All Chapters of 死に戻り。クズ夫を捨てポンコツ御曹司と成り上がる: Chapter 1 - Chapter 9

9 Chapters

第1話

千葉明音(ちば あかね)と共に拉致されたあの日、宮本隼人(みやもと はやと)は迷うことなく私・陣内光希(じんない みつき)ではなく、彼女を選んだ。犯人ですら気まずそうに黙り込み、しばらくしてから上着を私の肩に掛けてくれた。「俺より悲惨だな。旦那に見捨てられるなんて。ったく……なんでこの結び目、解けないんだ」彼は最後には歯でロープを噛みちぎり、ぶっきらぼうに言った。「まあいいか、お前まで巻き込む必要はないだろ。いいから逃げろ!」そう言うと、彼は私を隼人の方へ突き飛ばし、自ら高層ビルから身を投げた。助かったと思った矢先、視界の先で待っていたのは、隼人の冷えきった目だった。「お前さえ死ねば、明音と堂々と一緒にいられる。光希、お前はもう譲るべきなんだ!」目が覚めると、私は隼人との婚約式の日へ戻っていた。隼人の甘い視線には目もくれず、私はそのまま端っこでゲームに没頭している阿部正人(あべ まさと)に近づいた。「阿部さん、私と手を組まない?」かつて私は、隼人を業界のトップまで押し上げた。今、正人をトップの座に就かせるなんて、朝飯前だ。体に合っていないスーツ姿の正人は、目を丸くして固まっていた。呆然と私を見つめ、自分を指差す。「え?俺?」私は彼の向かいのソファへ静かに腰を下ろした。「阿部さん、海市の燃料取引、実際に回しているのはあなたよね?もっと上を目指す気はない?」正人は唖然としていて、スマホを持った手は固まったままだった。「え……人違いじゃ?」ようやく我に返ったように、彼は背筋を伸ばし、慌ててネクタイを直そうとするが、逆にどんどん歪んでいく。ちらちらと私を見ながら、額にはうっすら汗が滲んでいた。「光希」隼人の声が、せわしなく響く。彼は険しい表情をしながら、足早に私の所へ歩み寄った。「阿部グループには興味なかったはずだろ。急にどうした?」少しの間を置いて、彼は少し声を落とした。「詳しい話は後でしよう。こんな場所で悪ふざけはやめてくれ」私の視線はずっと、向かいにいる正人に向けられたまま、隼人を見ようとはしなかった。「今まで気に留めていなかったけれど、阿部さんの腕はなかなか素晴らしいわ」私は淡々と話を続け、それと同時に、掴もうとしてきた隼人の手をさりげなく
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第2話

私を掴む手には力がこもっていて、その瞳には隠しきれない焦りが浮かんでいた。彼がなぜ焦っているのかなんて、痛いほど分かっている。陣内グループの資金は、海市の財界にとって喉から手が出るほど欲しいものだった。私がどちらにつくかで、商工会の会長の座が決まる。その時、宴会場の扉が開かれ、隼人の表情がぴたりと固まった。現れた人物を見た瞬間、前世の怒りが胸の奥から一気に込み上げてくる。私は隼人を見つめ、冷たく笑った。「隼人、冗談なんて言ってないわ。あともう一つ、伝えておくことがあるわ。本日をもって、私は隼人との婚約を解消する」隼人は意外そうに目を見開き、眉をひそめた。だが、すぐにその視線は会場に入ってきた明音の方へと移った。「光希、そんなわがままはもうよせ」彼は私には見向きもせず、ずっと明音のことばかり見ていた。「明音はただの後輩で、今回の婚約式も、気晴らしに来ただけだ」あまりにも当然のように言うものだから、逆に笑えてしまった。10年ものの付き合いで、自分の婚約式に呼ぶほどの仲だ。前世で、まさにこの日、明音が弱々しく「気分が優れない」と言い出し、隼人は一晩中彼女のそばにいた。そして、婚約者である私は会場中の笑い者になった。「光希?」隼人が探るように声をかけたが、私が黙り込んだままなのを見て、入り口の方へと歩いていった。彼は足取りも軽く、自分でも気づいていない笑みを浮かべ、自然な仕草で明音の肩を抱き寄せた。明音は彼の隣に寄り添い、微笑んでいた。「光希さん」彼女が遠くから私に向けて、穏やかな声で挨拶する。隼人は彼女を連れて近づいてくると、何か思い出したように言った。「そうそう光希、明音は優秀だし、今後俺の秘書になってもらう予定なんだ。会社の事は心配するな。彼女がいれば、お前も楽になる」つまりは、私に口を出されたくないのだ。彼の緊張した瞳を見るに、拒絶されて、彼らの関係を壊されるのが怖いのだろう。私はグラスを手に取り、淡々とした笑みを浮かべた。「ええ、勝手にどうぞ」隼人は、これほどあっさり納得するとは思わなかったのか、呆然とした。「なら……」と、彼は様子を伺いながら続ける。「明音と先に一曲踊ってもいいか?」彼は私を挑発しているのだ。前世だったら、そ
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第3話

明音はグラスを片手に私の前に現れ、うっすらと微笑んだ。「乾杯しましょう!隼人さんと、末永くお幸せに」優雅な振る舞いだったが、その瞳の奥には一瞬、挑発めいた色がよぎった。私はグラスを受け取らなかった。「千葉さん」私は彼女を見つめ、一語ずつはっきりと言い放つ。「望み通りになったなら、もうそんな白々しい芝居はやめたら?」明音の笑みがぴたりと固まった。「光希!」いつの間にか駆け寄ってきた隼人が、明音の肩を抱き寄せる。「なんて心の狭い女だ!せっかく挨拶に来てくれたのに、その態度はなんだ!」言葉と同時に、私を突き飛ばそうと腕を伸ばした。まるで私が明音に危害を加えるのを防ぐかのように。周囲は皆、面白半分に見ているだけで、私に手を差し伸べる者は誰もいない。私は思わず身を強張らせた。その時、すらりとした影が、私の前へ飛び出した。正人が両腕を広げ、私を庇うように立つ。「か……彼女をいじめるな!」隼人は呆れたように正人を見下ろし、鼻で笑った。「どこの馬の骨かと思えば……お前みたいなのがヒーロー気取りか?」周囲からくすくすと笑い声が漏れる。正人は耳を真っ赤にしたが、道を開こうとはしなかった。「腰抜けが、無理してヒーローごっこか?」隼人の声はさらに冷たさを増す。「兄にすら相手にされていない分際で、偉そうな口を叩くな。女を庇えば、自分がまともに見えるとでも思ったのか?」傍らで明音が口元を押さえ、くすりと笑った。正人は肩を激しく上下させ、何か言い返そうと口を開くが、言葉は喉に引っかかったまま出てこない。やがて彼は拳を強く握り締め、勢いよく腕を振り上げた。「ふざけるな!」その瞬間、明音が悲鳴を上げ、隼人の背後へ隠れる。会場は一気に大混乱に陥った。私はその隙に正人の袖を掴み、彼を会場から引きずり出した。彼は文句をぶつぶつ言いながらも、おとなしく私の後ろをついてきた。背後で隼人の怒り狂う声が聞こえた。「光希!今ここから出れば、グループ間の提携は即刻打ち切るぞ!」私は振り返らなかった。宮本グループのエネルギー事業は、ここ数年ずっと陣内グループの資金に支えられている。契約解除?好都合だ。そのまま阿部グループへ切り替えればいいだけだ。オフィスへ戻る道中、正人はず
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第4話

彼は即座に背筋を伸ばし、目を輝かせた。「言ってくれ!俺にできることなら何でもする!」迷いのない返事に、私は一瞬言葉を失った。「……阿部グループの燃料取引、あなたに決定権はある?」オフィスに、数秒の沈黙が落ちる。正人は理解が追いついていないのか、意味を察して戸惑っているのか、ぱちぱちと瞬きをした。彼は勢いよく頷いた。「ある、あるよ!兄さんが色々口を出してくるけど、担当自体は俺なんだ!」どこか自信なさげなのに、それでも誇らしさを隠しきれない声だった。私は彼を椅子に座らせ、手当てをしながら、阿部グループの事業について話を聞いた。言葉に詰まる場面は多いけど、自分の仕事の話になると驚くほど筋道立てて説明する。私はしばらく考え込み、それから綿棒を置いた。「兄に電話して。私が話したいって伝えてちょうだい」正人は昔から阿部グループの監視下に置かれているが、彼自身はまだそれに気づいていないようだった。なら、こそこそ動くより、正面から引きずり出した方が早い。先ほどまで輝いていた正人の瞳が、ふっと曇った。「あぁ……うん、分かった」俯いたままスマホを取り出し、小さく呟く。「そっか……結局、兄さんが必要なんだよね」目尻が赤く染まり、拗ねた子どものような声だった。どう声をかけるべきか迷っていると、スマホが震えた。明音からの着信だった。通話ボタンを押すと、あの甘ったるい声が聞こえてくる。「ねえ光希さん、隼人さんが酔っ払っちゃって。迎えに来てくれない?いつまでもウチにいられても困るし……」受話器の向こうからは、酔いつぶれた隼人の声がかすかに響いていた。「光希は……絶対に俺のところに戻ってくる……陣内グループのプロジェクトだって、結局は俺がいなきゃ回らないんだから……」私は無言で通話を切って、秘書の方を向き、淡々と言い放つ。「宮本グループとの取引をすべて解消して。引き揚げた資金は、そのまま阿部グループへ回してちょうだい」オフィスに再び静寂が戻った。振り向くと、正人はソファに座ったまま、貼ったばかりの絆創膏を何度もいじっていた。私は大きく息を吐いた。「ねえ、ゲームでもしてみない?」正人が顔を上げ、潤んだ瞳でこちらを呆然と見つめた。私は少し眉をひそめ、身を乗り出した。
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第5話

隼人はグラスを握り締め、低く問い返した。「今、何と言った?」「陣内グループから、正式な通知が届きました」秘書は声を震わせながら言った。「進行中のプロジェクトはすべて停止。既存契約も順次解消とのことです。違約金については陣内側が負担すると……」隼人は書類を乱暴に取り、目を通していくうちに表情が険しくなった。「ありえない」彼は書類をデスクに叩きつけた。「光希は何を考えてる?結婚直前のタイミングで、提携を切るだと?」明音が彼の傍らへ歩み寄り、優しい声で言った。「隼人さん、きっと一時的に感情的になっているだけよ。焦らないで。少し時間をおけば、また戻ってくるわ」隼人は何も言わず、ただ書類を見つめていた。「彼女の性格なら、ある程度は分かる」明音が話を続ける。「ああ見えて、本当は情が深い人だから。長年の関係を、彼女が簡単に捨てられるわけないわ。きっと今夜、正人の件で頭にきて、あなたに意地悪をしているだけよ」隼人は顔を上げ、彼女を見つめた。その視線は複雑で、どんな感情なのか自分でも説明がつかなかった。普段なら、明音のことを優しいと思い、素直に頷いていただろう。しかし今回は、正人の名前を聞き、胸の奥が鋭く痛むような違和感を覚えた。明音は彼に見つめられ少し戸惑ったが、すぐにまた優しい笑みを浮かべた。「隼人さん、そんなに心配しないで。酔い覚ましの薬でも飲んでゆっくり休んで。明日私が彼女を説得して、あなたたちを仲直りさせてあげるわ」そう言って彼に寄り添おうとしたが、隼人は身を引いた。明音の手が、宙に残される。「先に戻っていてくれ」隼人は背を向け、淡々と言った。「今夜のことは、自分で対処する」明音は一瞬だけ悔しさを滲ませたが、すぐに笑顔を作り直した。彼女が立ち去ると、部屋は静まり返った。隼人は窓のそばに立ち、一歩も動かなかった。スマホを握り締め、画面を点けては消す。連絡先の表示は、光希のページで止まったままだ。電話をかけるか?なんて言うんだ?狂っているのかと問いただすのか?それとも……『光希、戻ってくれ。俺が悪かった』と言えばいいのか。そんな思いが湧いた瞬間、隼人は自分でそれを打ち消した。自分が誰かに頭を下げるなど、これまであっただろうか?子
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第6話

スマホの画面が光り、私は正人と最後の契約確認をしていた。「もしもし?」「光希、俺だ」隼人の声は、何もなかったかのように響いた。「何の用?」「あの書類、確認した。どういうつもりだ?」「見たままよ。提携解消。もう関わらないで」電話越しに沈黙が落ちた。「光希」と隼人の声が柔らかくなる。「今夜は悪かった。みんなの前で恥をかかせるべきじゃなかった。でも会社の話まで持ち出す必要はないだろ。あのプロジェクトがどれほど重要か、知ってるはずだ……」「本気よ」私は冷静な口調で遮る。「隼人、まだ私が感情で動いてると思ってるの?明日になれば後悔する?あなたなしじゃ生きていけないとでも?」彼は言葉に詰まった。電話の向こうから荒い息が漏れる。数秒後、焦ったように声を上げた。「あのプロジェクトが止まれば、どれだけ損失が出ると思ってる。世間がどう見るか分かってるのか?」「だから?」私は静かに尋ねた。「撤回してほしいの?明日、取締役会で『衝動的でした』って言えと?婚約者の立場で、あなたが明音と仲良く並んでる姿を笑って見送れと?」「明音はただの……」「隼人、そんな嘘、だれが信じるの?」そう言って、ふと笑った。「嘘じゃない」彼の声が掠れる。「光希、戻ってくれ。話そう。秘書は変える。これからは……二度とあんな真似はしない」私は窓の外の夜景を眺め、小さく息を吐いた。「隼人。まだ分かってないのね」「何を?」「これは意地でも駆け引きでもない」私は一語一句、ゆっくりと言った。「もう、あなたなんていらないの」電話の向こうが、静まり返った。長い沈黙のあと、彼が再び口を開いた。かすかな震えと、抑えきれない怒りを込めていた。「陣内グループがいなくなったくらいで、俺が終わるとでも?思い上がりもいい加減にしろ!俺は自分ひとりの力でここまで来たんだ。お前なんていなくたって成功できる!」「どうぞお好きに」私はそのまま電話を切った。画面が暗くなった瞬間、あたりがしんと静まり返った。怒りも悲しみもなく、胸にはさざ波一つ立たなかった。人を本当に手放す時というのは、こういうものなのか。私はスマホをデスクに置き、振り向いたら、正人と目が合った。彼はソファに座り、私が電話
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第7話

正人の瞳が少しずつ見開かれた。「え?」その表情があまりに無邪気で、私は思わず笑ってしまった。「ここ数年の阿部グループ、実権を握っているのは裕也さんでしょ?」私は隣に座り、声を潜めた。「でも、彼が裏でやっていることを、あなたも全部把握しているわけじゃないでしょう?あなたはエネルギー資源の取引を任されている。これまで、いろんな相手と接してきたはずよ」どうして彼があなたをそのポストに置いたまま、他の仕事には一切触れさせないのか考えたことはある?」正人は呆然と私を見つめている。「俺は……」「私は裕也さんと手を組むつもりはないわ。彼をその座から引きずり下ろすつもりよ。そして……」私は言葉を切った。「次にあの席へ座るのは、あなた」正人の息が止まった。瞳の中では困惑と驚きが渦巻いていた。「君……」彼の声が震え、喉仏が小さく動いた。「本気なのか?」「冗談で言っているわけないでしょう」正人の目元が、ふっと熱を帯びた。彼は視線を落とし、何度か瞬きをした。長い沈黙の末、かすれた声で呟く。「今まで……そんな風に言ってくれる人は、誰もいなかった」私の心臓が、少し痛んだ。彼はとても聡明なのに、自分を出すのが苦手なだけなのだ。兄に押さえつけられ、周囲には馬鹿にされて、これだけ努力しているのに、誰にもチャンスをもらえなかった。隼人のような人間ですら、公然と彼を『出来損ない』と呼んだ。それなのに前世の彼は、誰もが私から離れていったあの日、最後まで手を差し伸べてくれた。「だから……」私は声を和らげた。「私と一緒に来てくれる?」正人は勢いよく頷いた。「ああ!」そう答えたあと、念を押すようにもう一度言う。「もちろん!」その姿を見て、今回のこの決断は間違っていなかったのだと確信した。「ただ……」正人がふと思い出したように、おずおずと口を開いた。「隼人さんの電話に、本当にもう出ないのか?」「ええ」「でも……またかかってきたら?」「ブロックよ」彼は一瞬きょとんとした後、笑い声を漏らした。その笑い方は少し呆けていたけれど、どこか温かかった。つられるように、私まで口元が緩む。「さて、仕事の話に戻りましょうか」私はタブレットを取り出した。「あなたが
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第8話

飲んでいたお茶を吹き出しそうになった。「……なんて?」「君を落とそうとしてるのさ」彼は真面目な顔でそう言った。「そうすれば怪しまれないだろう?兄さんは陣内家との繋がりが欲しいから。君を通して事業を広げたいって、ずっと思ってるし」そんな彼を呆然と眺めて、なんて言葉を返すべきか迷った。彼は逆に笑い出した。「結構いい作戦だと思わない?」「……確かに、悪くないかもね」彼は嬉しそうに目を細めて笑った。その瞬間、ふと気づいた。彼にはまだ、少年のような無垢さが残っている。二十歳を過ぎているのに、どこか子供みたいな人だ。私は視線を逸らし、彼に書類を差し出した。「これにサインして」「これは?」「株式譲渡契約書よ」正人は中身を見ようともせずにペンを取ろうとする。「中身を確認しなくていいの?」「大丈夫だよ」彼は首を振る。「君が俺を騙すわけないだろ」不器用な手つきで署名する彼を見て、胸がぎゅっと締め付けられた。本当に、お人好しだ。……裕也を追い落としたその日は、抜けるような青空だった。決定的な証拠を提出したのは、正人自身。裕也が連行されていく間、正人はオフィスの窓辺に立ったまま、遠ざかる車をずっと見つめていた。「つらい?」彼は首を振り、そして小さく頷いた。私は隣に並んだが、何も言わなかった。しばらくして、彼がぽつりと呟く。「小さい頃は、本当に優しい兄さんだったんだ。字を教えてくれたり、凧揚げに連れて行ってくれたり、いじめられた時も、すぐ助けてくれた。……どうしてこうなったんだろうな」窓から吹き込む風が、彼の髪を揺らす。振り向いた彼の目元が赤かったが、泣いてはいなかった。「行こう」私は静かに声をかけた。「夜には大事な会議があるの。出席してもらわないと」彼は頷いて後ろを歩き、ドアの前で立ち止まった。「光希」私は振り返る。逆光で、彼の表情はよく見えなかった。「ありがとう」私は彼を見つめ、少し微笑んだ。「さあ、社長」裕也がおりてから、三週間後、オフィスに隼人が現れた。すっかり痩せ細り、青髭が目立ち、目の下には濃い隈があった。「光希」名を呼ぶ彼の声はかすれている。「少し話せるか?」「何を?」彼は唇を噛み締め、決意して口を開
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第9話

「彼女に触れるな」正人の声は、驚くほど落ち着いていた。隼人は目の前の彼を見て、何とも言い難い表情を浮かべた。怒りと悔しさ、そして説明できない嫉妬が混じり合っていた。「正人」隼人は奥歯を噛み締めるように言った。「お前、何様のつもりだ?」正人は一歩も退かなかった。「何だろうと関係ない」と彼は言った。「とにかく、彼女には指一本触れさせない」私は彼の背後に立ち、その広い背中を見ていて、あの日のパーティーを思い出した。あの時も、彼はこうして私の前に立ち塞がってくれた。不器用だけど、どこまでも真っ直ぐだった。隼人は鼻で笑った。「光希がお前を本当に相手にしてるとでも思ってるのか?ただ、俺を怒らせるための道具にされてるだけだぞ。彼女ほどの女が、どうしてお前みたいな出来損ないなんて選ぶ?」正人の肩がわずかに強張った。私は前へ出て、彼と肩を並べた。「隼人」私は真っ直ぐ彼を見て、冷ややかな声で言った。「彼は出来損ないじゃない」隼人の顔色が変わる。「彼を選んだのは、私よ」正人の長い睫毛が震えた。彼が横を向くと、瞳の中に柔らかな光が灯った。隼人の表情からは、完全に精気が消え失せた。何かを言おうと口を開くが、一言も発することができないようだった。「行きましょう」私はそう言った。隼人を振り返ることもせず、正人の手を引いてその場を去った。背後から、掠れた絶望混じりの隼人の声が聞こえた。「光希……本当に、俺との過去に何一つ未練がないのか?」私は足を止めたが、振り向くことはなかった。「過去?」小さく、ふっと笑みが漏れた。「隼人、未練なんて、とっくになくなってるわ」エレベーターの扉が閉まり、隼人の姿が視界から消えた。正人は私の隣で、ずっと黙って俯いたままだった。「どうかしたの?」彼は小さく首を振り、抑えた声で「ううん、別に」と言った。そんな彼を見ていると、馬鹿真面目な彼の性格が愛おしくなる。「ねえ、正人」彼が顔を上げた。私は目元を細めて、微笑んだ。「さっきの話を、聞いていた?」「何?」「彼は出来損ないじゃない、彼を選んだのは私よ。……ってとこ」彼の耳が、みるみるうちに赤くなっていった。彼は口をパクパクさせた後、やっと一言ひねり出した。「……あ
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