登入私・山口陽菜(やまぐち ひな)の記憶にある限り、母が私を「大事に思っている」と口にしたのは、たった三度だけだった。 1回目は、私が文系に進もうとした時だ。平手打ちされたあと、母は私を強く抱きしめ、こう言った。 「お母さんの言う通り、理系に行きなさい。お母さんは陽菜のことを誰より大事に思ってるの」 私は母に従い、理系を志望した。 2回目は、7浪目でも首都の医学部に落ちた時だ。 別の好きな教育系に進みたいと話したら、母は泣き崩れ、気を失いそうになり、こう言った。 「医者ほど安定した仕事はないの。陽菜を大事に思っているから言っているのよ、どうして分かってくれないの?」 私は母に従い、さらに2浪してやっと医学部に入学した。 3回目は、10歳年上の男との結婚を拒んだ時だ。会ったばかりの男が、私のお尻を触ってきたからだ。 そして母は、その男がどれほど条件のいい相手かを、一晩中言い聞かせた。 「これだけ歳が離れていれば、きっとあなたを可愛がってくれるわよ。お母さんがこんなにもあなたを大事に思っているのに、悪い相手を紹介するわけないでしょう?」 私は結局、母に従い翌日には役所の婚姻届の窓口でその男と並ぶことになった。 事実、母の言った通りだった。その男は、私を痛いほど可愛がってくれた。殴られ続けた私は、最後には息絶え、体は人の形をとどめていなかった。 私の死亡診断書が渡された時、母は反射的にそれを払いのけた。 「ありえない。あの子は私の期待通りに生きてきたんだから、幸せでいるはずでしょう。死ぬなんてあるわけないでしょ?」 結局、理系に進ませること、医学部へ入らせること、そして10歳年上の男と結婚させることは、母にとっての長年の未練だったのだ。 母が愛していたのは私ではなく、自分が思い描いた未来の姿だったのだ。 私はその偽りの愛のために、自分自身の人生を母の代役として過ごしてしまった。 目を開けると、母の手が今まさに私の頬へ振り下ろされようとしていた。机の上には理系クラスへの変更申請書があった。 私は身をかわし、その紙をビリビリに破り捨てた。 「お母さん。もう、そんな愛なんていらない」
查看更多その男子学生の言葉で、教室内は一瞬で静まり返った。皆、私がどう答えるのか気になって、視線を集中させている。教壇から私は前列の若い男子学生を見つめ、前世の自分を思い出した。あの頃は私は、医学部に進むことだけが将来につながるのだと、母に執拗に刷り込まれていた。人生には選択肢なんてなく、誰かの期待に応えることだけが、正しい生き方だと思い込んでいた。私は穏やかに、自信に満ちた笑みを浮かべて返した。「あなたの言う通り、歴史はたしかに役に立たない学問かもしれません」私の声は明瞭に、教室の隅々にまで響き渡った。「でもね、この世界には、実用性を追い求める人だけでなく、一見役に立たないものを守る人も必要なんです。むしろ歴史の『役に立たない』というところが、一番の価値なんです。歴史は、人類がどこから来たのかを一つひとつ刻み、苦難も、目覚めも、そこに宿る光も記録してきました。私たちが歩んできた道を示し、人としての深みを与えてくれるものなのです」私は一度言葉を切り、若者たち一人一人の顔を見渡しながら言い切った。「誰かに言われた『将来性』なんて言葉に、自分の一生を定義させる必要はありません。道は無数にあるし、どんな生き方をしたっていいのです。他人の期待に縛られる必要はありません。自分が幸せだと感じられる道こそが、いちばん良い道なのです」私の言葉が終わると、教室には10秒ほどの静寂が流れた。直後、割れんばかりの拍手が湧き起こった。教壇からその光景を眺めていると、胸の奥にようやくすべてを手放せたような安らぎと温かさが広がった。終業のチャイムが鳴り、学生たちが席を立っていく。教室を出ようとした時、知らない番号からメッセージが届いた。とても短い文面だった。【講義、素晴らしかったわ】私の指先が、わずかに止まった。誰なのか、聞くまでもなかった。母だ。母がこの教室に来ていた。教室の隅に座り、私の話を最後まで聞いていたのだ。母は姿を見せることも、私の時間を邪魔することもしなかった。自分が描いた理想の道ではなく、私には私自身の生き方があることを、やっと認めてくれたのだろう。スマホを見つめたまま、私は返信はしなかった。静かにロックをかけ、バッグにしまった。過ぎ去った日々は、もう遠い思い出に
かつて母が無視し、忘れ、抑え込んでいた記憶のすべてが、この瞬間、溢れ出してきた。あらゆる罪悪感、後悔、恐怖のすべてが、一瞬で母を飲み込んだ。母は狂ったように何度も電話をかけてきた。受話器越しの声は、ひどくかすれていた。「陽菜、お母さんは前世で、本当にあなたをあんなふうに死なせてしまったの?」私はスマホを握りしめ、黙り込んだ。私の沈黙は、何よりはっきりした肯定だった。電話の向こうから、耐えきれなくなった母の慟哭が聞こえてきた。その泣き声は、まるで今世の悔い全てを吐き出そうとするかのように、心を引き裂く響きがしていた。「ごめんなさい、陽菜。お母さんが間違ってたわ。陽菜を地獄へ突き落とした、どうしようもない人間だわ」母は長い時間泣き続けた。今までとは違う、心の底からの本気の涙だった。私は静かに聞いていた。心には憎しみも恨みもなく、ただ凪のように穏やかだった。最後に、私の傷に触れるのを恐れるように、母はおそるおそる尋ねた。「陽菜、やっぱりお母さんのことを恨んでる?縁を切ろうとするくらいに」私は軽く笑みを浮かべ、淡々と答えた。「別に、恨んではいないわ。恨むっていうのは、とても疲れることよ。お母さんを恨み続けることに、時間も気力も使いたくない。今の生活はとても幸せよ。私にとって、お母さんと私はもう完全に無関係な人間同士なの。お母さんの人生や執念、悔恨、どれ一つとっても、私には何も関係ない」私の言葉は冷や水となって、母に残されていた最後の希望を消し去った。電話の向こうが急に静かになり、荒い息遣いだけが残った。それ以上聞く必要もなく、私は静かに電話を切った。迷うことなく、その電話番号をブロックリストに入れた。これからは、遠い場所で別々の道を歩んでいけばいい。私は振り返り、食事に戻った。プロジェクトメンバーたちが、テーブルを囲むようにぎっしりと座って、睦月もその中で穏やかな表情で私を見ていた。私が座ると、一人の女子学生が何気なく尋ねた。「陽菜ちゃん、誰からの電話だったの?長かったみたいだけど」私は首を振り、穏やかで淡々とした声で返した。「もう関係のない人よ」そう言うと、皆は互いに顔を見合わせて微笑み、それ以上は聞かなかった。その女子学生が手を叩いて明るく言った。
睦月は私への評価を、決して隠そうとはしなかった。ゼミの定例会では、並み居る先輩たちの前で堂々と私を褒めてくれ、史料の真偽を見極める術や、無機質な記録にどう温もりを宿らせるかを、根気強く指導してくれた。私が資料整理で徹夜をしていると、そっと温かいコーヒーを差し入れ、優しい声でこう言ってくれるのだ。「無理は禁物よ、体が資本なんですから。でもね、分かっていますよ。山口さんの心には、激しく燃え盛る火が宿っていることを」私は自らの努力で、独立した自由な人間としての生き方を手に入れた。生き直したこの人生で、自分の道を一歩ずつ着実に歩んできた。前世という牢獄をようやく抜け出し、望んでいた自分になれたのだと、確信していた。だが、母の執着だけは、一向に止む気配がなかった。最初の頃、母の口から出るのは相変わらず言い訳と非難ばかりだった。【調べたわよ。その『10歳も年上の男』なんて、どこにもいやしないじゃない!】私は胸がざわついた。そんなはずはない。あの男は間違いなく実在するのだ。なのに、なぜ今世の母は彼を見つけられないというのか?私が返信する間もなく、母からのメッセージが立て続けに届く。【嘘をついてるでしょ?私を怒らせるために、わざとそんな作り話をしたのね。医学部に行きたくないから、私の言うことを聞きたくないからって!】【陽菜、言っておくけど、そんな歴史学部を卒業したって仕事なんてないわよ。いつか必ず後悔するわ!今すぐ戻って浪人しなさい。まだ間に合うから!】【本当に親不孝な子ね!苦労して育てて、学費まで出してやったのに、これが恩返しのつもり?私の愛情を無下にするなんて!】かかってくる電話は、出るたびに金切り声の怒号が響き、私の選択を否定し、己の執念を押し付けてくるだけだった。私は深く息を吸い込み、それらすべてを無視することにした。例の男がいようがいまいが、もう母と関わりたくはなかったし、感情的に振り回されるのも御免だった。だがある日突然、電話口から聞こえてきたのは怒号ではなく、謝罪だった。「陽菜、お母さんが間違っていたわ……」母は苦しげにこう告げた。「例の男のこと、分かったのよ」それは、ある時たまたま耳にした噂がきっかけだったという。母は、その男の名前は私のでっち上げだと思い込んでいたのだが
前世のことを、母に話したのはこれが初めてだった。母からすぐに音声メッセージが届いた。声は震えていた。「陽菜、何言ってるの?さっぱり分からないわ」母に理解してもらえるかどうかなんて、どうでもいい。私は、前世からずっと自分を苦しめてきた男の名前を母に送りつけた。スマホに続けて打ち込んだ。【この男のこと、調べてみればいいよ。前世、私が結婚を強要された男よ。酒、女遊び、ギャンブルと、悪行を尽くすような男だったのに、それでもお母さんは、私をあの男に嫁がせたのよ】メッセージを送信すると、空港のスタッフが近づいてきて、笑顔でスマホの電源を切るよう促した。私は頷いて母をブロックリストに入れ、慣れた手つきでスマホの電源を切った。飛行機が離陸し、私の過去を置き去りにし、新しい未来へ向かって飛び立った。東都中央大学の門に着くと、4月の柔らかな日差しが私を包み込んでくれた。案内してくれる先輩たちについて、キャンパスへと歩みを進めた。校門をくぐった瞬間、胸が熱くなり、目が潤んだ。前世で何度も夢見た憧れの場所。暗闇のような人生の、唯一の希望の光だった。「山口さん」年配の、優しそうな声に呼び止められた。振り向くと、そこには知的な雰囲気の女性が立っていた。初対面だけど、すぐに分かった。前世で私を認めてくれた教授、安藤睦月(あんどう むつき)だった。睦月は私に向かって微笑んだ。「私が山口さんのクラスの……」言葉の途中で、私は深くお辞儀をした。「安藤先生、こんにちは。ずっとお会いしたかったです」二人の視線が真っ直ぐに重なる。睦月は優しく肩を叩いてくれた。「私のいる歴史学部を選んでくれてありがとうございます。山口さんの成績なら、もっと別の選択肢もあったでしょうに」私は首を振った。「先生には感謝しかありません」誰にも頼れなかった頃、唯一私を見ていてくれたのが先生だったから。……私の新しい生活が始まった。前世があるからこそ、大学生活の一日一日が本当に愛おしかった。歴史学部の授業は、高校時代の想像をはるかに超える奥深い世界だった。古い資料と向き合い、細かくチェックしていく作業に没頭する毎日。それから間もなく、私を高く評価してくれた睦月が、研究室へ呼びに来てくれた。睦月は温