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第三話

Autor: 麻木香豆
last update Fecha de publicación: 2026-07-01 06:03:01

「……少し用事だ」

 宙は隣で微笑む珠那の手を無造作に外した。突然の行動に珠那は目を丸くする。

「宙? どこへ」

 その声にも振り返らない。

 引き止める友人たちの声を背中で聞き流しながら、自動ドアを押し開ける。

 冷たい夜風が一気に頬を打った。

 外にはタクシーが何台も停まり、人の話し声やエンジン音が混じり合っている。

 だが、さっき見えた細い背中はどこにもなかった。

 宙は辺りを見回す。

 歩道。車寄せ。植え込みの陰。

 視界に映る一人ひとりを確認するように目で追う。

「……圭?」

 思わず名前が漏れた。もちろん返事などあるはずもない。

 スマートフォンを取り出し、圭へメッセージを送る。

『どこにいる』

 既読はつかない。続けて電話をかける。耳元で鳴る呼び出し音。

 通話が切れる。もう一度。そして、もう一度。

 何度繰り返しても結果は同じだった。宙はスマートフォンを強く握り締める。

 ケースが軋むほど力が入っていた。

(……何だ)

 たかが『飼い犬』が連絡を返さないだけ。いつもなら、呼べばすぐ来る。

 文句を言いながらでも、最後には必ず自分の元へ戻ってくる。

 それだけのことなのに。胸の奥が妙にざわついた。理由が分からない。

 分からないからこそ、余計に苛立つ。宙は小さく舌打ちすると、再び会場へ戻った。

 扉を開けると、さっきまでと変わらぬ笑い声が耳に飛び込んでくる。

 友人の斗真がニヤニヤしながらグラスを差し出した。

「神山、顔怖ぇぞ」

「急に飛び出していったけど、何かあったのか?」

 別の友人も面白がるように笑う。珠那は心配そうに立ち上がった。

「宙? 具合でも悪いのかしら……」

 だが宙は答えない。

 空いている席へ腰を下ろそうとした、その時だった。

 斗真が思い出したように笑う。

「あ、そういや、まだあいつ来てねぇのか?」

「呼べばすぐ来るのにな。犬って忠実だよなぁ」

 周囲から笑い声が起きる。

 その瞬間。宙はゆっくり斗真へ視線を向けた。

 あまりにも冷え切った眼差しに、斗真の笑みが一瞬だけ固まる。

「……何だよ」

「いや、別に」

 宙はそれ以上何も言わなかった。代わりに立ち上がる。

「神山?」

 誰かが呼ぶ声も無視し、再び外へ出た。

 さっき見えた人影。あれは本当に圭だったのか。それとも酒のせいで見間違えただけなのか。

 ホテルの周囲を歩き回る。通りを一本一本確認する。だが、どこにもいない。

 十分……二十分。探しても見つからない。

 やがて宙は立ち止まり、夜空を見上げた。

「……気のせいか」

 自分に言い聞かせるように呟く。

 そうだ。圭がこんな場所へ来るはずがない。

 まして、自分の婚約発表を見に来るなど。そう思おうとしても、胸のざわめきだけは消えなかった。

 結局、宙は重い足取りで会場へ戻る。

 席に着くなり、ワインボトルをそのまま手に取った。

 グラスには注がない。そのまま喉へ流し込む。

 アルコールが焼けるように喉を通る。

 一本。また一本。

 酔えば忘れられると思った。

 だが酔えば酔うほど、脳裏に浮かぶのは泣きそうな圭の横顔だけだった。

 その頃圭は静まり返った自室にいた。

 床には無数のゴミ袋が並んでいる。宙が「似合う」と言って選んだ服。腕時計。靴。ネクタイ。旅行先で買った小物。

 三年間積み重ねられた、「宙の恋人」としての自分を証明するものを、一つ残らず袋へ詰め込んでいく。

 圭はぼんやりと右手を見つめた。小刻みに震える指先。

 もう思い通りには動かない。崩れ落ちる資材。焼けるような痛み。宙を助けるために突き飛ばしたあの日。

 あの瞬間から、自分の人生は止まってしまった。

 もう精密な図面は描けない。真っ直ぐな線さえ満足に引けない。

 それでも。宙の隣にいられるなら。

 そう自分に言い聞かせ続けてきた。

「……っ……」

 喉が震える。涙だけは止められなかった。

 病室で毎日見舞いに来てくれた宙。

 震える右手を包み込み、「一生面倒を見る」と誓ってくれた宙。

 手の甲へ落とされた優しいキス。あれは全部、嘘だったのだろうか。

「返して……」

 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

「右手を……未来を……」

 そして。

「こんな男を愛してしまった、この心ごと……」

 涙だけが静かな部屋へ落ち続けた。どれほど時間が経ったのか分からない。

 突然、玄関のドアが乱暴に開かれた。

 荒い息。酒の匂い。

 そこには宙が立っていた。

 泣き腫らした圭を見た瞬間、宙の瞳が一瞬だけ揺れる。

「……結婚、おめでとう。宙」

 その言葉に、宙は息を呑んだ。

「……まさか」

 ゆっくり圭へ近づく。

「さっき会場の外にいたのは……本当に、お前だったのか」

 圭は小さく肩をすくめる。

「さあ?」

 笑おうとしても笑えなかった。そんな圭へ向けて、宙は吐き捨てる。

「……みっともないな。泣けばまた同情してもらえると思ってるのか」

 そう言い放った、その時だった。部屋の中に並ぶ大量のゴミ袋が視界へ入る。

 中には見覚えのある服や時計。すべて、自分が圭へ与えたものだった。

 宙の表情が固まる。

「……何をしてる」

 圭は静かに答えた。

「片付けてるだけ」

「片付ける?」

「……別れたのに、何しに来たの」

 その一言が胸へ突き刺さる。

「は?」

 宙は信じられないというように笑った。

「何を言ってる。それより、この荷物は――」

 圭は真っ直ぐ宙を見た。

「宙は結婚するんだよね」

 震えていた声は、不思議なほど静かだった。

「なら、この荷物をどうしようと、もう関係ないよね」

 宙の眉がぴくりと動く。

「関係なくない!」

 思わず声を荒らげる。

「それは全部、俺がお前のために――」

 その瞬間だった。

 テーブルの上でスマートフォンが震え始める。静かな部屋に着信音だけが響く。

 画面には一つの名前。

 『時田先輩』

 圭は息を止めた。藁にもすがる思いで送ったメール。

 その返事だった。一方、宙の視線は画面に釘付けになる。

 ゆっくりと、その名前を口にした。

「……時田?」

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