All Chapters of 降る雪を、君と並んで浴びたなら: Chapter 1 - Chapter 10

40 Chapters

第1話

結婚して五年。歳月が滝沢藍里(たきざわ あいり)に教えたのは、ただ一つの真実だった——どれほど深く愛し合った二人でも、いつかは別々の道を歩むことがあるのだ。結婚一年目、滝沢一聖(たきざわ いっせい)はどこへ行くにも藍里を伴い、まるで「彼女は俺のものだ」と世界中に見せびらかしたいかのようだった。結婚二年目、一聖は滝沢グループの後継者となり、藍里もその傍らで、怒涛の日々を共に駆け抜けた。やがて疲弊が限界を超え、お腹の子を失ってしまった。一聖の涙を見たのは、あの時が初めてだった。真っ赤な目で藍里をそっと抱き寄せ、生涯、決して彼女を悲しませないと誓ってくれた。結婚三年目、仕事が急激に忙しくなり、一聖が帰らない夜が続くようになった。顔を合わせる時間も、少しずつ減っていった。結婚四年目、一聖の体から微かに見知らぬ香水の香りが漂うようになり、二人で向かい合っても、言葉はなく、ただ沈黙だけが降り積もるようになった。そして結婚五年目——一聖はとうとう、結婚記念日を忘れていた。……藍里は一人リビングに座り、ケーキと手料理が並ぶテーブルを前にして、ただ待ち続けた。夜の十時を過ぎても、一聖は帰ってこなかった。深夜の十二時を回ったころ、ようやく玄関の扉が開いた。仕立てのいい黒いスーツを身にまとった一聖だった。夜の冷気をまとったままリビングに足を踏み入れ、ロウソクの灯るケーキを目にして、彼は明らかに息を呑んだ。藍里は顔を上げた。——分かっていた。一聖がこの日を完全に失念していたことを。「今日で、結婚五周年よ。一緒にケーキを食べましょう」胸に込み上げる苦しさをすべて飲み込んで、藍里はできるかぎり穏やかに言った。一聖は拒むことなく、無言で歩み寄り、まるで課せられた義務を果たすかのように、隣に腰を下ろした。藍里は丁寧にラッピングされた箱を差し出した。「プレゼントよ。気に入ってくれるといいんだけど」一聖はそれを受け取り、包みを開けた。中に入っているのは、繊細なデザインのカフリンクスだった。一聖は一瞥しただけで、「ありがとう」と短い言葉を返した。沈黙が、数秒間を満たした。藍里は心の中で苦く笑う。記念日さえ忘れていた一聖に、昔みたいなサプライズを期待するなんて、我ながらどうかしている。案の定、一聖は淡々とした口調で口を開い
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第2話

自分に似ているのに、自分よりずっと若い顔。それなら一聖が特別扱いするのも、無理はないのかもしれない……しばらく呆然としていた藍里の頬を、気づけばとめどなく涙が伝い落ちていた。痛みを必死に押さえ込み、震える手でスマホの画面を消す。暗闇の中、いくら目を閉じても眠りは訪れなかった。結局、夜が明けるまで一睡もできなかった。翌朝、一聖が目を覚ましたとき、藍里はまだ背を向けたまま横たわっていた。彼は少し意外そうにした。ここ数年、藍里は誰よりも早起きだったのだから、無理もない。それでも一聖は何も言わず、身支度を済ませてそのまま家を出ていった。玄関のドアが閉まるのを確認してから、藍里はそっと目を開けた。まぶたは泣きはらして真っ赤に腫れていた。それから数日間、一聖は相変わらず深夜にならないと帰らなかった。以前の藍里なら、一聖を疑うことなど決してなかった。滝沢グループという重荷を一人で背負い、会社が一番苦しい時期をふたりで乗り越えてきたし、彼が仕事にどれほど心血を注いでいるかも、誰よりも知っていたからだ。でも今は、どうしても考えてしまう。本当に残業しているのか、それとも夏奈子と一緒にいるのか、と。週末、藍里と一聖は滝沢の本家へと足を運んだ。食卓で、義母の滝沢瑛子(たきざわ えいこ)は藍里の細すぎる体に目を留め、不満をあからさまに顔に浮かべた。「もう結婚して五年でしょう。いつになったら子どもを産むつもりなの?」藍里の顔からさっと血の気が引いた。子どものことは、一聖との間でずっと触れてはいけないタブーだった。三年前、父が亡くなり滝沢グループが最も揺れていたあの頃、一聖は昼夜を問わず仕事に駆け回り、藍里もその傍らで休む間もなく彼を支え続けた。そして体調を著しく崩した末に、お腹の子を失ったのだ。病院で、一聖は藍里の手を固く握りしめ、初めて涙を流しながら言ってくれた。「藍里、また必ずふたりで子どもを迎えよう」と。けれどあの日以来、藍里の体には後遺症が残り、何年養生しても妊娠には至らなかった。瑛子はそんな事情を知らない。以前は催促されるたびに、一聖が必ず藍里の前に出て庇ってくれていた。でも今日、彼は何も言わなかった。胸が締め付けられながらも、藍里は絞り出すように答えた。「頑張ります……」瑛子はとうにその言葉に聞き飽
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第3話

二通のメッセージが届いていた。一つは画像、もう一つは短いテキストだった。写真の中の一聖は燕尾服姿で、若い女性の手を取ってダンスを踊っていた。その女性の顔は、かつての藍里の生き写しだった。全身が凍りついた。震える指でスクロールすると、残酷な文章が目に飛び込んできた。【彼、毎年のパートナーは私にするって約束してくれたよ】深夜、一聖が帰宅した。藍里はパジャマ姿でベッドの端に腰かけ、静かに一聖を見上げた。「今日、会社のチャリティーパーティーがあったんでしょう? どうして私を連れて行ってくれなかったの?」一聖はジャケットを脱ぎながら、藍里をろくに見もせずに答えた。「別に連れて行く必要もないだろ。家で休んでいればいい」そのまま、ためらいもなく浴室へ向かう。まるで何でもないことのように。——それは、一聖がかつて立ててくれた、若き日に彼がくれた、最も真摯な約束だったはずなのに。胸が痛みと切なさでいっぱいになった。あのメッセージを突きつけて問い質したかった。けれど、みじめなことに、自分には勇気がないと気づいてしまった。怖かったのだ。隠していたすべてを明るみに出してしまえば、もう二度と元には戻れなくなることが。シャワーを終えた一聖が出てきたとき、藍里はすでに背を向けて横たわっていた。これ以上話すつもりはないという、無言の意思表示だった。一聖の目に、何か複雑な感情がよぎった。目が覚めると、隣に誰もいなかった。黙ってベッドを降りると、突然スマホが鳴り響いた。電話に出ると、母・宮園幸恵(みやぞの ゆきえ)の焦燥の混じった声が聞こえてきた。「藍里、おばあちゃんが心臓発作を起こして危篤なの。早く顔を見に来なさい。それと、後の手配はあんたがやりなさいよ」藍里の頭の中で、雷が落ちたような衝撃が走った。まだ状況を飲み込めないうちに、母はもう電話を切っていた。子どもの頃からずっと、両親は弟ばかりを可愛がった。そんな中で、祖母だけがいつも藍里を深く愛してくれた。宮園家でただ一人、藍里の味方でいてくれた人だった。この前会ったとき、祖母は「一聖を連れて会いに来てね」と笑っていた。でも、一聖が忙しいからと言い訳をして、ずるずると先延ばしにしてしまったのだ。まさかあれが最後になるなんて、思いもしなかった。手が震えた。藍里は急いで一聖に電話をか
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第4話

「すぐ来る」という一聖の言葉を、藍里は信じていた。十数分も待てば駆けつけてくれると思っていた。けれど一時間が過ぎ、三時間が過ぎ、五時間が経っても、一聖の姿は見えなかった。祖母はもう限界を迎えていた。藍里と一聖が寄り添っているところを見届けてこそ、安心して旅立てるはずだったのに。藍里はスマホを取り出し、何度も何度も一聖の番号を押した。でも、今度は繋がらなかった。一度、二度、三度…………やはり、出ない。祖母は藍里がひたすら電話をかけているのを見て、その手を握り、かすれた声で絞り出すように言った。「藍里……あの人は……あなたに……優しくして……くれてる?」胸の苦しさを必死に押さえ込んで、藍里は答えた。「おばあちゃん、大丈夫。ずっと優しくしてもらってるよ」体がどんなに弱り果てていても、祖母の心だけは澄みきっていた。涙をたたえた目で、途切れ途切れに言葉を紡いだ。「藍里……自分に……我慢ばかりさせちゃ……だめよ……私がいなくなったら……あなたには一聖しか……いないんだから……仲良く……ね……」最後の一言を言い終えると、祖母の手からゆっくりと力が抜け、その瞼が静かに閉じられた。藍里は奈落の底へ突き落とされたような感覚に襲われ、スマホが手からこぼれ落ちた。「おばあちゃんッ!」祖母は、逝ってしまった。それからのことは、よく覚えていない。抜け殻になったように、白い布をかけられていく祖母をただ呆然と見つめ、霊安室へと運ばれていく姿を見送った。父も母も弟も、祖母の死を告げられても平然としていた。まるで、見知らぬ他人の訃報を耳にしたかのように。残されたのは、藍里ひとりだった。押し潰されそうな絶望の中で、それでも藍里は葬儀の手配を一手に引き受けた。一聖は電話にも出ず、姿を現すこともなかった。仕事が忙しくてまた約束をすっぽかしたのだと、ずっと自分に言い聞かせようとしていた。だが通夜の夜、遺影の前で黙って手を合わせていた藍里のスマホに、見知らぬ番号から一通のメッセージが届いた。【どうして彼が来なかったか、教えてあげようか?私が体調を崩しちゃって、一聖がずっと付き添ってくれてたの】メッセージには写真が添付されていた。病室のベッドの傍で、一聖が優しく丁寧にリンゴを剥いている写真だった。その瞬間、頭の中で何かがぷつり
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第5話

一聖の漆黒の瞳がにわかに翳り、勢いよく振り返った。「今、なんて言った?」「離婚しよう。弁護士に協議書を作ってもらうわ」藍里は静かに繰り返した。その瞳には、底知れぬ疲労だけが宿っていた。「数日中に荷物をまとめて出ていくから」一聖の目に怒りの色が滲んだ。突然藍里の手を強く掴み、「なんでいきなり離婚したくなったんだ?」と問い詰めてくる。なんでって?藍里は、その問いが滑稽でならなかった。夏奈子から送りつけられた写真をすべて突きつけて、感情をぶちまけて大喧嘩し、こう言ってやりたかった。誓いを裏切ったのはあなたでしょう。私たちの愛を壊したのはあなたでしょう。なのに、どうしてそんなに堂々と『なんで』なんて言えるの、と。でも、藍里はあまりにも疲れ果てていた。声を荒らげる気力も、激情すらも、もう残っていなかった。彼女はそっと目を閉じ、掴まれた手を引き抜いた。「もう限界なの。いろいろあったけれど、せめて最後くらいは綺麗なまま終わりにしたい。離婚しよう。もう続けていけないから」病室が、水を打ったように静まり返った。一聖は漆黒の瞳でじっと藍里を見つめ、やがて絞り出すように言った。「……認めない」こらえきれずに藍里は口を開いた。「あなたにそれを拒む権利があるの。私が一番つらくて、一番どうしようもなかったとき、あなたはどこにいたの?おばあちゃんが最後に会いたがっていたとき、あなたは?」その言葉に、一聖の体がわずかに強張った。胸の痛みがまた少し増した。一聖が答えられないことはわかっていた。藍里自身も、もう答えなど必要としていなかった。「これでいいの。未練がましいことはやめて、綺麗に別れましょう」結局、藍里はまだ弱りきっている体を奮い立たせて退院し、そのまま実家へ向かった。家に着くと、母の幸恵は藍里の体を心配する言葉一つかけず、ただ不満げに顔をしかめた。「また一人で帰ってきたの?一聖くんは?」葬儀の数日間、一聖が一度も姿を見せなかったことで、幸恵の中では危機感がとっくに芽生えていた——大切な婿を手放したくない、その一心だった。「喧嘩でもしたの?一聖くんはお坊ちゃまなんだから、少しくらいわがままなのは当たり前よ。あなたがもっと我慢しなきゃ」どうせわかってもらえないとわかっていても、藍里は静かに問いかけた。「お母さん……もし私
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第6話

藍里は嫌な予感がして、慌てて寝室のドアを開けた。案の定、両親の姿はどこにもなかった。昨日の反対ぶりを思い出した瞬間、居たたまれなさが胸に込み上げた。藍里は急いで滝沢グループの本社へ向かった。会社に到着すると、社内には異様な空気が漂っていた。想像していたような騒ぎの気配はなかったけれど、すれ違う社員たちがみな、どこか好奇の目を藍里に向けていた。その隠しきれない眼差しが、両親がここで何かをやらかしたことを雄弁に物語っていた。頬が燃えるように熱かった。藍里は両手を握りしめたまま、黙ってエレベーターへ向かった。背後から、小声の囁き声が聞こえてくる。「社長の奥様も来たのね。ご両親が騒いだこと、知ったのかな」「まさかあんなご両親だとは……さっき社長の顔、氷のようだったよ」「カードを渡したら大人しくなったって聞いた。結局お金目当てでしょ……」藍里は爪が手のひらに食い込むほど強く手を握りしめ、エレベーターに乗り込んで最上階のボタンを押した。社長室に入ると、無表情の一聖が目に入った。静かな目でこちらを見返してくる。藍里はその目をうまく見つめ返すことができなかった。両親はソファに笑顔で座っていた。藍里が来たのを見ると、幸恵がわざとらしく声を上げた。「ちょうどよかった。藍里、誤解があるならちゃんと一聖くんに話しなさい。私たちに尻拭いさせないでちょうだい」尻拭い?お金をせびることが尻拭いだというの?藍里の血の気が引いた。「誰がここに来いって言ったの?」「あなたのためじゃない。離婚なんて言い出すから。ね、一聖くん、誤解しないでね。この子、本気じゃないのよ。こんなに長く一緒にいたのに、別れたいわけないでしょ?」幸恵はあっさりと離婚の話題を打ち消し、わざわざ一聖からもらった銀行カードを藍里に見せつけた。そのカードが、まるでこの結婚という名の檻に藍里を縛り付ける鎖のように見えた。この鎖がある限り、一生逃げ出すことはできない。もう何も言えなかった。全身から力が抜けていく。目的を果たした幸恵は、和智と共に立ち上がった。「じゃあ私たちは先に失礼するから。あとは二人でゆっくり話しなさいね」両親が出ていくと、社長室には藍里と一聖だけが残された。さっき幸恵が握りしめていた銀行カードが脳裏をよぎり、喉に何かが詰まったように息苦しくなった
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第7話

「……っ。一聖、離婚したくないの?」かすれた声で、藍里はふいに問いかけた。タオルを握る一聖の手が止まった。顔を上げて、「ああ」と短く答えた。静寂が長く続いた。やがて藍里は、何かを諦めたように小さく息を吐いた。この結婚の主導権は、最初から最後まで一聖が握っていた。終わりにできるのも、一聖だけだ。たとえ彼に別の女性がいても、離婚を拒まれる限り、藍里には出ていく道がないのだ。「……わかった」虚ろな声で言った。その日以来、藍里は離婚という言葉を口にしなくなった。表向きはまた元通り、大人しく家で過ごすようになった。ただ、日に日に顔色が悪くなっていった。ふさぎ込んで笑わなくなり、一聖と交わす言葉も日を追うごとに減っていった。そんな日々がしばらく続いたある昼下がり、家政婦が作ってくれた鶏のスープを口にした瞬間、胃がひっくり返るような感覚に襲われた。激しい吐き気が込み上げ、家政婦が慌てて洗面器を差し出した。青ざめた顔の藍里を見て、家政婦が遠慮がちに言った。「奥様……もしかして、おめでたではないでしょうか」藍里はどきりとした。何年も妊娠できなかったから、そんな可能性はすっかり頭から消え去っていた。でも考えてみれば、今月の生理は遅れていた。その日の午後、藍里は一人で総合病院へ向かった。病院のロビーで、思いがけない二人と目が合った。一聖と、夏奈子だった。「どうしてここに?」一聖が藍里を見て言った。体の横に垂らした藍里の手が、かすかに震えた。「あなたこそ、どうしてここに?」夏奈子が藍里の青白い顔を見て、笑顔で説明した。「誤解しないでくださいね。仕事中に頭が少し痛くなってしまって。社長が心配して付き添ってくださったんです」目の前の光景に、胸がひどく締め付けられた。自分は一人で、妊娠しているかもしれない体を確かめに来ている。なのに夫は、別の女の体を気にかけているのだ。深く息を吸い、苦渋を胸の奥に押し込めた。「胃の調子が悪くて、検査に来ただけ」夏奈子は一聖の後ろでひっそりと得意げな笑みを浮かべると、弱々しいふりをして一聖の袖を引いた。「社長、私の順番が来たみたいです。行きましょう」一聖はもう一度だけ藍里に目を向け、それから夏奈子に付き添って歩き出した。藍里はしばらく立ち尽くしたままだった。ふたりの姿が完全に消
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第8話

一聖は無言で藍里の背中を見送ると、表情がすっと消え、顔つきが完全に冷えきった。数秒後、夏奈子に視線を移し、静かに告げた。「お前がここにいる目的を忘れるな」夏奈子の顔がさっと青ざめた。何か言いかけた瞬間、一聖はカードを一枚押しつけ、検査が終わったかどうかも確認せずにその場を立ち去った。一聖の後ろ姿を悔しげに見送った夏奈子は、ふと藍里が消えた廊下の先へ目を向けた。そして何かを思いついたように、冷たく口の端を歪めて笑った。妊娠を確認してからというもの、藍里はずっと迷い続けていた。一聖にこのことを打ち明けるべきかどうか、と。子どもの父親として、一聖には知る権利がある。でも、夏奈子と並んで病院にいた一聖の姿が、喉の奥に刺さった小骨のように、深く突き刺さって抜けなかった。けれどその迷いは、すぐに意味を失った。あの日以来、一聖は何日も家に帰らなくなってしまったから。三日後、藍里はがらんとしたリビングで、ただ一人座っていた。外はいつの間にか暗くなっていた。今日も帰らないのだろう。そう思って立ち上がりかけたとき、スマホが震えた。またあの見知らぬ番号からだった。今度は挑発的なメッセージの代わりに、一枚の画像だけが届いていた。タップして開いた瞬間、全身の血が凍りつくのを感じた。それは、夏奈子が産婦人科で受け取った検査結果の写真だった。画面には、彼女の名前とともに、【妊娠反応陽性】の文字がはっきりと写っている。そのとき、ガチャリと、玄関の鍵が開く音が響いた。藍里はこわばった体のまま振り返った。何日も姿を見せなかった一聖が戻ってきたのだ。視線が交差した。藍里はゆっくりとスマホを伏せ、体の震えを隠すように、ぎゅっと両手を握りしめた。一聖は藍里の目の前まで歩み寄り、氷のように冷ややかな声で言った。「離婚しよう」藍里の胸が、もう一度激しく跳ね上がった。一聖の無機質な表情を見た瞬間、先ほどの夏奈子のメッセージが脳裏に浮かんだ。すべての辻褄が合ったのだ。なぜ夏奈子と一緒に病院へ行ったのか。なぜ何日も帰らなかったのか。なぜ頑なに離婚を拒んでいたのに、今になって自分から切り出してきたのか。夏奈子もまた、一聖の子を身ごもっていたのだ。かつての自分に似た、若い女性。一聖の心はとっくに、彼女へと移っていたのだ。藍里の
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第9話

最初に向かったのは、白嶺山だった。純白の雪に覆われた山頂で、かつてふたりはきつく抱き合い、口づけを交わして、この先ずっと一緒にいると誓い合った。次に訪れたのは、星蓮の都だった。神聖な星蓮宮も、かつてのふたりの愛を見守ってくれていた。再び一聖とここならではの山塩茶を口にしながら、藍里は初めてここを訪れた日を思い出していた。慣れない味に顔をしかめ、飲み残しをこっそり一聖のカップに注ぎ、ついでにひとつまみの塩を足していたずらをした。一聖はそれに気づきながらも、笑って藍里を抱き寄せ、優しく口づけをしながら「まったく、懲りない悪戯っ子だな」とからかうように囁いてくれた。その次に足を運んだのは、奥澄高原だった。前回来たとき、藍里はひどい高山病にかかってしまった。意識が朦朧とする中、無意識に一聖の手にすり寄って「苦しい」と甘えた。一聖は心配そうに藍里をそっと抱きしめ、背中をゆっくりと撫で続けてくれた。それから、水乃郷を訪れた。いつか年を取ったら、こんな静かな場所でふたりで暮らしたい。そう言ったのは藍里だった。あの頃は目を輝かせて、老後の生活プランを細かく語っていた。最後に訪れたのは、霧氷ヶ原だった。ここで一聖がスキーを教えてくれた。藍里は何度も転んで、泣きべそをかきながら一聖の胸に顔を埋めて「もう嫌だ」と拗ねた。一聖は藍里を優しくあやしながらも、最後まで根気強く教え続けてくれた。……思い出の場所をなぞるように巡るうちに、三十日間は飛ぶように過ぎていった。最終日、二人が向かったのは、家の近くにある紅葉山だった。さほど高くはないが、見晴らしのいい美しい山だった。頂上まで登ったふたりは、並んで眼下に広がる景色を見下ろした。「覚えてる?」藍里がふいに口を開いた。「付き合い始めてから、最初のデートがここだったね」「離婚の前に来られてよかった。始まりの場所で最後を迎えるのも、けじめになっていいかもしれないわね」この三十日間の旅で、藍里が初めて離婚という言葉を口にした瞬間だった。一聖は少し驚いたように、隣に立つ藍里の横顔をじっと見つめた。その胸の奥には、複雑な感情が渦巻いているようだった。一聖が何か言いかけようとしたとき、また藍里の声が続いた。「一聖、あなたはまだ、私を愛してる?」一聖はゆっくりと手を握りしめた。し
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第10話

一聖の胸の奥で、何かが軋んだ。それでも、ゆっくりと藍里の手を離した。その手が離れた瞬間、藍里の胸に引き裂かれるような痛みが走った。一聖はやはり、まだ自分を愛しているのだろう。そう、愛さずにはいられなかった。あれほど若い頃から、二人で深く愛し合ってきたのだから。だが今は、夏奈子に心が傾いている。だから、夏奈子のために自分の手を離したのだ。黙って背を向け、藍里は静かに告げた。「三日後、区役所で会いましょう」三日後。長年、雪など降らなかったこの街に、突然今年初めての雪が舞い始めた。藍里は早起きして着替えを済ませ、薄くメイクをして、マフラーをしっかりと巻き、家を出た。信号待ちをしながら、そっと手のひらを広げた。一枚の雪の結晶が、舞い降りてくる。冷たい感触が肌に触れた瞬間、古い記憶がよみがえった。五年前、一聖と婚姻届を出しに行った日も、こんなふうに雪が降っていた。あの頃の藍里は、幸せに胸を膨らませて一聖に飛びついた。「ねえ、一聖、雪よ!一緒に雪を被って頭が真っ白になれば、白髪になるまで連れ添えるって外国の言い伝えがあるみたいよ。早く出てきて、一緒に雪を浴びよう!」一聖はそんな迷信を信じてはいなかっただろう。それでも雪の中へ足を踏み入れ、二人で抱き合い、口づけを交わしてくれた。共に雪を浴びれば、この先も添い遂げられる……藍里はふいに全身を震わせ、我に返った。気づけば、頬は涙で濡れていた。あの誓いは叶わなかった。この結婚生活は、とうとう終わりを迎えたのだ。もう二人で、白髪になるまで共にいることはない。自嘲気味に微笑み、虚ろな足取りで横断歩道を渡り始めた。彼女は気づいていなかった。左側から、制御を失った車が猛スピードで突っ込んでくることに。三秒後。鈍い衝突音が響き、凄まじい衝撃が空気を切り裂いた。藍里の体は宙に高く舞い上がり、そしてアスファルトに激しく叩きつけられた。どれくらい時間が経ったのか、わからなかった。意識が体から抜け出していくように目の前は真っ暗なのに、聴覚だけが異常に研ぎ澄まされ、様々な音が流れ込んできた。人々の悲鳴、ざわめき、救急車の甲高いサイレン……やがて、その音たちも遠く遠くへと消えていった。静まり返った意識の中で、走馬灯のように光景が次々と浮かんでは流れた
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