Todos los capítulos de 母の愛から逃げた日: Capítulo 1 - Capítulo 9

9 Capítulos

第1話

私・山口陽菜(やまぐち ひな)の記憶にある限り、母が私を「大事に思っている」と口にしたのは、たった三度だけだった。1回目は、私が文系に進もうとした時だ。平手打ちされたあと、母は私を強く抱きしめ、こう言った。「お母さんの言う通り、理系に行きなさい。お母さんは陽菜のことを誰より大事に思ってるの」私は母に従い、理系を志望した。2回目は、7浪目でも都内の医学部に落ちた時だ。別の好きな教育系に進みたいと話したら、母は泣き崩れ、気を失いそうになり、こう言った。「医者ほど安定した仕事はないの。陽菜を大事に思っているから言っているのよ、どうして分かってくれないの?」私は母に従い、さらに2浪してやっと医学部に入学した。3回目は、10歳年上の男との結婚を拒んだ時だ。会ったばかりの男が、私のお尻を触ってきたからだ。そして母は、その男がどれほど条件のいい相手かを、一晩中言い聞かせた。「これだけ歳が離れていれば、きっとあなたを可愛がってくれるわよ。お母さんがこんなにもあなたを大事に思っているのに、悪い相手を紹介するわけないでしょう?」私は結局、母に従い翌日には役所の婚姻届の窓口でその男と並ぶことになった。事実、母の言った通りだった。その男は、私を痛いほど可愛がってくれた。殴られ続けた私は、最後には息絶え、体は人の形をとどめていなかった。私の死亡診断書が渡された時、母は反射的にそれを払いのけた。「ありえない。あの子は私の期待通りに生きてきたんだから、幸せでいるはずでしょう。死ぬなんてあるわけないでしょ?」結局、理系に進ませること、医学部へ入らせること、そして10歳年上の男と結婚させることは、母にとっての長年の未練だったのだ。母が愛していたのは私ではなく、自分が思い描いた未来の姿だったのだ。私はその偽りの愛のために、自分自身の人生を母の代役として過ごしてしまった。目を開けると、母の手が今まさに私の頬へ振り下ろされようとしていた。机の上には理系クラスへの変更申請書があった。私は身をかわし、その紙をビリビリに破り捨てた。「お母さん。もう、そんな愛なんていらない」私の声は小さかったが、揺らぎのないものだった。紙片が空中で音もなく舞い、まるで冬の初雪のようだった。母は目を赤くして立ち尽くし、髪に紙片をいくつもつけ
Leer más

第2話

ふと、この表彰状をもらった日のことを思い出した。先生は私の肩を叩いてこう言ったのだった。「私の大学時代の友人が、東都中央大学で教えていてね。山口さんの歴史の答案を読んで、たいそう感心していたよ。山口さんの見解は、テスト用の模範解答をなぞるだけじゃなくて、とても鋭い視点があると言っていた。2年後に十分な点数が取れたら、ぜひとも自分のゼミがある東都中央大学歴史学部を受けてほしいと、心待ちにしているそうだ」この言葉は種のように心に植え付けられ、少しずつ芽を出していった。夢の中で私は何度も、東都中央大学のキャンパスで、一度も会ったことはないけれど私を評価してくれたその先生に、深く頭を下げていた。けれど前世では、母の「大事に思っている」という嘘を信じ、半ば無理やり理系クラスへ移されてしまった。もともと文系が得意だった私は、その心残りもあってやる気を見失った。優秀だったはずの成績は一気に落ち、大学入学共通テストでは進学の最低ラインにさえ届かなかった。そのあと9年も浪人を繰り返し、夢を追いかける気力さえ消え去り、死ぬまでその夢を思い出すことさえなかった。けれど時を遡った今、文系へ進んで東都中央大学の歴史学部へ行くという目標が、前よりずっとはっきり見えている。今度はもう、まな板の上の魚にはならない。自分の未来は、自分で切り開く。私が何も言い返さないのを見て、母は納得したと受け取ったようだ。すぐに私を引っ張って外に出ると、学校へ駆け込み、校長に理系クラスへの変更を願い出た。私は慌てて母の袖を掴み、言った。「お母さん、分かってるよ。理系を勧めるのは、医学部を受けてほしいからでしょ?調べたんだけど、文系からでも受けられる医学部はあるんだよ。それに文系なら成績も安定するし、その方がずっと合格に近いから」心臓が跳ねるのを隠しながら、私は母をじっと見つめた。医者になれなかったことが、母の生涯の心残りだと後で知った。母が執拗に理系へ進ませたがるのも、医学部の選択肢を増やすためだと推測した。だから賭けに出ることにした。いわゆる「医者にする」という目的のためなら、母はどこまで譲るのか?母の足が止まった。この1秒が、まるで1年にも感じられた。ようやく母は私の方を振り返り、その瞳には、かすかに狂気じみた熱が宿っていた。
Leer más

第3話

私が母の望む「人生」を受け入れたと思っていたでしょう。でも、私は一度も抵抗を諦めてなんていなかった。夜中、何度画面を開いただろう。東都中央大学の歴史学部の合格ラインを、穴が開くほど眺めていた。険しい道だということは分かっている。母が黙っていないことも。それでも、この道を突き進むしかない。共通テスト直前の模擬試験で、母は私以上にピリピリしていた。成績を確認しては、医学部に進める点数に届いているか何度も確かめていた。大学入試の日が近づくにつれ、母は一層、異様な熱を帯びていった。幸い、成績が安定して目標を超えていたので、母も私に対して少しだけ警戒を解いていた。週に一度の休みの日には、昼の3時間を使って小さな食堂でホールのアルバイトをしていた。稼ぎは僅かだった。それでも、自分で未来を選ぶための資金だと思うと心が落ち着いた。最後の模試で、母は成績表を見て初めて笑顔を見せた。「765点!先生も言ってたわ、これなら絶対に医者になれるって!」合格通知書そのもののように、その成績表を何度も何度も読み返していた。共通テスト当日、母の気合いの入りようは尋常ではなかった。食事にはいつも以上に気を配り、わざわざ高価な栄養食品まで用意していた。電動自転車に乗るときも、私が日焼けしないよう帽子や日焼け止めを用意してくれた。それを見て、クラスメートがうらやましげに声をかけてきた。「陽菜のお母さんは本当に陽菜のことを大切にしてるね」それを聞いて、母はにっこりと答えた。「ええ、この子のことを誰よりも大事に思っているからね」私はただ前を見て、振り返ることなく歩き続けた。この過剰な愛こそが、私の息の根を止める凶器になる。テストの結果はすぐに出た。770点。母は狂喜乱舞し、わざわざ近所に触れ回るほど、大げさに祝った。執拗なほど、何度も何度も確認を求めてきた。「これなら絶対、医学部に受かるわよね?」その度に、私は引きつった笑顔で「はい」と答えた。母は私をきつく抱きしめた。まるで10代の少女のように嬉し泣きしながら。出願の日、母は私の受験用アカウントに勝手にログインすると、全ての欄を医学部で埋め、パスワードを書き換えてしまった。「陽菜、この学校ならお母さんが厳選したトップの医学部よ。ここなら絶対大丈夫」
Leer más

第4話

どれくらい時間が経っただろうか。母はようやく声を絞り出した。「陽菜、私と本気で縁を切るつもりなの?」すると母は激昂して、ビリビリに破いた合格通知書を私の顔に叩きつけてきた。長年取り繕っていた善人の仮面が、初めて剥がれ落ちた瞬間だった。破れた合格通知書の紙片の縁が、私の頬を切った。それでも怒りが収まらないのか、母は私を指さして叫んだ。「あれほどあなたを大事にしてきたのに、嘘をついてまで、私と縁を切るっていうの!?そんなの、私の愛情に対する裏切りじゃない!?」頬を伝う血を指で拭う。傷口がチリチリと痛むけれど、その感覚になぜかひどく落ち着かされた。前世で殴り殺された時の苦しみに比べれば、これくらい大したことはない。これは夢ではない。前世とは違う現実が、確かに進んでいる。母の涙は、またしても図ったようにこぼれ落ちた。昔からそうだ。愛で縛れないと分かれば、今度は涙で私を押し流そうとする。私がまた「お母さん、もう泣かないで。私が悪かったわ。全部言うことを聞くから」と縋り付いてくるのを待っているのだろう。でも、もうそんな言葉は出てこない。私は無表情のまま、ただ立ち尽くして母を見ていた。母を気遣い、母の気持ちを汲もうとしていた私は、もうどこにもいない。母が差し向けてくる「愛情」という名の鋭利な矢に刺されて、とっくに死んでしまったからだ。今はただ、泣き続ける母を静かに眺めているだけ。涙で私を動かそうとするその手が、もう二度と通用しないことを知ればいい。30分ほど過ぎたころ、私が一向に動じない様子を見て、母の泣き声が小さくなった。母はしゃくりあげながら、今度は柔らかい口調で言ってきた。「陽菜、浪人したらどう?頑張り直せばいいじゃない?歴史なんて将来性のないものはやめて、医学部に行きなさい。陽菜の将来のために言ってるのよ」私は言葉を遮った。一切の妥協はしない。「浪人するつもりはないよ。歴史学部に行くわ。合格通知書を破ったところで、合格が消えるわけじゃない。大学には私から連絡する。住所も大学の近くに移すから。学費も生活費もアルバイトで稼ぐよ。お母さんのお金は一切使わない。今日から、お母さんとはもう一切関わらない」母は喉が裂けるほど叫んだ。「そんなことのために、そこまでしなきゃ
Leer más

第5話

母は、昔10歳年上の男と付き合っていたが、祖父に「年が離れすぎている」と反対され、無理やり引き離されて父と結婚させられたそうだ。母が結婚して間もなく、祖父は他界した。母が父と結婚して私が生まれて2年目に、父は不倫をして家を出ていった。一方で、昔の恋人の男はその後ビジネスで成功し、今や小さな会社の社長になっていた。その事実を知った途端、母は静かに壊れていった。自分を支配し抑圧していた祖父はもうおらず、怒りをぶつける相手も、苦しみを訴える相手もいなかった。母は、もしあの時自分の当初の計画通りに進んでいれば、幸せになれたはずだと信じていた。それをすべての人に証明するため、母は私に怒りをぶつけていた。前世で理不尽に命を奪われた痛みを思い出し、私はリビングの中央で蒼白になっている母に向かって言い放った。「以前ならお母さんを可哀想だと思ったかもしれない。でも、私の幸せや人生を、お母さんのための犠牲にしていいはずがないわ。今日から私は、自分で決めた道を生きる。誰かのための捨て駒にはならないし、どんな『愛情』にも縛られない」そうして、泣き叫んで縋り付いてくる母を突き放し、ドアを力強く閉めた。十数年暮らしたこの家を最後に一目見て、私は振り返ることなく去った。その後も私は変わらず、黙々と働き、お金を貯める毎日だった。ただ前と違ったのは、東都中央大学歴史学部の合格通知書があるおかげで、家庭教師の仕事を始められたことだった。二度の人生で何度も大学入試を経験した私は、問題の傾向を多くの教師以上に把握していた。私の評判は口コミで広がり、家庭教師を希望する親たちが増えていった。わずか2ヶ月で、一年目の学費と生活費を用意できた。その間も、母からは何度も連絡が来た。内容は相変わらず、「歴史学部なんて何の役に立つの?」といった小言だ。「医学部なら将来性がある、私は陽菜のためを思って言っている」という主張ばかり。私は母の連絡先をミュート設定にして、一言も返さなかった。しばらくして、母は勝手に自分の孤独や昔の想いを語り始めた。かつての自分も、私と同じくらい成績優秀で、同じように夢を抱いていたのだと。それでも当時の祖父は独裁的で、自分に対しても同じように「愛」という名の束縛で夢を捨てさせたのだ、と。だからこそ
Leer más

第6話

前世のことを、母に話したのはこれが初めてだった。母からすぐに音声メッセージが届いた。声は震えていた。「陽菜、何言ってるの?さっぱり分からないわ」母に理解してもらえるかどうかなんて、どうでもいい。私は、前世からずっと自分を苦しめてきた男の名前を母に送りつけた。スマホに続けて打ち込んだ。【この男のこと、調べてみればいいよ。前世、私が結婚を強要された男よ。酒、女遊び、ギャンブルと、悪行を尽くすような男だったのに、それでもお母さんは、私をあの男に嫁がせたのよ】メッセージを送信すると、空港のスタッフが近づいてきて、笑顔でスマホの電源を切るよう促した。私は頷いて母をブロックリストに入れ、慣れた手つきでスマホの電源を切った。飛行機が離陸し、私の過去を置き去りにし、新しい未来へ向かって飛び立った。東都中央大学の門に着くと、4月の柔らかな日差しが私を包み込んでくれた。案内してくれる先輩たちについて、キャンパスへと歩みを進めた。校門をくぐった瞬間、胸が熱くなり、目が潤んだ。前世で何度も夢見た憧れの場所。暗闇のような人生の、唯一の希望の光だった。「山口さん」年配の、優しそうな声に呼び止められた。振り向くと、そこには知的な雰囲気の女性が立っていた。初対面だけど、すぐに分かった。前世で私を認めてくれた教授、安藤睦月(あんどう むつき)だった。睦月は私に向かって微笑んだ。「私が山口さんのクラスの……」言葉の途中で、私は深くお辞儀をした。「安藤先生、こんにちは。ずっとお会いしたかったです」二人の視線が真っ直ぐに重なる。睦月は優しく肩を叩いてくれた。「私のいる歴史学部を選んでくれてありがとうございます。山口さんの成績なら、もっと別の選択肢もあったでしょうに」私は首を振った。「先生には感謝しかありません」誰にも頼れなかった頃、唯一私を見ていてくれたのが先生だったから。……私の新しい生活が始まった。前世があるからこそ、大学生活の一日一日が本当に愛おしかった。歴史学部の授業は、高校時代の想像をはるかに超える奥深い世界だった。古い資料と向き合い、細かくチェックしていく作業に没頭する毎日。それから間もなく、私を高く評価してくれた睦月が、研究室へ呼びに来てくれた。睦月は温
Leer más

第7話

睦月は私への評価を、決して隠そうとはしなかった。ゼミの定例会では、並み居る先輩たちの前で堂々と私を褒めてくれ、史料の真偽を見極める術や、無機質な記録にどう温もりを宿らせるかを、根気強く指導してくれた。私が資料整理で徹夜をしていると、そっと温かいコーヒーを差し入れ、優しい声でこう言ってくれるのだ。「無理は禁物よ、体が資本なんですから。でもね、分かっていますよ。山口さんの心には、激しく燃え盛る火が宿っていることを」私は自らの努力で、独立した自由な人間としての生き方を手に入れた。生き直したこの人生で、自分の道を一歩ずつ着実に歩んできた。前世という牢獄をようやく抜け出し、望んでいた自分になれたのだと、確信していた。だが、母の執着だけは、一向に止む気配がなかった。最初の頃、母の口から出るのは相変わらず言い訳と非難ばかりだった。【調べたわよ。その『10歳も年上の男』なんて、どこにもいやしないじゃない!】私は胸がざわついた。そんなはずはない。あの男は間違いなく実在するのだ。なのに、なぜ今世の母は彼を見つけられないというのか?私が返信する間もなく、母からのメッセージが立て続けに届く。【嘘をついてるでしょ?私を怒らせるために、わざとそんな作り話をしたのね。医学部に行きたくないから、私の言うことを聞きたくないからって!】【陽菜、言っておくけど、そんな歴史学部を卒業したって仕事なんてないわよ。いつか必ず後悔するわ!今すぐ戻って浪人しなさい。まだ間に合うから!】【本当に親不孝な子ね!苦労して育てて、学費まで出してやったのに、これが恩返しのつもり?私の愛情を無下にするなんて!】かかってくる電話は、出るたびに金切り声の怒号が響き、私の選択を否定し、己の執念を押し付けてくるだけだった。私は深く息を吸い込み、それらすべてを無視することにした。例の男がいようがいまいが、もう母と関わりたくはなかったし、感情的に振り回されるのも御免だった。だがある日突然、電話口から聞こえてきたのは怒号ではなく、謝罪だった。「陽菜、お母さんが間違っていたわ……」母は苦しげにこう告げた。「例の男のこと、分かったのよ」それは、ある時たまたま耳にした噂がきっかけだったという。母は、その男の名前は私のでっち上げだと思い込んでいたのだが
Leer más

第8話

かつて母が無視し、忘れ、抑え込んでいた記憶のすべてが、この瞬間、溢れ出してきた。あらゆる罪悪感、後悔、恐怖のすべてが、一瞬で母を飲み込んだ。母は狂ったように何度も電話をかけてきた。受話器越しの声は、ひどくかすれていた。「陽菜、お母さんは前世で、本当にあなたをあんなふうに死なせてしまったの?」私はスマホを握りしめ、黙り込んだ。私の沈黙は、何よりはっきりした肯定だった。電話の向こうから、耐えきれなくなった母の慟哭が聞こえてきた。その泣き声は、まるで今世の悔い全てを吐き出そうとするかのように、心を引き裂く響きがしていた。「ごめんなさい、陽菜。お母さんが間違ってたわ。陽菜を地獄へ突き落とした、どうしようもない人間だわ」母は長い時間泣き続けた。今までとは違う、心の底からの本気の涙だった。私は静かに聞いていた。心には憎しみも恨みもなく、ただ凪のように穏やかだった。最後に、私の傷に触れるのを恐れるように、母はおそるおそる尋ねた。「陽菜、やっぱりお母さんのことを恨んでる?縁を切ろうとするくらいに」私は軽く笑みを浮かべ、淡々と答えた。「別に、恨んではいないわ。恨むっていうのは、とても疲れることよ。お母さんを恨み続けることに、時間も気力も使いたくない。今の生活はとても幸せよ。私にとって、お母さんと私はもう完全に無関係な人間同士なの。お母さんの人生や執念、悔恨、どれ一つとっても、私には何も関係ない」私の言葉は冷や水となって、母に残されていた最後の希望を消し去った。電話の向こうが急に静かになり、荒い息遣いだけが残った。それ以上聞く必要もなく、私は静かに電話を切った。迷うことなく、その電話番号をブロックリストに入れた。これからは、遠い場所で別々の道を歩んでいけばいい。私は振り返り、食事に戻った。プロジェクトメンバーたちが、テーブルを囲むようにぎっしりと座って、睦月もその中で穏やかな表情で私を見ていた。私が座ると、一人の女子学生が何気なく尋ねた。「陽菜ちゃん、誰からの電話だったの?長かったみたいだけど」私は首を振り、穏やかで淡々とした声で返した。「もう関係のない人よ」そう言うと、皆は互いに顔を見合わせて微笑み、それ以上は聞かなかった。その女子学生が手を叩いて明るく言った。
Leer más

第9話

その男子学生の言葉で、教室内は一瞬で静まり返った。皆、私がどう答えるのか気になって、視線を集中させている。教壇から私は前列の若い男子学生を見つめ、前世の自分を思い出した。あの頃は私は、医学部に進むことだけが将来につながるのだと、母に執拗に刷り込まれていた。人生には選択肢なんてなく、誰かの期待に応えることだけが、正しい生き方だと思い込んでいた。私は穏やかに、自信に満ちた笑みを浮かべて返した。「あなたの言う通り、歴史はたしかに役に立たない学問かもしれません」私の声は明瞭に、教室の隅々にまで響き渡った。「でもね、この世界には、実用性を追い求める人だけでなく、一見役に立たないものを守る人も必要なんです。むしろ歴史の『役に立たない』というところが、一番の価値なんです。歴史は、人類がどこから来たのかを一つひとつ刻み、苦難も、目覚めも、そこに宿る光も記録してきました。私たちが歩んできた道を示し、人としての深みを与えてくれるものなのです」私は一度言葉を切り、若者たち一人一人の顔を見渡しながら言い切った。「誰かに言われた『将来性』なんて言葉に、自分の一生を定義させる必要はありません。道は無数にあるし、どんな生き方をしたっていいのです。他人の期待に縛られる必要はありません。自分が幸せだと感じられる道こそが、いちばん良い道なのです」私の言葉が終わると、教室には10秒ほどの静寂が流れた。直後、割れんばかりの拍手が湧き起こった。教壇からその光景を眺めていると、胸の奥にようやくすべてを手放せたような安らぎと温かさが広がった。終業のチャイムが鳴り、学生たちが席を立っていく。教室を出ようとした時、知らない番号からメッセージが届いた。とても短い文面だった。【講義、素晴らしかったわ】私の指先が、わずかに止まった。誰なのか、聞くまでもなかった。母だ。母がこの教室に来ていた。教室の隅に座り、私の話を最後まで聞いていたのだ。母は姿を見せることも、私の時間を邪魔することもしなかった。自分が描いた理想の道ではなく、私には私自身の生き方があることを、やっと認めてくれたのだろう。スマホを見つめたまま、私は返信はしなかった。静かにロックをかけ、バッグにしまった。過ぎ去った日々は、もう遠い思い出に
Leer más
ESCANEA EL CÓDIGO PARA LEER EN LA APP
DMCA.com Protection Status