LOGIN結婚して五年。 歳月が滝沢藍里(たきざわ あいり)に教えたのは、ただ一つの真実だった—— どれほど深く愛し合った二人でも、いつかは別々の道を歩むことがあるのだ。 結婚一年目、滝沢一聖(たきざわ いっせい)はどこへ行くにも藍里を伴い、まるで「彼女は俺のものだ」と世界中に見せびらかしたいかのようだった。 結婚二年目、一聖は滝沢グループの後継者となり、藍里もその傍らで、怒涛の日々を共に駆け抜けた。 やがて疲弊が限界を超え、お腹の子を失ってしまった。一聖の涙を見たのは、あの時が初めてだった。真っ赤な目で藍里をそっと抱き寄せ、生涯、決して彼女を悲しませないと誓ってくれた。 結婚三年目、仕事が急激に忙しくなり、一聖が帰らない夜が続くようになった。顔を合わせる時間も、少しずつ減っていった。 結婚四年目、一聖の体から微かに見知らぬ香水の香りが漂うようになり、二人で向かい合っても、言葉はなく、ただ沈黙だけが降り積もるようになった。 そして結婚五年目——一聖はとうとう、結婚記念日を忘れていた。
View More瑛子が担当医師に尋ねると、一聖のようにずっと意識が戻らないケースは、過去にも例があったという。残酷な現実と向き合うことを心が拒絶し、そのまま深い眠りの中に逃げ込むことを選んでしまうのだ。心因性の昏睡に近い状態と言ってもいい。「唯一の方法は、患者に声をかけ続けることです。できれば、ご本人が一番大切にしている人の声で。ただし、目を覚ましたときに感情がまだ不安定なままであれば……正直なところ、このまま眠り続けているほうが、ご本人にとっては楽なのかもしれません」だが瑛子には、息子をこのまま病床で眠ったままにしておくという選択肢などなかった。何としてでも目を覚まさせたかった。あらゆる手を尽くして、こちらの世界へ呼び戻したかった。彼が一番大切にしている人……それはもう、この世にはいない藍里しかいない。自分が母親でありながら、自分こそが息子にとって一番大切な人間だという確信が持てなかった。それでも瑛子は毎日病室へ足を運び、一聖と藍里がこの十ヶ月間ともに過ごした幻の出来事を、ひとつひとつ丁寧に語り聞かせた。母としてのその言葉で、一聖の意識を現実へと引き戻そうとした。その日も、いつもと同じように病室のドアを開いた。彼の好物の食事も作って持ってきた。期待に胸を膨らませて病室のドアを押し開けると、ベッドには、乱暴にはねのけられたシーツと布団だけが残されていた。洗面所、廊下、中庭。院内で一聖がいそうな場所をすべて探し回った。だが、どこにも姿はない。跡形もなく消え失せていた。瑛子はすぐに悟へ連絡を入れ、人を手配して探させた。自分は病院の警備室に駆け込み、防犯カメラの映像を確認した。そこには、ふいに目を覚ました一聖がひとりで病室を出て、病院の前に停まっていたタクシーに乗り込んでどこかへ去っていく姿が映し出されていた。知らせを受けた悟も仕事を投げ打って捜索に加わった。自宅も、心当たりのある場所も、片っ端から確認して回った。それでも、どこにも見つからなかった。そのとき、瑛子の脳裏に不意にある場所が浮かんだ。幻想の中で藍里と幸せな日々を過ごしていたあの頃、一聖が買い求めた海辺の別荘だ。目を覚ました一聖が向かうとしたら、十中八九、そこだと思った。夫にすぐさまそれを告げ、自分も急いで車で向かった。悟の車が現地に近づいたとき、遠く
心の中では、もうわかっていた。最後の砦が、音を立てて崩れ落ちた。それでも、彼の言葉だけが現実を拒絶していた。残酷な現実を受け入れようとしなかった。一聖は分娩室に飛び込んだ。そこには医療器具の後片付けをしている医師たちがいるだけで、分娩台の上に藍里の姿はなかった。手術台の上に横たわっているはずの藍里が、完全に消え失せていた。「さっきまでここにいたのに、なんで突然いなくなるんだ!」血相を変えて飛び出してきた一聖は、医師たちに激しく詰め寄った。「どこか別の部屋に移したんだろう。騙せると思うな。藍里を返せ!」医師たちが必死に一聖の体を抑え込みながら、落ち着いた声で説明した。「滝沢様、どうか落ち着いてお聞きください。私たちが奥様を隠しているのではありません。彼女は――最初から、ここにはいなかったのです」「そんなはずはない。ずっと一緒にいた。プレゼントだってたくさん買った。公園にも行った。庭の温室にも一緒に行ったんだ……」言いかけた途端、何かに気がついた。熱い涙が頬を伝い、もうとめどなく溢れて止まらなくなった。一粒また一粒と落ちて、胸元を濡らしていく。藍里とのあの愛おしい会話は、すべて虚空に向けた彼の独り言だったのだ。彼女のために用意した料理を捨てたのも、自分自身だった。温室の花に水をやっていたのも、一聖自身。公園へ行き、ベンチに座っていたのも、ただひとりだったのだ。一聖の記憶の中にある藍里にまつわるすべての出来事は、すべて自分で行い、それを「藍里がしたこと」に脳内で巧妙にすり替えていただけだった。後から、医師が沈痛な面持ちで瑛子に説明した。「このような患者さんは、記憶の中のすべての人物と出来事を、ご自分の中で整合性のある物語として自動的に再構築してしまうんです。今回の赤ちゃんは、現実には存在し得ない。だから、幻想の中の藍里さんが十ヶ月かけて子どもを産むという出来事を、現実の記憶の中でどうしても当てはめることができなかった。矛盾が生じたその瞬間に、彼を守っていた幻想が完全に崩壊してしまったんです」瑛子は、ベッドに横たわる一聖を心配そうに見つめながら、医師に尋ねた。「先生、あの子が元に戻る方法は何かないんでしょうか」すがるような瑛子の問いに、医師の答えは残酷なほど変わらなかった。「心因性の
その日は、予定日よりも少しだけ早く訪れた。陣痛が始まった藍里を、一聖はその夜のうちに急いで病院へ連れていき、彼女がストレッチャーに乗せられ、分娩室の奥へと運ばれていくのを自分の目で見送った。夜が明けても、中からは何の知らせもなかった。四、五時間が過ぎた頃、ようやく医師が扉から出てきた。「先生、どうなんですか。まさか、命に関わるようなことは……」医師は複雑な表情を浮かべたまま、どう説明すればいいか言葉を探して口ごもっていた。そこへ、瑛子が小走りで駆け込んできた。彼女の顔を見た瞬間、医師の表情にほっとしたような色が広がった。一聖は瑛子に、藍里がもう随分前から分娩室に入っていることを早口で説明した。だが瑛子は、ただ心配そうな面持ちで一聖を見つめるばかりで、孫の誕生をあれほど待ち望んでいたはずなのに、少しもそわそわする様子がない。そのことが一聖にはひどく不思議だった。「母さん、どうして少しも何か起きるかもしれないって怖がらないんですか?」瑛子は、もうこれ以上は隠し通せないとわかっていた。どこから別の赤ちゃんを連れてくることなど、できるはずもないのだから。「一聖、落ち着いて聞いてちょうだい……」だが、一聖は何か不吉なものを感じ取ったように、強く首を振った。聞きたくなかった。それでも、瑛子はこのまま話を引き延ばすことはもうできないと分かっていた。一聖がどれほど聞きたがらなくても、彼女は真実を口にするしかなかった。「藍里が、赤ちゃんを産めるわけがないのよ。だって……それはすべて、あなたが自分で作り出した幻想なんだから……っ!藍里は、十ヶ月前に亡くなったの。あなたが自身で、あの子のお葬式を出してあげたんじゃないの!ずっと……あなたはこの十ヶ月、自分の心が作り出した幻の藍里と一緒にいたのよ」一聖は呼吸を整えようと必死だった。だが、小刻みに震える息遣いが、彼を裏切っていた。「……っ、そんなはずはない。藍里は今、この分娩室の中にいるんだ。俺が自分の目で、この奥へ運ばれていくのをはっきりと見たんだ!」医師にすがるように証言を求めた。だが、医師の口から出た言葉は、一聖の胸を容赦なく貫いた。「滝沢さん、昨夜は私たちも、あなたの状態に合わせて演じていたんです。通報を受けて救急隊が駆けつけたとき、あなたの傍に妊婦の
厳しい冬が去り、少しずつ空気が温もりを取り戻し始める頃には、藍里のお腹もはっきりと目立つほどに膨らんでいた。春の気配が色濃くなると同時に、藍里は外へ連れていってほしいと一聖にせがむようになった。こうなると、さすがの一聖も断る理由がなかった。外に降り注ぐ陽射しには、ほんの少しだけ春めいた温かさが混じっていた。二人で公園のベンチに並んで座り、子どもたちが元気に駆け回る姿をぼんやりと眺めた。自分たちの子どもが生まれたら、あんなふうに笑いながら走り回るのだろうか。そんなことを、二人で静かに想像して語り合った。ふと思い出したように、一聖が口を開いた。「そういえば、ずっと言いそびれていたんだけど……大晦日に、父さんが子どもの名前を考えてくれていたんだ。男の子なら嘉信、女の子なら嘉穂って。藍里はどう思う?」藍里はしばらく真剣に考えてから、柔らかく笑った。「どっちも好き。いい名前だと思う」「じゃあ、決まりだな」ふと、藍里の耳が薄紅色に染まっているのに気がついた。日差しのせいか、それとも照れているのか。一聖は手を伸ばして、その赤くなった耳をそっとつまんでから、不意に顔を近づけ、唇を落とした。ほんの一瞬だけ。その瞬間、藍里の指が一聖の腕をきゅっとつねった。名前を呼ぶ声は小さいけれど、どこか抗議の響きが混じっていた。照れ隠しだと思ったが、続く言葉は違った。「子どもたちが見てるじゃない……恥ずかしくないの?」一聖はぱっと顔を離した。振り返ると、さっきまで走り回っていた子どもたちが、好奇心に満ちた目でこちらをじっと見つめていた。一聖はわざとらしく咳払いをしてごまかすしかなかった。子どもたちはじきに興味を失い、また自分たちの遊びへと戻っていった。彼女の声は、語尾を少し伸ばすだけで、ふにゃりと柔らかくなる。そこには、どこか甘えるような、抗いがたい可愛らしさがあった。「もう……あっちで子どもたちが遊んでるの、わかってたくせに。なんで……」文句を言いながら、自分で口元を押さえる。その目には、まだ少しの抗議の色が残っていた。一聖はしゅんとした様子で、藍里に素直に謝った。「ごめん、もうしないって約束する」お腹が大きくなるにつれて、一聖は藍里を近所の散歩に連れ出す程度にとどめ、決して遠出はさせなくなった。妊娠後期に入っ