All Chapters of 降る雪を、君と並んで浴びたなら: Chapter 31 - Chapter 40

40 Chapters

第31話

会社にいるとき、一聖はふとした拍子に手が止まることがあった。デスクの隅に飾った藍里の写真に、ただじっと見入ってしまうのだ。ひとりのときならまだよかった。だが、部下が重要なプロジェクトの報告をしている最中であっても、気がつけば上の空になっている。そのたびに、傍らに控えていた秘書がそっと目配せをして、部下に言葉を止めさせた。五分ほど無言の時間が流れたあと、一聖はまるで深い夢から覚めたようにゆっくりと我に返り、何事もなかったかのように続きを促すのだった。報告を終え、書類を提出しようと近づいた部下が、机の上の写真立てにちらりと目をやった。写真に写っているのが誰なのか、部下には一目で分かった。そのほんのわずかな視線の動きを、一聖は見逃さなかった。彼は声を張り上げ、鋭く言い放った。「そんなにジロジロ見たいか?」部下は書類を抱えたまま慌ててオフィスから飛び出していった。一聖は鋭い目で、逃げるようなその背中を見送る。……それ以上は、特に何も言わなかった。退社後、一聖は大きなショッピングモールに立ち寄り、藍里の好きそうなものを片っ端から探し回った。ありとあらゆる種類の店を回り、気がつけば買い物袋の数は膨れ上がり、使った金額は数十万円にのぼっていた。帰りの車の後部座席で、袋の中を覗き込むたびに、自然と笑みがこぼれるのを抑えられなかった。家に着くと、両手いっぱいの荷物を自分で抱え、勢いよく寝室へ向かった。藍里は、ベッドの上で毛糸のマフラーを編んでいた。物音に気づいた彼女が顔を上げ、一聖が抱えている大量の袋を見て目を丸くする。「一聖、業者の買い付けにでも行ってきたの?」一聖は袋のことよりも、藍里の手元にあるものが気になった。買ってきた品々の説明をするより先に、それを尋ねた。「藍里、それどうしたんだ?」「これ?今日お義母さんと話してたら、あなたって外を出歩くことが多いのに、家にはマフラーひとつないってことに気づいて。道具を買ってきてもらって、編んでみようかと思ったの」妊娠中の身で、無理をさせたくないという気持ちはあった。けれど、自分のためにわざわざ手作りしてくれようとしているということは、それだけ自分を想ってくれている証だ。胸の中に、じわっと熱いものが広がっていった。藍里は、一聖がそこでぼんやり黙り込んでいる
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第32話

そのしまりのない顔を、ちょうど顔を上げた藍里に見られてしまった。彼女は笑いをこらえながら尋ねた。「……何、その顔」はっと我に返った一聖は、藍里が必死に笑いを堪えているのを見て、耳の先まで赤く染めた。「べ、別に、何でもない」照れ隠しにそう言い捨てて、そそくさと部屋を出ていった。だが、しばらくしてまた戻ってきた。扉の陰に身を潜め、こっそりと部屋の中を覗き込んでいる。藍里はずっと下を向いてマフラーを編み続けており、一聖がまだそこにいることには気づいていない。そんなことは露知らず、一聖はご満悦の様子で、愛おしい妻の姿をただじっと眺めていた。その不審極まりない行動を目撃したのは、たまたま廊下を通りかかった瑛子だった。呆れたのはほんの一瞬のことだった。ふと、古い記憶が鮮やかに蘇ってきた。あの子も昔、よくこうしてドアの外から身を乗り出し、中の様子を興味津々に覗き込んでいた。一聖がまだ小さかった頃、自分が部屋で昔のアルバムを整理していたとき、幼い一聖がこうやって扉の外からこっそりと覗いていたことがあった。堂々と入ってきて一緒に見ればいいだけなのに、なぜかこそこそと隠れるようにして。おかげでこちらまで、何か悪いことでもしているような気分にさせられたものだ。瑛子の口元が、自然と緩んだ。懐かしい。あの頃の無邪気だった息子が思い出される。自分もずいぶんと歳をとったものだ。子どもの成長というものは、あっという間だ。そう思いながら一歩近づいて……一聖の熱を帯びた視線の先が、藍里だと気がついた。瑛子の表情から、懐かしさがすっと引いていく。代わりにまた、いつもの暗い翳りが心の奥に忍び込んできた。それでも、彼女は静かに一聖の肩をぽんと叩いた。一聖は弾かれたように顔を上げた。「……っ、母さん、どうしました?」瑛子は部屋の中をちらりと確認してから、一聖を廊下の奥へと引っ張っていった。口を開く前に、少し改まった様子で言う。「お父さんが、もう数日したら出張から帰ってくるのよ」一聖にとって、父が出張から帰ってくることなど別段珍しいことでもない。それなのに、母のあの変な言い方には、どこか家の中に何かを隠しているような妙な気配があった。「それはいつものことでしょ。どうしたんですか?」瑛子は言い淀み、慎重に言葉を選んだ。
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第33話

買い出しを終えて帰宅すると、藍里が玄関先まで出てきて待っていた。その薄着の姿を見た瞬間、一聖は顔をしかめた。冬になると藍里はもともと体調を崩しやすくなる。妊娠中の今なら、なおさらのことだ。藍里はその険しい表情を見て、自分が怒られることを悟り、さっと小動物のように部屋へ引っ込んでいった。しかし一聖は、買ってきた重い荷物を下ろすと、まっすぐ藍里の部屋へと向かった。藍里はすでに、布団の中にすっぽりともぐり込んでいた。ダンゴムシのように丸まった愛らしい姿を見ては、さすがの彼も何も言えなくなる。説教をする代わりに、エアコンの温度を少しだけ上げてやり、黙って荷物を台所へ片付けに向かった。今年の年末年始、一聖は藍里の両親と弟を家に呼ぶつもりはなかった。あの人たちの目的は結局のところお金だけで、藍里に対する扱いもひどく冷たかった。新年の祝いの席に、あの顔ぶれは見たくなかった。年末年始に向けて、会社は社員に数日間の休暇を与える。一聖と藍里で相談し、年明け前の数日は一聖が仕事に打ち込み、年が明けたらふたりでゆっくり過ごそうということになった。すべての仕事を年内に片付けるため、一聖は会社に泊まり込んだ。それでも、毎日藍里へ電話をかけることだけは決して欠かさなかった。そうして三、四日が過ぎ、いよいよ年越しが近づいた頃、ようやくすべての業務と手続きが終わった。車を飛ばして家にたどり着いたのは、大晦日の未明だった。家の中の者を起こさないように、特に藍里の眠りを妨げないようにと、一聖は足音を忍ばせて歩いた。洗面所で簡単に身支度を済ませると、暗い廊下に出る。扉の前に、藍里が立っていた。目をこすりながら、半分寝ぼけたような顔で。一聖はすぐにそばへ行き、心配そうに尋ねた。「どうしてまだ起きてるんだ?」藍里はまだ半分眠ったまま、ぼんやりと呟いた。「なんとなく、あなたが帰ってきた気がして……目が覚めちゃった」寝ぼけた声はくぐもっていて、柔らかくて、なんとも言えず庇護欲をそそられた。一聖は廊下の電気を消し、藍里の肩を優しく抱き寄せながら寝室へ戻った。そのままベッドで一緒に横になり、藍里が再び眠りに落ちたら自分はソファへ移ろうと思っていた。だが、藍里がじっとこちらを見たまま、一向に目を閉じようとしない。一聖も、ついに諦めた。今
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第34話

廊下の電気が消えていたので、一聖は暗闇の中に手を伸ばし、手探りで藍里を抱き寄せた。髪に顔を近づけると、藍里のほのかな香りがふわりと漂う。もう片方の手で、藍里の小さな手をしっかりと握り、決して離そうとしなかった。どれくらい経っただろうか。藍里の手が、かすかに力を込めて握り返してくるのがわかった。彼女もまた、一聖がまだ眠っていない気配を感じ取っていた。しばらくして、そっと口を開く。「この数日間、疲れたでしょ」少しでも心配させまいと、一聖は短く答えた。「疲れてないよ」だが、藍里はそう簡単には騙されなかった。彼が部屋に入ってきたとき、目の下にできた濃いクマを見逃していなかったのだ。目だって、半分しか開いていなかったのに。「さっき、パンダみたいになってるのを見たよ」慌てて帰ってきたせいで洗面所で鏡を見ていなかった一聖は、半信半疑で聞き返した。「そうか?嘘じゃないだろうな」藍里はくすりと笑ってから、急かすように言った。「本当だって。だから早く寝て。そんなパンダみたいなクマで会ったら、お義父さんもお義母さんもびっくりしちゃうでしょ」それから、藍里は枕元へ手を伸ばしてベッドサイドランプをつけた。柔らかなオレンジ色の灯りの中で、彼女がぱっちりと目を開けてこちらを見ていた。自分だって眠そうな目をしているというのに。「寝ないのか?」藍里にも、理由は分からなかった。ただ、さっき自分で口にした言葉に自分で笑ってしまったせいか、急に眠気が少し薄れていた。彼女はぽつりと言った。「少しだけあなたの顔を見てから、寝るの」その愛らしい言葉を聞いて、一聖は結婚したばかりの頃を思い出した。あの頃の藍里は、いつも「夢みたいで信じられない」と繰り返していた。ずっと好きだった相手と結婚できたことが、なかなか実感できずにいたのだ。その初々しい可愛らしさを思い出して、一聖は思わず低く笑った。手を伸ばして藍里の温かい頬に触れ、ひと言だけこぼす。「……バカ」眠くないと言えば嘘になる。会社に泊まり込んだ数日間、ほとんどろくに眠れていなかった。すべては今日のためにずっと働き続けて、ようやく帰ってきたのだ。体を包み込む柔らかな布団の心地よさに、到底抗えるはずもなかった。じわじわと強烈な睡魔が押し寄せてきて、一聖はそのまま泥のよ
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第35話

悟は渋々といった様子で、あっさりしたおかずと白ご飯を食べた。藍里が、一聖のために温かいミルクを持ってきた。一聖は顔をほころばせて藍里に礼を言うと、わざと父の目の前でコップを掲げ、見せびらかした。いっそ見なかったことにしようと、黙々とご飯を食べることにした。和やかな食事の最中、父方の親戚から電話がかかってきた。久々に集まらないかという誘いだった。悟が少し迷っている様子を見せると、一聖はさっと電話を奪い取り、にべもなく断った。十年以上もまともな付き合いがない相手だ。しかも以前、父のなけなしの貯金を騙し取ったこともある。今さら親しげに連絡してくるということは、また何かろくでもない魂胆があるに決まっている。金銭トラブルが起きたあの日から、いくら血がつながっていようと、縁は切れたも同然だった。悟は、息子にスマホを取り上げられたものの、彼の言葉を聞いて、止めようとはしなかった。電話の向こうから「水臭いじゃないか、兄弟なんだから助け合おう」という調子のいい声が漏れ聞こえた瞬間、一聖は冷たく苦笑し、迷わず通話を切った。そしてそのまま、連絡先をブロックした。父の性格は一聖が一番よくわかっている。奴らにしつこく泣きつかれれば、また情にほだされてしまう可能性が高いのだ。すべて処理し終えてから、一聖はスマホを父に返した。そして念を押すことも忘れなかった。「父さん、絶対にブロックを解除しないでくださいね」それから藍里の様子を見ようと台所へ向かったが、手際よく野菜を切り、炒め物をしている忙しそうな後ろ姿を見て、踏み出しかけた足をそっと引っ込めた。今声をかけても邪魔になるだけだ。そう思い直して、悟の隣に腰を下ろした。それから、将来生まれてくる孫にどんな名前をつけるかという話になった。悟は少し驚いたように目を丸くし、それから真剣な表情で考え込んだ。「男の子なら……滝沢嘉信(たきざわ よしのぶ)はどうだ。女の子なら、滝沢嘉穂(たきざわ かほ)かな」思ったよりも即答だった。一聖も、その響きを口の中で何度か転がしてみた。……滝沢嘉信、滝沢嘉穂。悪くない。むしろ、なかなかいい響きだ。「じゃあ今夜、藍里にも聞いてみるよ」悟は少し間を置いてから、「ああ」と頷いた。「他にもいくつか考えておこう。生まれたら、くじ引きで決めるの
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第36話

藍里も瑛子に同調した。「お義母さんの言う通りだよ。それに、買ってきたお野菜とお肉、量が多かったから。お昼にしっかり食べないと、夜までに使いきれなくなっちゃうし」なるほどそれが本当の理由か、と一聖はようやく納得し、それ以上は何も言わなかった。昼食が終わると、藍里が慣れた手つきで食器を片付けようとした。一聖がそれより先に立ち上がる。「料理を作った人に、洗い物までさせるわけにいかないだろ」藍里の声はふんわりと柔らかく、澄んだ甘さを含んでいた。「あら、じゃあ今まで私がずっと作ってたとき、どうして洗い物を手伝ってくれなかったのよ??」一聖は答えず、黙って食器を持ち、逃げるように台所へ走った。そのまま、また黙々と食器を洗い始めた。綺麗に洗おうとこだわりすぎているのか、それとも慣れていないせいか、やたらと時間がかかっている。台所の外で、そのぎこちない様子を見ていた瑛子が、夫に向かってぼそっとこぼした。「いいわねえ。あなたなんて、何十年も生きてきてお茶碗一つ洗ったことないじゃない」悟は堂々と言い返した。「そっちだって、さっきサンドイッチの一切れもくれなかったじゃないか。食器を洗わないくらいで文句を言われる筋合いはない」一聖がようやく洗い物を終えると、待ちかねていた外出の時間になった。本当は、妊娠中の藍里を寒い外へ連れ出したくはなかった。それでも、彼女だけを置いていくわけにもいかない。今回も一聖は、藍里に念入りに厚着をさせた。「またこんなに着せるの?今日はそんなに寒くないよ?」不満そうな藍里の顔を、一聖は見て見ぬふりをした。手に取った毛糸の帽子を、そのまま藍里の頭にすっぽりとかぶせて、にこりとする。「まだ足りないんじゃないかと思ってたところだ。もう一枚、上に着てみるか?」藍里は慌てて手を振り、断った。「もう無理!これ以上着たら、重くて歩けなくなっちゃう」一聖はマフラーを手に持ったまま、わざとらしく考えるそぶりをしてみせた。「歩けなくなったら、俺が抱えて歩いてやる」笑いながら、マフラーを藍里の首にぐるぐると巻いた。それから一歩引いて、自分の作品を見る子どものような顔で、満足げに出来栄えを眺める。藍里は恨めしそうな上目遣いで、一聖を見上げた。怒っているのにどうしようもない、すねた子猫のような表
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第37話

厳しい冬が去り、少しずつ空気が温もりを取り戻し始める頃には、藍里のお腹もはっきりと目立つほどに膨らんでいた。春の気配が色濃くなると同時に、藍里は外へ連れていってほしいと一聖にせがむようになった。こうなると、さすがの一聖も断る理由がなかった。外に降り注ぐ陽射しには、ほんの少しだけ春めいた温かさが混じっていた。二人で公園のベンチに並んで座り、子どもたちが元気に駆け回る姿をぼんやりと眺めた。自分たちの子どもが生まれたら、あんなふうに笑いながら走り回るのだろうか。そんなことを、二人で静かに想像して語り合った。ふと思い出したように、一聖が口を開いた。「そういえば、ずっと言いそびれていたんだけど……大晦日に、父さんが子どもの名前を考えてくれていたんだ。男の子なら嘉信、女の子なら嘉穂って。藍里はどう思う?」藍里はしばらく真剣に考えてから、柔らかく笑った。「どっちも好き。いい名前だと思う」「じゃあ、決まりだな」ふと、藍里の耳が薄紅色に染まっているのに気がついた。日差しのせいか、それとも照れているのか。一聖は手を伸ばして、その赤くなった耳をそっとつまんでから、不意に顔を近づけ、唇を落とした。ほんの一瞬だけ。その瞬間、藍里の指が一聖の腕をきゅっとつねった。名前を呼ぶ声は小さいけれど、どこか抗議の響きが混じっていた。照れ隠しだと思ったが、続く言葉は違った。「子どもたちが見てるじゃない……恥ずかしくないの?」一聖はぱっと顔を離した。振り返ると、さっきまで走り回っていた子どもたちが、好奇心に満ちた目でこちらをじっと見つめていた。一聖はわざとらしく咳払いをしてごまかすしかなかった。子どもたちはじきに興味を失い、また自分たちの遊びへと戻っていった。彼女の声は、語尾を少し伸ばすだけで、ふにゃりと柔らかくなる。そこには、どこか甘えるような、抗いがたい可愛らしさがあった。「もう……あっちで子どもたちが遊んでるの、わかってたくせに。なんで……」文句を言いながら、自分で口元を押さえる。その目には、まだ少しの抗議の色が残っていた。一聖はしゅんとした様子で、藍里に素直に謝った。「ごめん、もうしないって約束する」お腹が大きくなるにつれて、一聖は藍里を近所の散歩に連れ出す程度にとどめ、決して遠出はさせなくなった。妊娠後期に入っ
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第38話

その日は、予定日よりも少しだけ早く訪れた。陣痛が始まった藍里を、一聖はその夜のうちに急いで病院へ連れていき、彼女がストレッチャーに乗せられ、分娩室の奥へと運ばれていくのを自分の目で見送った。夜が明けても、中からは何の知らせもなかった。四、五時間が過ぎた頃、ようやく医師が扉から出てきた。「先生、どうなんですか。まさか、命に関わるようなことは……」医師は複雑な表情を浮かべたまま、どう説明すればいいか言葉を探して口ごもっていた。そこへ、瑛子が小走りで駆け込んできた。彼女の顔を見た瞬間、医師の表情にほっとしたような色が広がった。一聖は瑛子に、藍里がもう随分前から分娩室に入っていることを早口で説明した。だが瑛子は、ただ心配そうな面持ちで一聖を見つめるばかりで、孫の誕生をあれほど待ち望んでいたはずなのに、少しもそわそわする様子がない。そのことが一聖にはひどく不思議だった。「母さん、どうして少しも何か起きるかもしれないって怖がらないんですか?」瑛子は、もうこれ以上は隠し通せないとわかっていた。どこから別の赤ちゃんを連れてくることなど、できるはずもないのだから。「一聖、落ち着いて聞いてちょうだい……」だが、一聖は何か不吉なものを感じ取ったように、強く首を振った。聞きたくなかった。それでも、瑛子はこのまま話を引き延ばすことはもうできないと分かっていた。一聖がどれほど聞きたがらなくても、彼女は真実を口にするしかなかった。「藍里が、赤ちゃんを産めるわけがないのよ。だって……それはすべて、あなたが自分で作り出した幻想なんだから……っ!藍里は、十ヶ月前に亡くなったの。あなたが自身で、あの子のお葬式を出してあげたんじゃないの!ずっと……あなたはこの十ヶ月、自分の心が作り出した幻の藍里と一緒にいたのよ」一聖は呼吸を整えようと必死だった。だが、小刻みに震える息遣いが、彼を裏切っていた。「……っ、そんなはずはない。藍里は今、この分娩室の中にいるんだ。俺が自分の目で、この奥へ運ばれていくのをはっきりと見たんだ!」医師にすがるように証言を求めた。だが、医師の口から出た言葉は、一聖の胸を容赦なく貫いた。「滝沢さん、昨夜は私たちも、あなたの状態に合わせて演じていたんです。通報を受けて救急隊が駆けつけたとき、あなたの傍に妊婦の
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第39話

心の中では、もうわかっていた。最後の砦が、音を立てて崩れ落ちた。それでも、彼の言葉だけが現実を拒絶していた。残酷な現実を受け入れようとしなかった。一聖は分娩室に飛び込んだ。そこには医療器具の後片付けをしている医師たちがいるだけで、分娩台の上に藍里の姿はなかった。手術台の上に横たわっているはずの藍里が、完全に消え失せていた。「さっきまでここにいたのに、なんで突然いなくなるんだ!」血相を変えて飛び出してきた一聖は、医師たちに激しく詰め寄った。「どこか別の部屋に移したんだろう。騙せると思うな。藍里を返せ!」医師たちが必死に一聖の体を抑え込みながら、落ち着いた声で説明した。「滝沢様、どうか落ち着いてお聞きください。私たちが奥様を隠しているのではありません。彼女は――最初から、ここにはいなかったのです」「そんなはずはない。ずっと一緒にいた。プレゼントだってたくさん買った。公園にも行った。庭の温室にも一緒に行ったんだ……」言いかけた途端、何かに気がついた。熱い涙が頬を伝い、もうとめどなく溢れて止まらなくなった。一粒また一粒と落ちて、胸元を濡らしていく。藍里とのあの愛おしい会話は、すべて虚空に向けた彼の独り言だったのだ。彼女のために用意した料理を捨てたのも、自分自身だった。温室の花に水をやっていたのも、一聖自身。公園へ行き、ベンチに座っていたのも、ただひとりだったのだ。一聖の記憶の中にある藍里にまつわるすべての出来事は、すべて自分で行い、それを「藍里がしたこと」に脳内で巧妙にすり替えていただけだった。後から、医師が沈痛な面持ちで瑛子に説明した。「このような患者さんは、記憶の中のすべての人物と出来事を、ご自分の中で整合性のある物語として自動的に再構築してしまうんです。今回の赤ちゃんは、現実には存在し得ない。だから、幻想の中の藍里さんが十ヶ月かけて子どもを産むという出来事を、現実の記憶の中でどうしても当てはめることができなかった。矛盾が生じたその瞬間に、彼を守っていた幻想が完全に崩壊してしまったんです」瑛子は、ベッドに横たわる一聖を心配そうに見つめながら、医師に尋ねた。「先生、あの子が元に戻る方法は何かないんでしょうか」すがるような瑛子の問いに、医師の答えは残酷なほど変わらなかった。「心因性の
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第40話

瑛子が担当医師に尋ねると、一聖のようにずっと意識が戻らないケースは、過去にも例があったという。残酷な現実と向き合うことを心が拒絶し、そのまま深い眠りの中に逃げ込むことを選んでしまうのだ。心因性の昏睡に近い状態と言ってもいい。「唯一の方法は、患者に声をかけ続けることです。できれば、ご本人が一番大切にしている人の声で。ただし、目を覚ましたときに感情がまだ不安定なままであれば……正直なところ、このまま眠り続けているほうが、ご本人にとっては楽なのかもしれません」だが瑛子には、息子をこのまま病床で眠ったままにしておくという選択肢などなかった。何としてでも目を覚まさせたかった。あらゆる手を尽くして、こちらの世界へ呼び戻したかった。彼が一番大切にしている人……それはもう、この世にはいない藍里しかいない。自分が母親でありながら、自分こそが息子にとって一番大切な人間だという確信が持てなかった。それでも瑛子は毎日病室へ足を運び、一聖と藍里がこの十ヶ月間ともに過ごした幻の出来事を、ひとつひとつ丁寧に語り聞かせた。母としてのその言葉で、一聖の意識を現実へと引き戻そうとした。その日も、いつもと同じように病室のドアを開いた。彼の好物の食事も作って持ってきた。期待に胸を膨らませて病室のドアを押し開けると、ベッドには、乱暴にはねのけられたシーツと布団だけが残されていた。洗面所、廊下、中庭。院内で一聖がいそうな場所をすべて探し回った。だが、どこにも姿はない。跡形もなく消え失せていた。瑛子はすぐに悟へ連絡を入れ、人を手配して探させた。自分は病院の警備室に駆け込み、防犯カメラの映像を確認した。そこには、ふいに目を覚ました一聖がひとりで病室を出て、病院の前に停まっていたタクシーに乗り込んでどこかへ去っていく姿が映し出されていた。知らせを受けた悟も仕事を投げ打って捜索に加わった。自宅も、心当たりのある場所も、片っ端から確認して回った。それでも、どこにも見つからなかった。そのとき、瑛子の脳裏に不意にある場所が浮かんだ。幻想の中で藍里と幸せな日々を過ごしていたあの頃、一聖が買い求めた海辺の別荘だ。目を覚ました一聖が向かうとしたら、十中八九、そこだと思った。夫にすぐさまそれを告げ、自分も急いで車で向かった。悟の車が現地に近づいたとき、遠く
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