く塞いだ。さらに最悪なことに、訓練室全体の温度が急上昇していく。灼けつくような空気が肌を焼き、皮膚にできた水ぶくれが次々と破れ、さらに大きな爛れへと変わっていった。騒音と温度上昇に刺激され、腹部の痛みは何倍にも膨れ上がる。私はあまりの痛みに床を転げ回り、獣のような叫び声をあげた。孝一は目に焦りの色を浮かべ、スタッフに向かって怒鳴った。「早く止めろ!」「スイッチが壊れていて、すぐには止められません!」「ならガラスを割れ!」「島崎社長、これは防弾ガラスです。割れません!」孝一は汗を流し、必死になっている。その時、彼の視線は偶然、早紀の額にある小さな傷に向けられた。今、早紀は痛々しくも可憐な様子で彼を見つめた。その目は罪悪感と自責の念に満ちている。「孝一、全部私のせいなの……私、ほんとにドジで……」孝一の表情が、みるみるうちに冷たいものへと変わった。彼はくるりと振り返り、後ろにいる者たちに言い放った。「もういい、そのままにしろ!あいつにも、早紀が火事の中でどんな思いをしたか味わわせてやれ!」私は自分の耳を疑った。彼、今、何て言ったんだ?傷だらけの体を引きずり、ガラス壁のところまで這っていき、力の限り叩きながら叫んだ。「孝一!お願い、私とお腹の子を助けて!」彼は冷たい目で私を見下ろした。そこには一片の憐れみもない。「お前と腹の中の子が、早紀に敵うもんか!」私の意識が薄れていく。血はどんどん流れ出し、私の体は血の中でひくひくと痙攣していた。お腹の中からは、もう何の動きも感じられない。その静まり返った感触が、何よりも私を絶望させた。私はとっくに動かなく
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第5話

孝一は完全に頭が真っ白になっていた。まるで幽霊でも見たかのように目を大きく見開き、信じられない様子で優樹を見つめている。「お前……海外にいたんじゃ……」孝一の声は震えていた。優樹は何も答えず、ただ血まみれの私を慎重に抱き上げた。「優里、兄さんだよ」その声はこれまでにないほど優しかった。だが、その瞳に宿る殺気は、その場にいる全員に死の恐怖を感じさせた。私はかすかに目を開け、兄の顔を見た瞬間、張り詰めていたものが一気に崩れ去った。「兄さん……赤ちゃんが……いなくなっちゃった……」その言葉に、優樹の顔色が一瞬で凍りついた。「わかった」優樹は私の髪を優しく撫でる。めちゃくちゃに切り刻まれたその髪が、見ていて胸が張り裂けそうだった。「まずは病院へ行こう」優樹が私を連れて行こうとしたその時、孝一が突然飛び出してきた。「待て!彼女は俺の妻だ!彼女をどこに連れて行くつもり!」言い終わるより早く、優樹の部下の一人が銃床で孝一の膝を容赦なく殴りつけた。「ぐあっ!」孝一は悲鳴をあげ、その場に膝をついた。「優樹……どういうつもりだ!」孝一は歯ぎしりしながら叫ぶ。優樹は振り返りもせずに言った。「お前とはあとで話をつける」そう言うと、私を抱えたまま訓練室を出て行き、現場の監視として数人の隊員を残した。孝一はなんとか立ち上がろうとしたが、優樹の部下に肩を押さえつけられる。「動くな。夏目さんの命令だ。全員、ここから出られねぇぞ」早紀は恐怖で真っ青な顔をし、孝一の背に隠れて震えていた。「孝一……どうしよう……」孝一は奥歯を噛みしめ、頭の中はぐちゃぐちゃだった。なぜ優樹がここにいるんだ?あいつはとっくに家から追い出されたはずじゃ……しかも、この連中、完全武装で見るからに訓練された手練れだ。ただのボディガードじゃない。一時間後、優樹が戻ってきた。着替えを済ませ、その顔にはぞっとするほど静かな表情が浮かんでいる。「医者が言ってた。双子は助からなかった。妹はもう少しで死ぬところだったってな」優樹の声に、その場の全員がかつてない恐怖を覚えた。孝一は必死に立ち上がる。「優樹、どうしてお前が戻ってきたのか知らねえが、優里は俺の妻だ。てめえに口出しされる筋合いはねえ!」
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第6話

孝一の顔色は真っ青になった。夏目グループ。それは業界の巨人で、資産が千億を超える大財閥だ。もし優里が本当に夏目グループのお嬢様だったら、孝一は……「いや、ありえない。もし彼女が本当にお嬢様なら、どうして俺と一緒にいたんだ?」孝一はなおも最後の抵抗を試みる。「彼女がバカだからだよ」優樹のその一言で、孝一は完全に絶望した。「さあ、これから落とし前をつけてもらうぜ」優樹が指を鳴らすと、すぐに誰かが椅子を運んできた。腰を下ろし、足を組み、まるで裁判官のようにふんぞり返る。「で、お前たち、誰から始める?」優樹の視線が、その場にいる全員をねめつける。孝一、早紀、そして孝一の部下たちは、体を震わせた。「な、夏目さん……お、俺たち、何もしてない……」一人が震える声で言った。「何もしてないだと?」優樹がせせら笑う。「俺の妹が中で苦しめられてる間、お前たちは外で面白がって見てたんだ。それを何もしてないとは言わせないぞ」「で、でも……俺たち、優里さんの身分を知らなかったんだ……」「身分を知らなかったら、妊婦を好き勝手に痛めつけてもいいってことか?」優樹の言葉に、全員が口をつぐんだ。「誰も言い出さないなら、こっちで選んでやる」優樹が早紀を指さした。「お前からだ」早紀は恐怖で力が抜け、その場にへたり込みそうになった。「夏目さん、ち、違うの……私、優里さんを陥れたりしてない。助けようとしたの……」「助けるだと?」優樹は懐からタブレット端末を取り出した。「これを見な」画面に監視カメラの映像が映し出される。そこには、早紀がわざとスイッチを壊し、警報ボタンを押す様子がはっきりと記録されていた。「これでも言い逃れできると思ってるのか」早紀の顔が一瞬で血の気を失う。「わ、私……わざとじゃなくて……」「わざとじゃない?」優樹は立ち上がり、早紀の目の前まで歩み寄った。「選べ。自分で白状しろ。さもなきゃ、俺が手伝う」優樹の冷たい目を見つめた早紀は、ついに堰を切ったように叫んだ。「私がやったの!全部、私がやったのよ!」床に膝をつき、ぼろぼろと涙をこぼす。「あの女が妬ましかった!孝一と結婚したあの女が憎かった……私が彼女の代わりになりたかったの!」孝一
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第7話

孝一はナイフを握りしめ、その手は震えていた。薄暗い灯りの下で、刃が冷たく光る。彼の額には汗がにじんでいた。「優樹、頼む。家族だけは見逃してくれ」孝一の声は涙ぐみ、かすれている。「お袋は体が弱いんだ。弟はまだ学生で……」優樹は無表情で彼を見下ろした。「お前は俺の妹を苦しめた時、優里の腹の中の子のことを考えたのか?さあ、やれよ」優樹は腕時計に目を落とした。「三分後に病院へ行く。妹のそばにいなければならないんだ」孝一は目を閉じ、ナイフを振り上げた。その瞬間、彼は突然目を見開き、狂ったように優樹へ飛びかかる。「お前なんかに負けるか!」ドゴッ!孝一は優樹に触れるより早く、強い蹴りで吹き飛ばされ、壁に激しく叩きつけられた。「島崎。俺が、お前に殺されると思ったのか?」優樹の声は、ぞっとするほど冷淡だった。孝一は血を吐き、もがきながら身を起こす。「優樹……俺は納得いかない!どうしてお前ら夏目家だけが、そこまで偉そうにできるんだ!」「俺たちにその実力があるからだ」優樹が手をひらりと動かす。「自分でやる気がないなら、手を貸してやる」優樹の部下が二人、すぐに進み出て孝一の両腕をがっちりと掴んだ。「待ってくれ!」孝一が突然、叫んだ。「俺は、優里の秘密を知っている!」優樹が目を細める。「秘密だと?」「三年前、どうして優里が家出をしたかってことだ!」孝一は荒い息を吐きながら続ける。「彼女は俺のためじゃない。家の政略結婚から逃げるためだったんだ!」「黙れ!」優樹の顔色が一瞬で青ざめる。「ははは!」孝一は狂ったように笑い出した。「知らなかったのか?優里はあの頃、東都の今川家の若様のところへ嫁がされそうになってたんだぞ!彼女は、あんな変態と結婚するくらいなら、俺みたいな男でいいって選んだんだ!」優樹の拳がきつく握りしめられる。それは確かに、彼の胸の奥にある痛みだった。あの時、優里は結婚から逃れるため、家族の反対を押し切って孝一と一緒になろうとした。優樹は妹を守るために、父と大喧嘩までしたのだ。「それで、何が言いたい」優樹の声は、低く抑えられていた。「優里が三年も俺と一緒にいられたのは、本気で俺を愛していたからだ!」孝一は声を荒げ、
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第8話

優樹が言い終わらないうちに、二人の部下が孝一を取り押さえた。「やめろ!……優樹!」孝一は必死にもがいた。「俺は一般市民だぞ。こんなの、違法だろ!」優樹は何も答えず、ただ軽く顎で合図をした。グシャッ。右腕がへし折れる鈍い音がして、孝一の悲鳴が訓練室に響き渡った。「ああっ……俺の腕が……っ!」優樹の顔に表情はない。「左もだ」グシャッ。もう一度、乾いた音が走り、今度は左腕が折られた。孝一は床をのたうち回り、汗をだらだらと流した。「優樹……お前、頭おかしいのか!」優樹は孝一のすぐ前に歩み寄り、冷めた目で見下ろす。「優里が死にかけたとき、お前はそれほど苦しんでなかったよな。これで、少しは痛みがわかったか」優樹は片手を振った。「そいつを通りに放り出せ」「了解」二人の部下が半殺しにされた孝一を引きずり、訓練室から外へ運び出していく。優樹は、隅でガタガタ震えている早紀とその親友二人に目を向けた。「次はお前だ」早紀は腰が抜けたようになっていた。「お願いです……夏目さん。私が悪かった。本当に反省してます!」「反省、か」優樹は冷ややかに笑う。「優里の子どもを殺しておいて、それで済むと思うのか。命までは取らないが、相応の報いは受けてもらう」そう言って、優樹は部下に指示を出した。「裏社会の連中に連絡を取れ。こいつらを引き渡せ」「え……?」早紀の顔が血の気を引き、真っ青になる。「どこに……私たち、どこに送られるんですか……?」「お前たちにふさわしい場所だ」二時間後、優樹は病院に姿を現した。私はベッドの上で弱々しく横になっていて、顔色は真っ白だった。それでも、兄の姿を見ると、無理に笑みをこしらえる。「兄さん、戻ったの」優樹は早足でベッド脇に寄り、そっと私の手を包むように握った。「優里、ごめん。俺がもっと早く来ていれば」「兄さんのせいじゃないよ」私は小さく首を振った。「私が、ただ、バカだっただけだ。孝一は?」「片付けた」優樹の口調はあっさりとしていた。私は小さくうなずき、それ以上は尋ねなかった。優樹はベッドの端に腰かけ、少し迷うような間を置いた。「優里、ちょっと話がある」「何?」「今川家のことだ」
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第9話

優樹は拳を握りしめた。「俺がちゃんと守ってやれなかった」「兄さんのせいじゃないよ」私はそう言って、彼の手の甲をそっと叩いた。「兄さん、今川家に連絡してくれる?私、戻って政略結婚を受けるって伝えて。バツイチでも構わないのなら……」優樹は私の顔をじっと見つめた。「わかった、すぐ手配する」立ち上がり、ドアのところでもう一度振り返った。「優里、本当にそれでいいんだな」「うん、もう決めたの」声はとてもか細かった。「あの人も、あの人のことも、すっかり諦めたから」優樹は頷き、病室をあとにした。一方、その頃、孝一は別の病室で横になっていた。両手にギプスをはめ、見る影もなくやつれている。そこへ病室のドアが開いた。医者かと思ったが、入ってきたのは彼の母だった。「孝一!」彼の母は息子の姿を見るなり、泣き崩れた。「いったい、どうしたっていうの」「母さん……」孝一の声はかすれていた。「俺、もう終わりだ」「どういうこと?なんでこんなことに……」孝一は苦笑した。「逆らっちゃいけない相手に、逆らったんだよ」そのとき、スーツ姿の男たちが数人、病室へ入ってきた。「島崎孝一様。銀行の者です。御社の融資の返済期限が来ております」孝一は呆然とした。「まだ三か月あるはずじゃないか」「御社に重大なリスクが発生したため、期限前に全額回収させていただきます。三日以内に八億円、ご用意ください」孝一の顔からさっと血の気が引いた。「八億……?そんな大金、あるわけないだろ!」「では、資産の差し押さえにご協力願います」「やめろ!」孝一はもがいたが、両腕が折れていて身動きひとつできない。「孝一、これはいったい……」彼の母は震えあがっていた。「母さん、俺たちはもう駄目なんだ」孝一は絶望をにじませ、目を閉じた。それからの数日、孝一の会社の株価は暴落し、借金の取り立てが相次いだ。島崎家には毎日のように怒声が響く。「借金を返せ!」「金を返さないなら家をぶっ壊すぞ!」彼の母は怖がって外に出ることもできず、弟の島崎浩二(しまざき こうじ)も学校でいじめられた。「お前の兄さん、詐欺師なんだろ」「借金まみれだって?」「あいつと遊ぶなよ。巻き添えを食ったらどう
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第10話

孝一は、夏目家の玄関の前でひざまずき、必死に許しを乞うていた。そこへ、黒塗りのロールスロイスが玄関の前に停車した。ドアが開き、背の高い若い男が降り立つ。仕立ての良いスーツに身を包み、立ち居振る舞いの端々に気品が漂っていた。「今川さま」執事が恭しく出迎える。孝一は顔を上げ、見知らぬ男が夏目家の玄関へと歩み寄るのを目で追った。胸の中で、嫌な予感が、にわかに膨らみ始める。「こちらは?」今川拓馬(いまがわ たくま)は足を止め、地面にひざまずく孝一を見下ろして尋ねた。「えっ……無関係な者でございます」執事が素っ気なく答える。「待て!」孝一は、立ち上がろうと、もがいた。「俺は優里の夫だ!会わせてくれ!」拓馬が、わずかに眉を寄せる。「優里の、夫?」「今川さま、気にしないでください」執事が警備員たちに目配せし、孝一を引き摺って行こうとさせる。「いや、いい」拓馬は、片手を上げて制した。「そのままにしておけ」孝一は、目を大きく見開く。「何者なんだ、お前は?なぜ、この家に入るんだ?」拓馬は答えず、そのまま夏目家の玄関をまっすぐに歩んで行った。リビングで、私は兄の優樹と並んでソファに腰かけていた。執事が来客を取り次ぐ声を聞いて、私の表情は一瞬、強張った。「今川さまがお着きです」優樹が立ち上がる。「優里、本当にいいのか?」私はこくりと頷き、服の襟元を整えた。リビングのドアが開かれ、初めて見る男性と、その後に続く中年の男が入ってくる。「皆さん、こんにちは」拓馬は、軽く会釈した。「今川拓馬と申します」その声はとても優しく、私が想像していたような道楽息子のイメージとはまったく違っていた。「今川さん、こんにちは」私も立ち上がり、丁寧に頭を下げる。「こちらは父です」拓馬が紹介する。中年の男は、笑顔で歩み寄った。「優樹くん、また会ったね」「今川社長」優樹が、固く握手を交わす。拓馬の父の視線が、私に向いた。「優里さん、三年ぶりだね。ますます綺麗になった」私は、愛想笑いを浮かべた。「おじさん、お褒めいただき恐縮です」「まったく、拓馬は君のことをずっと忘れられなかったんだよ」拓馬の父が、笑いながら言った。「あの時
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