《捨てたはずの恋人が今さら執着してきますが、僕は自分の道を描く》全部章節:第 1 章 - 第 6 章

6 章節

第一話

 利き手だった右手の古傷が疼く夜は、決まって嫌な予感がした。 降谷圭は、予定より一日早く出張から帰宅した。……それは深夜二時。 静まり返ったマンションの廊下で、右手首を無意識にさする。 三年前の事故以来、この手は冬の冷気や雨の気配に敏感に反応し、微かな震えを繰り返すようになっていた。 今日は朝から嫌な疼きが続いていた。出先でもどこにいても何度右手を握っても、落ち着かなかった。(早く帰ろう) そう思った。 理由はなかった。ただ無性に宙の顔が見たかった。 駅で宙の好きな洋菓子店が期間限定で出店していた。甘いものはあまり食べないくせに、その店のフィナンシェだけは「これだけはうまい」と珍しく笑っていたことを思い出し、小さな箱を買った。 こんな時間ではもう寝ているかもしれない。 それでも朝になれば喜んでくれるだろう。 そんな些細なことを考えながら帰ってきた。 だが、リビングの扉を開けた瞬間、空気の重さが違うことに気づく。 床に脱ぎ散らかされた高価なジャケット。 その横には、見覚えのない派手なシャツが無造作に重なっていた。 まず鼻をつく甘い香水。そして寝室から漏れ聞こえる、熱を帯びた吐息と、肉体がぶつかり合う生々しい音。 圭は静かに目を閉じた。 ……やっぱり。 嫌な予感は、外れなかった。小さく息を吐く。 三年前。 倒壊しかけた資材から神山宙を突き飛ばし守った、あの日。 圭の建築家、デザイナーとしての未来は、粉々に砕け散った。 かつては一本一本の線にまでこだわり、誰よりも丁寧な図面を描いていた。 建物を使う人の生活を想像しながらデザインを考える時間が、何より好きだった。 だが今では、ペンを握るだけで右手は震える。 正確な図面どころか、一本の直線すら思うように引けない。 ラフスケッチさえ満足に描けなくなってしまった。 事故の翌日。白い病室で、医師から現実を告げられた。「以前と同じような精密な作業は難しいでしょう」 その一言で、世界から音が消えた。 設計士になるためだけに生きてきた。 徹夜で図面を描き、賞を取り、努力を積み重ねてきた人生だった。 それが、一瞬で終わった。 何も言えず俯く圭の右手を、宙は強く握った。「一生、俺が面倒を見てやる」 涙を滲ませながらそう告げた宙を見て、圭は心から救われた。 夢は失った
last update最後更新 : 2026-07-01
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第二話

「疲れた? お前が?」 宙は鼻で笑った。「……」「何が疲れた、だ。はぁ……そうやって悲劇の主人公を気取れば、俺がもっと優しくするとでも思ったか?」「本気だ、宙。もう、無理……」 圭の言葉を遮るように、宙は飲みかけのミネラルウォーターをテーブルに叩きつけた。 「いい加減にしろ。何を企んでるか知らないが、別れるとか……そのセリフを二度と口にするな!」 宙は苛立ったように吐き捨てると、背を向けてそのまま玄関に向かった。 バタン、とドアを閉める大きな音……拒絶するかのように。それが、三年間捧げてきた愛への答えだった。 圭は独り、リビングに取り残された。震える右手を左手で包み込む。 かつて、描いた図面を宙が「綺麗だ」と褒めてくれたことがあった。 まだ未熟さは自覚はあったが時間をかけて正確さを出すために丁寧に描いた。 他の者からはありきたりだとは言われ落ち込んできた時に宙だけはその丁寧さに気づき次はもっとオリジナル性を生み出せる、見せてくれ!と励まされたことがあった。  その一言だけで、自分の人生のすべてを彼に捧げてもいいとさえ思った。 ああ、この人は結果だけでなくその過程まで見抜いて見てくれる人なんだと……。そういうふうな人は今までにいなかったのか圭は加速的に宙に惚れ込んでいった。 ……なのに……一緒になっていくうちにその見抜くスキルは圭への粗探しする洞察力にもなり苦しくなっていった。 圭は、ふらつく足取りでクローゼットを開けた。 宙が圭に買い与えた高価なスーツや、彼に似合うと言われた服。そのすべてを片手でゴミ袋に詰め込んでいく。(……もう、いい。全部捨てよう) 半ばヤケクソだ。ゴミ袋に占有されていく部屋を眺めながら、圭は服を片付けていく。 するとジャケットのポケットから一枚名刺が落ちた。 大学時代の先輩、時田のものだった。 少し前に届いていた一通の古いメールを思い出した。 元気か? と社交辞令な挨拶から始まり今は海外でこういう事業をしていて……としばらく会っていなかった間に昔からもだったが全てがさらに遠くに遠く、くもの上の人のような存在になってしまったと……いつかは彼のもとで働きたいとは思ってはいたが…… しかし今の現状を抜け出すには時田の力を借りるしか無いのか……名刺にあるメールアドレスを入力しようとしたその時……。
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第三話

「……少し用事だ」 宙は隣で微笑む珠那の手を無造作に外した。突然の行動に珠那は目を丸くする。「宙? どこへ」 その声にも振り返らない。 引き止める友人たちの声を背中で聞き流しながら、自動ドアを押し開ける。 冷たい夜風が一気に頬を打った。 外にはタクシーが何台も停まり、人の話し声やエンジン音が混じり合っている。 だが、さっき見えた細い背中はどこにもなかった。 宙は辺りを見回す。 歩道。車寄せ。植え込みの陰。 視界に映る一人ひとりを確認するように目で追う。「……圭?」 思わず名前が漏れた。もちろん返事などあるはずもない。 スマートフォンを取り出し、圭へメッセージを送る。『どこにいる』 既読はつかない。続けて電話をかける。耳元で鳴る呼び出し音。 通話が切れる。もう一度。そして、もう一度。 何度繰り返しても結果は同じだった。宙はスマートフォンを強く握り締める。 ケースが軋むほど力が入っていた。(……何だ) たかが『飼い犬』が連絡を返さないだけ。いつもなら、呼べばすぐ来る。 文句を言いながらでも、最後には必ず自分の元へ戻ってくる。 それだけのことなのに。胸の奥が妙にざわついた。理由が分からない。 分からないからこそ、余計に苛立つ。宙は小さく舌打ちすると、再び会場へ戻った。 扉を開けると、さっきまでと変わらぬ笑い声が耳に飛び込んでくる。 友人の斗真がニヤニヤしながらグラスを差し出した。「神山、顔怖ぇぞ」「急に飛び出していったけど、何かあったのか?」 別の友人も面白がるように笑う。珠那は心配そうに立ち上がった。「宙? 具合でも悪いのかしら……」 だが宙は答えない。 空いている席へ腰を下ろそうとした、その時だった。 斗真が思い出したように笑う。「あ、そういや、まだあいつ来てねぇのか?」「呼べばすぐ来るのにな。犬って忠実だよなぁ」 周囲から笑い声が起きる。 その瞬間。宙はゆっくり斗真へ視線を向けた。 あまりにも冷え切った眼差しに、斗真の笑みが一瞬だけ固まる。「……何だよ」「いや、別に」 宙はそれ以上何も言わなかった。代わりに立ち上がる。「神山?」 誰かが呼ぶ声も無視し、再び外へ出た。 さっき見えた人影。あれは本当に圭だったのか。それとも酒のせいで見間違えただけなのか。 ホテルの周囲を歩き回る。通
last update最後更新 : 2026-07-01
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第四話

 圭は一瞬固まったがスマートフォンを手に取り「時田先輩! 連絡待っていました……」 と声を発すると電話先から少し遅れて懐かしい低い声が聞こえてきた。『おう、圭! 元気してるか?』 その返事をしようとした圭の手元からスマホが取り上げられた。 そしてそのスマホは床に叩きつけられた。「そういうことか、この荷物を片付けてるのは他所で男ができたからか!!!」 圭はスマホをとろうとするがジリジリと近づいてくる宙の姿にうまく動けない。 右手も動かせれば……すぐ届いたのに。「ふざけんなよ」 地を這うような低い声とともに、宙は圭の細い手首を掴み上げた。「っ……! 離して、宙……」「嫌だね」 半ば乱暴に引き寄せられ、圭の身体がソファへと倒れ込む。 右手に鋭い痛みが走り、圭は思わず顔を歪めた。 だが、宙はその苦痛さえも所有の証であるかのように、さらに強く肩を押さえつけた。「お前、最近おかしいんだよ。急に別れるだの、荷物を捨てるだの……。そういうことか。全部繋がった……」 宙は思い出した。過去に時田を見たことがあった。圭が他の人よりもやけに馴れ馴れしく接してるのを見たことがあった。 自分には紹介されず、誰かわからなかったが圭が時田さん時田さんと何度も言いその時田という名字が頭の片隅に残っていた。 なるほど……と宙はニヤっと笑った。 次の瞬間、逃げ場のないソファの上で、圭は宙の体重に押し潰された。「っ、やめ……て、宙!」「黙れ。おとなしくしろ」 宙が圭の上に覆いかぶさる。自由に動かせるのは上半身だけだった。 圭は必死に左手で宙を押し返そうとした。だが、その細い手首は簡単に掴まれてしまう。 右手は震え、力が入らない。「宙……痛い……っ、やめて……!」「痛くて当然だろ」 低く落ちた声に、圭の肩が震えた。「お前が俺を怒らせたんだ」 宙の瞳は、少しも笑っていなかった。その瞬間、圭は本能的に悟る。 宙は怒っているのではない。怖がっているのだ。自分を失うことを。 だから、こんな形でしか繋ぎ止められない。 けれど、それがわかったところで、どうすることもできなかった。 これまでの圭なら、もう少し早く抵抗をやめていただろう。 少し荒っぽくても、宙が満足するなら。自分が我慢すれば、この人は落ち着くから。 そうやって、自分を納得させてきた。
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第五話

 寝室の空気は、重く澱んでいた。 ベッド横で、駆けつけた医者が静かに荷物をまとめる。その視線には、淡々とした仕事への自負と、目の前の「飼い主」に対する隠しきれない軽蔑が混じっていた。「……処置は終わりました」 宙の知人であるその医者は、深く眉を寄せ、寝椅子に座り込む宙を冷ややかに見下ろした。「身体もですが、精神的なショックの方が深刻です。今はただ、眠らせるしかない」 精神的。その言葉が、鋭い棘となって宙の胸に突き刺さる。 タバコを取り出す。手は震えるが何とかして火をつけ吸い、大きく吐き出した。  圭は、いつも静かだった。 この三年。無理やり自分の思い通りにし、そのたびに医者を呼んだことは一度や二度ではない。 行為のあとに圭が意識を失うことも、今さら珍しいことではなかった。 以前、医者に言われた言葉が脳裏をよぎる。『あなた自身にも問題があるのかもしれません』 宙は苛立たしげに眉をひそめた。(俺のせいだとでも言いたいのか) 最初からわかっていたはずだ。自分は愛しているなどと言ったことはない。 一生面倒を見るとは言った。 だが、それ以上のものを期待したのは圭のほうだ。 離れる機会だって、いくらでもあった。 それでも隣にいることを選んだのは圭自身だ。 だから、自分だけが責められる理由はない。(面倒なことになったな……) 小さく息を吐く。圭は昔から頑固だった。 何も言わないくせに、勝手に傷ついて、勝手に抱え込む。 今回だってそうだ。 別れようと言い出したのも、急に反抗し始めたのも圭のほうだった。 宙はベッドの上で眠る圭を見下ろした。青白い顔に閉じた瞼。 胸の奥が、僅かにざわつく。 だが、その違和感の正体には気づかないふりをした。(……どうせ、目を覚ませば元通りだ) これまでもそうだった。 少し時間を置けば、圭はまた何事もなかったように隣にいる。 そうやって三年間過ごしてきたのだから。 宙は無意識にベッドへ視線をやる。細い指先が目に入った。 一瞬、何かを確かめるように手を伸ばしかけて……止める。 すぐにその手を引っ込めた。別に心配しているわけではない。 ただ、医者が来るまでこのまま放っておくのも気分が悪いだけだ。 そう自分に言い聞かせながら、宙はソファへ腰を下ろした。 静まり返った部屋の中で、時計の秒
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第六話

宙が鍵を握り締めたまま、何もない部屋で立ち尽くしている頃……。 圭はリュックを背負い深夜の街をあてもなく歩いていた。右手のせいで荷物は最小限になってしまったが後悔はない。しかしこの後どこへ行けばいいのか、自分でもわからない。 ただ一つだけわかっているのは、もうあの部屋には戻れないということだった。 夜風は思った以上に冷たかった。右手首がじんわりと疼く。無意識に左手で包み込むが、痛みは消えない。震えも自然と出てくる。そして振り返る。誰もいない。 それでも足音が聞こえるたび、宙が追い掛けてきたのではないかと心臓が跳ね上がった。 怖い、そんな感情が込み上げてくる。逃げてきたはずなのに、まだ自由になれないのかと。 するとタクシーが一台、目の前で止まる。 「お客さん、乗りますか?」 運転手に声を掛けられ、圭は立ち止まった。そんな偶然あるものかと思いつつも優しげな中年の運転手であった。 「……」しかし圭はどこへ行くのか。その問いに答えられない。行き先なんて、どこにもない。 「すみません……」 小さく頭を下げ、再び歩き出した。 「気をつけなよ、この辺ひったくりとかぼったくりのタクシーとかいるからよ。一人でウロウロしてると車にも轢かれるからな」 知らない人からそう声かけてもらえるとは思わなかったが自分は外から見たらそういう隙のない人間に見えたのであろう。気をつけなくては……圭は去り行くタクシーに軽く頭を下げた。 しばらく歩き続けた先で、二十四時間営業の漫画喫茶の看板が目に入る。さっきまでなかった無数のネオンに頭までもが痛くなる。こういうところを利用したのはいつのことだったろうか。宙と一緒になる前だろうか。 しばらくはなかったが系列のポイントカードとここの利用カードが紐づいていることを思い出した。だいぶ前に利用したことがあったものでデータも古いだろうがいけるだろうか。ここなら、しばらく身を隠せる。それだけで十分だった。 受付で会員証を差し出す左手が、小刻みに震えていた。使えるかどうか。 「はい、ありがとうございます。お部屋はどうされますか? シート、個室でしたらお一人様にお勧めできます」「……では個室で」 「かしこまりました。時間はいかがされますか?人気の朝までコースはいかがですか?」 「は、はい……」言われるがままで
last update最後更新 : 2026-07-17
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