LOGIN佐伯晴臣(さえき はるおみ)と入籍して、6年が過ぎた。佐伯詩音(さえき しおん)は、孤独な暮らしにすっかり慣れていた。 一人で食事をし、一人で映画に行く。それだけならまだしも、急性虫垂炎で生死を彷徨うような痛みに襲われた時ですら、手術の手続きから術後の目覚めるまで、すべてを一人で乗り切ってきた。 術後3日目の午後、病室のドアが開いた。晴臣が制服に身を包み、大股で入ってきた。 「詩音、術後の経過はどうだ?そんなに痛むのか?手術という一大事を俺に知らせないで、一人でどうするつもりだった?万が一ということもあるだろ……」 「別に、気にしないで」詩音は静かに言い放った。「一人でなんとかなるし。それより、杉原さんの電球を替えるのにお忙しいのでしょ?」 晴臣の顔色が、さっと凍りついた。 彼は、3日前の夕方、演習を締めくくり帰宅しようとした時、杉原怜奈(すぎはら れな)が涙ながら自分を待ち伏せしていたことを思い出したのだ。 その時、怜奈は部屋の電球が切れて暗いから怖い、替えてほしいと縋り付いたのだ。 何度も断ったが、怜奈が泣きじゃくるので、なんとかして早く終わらせて追い払いたかったから、つい引き受けてしまったのだ。
View More詩音は庭の木々や花を見つめ、暫く沈黙した。風が吹き、彼女の銀色の髪がさらさらと揺れた。ついに、彼女は淡々と、月日を経た重みを込めた口調で答えた。「若い頃は、私も全力を注いで、一人の人を愛したことがあります。だがその後、私はその分の思いを全て技術の進歩に込めた。悔いはありません」そう言われ、記者は言葉に詰まった。まさかそんな返事が返ってくるとは思わなかったのだろう。戸惑いながら、記者は重ねて聞いた。「あの……今でも、その方を愛し続けていますか?」詩音は、少しだけ目を瞬かせた。ふと彼女は記者に目を向け、軽く笑みを浮かべた。それは、いまにも消えそうな儚い笑みだった。詩音は何も答えなかった。しばらく経って、返答がないと悟った記者は、そっと立ち上がり別れを告げた。記者を送り出すと、門が静かに閉まった。小さな庭には再び静寂が訪れた。詩音は籐椅子に座りしばらく物思いに耽ってから、ようやく重い腰を上げて屋内に戻った。書斎へと向かい、年季の入った木の机に歩み寄る。鍵を開け、引き出しの奥から小さな鉄の箱を取り出した。中には宝石や貴金属などない。ただ、古いレコーダーがあるだけだった。詩音はそのレコーダーを手に取り、再生ボタンを押す。一瞬の沈黙の後、男性の声が響いた。「詩音、今紛争地域の現場にいる。あれから10年だ。今日……また表彰された。だが、少しも嬉しくない。もしお前がニュースでこれを見たら、少しでも俺を誇らしく思ってくれるだろうか?」晴臣は自嘲気味に笑った。その声は、どんな泣き声よりも切なさを帯びていた。「俺は、最低な男だ。だけど、愛しているというのは嘘じゃない。詩音、心から愛してる」カチッ。小さな音がして、録音は途切れた。すると、書斎はふたたび静寂に包まれた。ただ窓の外の木々を揺らす風の音と、どこからか聞こえてくる笛の音が遠くから響いてくるだけだった。詩音は静かに腰掛けたまま、その冷たいレコーダーを大事そうに胸に抱いた。午後の日差しが飾り窓から差し込み、白い髪にさしかかり、使い込まれた机を通って、鉄の箱を白く照らした。その光の中に微かに舞い上がる埃がゆっくりと渦を巻いていた。詩音はしばらく動かずそこに固まっていた。ただその穏やかな瞳は、瞬きもせず窓
傷が癒えると、晴臣は辞職届を出した。最も遠く、過酷で、危険な場所へ行くために。向かう先は世界でも紛争が絶えない、テロ組織が行き交う和平部隊の配属現場だった。そこは荒地に囲まれ、世間からも平和からも遠く離れ、常に危険と隣り合わせの場所なのだ。晴臣はわずかな私物をまとめると、使い古したレコーダーを幾重にも布で包み、肌身離さず持っていた。和平部隊での生活は、単調で残酷なまでに厳しいものだった。巡回、警備、紛争への介入や、得体の知れない病との戦いや厳しい環境と向き合う日々が続いた。だが晴臣は、すぐにここでも「化け物」と呼ばれるようになった。誰よりも長い巡回ルートを志願し、一番重い荷物を背負い、寝る間も惜しんで過酷な深夜の警備を買って出る。事があれば常に先頭に立ち、仲間をかばいながら現場を駆け回った。ある時とてつもない大地震が起きると、晴臣は救出隊を率いて先陣を切り、震災の渦中へと向かった。完全に崩壊した校舎の跡地で、5日間も休むことなく瓦礫を掘り返し、閉じ込められていた子供たち十数名を救出した。無理やり連れ出されたときには、晴臣は疲労の限界を超え、そのまま意識を失いショック状態に陥っていた。その後、彼も平和維持活動のため、紛争の絶えない極めて危険な地域へと次々派遣されていった。ある護送任務中に奇襲を受け、体中に銃弾を浴びたにもかかわらず、弾丸で蜂の巣になった車両を自ら操縦して包囲網を突破した。現地住民と傷ついた仲間を救出し、役目を終えて力尽きた時、その手にはまだ空になった銃が強く握られていた。こうして、10年という歳月が過ぎた。彼に贈られる勲章や表彰は数知れないほどになった。その勲章のどれもが彼が身を挺した結果を物語っていた。晴臣の地位はみるみる上がった。今や現地でも最も高い階級にある人物の一人となったが、それでも彼はその場を離れようとはしなかった。皆が知っていた。晴臣は英雄なのだと。ただ、誰も彼の笑顔を見たことがなかった。ただ、年末のお祝いの時だけ、晴臣は僅かな物資の中から思い出のつまみと酒を出して嗜むのだ。そんな時、彼は決まって傷だらけの水筒を手に取ると、外で南の闇夜を見つめて静かに酒を地に注ぐのだ。新しく配属された若い隊員が好奇心を抑えきれず、勇気を出して聞いた。「隊長、誰かを弔ってい
意識を取り戻すと、まず鼻につくのは消毒液の匂いを感じた。そして、全身を覆う包帯のせいで、どこもかしこも重く鈍い痛みが走った。晴臣は必死に目を開けた。しばらく視界がぼやけていたが、やがて焦点が合ってきた。「目が覚めましたか?」真面目な顔の看護師が歩み寄ってきた。手際よくベッドサイドのモニターや点滴のチューブを確認している。晴臣は口を開こうとした。しかし喉がひどく渇き、声が出ない。看護師が水にストローを差して、彼の口元に運んでくれた。数口飲むと、ようやく喉が潤った。「あの……俺が助けた女性の方は?」晴臣は力を振り絞って掠れた声で問いかけた。「あの方ならもう退院しましたよ」看護師は簡潔に答えた。「退院?」心臓が一瞬締め付けられたようで、彼は慌てて聞いた。「どこへ?怪我は?彼女は大丈夫だったのでしょうか?」「無事でした。怪我もあなたよりずっと軽かったので、すぐに迎えの方が来て彼女を引き取っていかれましたよ」そう言って看護師は畳みかけようとする晴臣を遮ると、サイドテーブルから茶封筒を差し出した。「これ、預かっています」すると、晴臣はポカンとしたまま、目の前に差し出される茶封筒を見て、思わずドキッとした。彼は震える手でそれを受け取った。ずっしりと手応えがあり、硬い箱のような形をしているようだ。ゆっくりと封を切ると、中から出てきたのは、レトロなレコーダーだった。それを見て、晴臣は指先の震えが止まらなかった。再生ボタンを押すと、カセットテープが回転する微かな音が響く。ノイズが数秒続いた後、胸をかき乱されるような、でも懐かしい詩音の声が聞こえてきた。間違いなく、詩音の声だ。「晴臣。これが私からあなたへの、最後のお別れよ」晴臣は息を飲んだ。そして冷たいレコーダーを強く握りしめた。「助けてくれてありがとう。でも、あそこで救ってほしくなかった。この任務についたときから、覚悟はしていた。危険を伴うものだって分かっていたから。あなたにも命を大事にして欲しかった。私のためにむやみに犠牲にして欲しくなかった」語り口は淡々としていた。しかしその一言一言が刃となって、晴臣の胸に深く刺さった。「私たち……あなたが杉原さんばかり選んでいたあの頃に、とっくに終わっていたよ。どんなに謝っても、よりを戻せない関係
そう言われ、詩音の晴臣を支える体が少し強張った。だが、彼女は振り向かず立ち止まらず、力なく倒れ込む晴臣の体をより一層強く支え直した。すると、晴臣の目からは、何の前触れもなく涙が溢れ出した。雨水と混じり合った顔の血とともに、滴り落ちていく。「申し訳ない……詩音……すまなかった……」晴臣は何度も支離滅裂に呟き、声は震えて途切れがちだった。「俺はとんでもないことをした……最低な人間だ……知らなかったんだ……本当に、何も知らずに……もし、あの時分かっていたら……」逃げ場のない子供のように泣きじゃくる晴臣は、溜め込んでいた後悔と苦悩、そして自分自身への嫌悪が堰を切ったように溢れ出した。それでも詩音は、最後まで彼に返事をすることはなかった。詩音は唇を引き結び、晴臣を支えたまま、飛び交う銃弾を避けて大きな瓦礫の陰へと身を寄せた。あと百メートル先に、仲間の姿がちらついている。合流地点までもう少しだった。希望は見えている。晴臣は荒い息を吐きながら、冷たい瓦礫の壁に背を預けた。出血と激痛で、彼は全身から力が抜けていくような寒さと震えを感じた。そして、彼は雨に打たれる詩音の横顔を見つめながら、卑屈で決して口には出せない、想いと心痛が再び込み上がってきた。「詩音……俺は……」彼はこれまでの過ちを謝りたかった。だからやり直したいと言いたかった。しかし、その言葉が喉まで出かかった瞬間、詩音の表情が急変した。研ぎ澄まされた彼女の鋭い眼差しは、隠れた薄暗い陰の一点に集中していた。闇に覆われた陰で、迂回して近づいてきた犯人が構えたばかりの銃が見えたのだ。その暗い銃口はイナズマの光に照らされて殺意を込めてギラリと反射した。その銃口は、他ならぬ詩音の眉間を狙い定めていた。まるで、時間が引き延ばされたかのような感覚だった。詩音の目線を追って、晴臣も敵の存在を認識した。距離が近すぎる。味方は他の敵に応戦中で、すぐには対応できない。すべてが瞬く間に起きた。瞬間的に、晴臣は残されたありったけの力を振り絞り、支えてくれていた詩音を突き飛ばした。だが、その押し出す一手が、彼の残る命を燃やし尽くした。突き飛ばされた詩音は、足がもつれて泥の中に倒れ込んだ。そして、突き飛ばした反動で、晴臣自身が瓦礫の外へ投げ出され、スナイパーに対