All Chapters of 降る雪を、君と並んで浴びたなら: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

人は、現実があまりにも辛すぎるとき、それを受け入れることを拒んで、逃げることを選んでしまうことがある。一聖もまた、胸の奥で不安が膨らんでいくのを感じながら、それでも現実と向き合うことで訪れる恐怖と絶望から、目を背けることを選んでいた。その言葉の端々には、電話の向こうの相手が告げた話を信じまいとする気持ちが滲んでいた。それでも耳を澄ませば、彼の声には、意地を張るような強がりと、隠しきれない苦渋の色が混じっているのが分かった。医師は「生死に関わることで冗談など絶対に言わない」ときっぱり言い、三日以内に遺体を引き取りに来ない場合は、火葬の手続きに入ると告げた。さらに、遺骨は六十日以内に引き取りがなければ、規定により無縁仏として処理されることになる、と。藍里の両親も病院に来ていないと知ると、一聖はかえって都合のよい推測にしがみつこうとした。――遺体が持っていたのは藍里の持ち物で、その人物は生前たまたま藍里と一緒にいた別の誰かなのかもしれない、と。「その遺体が藍里だと、どうして断言できるんですか。彼女は妊娠していません。三年前のことがあって、妊娠しにくい体になっているはずです」医師は、一聖がまだ現実を受け入れようとしていないことを見て取った。悲しみのあまり混乱しているのだろうと思い、また母子ともに命を落としたという事実の重さも考慮して、医師は口調を和らげて説得を試みた。「こうしましょう、滝沢さん。今日か明日、一度病院へ来てみていただけませんか。そんなに時間はかかりません」「…………」遺体を直接確認するよう促され、長い沈黙の後、一聖は掠れた声で絞り出した。「……どうして最初に彼女の両親へ連絡しなかったんですか?」医師は小さく溜め息をついてから、丁寧に説明した。「警察が事故現場で、カバンの中からスマホを発見しました。表面に傷はありましたが、使用には問題ありませんでした。連絡先を確認したところ、登録名があるのはあなたのお名前だけで、他の連絡先はすべて電話番号のみだったのです」なぜ……なぜ、藍里の連絡先に名前が登録されているのが、自分だけなのだろう。一聖は仕方なく、今日の午後に遺体を確認しに行くことを承諾した。それが本当に藍里かどうかを、自分の目で見届けるために。頑なに認めたくないと思いながらも、心の奥ではひ
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第12話

幸恵は一聖の言葉に詰まった。でも藍里がやっとの思いで裕福な家に嫁いだのに、息子の結婚資金はまだ目処も立っていない。藍里が一聖と別れてしまえば、息子が結婚できなくなるかもしれない。そう考えた幸恵は、焦って話題をはぐらかそうとした。「あっ、違うわ一聖くん、最近藍里は少し気が立っていて、情緒が不安定なだけよ。あの子の言葉は真に受けないで」一聖は幸恵が核心を避けようとしているのを見透かし、単刀直入に告げた。「藍里のせいじゃないんです。俺自身も、彼女とのこれ以上の結婚生活は望んでいないんです」幸恵はどうしても食い下がらざるを得なかった。五年も共に暮らしてきたのだから。子どもを一人失ってはいるけれど、いずれまた授かるはずだし。藍里は働き者で、家庭を大切にする人だ。でも一聖がどんな言葉を聞かされても離婚の意思を曲げないとわかると、幸恵は苛立ちのあまり、ついに藍里への不満を漏らし始めた。「本当に使えない子ね弟の結婚資金をもっと引き出しなさいって言ったのに、嫌だって言うんだもの。そのくせこんな事態になって……っ!」独り言のように声を潜めたつもりだったのだろうが、一聖の耳にははっきりと聞こえた。弟の結婚資金を出すよう言ったのに、藍里が拒んだ?一聖の顔がすっと冷たくなった。「今、何と言いましたか?」幸恵はしまったと思ったが、どうせ離婚するのだからと開き直り、もはや取り繕うことすらしなかった。「聞こえたんでしょ。本当に育て甲斐のない子だわ。社長夫人になっておいて、弟に少しくらい出してあげることもできないの?自分だけいい思いして。ちゃんと叱って、何度も叩いてやらないと、言うことを聞かないんだから」その瞬間、一聖の中で、パズルのピースがはまるようにすべての辻褄が合った。なぜ藍里が、かつて贈ったバッグやアクセサリーを売り払っていたのか。まさか、そんな理由だったのか。「藍里はあなたの娘でしょう。なのにどうして、あんなろくでなしの息子のために、自分の娘をそんな目に遭わせるんですかっ!」幸恵は「何の役にも立たない息子」という部分だけを耳に入れ、途端に血が上った。「一聖くん、あなたはもううちの婿じゃないんだから、うちの息子に八つ当たりしないで。もう話すことないでしょ、切るわよ。それじゃ」一聖が口を開く間もなく、一方的に電話が切られた。ひとつ
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第13話

医師との約束通り、一聖は午後に病院へ向かった。普段は個人的な用事に秘書を同行させることはないが、今日ばかりは自らハンドルを握る気力も自信もなかった。ただぼんやりと後部座席に身を沈め、藍里のスマホにメッセージを送り続けた。送れば送るほど、返信が来る気がしたのだ。しかしトーク画面には、いつまで経っても彼が一方的に送ったメッセージだけが虚しく並んでいた。秘書は前の席から一聖の様子を窺いながら、一言も声をかけることができなかった。彼は全身に暗い影をまとっているようで、その目には虚ろな色しかなかった。どれほど時間が過ぎたのかも分からないまま、ようやく車は病院の前にたどり着いた。一聖は病院の入口の前に立ち、そこを見つめたまま、どうしても一歩が踏み出せなかった。秘書が傍らでそっと言った。「社長、とにかく確認しに行きましょう。中にいるのが奥様でなければ、取り越し苦労で済むお話ですから」その言葉は、一聖の心に響いた。振り返ったその瞳に、かすかな縋るような光が宿った。「そうだ。中にいるのはおそらく別の人間だ。何かの間違いのはずだよな」そう自分に言い聞かせながら、一聖は病院の中へ足を踏み入れた。医師は一聖が藍里の夫だとわかった瞬間、顔に安堵の色を浮かべた。しかしその表情を見た瞬間、一聖の胸には重い石を呑み込んだような絶望の予感に支配された。遺体安置室に近づくにつれ、心臓の鼓動が速くなっていく。扉を開けた瞬間、外よりも数段冷え切った空気が肌を刺した。暗く沈んだ空間に、頭上からわずかな白い光だけが垂れ下がっている。息が詰まるような場所だった。医師は一聖たちに心の準備をするよう促してから、壁に並んだ遺体安置用のストレッチャーをゆっくりと引き出した。最初に目に入ったのは、白い布だった。その布の下に横たわっているのは、藍里なのか……。医師が静かに白布を捲り始めた。青白く、生気の一切失われた顔が姿を現した。その顔を見た瞬間、一聖の体が後ろへよろめいた。咄嗟に秘書が後ろから支える。秘書もまた、その顔をはっきりと目の当たりにした。藍里に違いない。医師は二人の表情を見るなり、ようやく信じたのだろうと察し、静かに事実を告げた。「滝沢さん、本日、ご遺体をお連れになりますか。大変残念なことに、お腹にお子さんもおられま
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第14話

「パスワードが違います」と表示された。他にどんな数字が考えられるか、もう何も思いつかなかった。傍らの秘書がそっと言った。「社長、もしかして、社長ご自身の誕生日ではないでしょうか」一聖の頭を占めていたのは、藍里はただ金のために自分といるだけで、本当は自分のことなど好きではないという思いだった。そんな彼女が、自分の誕生日をパスコードにしているはずがない。ところが試しに入力してみると、一聖の誕生日で、あっさり藍里のスマホのロックは解除された。彼は愕然として、開いたスマホの画面を見つめた。壁紙は、四年前に二人で旅行に行ったときの写真だった。驚きと疑惑、そして彼女への未練と愛おしさが、胸の奥で激しく渦巻いた。ずっと信じていたことが、音を立てて崩れ去っていく気がした。でもまだ向き合えなかった。あまりに強く願いすぎているせいで、自分の脳が都合のいい幻を見せているのではないかとさえ思えた。一聖は秘書に問いかけた。「好きでもない人の誕生日を、パスワードに設定する人間がいると思うか?」秘書はなぜそんな問いをされているのかわからなかったが、答えは明らかだった。「……いないと思います」一聖は急いでアルバムを開いた。そこには藍里と自分の写真だけが入っていた。実の家族の写真は、一枚もなかった。電話帳の登録も、医師の言った通りだった。名前が登録されているのは一聖の番号だけで、「旦那」という名前で保存されていた。他の連絡先はすべて電話番号だけで、グループも「重要でない人」に振り分けられていた。そして一聖の番号だけが、「一番大切な人」というグループに入れられていた。なぜ俺は、藍里が自分を愛していないなどと思い込んでいたのだろう。あの頃、一体何を考えていたのか。これが、愛を失った人間の残すものだというのか。一聖は指を止めず、メッセージアプリを開いた。そこに残された記録を目にしたとき、己がいかに取り返しのつかない誤解をしていたかを、骨の髄まで思い知らされた。一言一言が、鋭い刃で胸を抉るようだった。どの言葉にも、藍里の自分への深い愛が滲んでいた。何年もの間、義母の瑛子から次々と得体の知れない妊活薬を飲まされても、藍里は甘んじて受け入れ、一言も一聖に愚痴をこぼさなかった。瑛子にきつく罵られたあのとき、一聖はたまたま傍にいたのに、見て
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第15話

一聖は藍里の青白い顔を見つめながら、昨日まで一緒にいた人間が今こうなっているという現実が、どうしても信じられなかった。そして少しずつ、この悲劇を招いた元凶のひとつに、自分自身もいるのだと気づき始めていた。長い間、藍里の傍に寄り添って座っていた。ふと、自分のスマホに着信が入った。夏奈子からだった。画面を一瞥し、そのまま無視した。離婚旅行の半月間も、夏奈子は何度も電話をかけてきた。でもあの時間、一聖の目にも心にも、藍里しかいなかった。他の誰かが入り込む余地など、どこにもなかったのだ。続けて、藍里のスマホが震えた。両親からかと思って画面を確認すると、目にした瞬間、自分がどれほど見当違いの幻想を抱いていたのかを思い知らされた。彼はまず、メッセージの送り主を確認した。表示されていたのは、見覚えのある電話番号だった。そこには、ありとあらゆる挑発的な言葉が並んでいた。それを見て、分からないはずがなかった。送信者は、夏奈子だった。表向きは言いつけ通りに大人しく動いているふりをしながら、裏ではわざと藍里を刺激するような真似をしていたのか。【どうして彼が来なかったか、教えてあげようか?私が体調を崩しちゃって、一聖がずっと付き添ってくれてたの】【ねえ、お・ば・さ・ん。彼、毎年のパートナーは私にするって約束してくれたよ】一聖の目が細く眇められた。じわじわと這い上がるどす黒い怒りが、瞳の奥に宿った。今すぐ夏奈子の元へ乗り込んで問い詰め、徹底的に叩き潰してやりたかった。でも理性が静かに告げていた。藍里の前で、そんな醜い顔を見せてはいけない。ゆっくりと、強張った表情をどうにか和らげた。医師の言葉を思い出す。そうだ、まず藍里を家へ連れて帰ることが先だった。家へ、帰ろう。一聖は躊躇なく藍里の体を抱き上げた。安置室のドアを開けると、外で待っていた秘書が振り返り、一聖の腕の中の藍里を見て、一瞬固まった。外から戻ってきた医師が、ちょうどその光景を目にした。医師はその行為自体を不自然だとは思わなかったものの、遺体には何か衣服を掛けたほうがいいこと、あるいは病院側で車を手配して自宅まで送り届けることもできると、二人に提案した。一聖は秘書にジャケットを脱がせ、藍里の体にそっとかけた。医師はそれ以上引き止めることなく、一行
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第16話

「……っ!」瑛子にはにわかに信じられなかったが、青白い藍里の顔は、どう見ても生者の顔色ではなかった。つい先ほどまで妊娠のことで喜んでいたのに、今度は一気に突き落とされた気分だった。しかも瑛子が最初に口にしたのは「なんで亡くなったの」でも「何があったの」でもなく、「なんで遺体を家に連れ帰ってきたの」という言葉だった。一聖はかつて、母が孫を強く望むあまり藍里に厳しく当たっているのだと思っていた。でも今は、そうじゃなかったことがわかった。息子の嫁が死んだ。孫も死んだ。それなのに最初に浮かんだのは、悲しみではなく露骨な嫌悪感だったのだ。「母さん、その態度はなんなんですか。藍里は義理の娘で、お腹の子はあなたの孫だったんですよ!どうしてそんなことが言えるんですか!?」瑛子は、自分に非があるなどとは少しも思っていなかった。むしろ当然のように言い返した。「嫁だったのは確かよ。孫がいたのも本当。でも、もう死んじゃったんでしょう?だったら今さらどうにもならないじゃない」一聖は目の前の母親が、まるで別人のように見えた。藍里と結婚した頃の瑛子は、こんな人ではなかった。体のことを気にかけて、心配してくれていたはずなのに。「母さん、昔は藍里のことを大切にしてくれていたじゃないですか。最近は孫のことで焦っているだけだと思っていたんですけど……」瑛子は藍里に一瞥すると、何でもないことのように言い放った。「私があの子を気に入っていたとでも思っていたの?あなたの顔を潰さないために、いい姑を演じてあげていただけよ。それに、最近あなたがあの子に冷たくなってきたのを見て、ようやく目が覚めたのねって思っていたわ。あんな貧乏くさい家から、うちに嫁いで来ようなんて。お金目当てに決まってるじゃない」その言葉は、もう一聖には何も響かなかった。スマホの中のメッセージが、すべてを証明していたのだ。藍里は心から一聖を愛していて、お金など一切求めてはいなかった。「母さん、それは誤解です。藍里から金銭を要求されたことなど、一度もありません。全部俺が自分から渡していたんです」瑛子はその言葉を聞く気もなかった。藍里が要求しようと、一聖が自分から渡そうと、滝沢家から金が流れたことに変わりはないのだから。「それに、俺はずっと藍里のことが好きでした。嫌いにな
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第17話

その爆弾のような言葉を聞いて、瑛子の顔が青ざめた。一聖の目は揺るぎなく、それが決して嘘ではないことは明白だった。瑛子はそこでようやく焦り始め、慌てて弁解しようと口を開きかけた。だがその前に、一聖の秘書に促され、部屋の外へ連れ出された。それから、一聖がその事実を受け入れられるようになるまでには、ずいぶん長い時間がかかった。やっと藍里の葬儀を手配し始めたとき、幸恵に電話をかけた。「もしもし」幸恵はついこの前あんなことを言ったばかりだった。もう滝沢家から金を引っ張る望みはないと悟っていた。息子の結婚資金をどう工面するかで頭がいっぱいだったこともあり、電話口の態度はひどくぞんざいだった。「あら、滝沢の社長さん、ご用件は何かしら。私、とても忙しいけれど」幸恵のぞんざいな態度に、一聖の目は冷たく沈んだ。娘が消えてから、もう三十日近くになるというのに、この母親は旅行中、一度たりとも電話をかけてこなかった。娘がどこにいるのか、無事なのかを尋ねることもない。あるのは、金の無心ばかりだった。「……娘のことが心配ではないんですか?」幸恵にとって、その問いは滑稽だった。「子供じゃあるまいし、歩いてて迷子にでもなるって言うの。お金も入れてこないんだから、どこへ行こうと好きにすればいいわ。私たちには関係ない」一聖は彼らの態度に心底うんざりし、喉元まで罵声がこみ上げてきた。腹の底で荒れ狂う感情を抑え込み、抑えた声で言った。「明日、告別式を執り行います。ご両親も来てください」幸恵は首をかしげた。「二人はもう離婚したんでしょ。告別式なんて私たちに関係ないじゃない。藍里に行かせればいいじゃない」一聖は幸恵の言葉に構わず、端的に告げた。「藍里本人の告別式です」電話の向こうでは、幸恵が頭痛に耐えるようにこめかみを押さえ、目を閉じてヘッドレストにもたれていた。しかし彼の言葉を聞くなり、馬鹿にしたように声を上げて大笑いした。「ふふふふ……藍里もずいぶん偉くなったものね。私たちにお金を寄こさないのはまだしも、弟の結婚費用まで渋るなんて。挙げ句の果てには、お金を出したくないからって、あなたまで巻き込んで芝居させるなんてね」嘲るような声で続けた。「あの子、あなたにいくら払ってこんな真似させてるの?聞かせてもらえる?」幸恵がまったく信
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第18話

とはいえ、幸恵はその話を本気にする様子はなかった。代わりに和智がその夜、一聖に電話をかけてきた。「一聖くんか……さっき幸恵に話してくれたこと、本当に事実なのか?」一聖はとっさに反論しそうになった。藍里の両親が、娘にろくな愛情を注いでこなかったことへの嫌悪感があったからだ。だがふと、藍里のスマホに残っていた和智とのやりとりは、比較的まともなものだったと、思い直した。「……本当です。藍里は交通事故に遭いました。明日、遺体を火葬する手はずになっています。それに……彼女のお腹には、まだ妊娠四週目の赤ちゃんが宿っていました」言い終えた瞬間、声が震えた。こみ上げるものを、どうしても抑えきれなかった。電話越しに滲み出るその深い悲しみに触れ、和智もようやく現実を受け入れた。葬儀場を尋ね、明日必ず向かうと告げて通話を切った。部屋に戻った和智は、ひとり静かに気持ちの整理をつけようとしていた。あんなに元気だった娘が、もうこの世にいない。その事実が、じわじわと胸の奥を締め付けていく。そこへ、隣の部屋から何かを叩き壊すようなけたたましい音が響いてきた。和智が勢いよくドアを開けて飛び出すと、かつて藍里が使っていた部屋で、幸恵が娘の荷物を手当たり次第に壊している光景が飛び込んできた。「何をしてるんだ!」しかし幸恵は咎められても悪びれる様子は微塵もなく、むしろ開き直ったような顔で夫を振り返った。「家に金の一つも寄こさないなんてね。誰のおかげでここまで大きくなったと思ってるのよ。あんな恩知らずなやつの荷物、残しておく理由なんてないでしょ」和智は言葉を失った。娘が本当に亡くなったのだと、どうすればこの妻に信じさせられるのか。そう頭を抱えている和智の目の前で、幸恵は藍里が大切にしていた陶器の人形を容赦なく床に叩きつけた。ガシャッと派手な音が響き、隣にいた弟が驚いて顔を覗かせる。「いい加減にしろ!」和智がついに声を荒らげると、幸恵は夫がなぜ怒っているのか分からず、きょとんとした。それどころか、まるで悪びれる様子もなく、鼻で笑った。「たかがガラクタじゃないの」それだけ言い捨てると、廊下にいた息子を連れてその場を去っていった。和智は足元に散らばった陶器の破片を見て、目にかすかな痛みを滲ませた。明日会いに行くとき、せめてこれだけでも供え
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第19話

一聖の目は、気がつけば目頭が熱くなり、涙で滲んでいた。棺のそばに膝をつき、そっと白い布に覆われた棺へ手を伸ばし、軽くキスを落とした。後悔していた。心の底から後悔していた。自分のしでかしたことのすべてを。夏奈子と手を組んだことも、まさかあの女がそこまで深い悪意を抱いているとは見抜けなかった己の甘さも。棺に目を落とし、一聖は掠れた声で囁いた。「こんなところに、ひとりで寝かせてごめん……前は、すっぽりと俺の腕の中に収まっていたのに」言葉にするたび、後悔が黒い波のように押し寄せてくる。一聖は棺のそばに崩れるように座り込み、声を殺して咽び泣いた。情けない自分に対する怒りの涙と、何も言わずに逝ってしまった藍里への悲しみの涙が、入り混じってとめどなく溢れ出す。何もかも黙って胸の中に抱え込み、一聖が想像していたよりもずっと重いものをひとりで背負っていたのだ。それなのに、何も話してくれなかった。何ひとつ、説明してくれなかった。「幽霊なんているのかわからないけれど……もしいるのなら、どうかそばにいてくれ。君がいなくなって、俺がどうなっていくか、ちゃんと見ていてくれ」藍里のスマホに残っていた、二人で撮った写真を思い出した途端、やるせない思いが込み上げ、再び涙が止めどなく流れ落ちた。穏やかに微笑む遺影の前で、一聖はひとり、声を上げて泣き崩れた。最初はただの悪質な演技だと思っていた幸恵も、目の前に突きつけられた冷酷な現実に、ついに顔色を青ざめた。「嘘だ、嘘だ」とうわ言のように呟きながらその場から逃げ去ったが、その目尻には確かに光るものがあった。和智は、幸恵が取り乱したまま何か間違いを起こすのではないかと案じ、急いでその後を追った。一聖には、つい昨日まで、二人で手を繋いで街を歩いていたような気がしていたのに。気がつけば、あとには一聖と、その孤独な影だけが残されていた。告別式が終わり、出棺を見送り、火葬場で骨上げを済ませた頃には、空はすっかり暮れていた。夜、一聖は遺骨の入った白い骨壷を寝室のベッドサイドに安置してから、ようやく重い腰を上げてシャワーを浴びに向かった。藍里に汗臭いと思われることさえ嫌でなければ、一秒たりともそのそばを離れたくはなかった。シャワーを終えて部屋に戻ると、骨壷に向かい合うようにして服を選び始めた。
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第20話

夜が明けると、一聖は別人のように変わっていた。昨日の悲嘆に暮れる姿とは、まるで違う冷たさを纏っていた。さっさと電話をかけて秘書に車を出させると、あるレストランへと向かわせる。店の前で車を降り、さりげなく周囲を確認してから窓越しに中を覗き込む。すると、こちらに向かってにこにこと愛想よく笑いかけている女がいた。夏奈子はまだ知る由もなかった。自分がこれから、いかなる運命に直面するのかを。一聖が夏奈子の向かいに腰を下ろすと、彼女は猫撫で声で媚びるように切り出した。一ヶ月以上もの間、何をしていたのか、なぜ電話に出なかったのか、と。一聖は「仕事が忙しい」とだけ言って、その場をいい加減にやり過ごした。一聖はすっと話題を切り替えた。「最近、どう?」夏奈子はいかにも寂しそうな素振りを作って見せた。「会いたくて、ずっと寂しかったわ」だが、一聖は慰めの言葉ひとつかけなかった。ポケットから自分のスマホを取り出し、ロックを解除すると、夏奈子が藍里に送りつけたメッセージの画面を突き出した。舌先で唇を舐め、冷たく凍りついたような笑みが一聖の口元に静かに広がっていく。ただそれだけで、目の前に座っているだけで、全身に粟立つような圧迫感があった。「見覚え、ある?」夏奈子はとっさに狼狽した。どう言い訳すればいいか。だがすぐに頭をフル回転させ、澄ました顔でこう返した。「あなたのためにやったのよ、一聖。彼女に嫉妬させようと思ってね」だが、今の一聖がそんな見え透いた言い訳を聞き入れるはずもなかった。「そう。最近顔色が悪いのは、良心が咎めていたからじゃないのか?」夏奈子はばつが悪そうに作り笑いを浮かべた。「あはは……何を言ってるの。ここじゃ人目があるから、場所を変えましょうよ」「ここで話す」一聖は冷たく一蹴した。夏奈子はそれでもめげずに同じ言い訳を繰り返した。すべては一聖のため、藍里を刺激するためにやったのだと。「梅田夏奈子。演じているうちに、本気になったって否定できるか?俺がお前を愛人だと言えば、世間はそう見るんじゃないのか??」自分の評判を盾に取られていると悟った夏奈子は、ついに逆ギレした。「そっちから私に芝居を持ちかけてきたくせに、いざ本気で傷ついたら手のひら返しってわけ?」一聖の目が赤く染まった。荒い息が
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