All Chapters of 流産した日、夫は元カノに会いに行った: Chapter 1 - Chapter 10

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第1話

佐伯晴臣(さえき はるおみ)と結婚して6年。佐伯詩音(さえき しおん)は、一人でいることに慣れてしまっていた。一人で食事をし、一人で映画に行く。それだけならまだしも、急性虫垂炎で生死を彷徨うような痛みに襲われた時ですら、手術の手続きから術後の目覚めるまで、すべてを一人で乗り切ってきた。術後3日目の午後、病室のドアが開いた。晴臣が制服に身を包み、大股で入ってきた。「詩音、術後の経過はどうだ?そんなに痛むのか?手術という一大事を俺に知らせないで、一人でどうするつもりだった?万が一ということもあるだろ……」「別に、気にしないで」詩音は静かに言い放った。「一人でなんとかなるし。それより、杉原さんの電球を替えるのにお忙しいのでしょ?」晴臣の顔色が、さっと凍りついた。彼は、3日前の夕方、演習を締めくくり帰宅しようとした時、杉原怜奈(すぎはら れな)が涙ながら自分を待ち伏せしていたことを思い出したのだ。その時、怜奈は部屋の電球が切れて暗いから怖い、替えてほしいと縋り付いたのだ。何度も断ったが、怜奈が泣きじゃくるので、なんとかして早く終わらせて追い払いたかったから、つい引き受けてしまったのだ。交換中に怜奈が足を滑らせて前に倒れ込み、あろうことか彼女の唇が、晴臣の下半身のデリケートな位置をかすめてしまったのだ。そんな場面を、激痛で気を失いかけながら隣人に運ばれていく詩音が見ていたとは、彼にとって思いがけない展開だった。「詩音、誤解しないでくれ」晴臣は喉を上下させながら、かすれた声で言った。「あいつがしつこく頼んできたから断れなかったんだ……安心しろ、次どんなことを頼まれても、たとえ命を理由に縋ってきても、もう二度とあいつとは関わらない!」「そう」詩音は少しだけ唇を動かした。それ以上は何も言わなかった。だがその眼差しは「それができるの?」と語っているようだった。そんな目で見られて胸を刺されるような感覚を覚えた晴臣が言い訳をしようとした時、再び病室のドアが叩かれた。「晴臣?そこにいるの?」怜奈の声だ。晴臣の顔色が一気に曇り、扉を開けると、そこには案の定、青ざめた表情の怜奈が立っていた。「まだ何か用?」晴臣はドアの隙間に立ちふさがって言った。「用もないのに顔を出すな、と伝えたはずだ」そう言われ、怜奈はすぐさま目を赤くし
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第2話

そう思っていると、処置を終えた看護師は床に散らばったガラスの破片を片付けると、安静をするように伝え、部屋を出た。それから間もなく、病室のドアが再び叩かれた。今度入ってきたのは、灰色のスーツに身を包んだ中年の男性だった。「佐伯さんですね?」男性は低く落ち着いた声で言った。詩音は上体を起こし、「はい、そうです」と答えた。男性はベッドサイドに歩み寄ると、鞄から公印が押された書類を取り出し、手渡した。「おめでとうございます。申請いただいた件、厳正なる審査を経て正式に通過しました。今日からあなたは、国家機密暗号解読局の一員です」詩音は書類を受け取った。その瞬間、ずっと胸にのしかかっていた大きな石が、ようやく外れたような気がした。「ありがとうございます。必ずご期待に添えられるよう頑張ります!」男性は頷き、口調を改めた。「ですが、うちの組織は特殊です。加入した時点で特定秘密保護法に基づき身元情報はすべて『特定秘密』扱いとなりますので、今後は婚姻関係も含め、あなたの社会存在性を証明するすべての情報が開示不可となることをご理解ください」男性は一呼吸おくと、詩音の蒼白で穏やかな顔を見つめて続けた。「それで、ご主人におかれましても、今後は接触を制限されます。そのことについて彼は受け入れられるのでしょうか?もしかして……彼にとって少し……」「過酷」という言葉を、男性は最後まで口にしなかった。それを聞いて、詩音は顔を上げ、澄んだ瞳で男性を見た。「これについては伝えてあります。夫も……承知のはずですから」だが、男性の表情にわずかな疑念が浮かんだ。彼は事前に調べていた。晴臣は基地が誇る将来有望な隊長であり、詩音に対してもかなり良くしてきた。そんな彼は、妻が自分との接触を制限されるような任務に就くのを、本当に受け入れられるのだろうか?だが、詩音の表情は至って平然としていて、嘘をついているようには見えず、男性の疑念も次第に消えていった。おそらくは、晴臣はすごい覚悟の持ち主だから、妻が安保関連の仕事に身を捧げるのも心から応援できるのだろう。「ご主人が、納得しているなら問題ありません。優秀な人材を迎えられることをこちらとして嬉しく思います。着任は月末です。その際、迎えを出しますので、今のうちに怪我を癒し、身の回りの整理を済ませておいてくださ
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第3話

それからの日々、詩音は一人で傷の療養した。退院当日。詩音が荷物をまとめて一人で事務手続きを済ませ、病院から外に出たときのことだ。廊下の向こうから、晴臣が急ぎ足でやって来るのが見えた。彼はいくぶんやつれた様子で、目の下には薄っすらと青い影がある。それでも、ぴしっとした制服姿で、背筋は真っすぐに伸びていた。「詩音?退院するなら連絡してくれないと。迎えに来たのに」詩音は手荷物を持ち直すと、晴臣が伸ばしかけた手をそれとなくかわした。「大丈夫。自分一人でできるから」と、淡々と返す。晴臣は眉をひそめた。「詩音、お前が強がりなのは知ってる。だけど俺はお前の夫だ。少しは頼ってくれよ。何でも自分一人で背負い込まないでくれ」詩音は顔を上げて彼を見つめる。頼る?今までだって、頼ろうと思わなかったわけではない。結婚1年目、40度の熱を出したあの日、ふらふらになりながら、駆けつけてほしい一心で晴臣の所属機関に電話した。「佐伯隊長なら、今杉原さんの誕生日のお祝いで不在です。何かあれば明日また」警備の隊員からそう言われ、言葉に詰まった。2年目に父を亡くした時もそうだった。葬儀の準備に追われてボロボロの時、電話で晴臣の声が聞きたくてかけたのに、彼は任務中と嘘をつき、実際には気落ちしている怜奈とどこかへ遊びに行っていた。3年目も、4年目も。そんなことが数えきれないほど続いた。自分が晴臣を必要としている時、彼はいつも怜奈の側にいたのだ。今さらそんなことを、詩音は口にする気力さえ湧かなかった。「いつかあなたを頼る人はできるはずだから……」とただそう言って、そっと自分の手を引き抜いた。だが、詩音が静かに放ったその言葉に晴臣はなぜかなんとも言いようのない胸騒ぎを感じたのだった。さらに尋ねようとした晴臣を横目に、詩音は荷物を持って病院の正面ゲートへ足を進めた。その華奢だが凛とした背中を見て、胸をかき乱すような焦燥感がまた湧きあがってきたようで、晴臣は感情を抑え込み、大股で詩音の後を追った。二人は官舎へと帰宅した。青ざめた詩音の顔色を見て、珍しく罪悪感に駆られたのか、晴臣は言った。「昼飯を作ってやる。退院したばかりだし、栄養をつけないとな」それから、詩音が答える間もなく、隣室の大野幸子(おおの さちこ)が慌てて駆け込んできては、
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第4話

そう思いながら、二人が怜奈の住まいまで来ると、晴臣はそのままドアを押し開けた。ちょうど、怜奈が部屋で、新しく買ったシャツを試着しようとしていて、二人の姿を見ると一瞬驚いたが、すぐにもとの様子に戻った。「晴臣、どうしてここに?」「怜奈!」晴臣は厳しく言い放った。「お前は市川課長の息子さんを助けたって嘘をついて、命の恩人の座を横取りしたのか?お礼の金や品物を受け取り、仕事の枠まで奪ったのか!?」怜奈は一瞬表情を強張らせたが、すぐに太々しい態度に戻って言った。「そうよ、何が悪いの?」彼女は一歩踏み出し、晴臣を上目遣いに見つめると、すぐに瞳を潤ませた。「晴臣、私は最近劇団をクビになったの。今は安定した収入源の仕事がどうしても必要なのよ。あなたも前は私を大切にしてくれたじゃない?願いはなんでも叶えてくれたし、私のためなら命だって惜しまなかったのに。なら、仕事の枠一つくらい譲ってくれたっていいじゃない?別れた手付金だと思ってくれればいいでしょ?」「手付金だと?」晴臣はその言葉に突き刺されたような表情で、さらに怒りを露わにした。「お前は俺の真心を踏みにじって、俺を道化にしたのだろう?詩音は俺と結婚してから、ずっと俺を支えてくれた。それは誰しもが認めることだ。俺にとって詩音こそが愛する人だ!なのに、お前はそんなことまでつけこんで、本当に胸糞がわるいよ!」そう言いながら、晴臣は次第に口調を強めていった。「今すぐ市川課長の家に行ってすべてを白状しろ!金と品物を返し、詩音に仕事枠を返してやれ!さもなければ、こっちだって容赦しないぞ!」晴臣の冷徹な言葉に、怜奈は真っ青になって涙を溢れさせた。彼女は詩音を指差し、鋭い声で叫んだ。「容赦?晴臣、よくそんな口が利けるわね?あなたは私を愛してくれてたんじゃないの?生涯私だけを愛すって誓ったでしょ?なのに、この女のために私を貶すの?分かったわ……死んでやる!私がいなくなれば二人ともすっきりするんでしょ!」そう言うと、怜奈は本当にベランダへ走り出すと、手すりによじ登り、まるで飛び降りるような姿勢をとった。「怜奈!何をするんだ!降りろ!」晴臣は目を見開き、絶叫に近い声を上げながら駆け寄った。一方、手すりに登り、今にも飛び降りそうな体勢を取った怜奈は泣きながら叫んだ。「来ないで!死なせてよ!」
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第5話

そう言い放つと、詩音は看護師の驚いた顔を見ることなく、そのまま病院をあとにした。その後2日間、詩音は官舎へ戻り、黙々と自分の荷物を片付け始めた。彼女の持ち物は多くなかった。服が数枚と、本やノートだけ。晴臣との思い出の品には、指一本触れなかった。そこへ、退院した晴臣が包帯の巻かれた手をかばい、青ざめたままドアを開けると、詩音が本棚を整理しているのが目に入ったので、彼は思わずきょとんとした。「詩音、ただいま」低い声で、彼は様子を窺うように言った。「おかえり」詩音は顔を上げることなく、いくつか海外の本を淡々と段ボールに詰めていった。晴臣は詩音のそばへ歩み寄ったが、その感情の読めない横顔を見て、彼の胸に得体の知れない不安が込み上げてきた。彼は言葉を選びながら口を開いた。「この数日……家で何をしていたんだ?」「片付けだよ」「そうか……疲れただろ?」「疲れてないわ」詩音は手に持っていた本を置き、まっすぐに晴臣を見た。「言いたいことがあるなら、はっきり言って」あまりの単刀直入さに晴臣は戸惑い、沈黙のあとでこう続けた。「どうして病院に来なかったんだ?」詩音は静かに彼を見つめたまま、少し黙ったあと、ゆっくりと口を開く。「あなたが意識を失っている間、ずっと杉原さんの名前を呼んでいたから。彼女の方にいてほしいのかと思ったの」晴臣の顔色が一瞬で変わる。「そんなことはない!誤解だ!意識が朦朧としていただけで、俺はお前しか思っていない!誓って怜奈とはもう一切関わらない。今回が本当に最後なんだ!」必死に弁解する彼の言葉は、焦燥に駆られて支離滅裂になっていた。それでも詩音はただ穏やかに晴臣を見つめたまま最後まで聞くと、静かにこう返した。「そう、分かったわ」晴臣はその言葉に呆然と立ち尽くす。長い静寂の後、彼はしぼり出すように言葉を繋いだ。「あとひとつ、相談したいことがあるんだ」詩音は何も言わず、続きを促した。「あの……怜奈がお前の功績を奪った件についてなんだけど」晴臣は言葉を選びながら続けた。「仕事は教育委員会でのポジションで、お前にあたえられたチャンスだと分かってる。でも……それを先に、怜奈に譲ってやってくれないか?」そして、晴臣はすぐに言い訳を付け加えた。「あいつを助けるつもりはない。でも、仕事がないとあいつ
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第6話

そう声をかけられたが、晴臣は顔色を曇らせて、怜奈を無視した。だが、怜奈は気にすることなく、自分から話し続けた。「家にずっといるのも退屈だし、ちょっと気分転換しようと思ってきたの。ねえ晴臣、覚えてる?前によくここで一緒に滑ったじゃない?あなたがいつも、私がペンギンみたいに下手だってからかったわよね……」晴臣は言葉を遮り、冷たく言い放った。「そんな薄着でスケート場に来て、風邪でもひく気か?」「だ、だって……手当を使い切っちゃって、厚手のコートを買うお金がなくて……」晴臣は黙り込み、きつく唇を引き結んだ。しばらくすると、突然彼は詩音に聞いた。「詩音、喉は渇いてないか?飲み物を買ってきてやる」そして詩音の返事も待たずにして、晴臣は売店の方へと滑っていった。その背中を眺めながら、怜奈はクスクスと笑うと、詩音に近づいてきて勝ち誇ったように言った。「教えてあげようか。晴臣、飲み物なんて買いに行ったんじゃないわよ。私のために羽織を取りに行ったのよ。だから、詩音さん、あなたもいい加減夢から覚めたらどうなの?晴臣はずっと私しか思っていないんだから。あなたと結婚したのだって、ただの当て付けよ。だって晴臣が以前、どれほど私を愛していたか知ってるでしょ?私ちょっとでも気がある様子をみせれば、晴臣はすぐにでも戻ってくるわ。あんたも傷が深くなるまえに、現実を見たほうがいいわね」そう言って、怜奈は一気にまくし立て、詩音が悲しんだり怒ったり、少なくとも狼狽する様子を見せるんじゃないかと思った。だが、詩音は穏やかな表情で怜奈を一度見ただけだった。その後、真っ白なリンクへ目を向けて、淡々と言った。「そう。よかったわね」怜奈は手応えのないまま拍子抜けしてしまい、その苛立ちに顔をこわばらせた。何かを言い返そうとしたその時、突然だった。バキッ!氷が割れる乾いた音が響き渡り、二人のすぐ近くから厚くて頑丈だったはずの湖面の氷がクモの巣状に亀裂が入り、急速に広がった。「割れたぞ!逃げろ!」「誰か助けて!」周囲はパニックになり、叫び声が辺りを鳴り響いた。ちょうど、亀裂の真上にいた怜奈と詩音の足元では氷が無残にも崩れ、悲鳴と共に、二人は氷の下の冷たい湖へ落ちてしまったのだ。突き刺すような寒さが詩音を包み込む。泳げない彼女は慌てて足をばたつか
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第7話

それからの数日間、晴臣は言葉通りずっと付き添ってあげてた。お茶を入れたり、家事を手伝ったりと、その姿は驚くほど献身的だった。さらに、詩音の誕生日には自宅で小規模なパーティーまで開いてあげて、親しい同僚やその家族も招き、賑やかに祝ってあげてた。彼が用意したプレゼントは、上質なウールのストールと、詩音がずっと欲しがっていたのになかなか手が出せなかった万年筆だった。パーティーの最中、詩音の表情は終始穏やかで、礼儀正しく客をもてなしていた。少し酒が回ったのか、管理官が感慨深げに晴臣の肩を叩いてこう言った。「佐伯、あの人騒がせの元カノと別れて本当によかったな。あの女のせいで、君の未来は台無しにされるところだったよ。やはり今の奥さんみたいに穏やかで慎ましくて、心から君のことを支えている方がいいよ。そういえば以前、君が任務で大けがをして意識不明になったとき、病院の輸血用の血が底をついたことがあっただろう。その時も、奥さんが誰にも言わずにこっそりと何度も献血して、貧血で倒れそうになったんだぞ……これほどまでに心から愛してくれる女性は、そうそういない。せっかくお前も目が覚めたようだから、しっかり大切にして、奥さんと幸せになるんだぞ!」それを聞いて、晴臣は呆然と立ち尽くし、信じられないという目で詩音を見つめた。そんな事実は、詩音から一度も聞いたことがなかった。詩音はただ微笑んで管理官に答えた。「もう過ぎたことです。まだ覚えてらしたんですね」かつてはあんなにも情熱的に彼を愛し、命がけで献身的な愛を捧げてきたが、今となってはそのすべてが、まるで他人事のように聞こえるのだ。あのときめきも心痛も、数え切れない絶望の中で、全てが消えていったのだ。パーティーの途中、少し息抜きしようと詩音はトイレに行くふりをして外に出た。冬の夜風は身に沁みるように冷たく、薄いニット一枚で回廊に立った彼女は、漆黒の空を見上げた。すぐに後ろから足音が聞こえ、晴臣が上着を持って追いかけてきた。「外は寒いのに、なんでそんな格好なんだ?」叱るような、でも愛情の詰まった口調で、晴臣は詩音にコートを羽織らせた。詩音は服を整えて言った。「ありがとう」「俺たちは夫婦だ。礼を言う必要なんてないさ」距離を置くような詩音の横顔を見て、晴臣の表情が曇った。そして、何
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第8話

それを見て、晴臣は明らかにほっとして、すぐに医師に言った。「早く!手術の準備をお願いします!」手術室に入る前、晴臣は詩音の手を握り、これまでになく真剣な眼差しで言った。「詩音、誓うよ。手術が終わったら、今度こそ二人でちゃんとやっていこう。怜奈のことは、これ以上関わらないつもりだから」それから、晴臣が手術室に運ばれていき、手術中のランプが点灯するのを、詩音はただ見つめていた。思い返せば、さっき晴臣が言った台詞は、飽き飽きするほど何度も聞かされてきた。こうして、詩音は外で待つこともなく、背を向けて病院をあとにし、冷え切った我が家へと戻った。帰宅してまもなく、リビングの電話が急かされるように鳴り出した。詩音は受話器を取った。電話の主は、暗号解読局の課長だった。「佐伯さん、1時間後に迎えに行く。準備はいいか?」詩音は受話器を握りしめ、自分が6年過ごしたが、決して自分の居場所とは感じられなかった部屋を見渡した。「はい」と彼女は力強くハッキリとした声で答えた。「いつでも出発できます」電話を切ると、すでに荷造りの済んだトランクを提げ、扉を閉めて振り返ることなく彼女は部屋を出た。夜気は重く、冷たい風が吹き荒れていた。詩音は闇の中へと消えていき、一度も振り向くことはなかった。一方、手術は無事に終わった。晴臣が目を覚ました時、麻酔がまだ抜けきらない朦朧とした意識の中で、ふと隣を見た。そこには見慣れた詩音の姿があって、彼女は温かい飲み物を用意したりタオルを持ったりして、自分の目覚めを待っているはずだと思った。しかし、そこには誰もいなかった。すると、晴臣は思わずドキッとした。それでもすぐに「彼女は怒って先に家に帰ったのだろう」と思い直した。彼も今回の手術は、さすがに少し自分勝手すぎたと自覚していた。でも詩音は自分を愛しているから、きっと今に理解してくれるはずだ。しかし予想外なことに、その後1週間、詩音は一度も病室に顔を見せなかった。心に不安がよぎるが、「退院したら謝って、倍以上に優しくしよう。そうすれば戻ってきてくれる」と晴臣は自分に言い聞かせた。だって、これから先、二人には共に過ごす未来があるから。1週間後、ついに退院が許可された後、晴臣はまず、隣の病室へ怜奈の様子を見に行った。彼女はすでに目を覚
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第9話

警察官のその何気ない一言が、晴臣には青天の霹靂のように感じられた。晴臣はその場に立ち尽くし、強がっていた平静は粉々に砕け散り、頭の中は真っ白になった。数秒後、彼はカウンターへ猛然と駆け寄り、警察の襟元を掴み上げた。手の甲には青筋が浮かび、目は血走っていた。「ふざけないでください!詩音は俺の妻で、結婚してもう6年になります!彼女のことは一番よく知っているんです。そんなことあるわけがない!警察のシステムが故障したんじゃないですか?調べ直して、今すぐ調べ直してください!」晴臣の突拍子もない逆上に驚いたが、隣にいた数人の警察がすぐに駆け寄り、力ずくで彼を引き離した。「落ち着いてください!」襟を正した警察は、険しい表情で言い放った。「お気持ちは分かりますが、当方のシステムは役所や基地と連携してリアルタイムで更新されています。間違いなどありえません。奥さんの情報は確実にアクセス制限がかかっています」アクセス制限。その言葉は、まるで灼熱を帯びた焼けた鉄のように、晴臣の胸に痛みを伴った焼き痕をつけた。彼は足元をふらつかせ、冷たい壁に手を置いて、やっとのことで踏みとどまった。なぜ、アクセス制限なんだ?それじゃ今まで一緒に暮らしてきた6年間は一体なんだったんだ……すべてが、夢だったというのか?そんなはずがない。「そんなこと……ありえない……」晴臣は自分に言い聞かせるように呟き、周りにいる誰かから賛同を得ようと必死に顔を見回した。だが、人々が向ける視線は、誰の目にも明らかな哀れみと戸惑いに満ちていた。すると、晴臣は気が狂ったように警察署を飛び出した、自分の持つコネをすべて使い、役所の戸籍課や詩音の卒業した学校、さらには旧知に頼み込んであの手この手で調査を進めた。戻ってきた返答は、冷酷なほど一貫していた。どれもが、アクセス制限がかかっているということだ。忽然、詩音に繋がる全ての手がかりに鍵がかけられて、まるで、決して自分の手では届かないところに閉じ込められてしまったようだ。彼女の情報は、たとえ夫である晴臣でも知ることを許されなくなってしまった。失意の中で官舎へ戻った晴臣に、隣人の幸子が何か人さらいの話をしてきて、「早く見つけたほうがいいわよ」と小言を繰り返していた。それから晴臣は部屋に籠もり、家中で手がかりを探そう
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第10話

そう思うと晴臣は力なく床に崩れ落ち、喉からは悲しみの唸り声が漏れた。目は乾ききってしまったかのように、痛んだが涙は出てこなかった。ふと彼が腕を上げ、全身全霊の力で何度も何度も自分の頬を打ち始めた。静まり返った部屋に、乾いた平手打ちの音が響く。「俺はひとでなしだ……なんてことを!」晴臣はうなりを上げ、口端が裂けて血が滲み、いつの間にか流れ出した熱い液体が混じり合って、塩辛く頬を濡らした。彼はずっと詩音は慎ましく、良き妻で、ただ感情をあまり表に出さないだけだと思っていた。だけど、その慎ましさの裏側に、急性胃炎の激痛で意識を失うほどの苦しみがあったとは知る由がなかった。そして、その献身的な姿勢の裏側に、肉親を失い、たった一人ですべてを背負い込んで絶望に陥っていたこと。その無口さの裏側に、二人の子供を失い、冷たい手術室で孤独に耐え抜いた悲痛があったことなども知る由がなかった。そんな時自分は、どこにいたのか?怜奈の誕生日を祝い、怜奈を気晴らしに連れ出し、怜奈の尽きることのないわがままに振り回されていたのだ。そのことに気が付いた晴臣はついに崩壊し、何度も何度も、額が割れんばかりに床に打ち付けた。どれくらい時が流れただろうか。彼は血にまみれた顔で頭をもたげた。その瞳だけが、異常なほど強く光を放っていた。探すんだ。何としてでも見つけ出す。全国を探し回り、なんとしてでも、必ず詩音を見つけ出さねばならない。ふらつく足取りで起き上がると、晴臣は家を飛び出し、ジープに乗ると、正気を失ったかのように、捜索を開始した。詩音が行きそうな場所すべてを回り、詩音を知る者すべてに尋ねて回った。だが、詩音の実家はとっくに人手に渡り、隣人によれば長い間戻っていないという。かつて通った学校の教師も詩音のことをよく覚えておらず、ただ静かで真面目な子だったという以上の情報は得られなかった。頼れる友人は……そもそも、詩音には親しい友人が1人もいなかったのだ。こうして、数日が経っても、何の糸口も掴めなかった。そんな時、怜奈からの電話が掛かってきた。受話器の向こうから、怜奈はわざとらしい得意げな声で言った。「晴臣、ねえ……詩音さんがいなくなったんだって?あなたが私にかまうから嫉妬して、他の男のところへ行ったんじゃないの?前から言っ
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