تسجيل الدخولその頃ホテルの正面玄関では、一台の黒いセダンが静かに停車していた。 運転席には珠那が座っている。助手席のドアが乱暴に開き、宙が無言で乗り込んできた。 ドアを閉める音だけが車内へ重く響く。珠那はちらりと宙を見た。ネクタイは緩み、髪も乱れたまま。 目の下には濃い隈が浮かび、顔色も悪い。 あれほど身なりに気を遣う男とは思えない姿だった。 車を発進させながら、珠那は深くため息をつく。「……なんで私が迎えに来たか分かる?」 返事はない。宙は窓の外を睨みつけたまま黙っている。「ホテルから連絡があったのよ。」 珠那は淡々と続けた。「あなた、このままだと警察を呼ばれるところだったらしいじゃない。」「知らん。」 短く吐き捨てる。「そんなことより……」 宙はホテルを振り返った。「あいつ、まだあそこにいるのか。」 珠那はハンドルを握る手に力を込める。「……まだそんなこと言うの?」「……」「もういい加減にして。」 少しだけ声が強くなる。「なんで、あんな男にそこまで執着するの?」 沈黙。……しばらくして宙が低く呟いた。「……分からない。」「え?」「自分でも分からない。」 窓の外を見つめたまま続ける。「ただ……許せない。」「何が?」「俺の前から勝手にいなくなったことが。」 珠那は思わず息を呑んだ。「あなたが追い出したようなものじゃない。」「違う。」 宙は即座に否定する。「俺は追い出してない。」「散々傷つけておいて?」「……」「事故で助けてもらったのに、犬みたいに扱って。」「……」「他の男を家へ連れ込んで。」「……」「私との結婚まで決めて。」 珠那はハンドルを握ったまま首を振る。「それで逃げられたら、今度は必死に探し回るなんて……。」 小さく息を吐く。「自業自得よ。」「なんでだ!」 突然、宙が怒鳴った。珠那の肩がびくりと震える。「俺は捨ててない!」 ダッシュボードを拳で叩く。「捨てられてなんかいない!」 荒い息遣いだけが車内へ響く。珠那は言葉を失った。こんな宙を見るのは初めてだった。 冷静で、感情を表に出さず、仕事では誰よりも合理的だった男。 そんな彼が、子どものように感情をむき出しにしている。 信号待ちで車が止まる。宙はポケットから煙草を取り出した。窓を少し開け、火を点ける。 煙を
震え続ける圭の肩を支えながら、時田はホテルスタッフへ事情を説明した。 圭は自分の足で立とうとするものの、力が入らない。視線は虚ろで、呼吸も浅い。 スタッフは二人の様子を見るなりすぐに状況を察し、「こちらへ」と静かに頭を下げた。案内されたのは一般客の目に触れない従業員用の通路だった。 ラウンジとは反対方向へ続く静かな廊下を歩き、裏口側のエレベーターへ向かう。普段なら利用することのない裏動線。 圭は申し訳なさそうに俯いたまま歩いていた。 部屋へ戻ると、時田はカードキーで扉を開ける。「もう大丈夫だ」 その一言を聞いた瞬間だった。 張り詰めていた糸がぷつりと切れ、圭はその場へ膝から崩れ落ちた。「圭!」 時田は慌てて身体を支え、そのままゆっくりとベッドへ横にならせる。 肩はまだ細かく震えている。顔色も真っ青だった。「……すみません」 か細い声が漏れる。「まだそれを言うのか」 時田は苦笑しながら布団を掛けた。「今は何も考えなくていい。体を休めろ」「でも……ホテルの人たちにまで迷惑をかけてしまって……」「心配するな」 時田は穏やかな口調で言った。「ここは海外からの要人も利用するホテルだ。警備も対応も一流だし、こういうトラブルへの対処も慣れている」 圭は小さく首を振る。「でも……ロビーまで入り込んできたじゃないですか」「まぁ、それはそうなんだが」 時田は困ったように笑った。「だからこそホテル側も本気で動いてくれる。今は余計なことは考えなくていい」 圭は頷こうとするものの、動悸はなかなか収まらなかった。 胸が締め付けられる。目を閉じても、ロビーでスタッフへ詰め寄る宙の姿が浮かんでくる。 息が苦しい。震えが止まらない。 それでも、張り詰め続けていた身体は限界だった。 いつの間にか圭は眠りへ落ちていた。 それからどれほど眠っていただろうか。 目を開けると部屋は薄暗く、窓の外は夕焼け色に染まっていた。隣のリビングから時田の声が聞こえてくる。「……はい。ありがとうございます」 電話をしているらしい。話し方から察するにホテルスタッフだろう。 ほどなくして通話を終えた時田が部屋へ戻ってきた。「起きたか」 穏やかな笑みを浮かべる。「少しは落ち着いたか?」 圭はゆっくり頷いた。「ルームサービスを頼んでおいた
圭が姿を消してから、一週間が過ぎていた。 宙は以前のように仕事へ向かっていたが、もはや仕事になどなっていなかった。 デスクに座っても、目の前に積まれた書類へ視線を落とすだけ。 内容は頭に入らず、気づけば同じページを何度も開いては閉じている。 部下に話しかけられても返事は上の空。簡単な確認事項すら聞き返す始末だった。「神山さん、大丈夫ですか?」 心配そうに声を掛けられても、「ああ」 短く返すだけ。周囲もさすがに異変に気づき始めていた。 夜になれば会社を飛び出し、圭を探して街を歩く。 駅前。事故のあと二人で何度か訪れた公園。 コンビニ。よく立ち寄っていたカフェ。圭が好きだったパン屋。 行きそうな場所はすべて回った。それでも見つからない。 この数日、まともに眠っていないのか、自分でも分からなかった。 目の下には濃い隈ができ、無精髭まで伸び始めている。 以前の神山宙を知る者なら、誰もが別人だと思うほどだった。 そんなある日。 宙は自室で机いっぱいに広げられた資料を無言で眺めていた。 圭について調べられるものは、すべて調べ尽くした。 大学時代の知人。卒業アルバム。就職先の関係者。SNS。古いメール。事故以前の交友関係。 思いつく限りの情報を洗い出していた。 その中で、一枚のメモに書かれた名前が目に留まる。 ……時田。 その二文字を見た瞬間、宙の指先がぴたりと止まった。「……時田」 どこかで聞いた。いや、知っている。 圭が大学時代、よく口にしていた名前だった。『時田先輩がさ』『時田先輩に相談したら』『時田先輩なら分かると思う』 何気ない会話の中で何度も耳にしてきた名前。 あの頃は気にも留めなかった。ただの世話好きな先輩なのだろうと。 しかし今は違う。宙はすぐにパソコンを開き、「時田 建築」と検索をかけた。 画面に表示された人物紹介を見た瞬間、目を見開く。 海外を拠点に都市開発や再開発プロジェクトを手掛ける日本人建築家。 数々の受賞歴。世界各国で進行中の大型プロジェクト。 建築業界では知らぬ者はいないほどの成功者になっていた。「……時田」 さらに記事を読み進める。 そこには、近々一時帰国するというインタビュー記事まで掲載されていた。 宙はゆっくり椅子へ深く腰掛ける。 点だったものが一本の線になっ
珠那が帰ってからも宙は落ち着かなかった。スマートフォンには、発信履歴だけが増え続けている。 何十件。いや、百件近くになっているかもしれない。もちろん、圭が出ることはない。 メッセージを送っても既読はつかない。それでも宙は諦められなかった。GPSでもつけていれば場所はわかるのだろう。そうしておけば良かったと後悔してしまう。 「……どこにいる」 小さく呟き、再び電話をかける。返事はない。舌打ちをして車のエンジンをかけた。荒々しく。 向かった先は、圭が昔よく通っていた場所だった。建築雑誌をよく買っていた書店。事故のあとも何度か訪れていた公園。そして大学近くの喫茶店。喫茶店の店主に尋ねる。顔馴染みである。 「圭を見ませんでしたか」 「降谷くん? いやぁ、しばらく顔を見てないねぇ」 書店でも同じだった。 「申し訳ありません、お見かけしていません」 圭の同級生にも連絡する。食事会で会ったことある人物だ。しかし誰一人として居場所を知らない。 まるで、この世界から消えてしまったようだった。夕方になっても成果は何一つない。宙はハンドルを強く握り締めた。 (どこへ行った……スマホもきっとどこかに捨てただろう。金もそんなに持ってないはずだ……あの右手で一人暮らしなんてできるわけがない) 考えれば考えるほど、胸の奥がざわついた。焦燥だけが積み重なっていく。 夜。 珠那は高級レストランの予約時間を何度も確認していた。 ようやく宙が来たと思えば、その顔には疲労しか浮かんでいない。 「また探してたの?」 「ああ」 「……ねぇ」 珠那はため息をついてワイングラスを置いた。 「そこまでして探す必要ある?」 宙は答えない。 「あなた、結婚するのよ? ……この私と」 宙は少しだけ目を閉じる。 「……わかってる」 「わかってる人の顔じゃないわ」 珠那は苦笑する。 「最近のあなた、圭さんのことしか考えてないじゃない」 その言葉に宙は眉を寄せる。 「違う」 「違わないわ」 珠那ははっきりと言った。 「仕事も休みがち。食事もろくにしない。私との約束も全部後回し」 「……」 「そんな状態で結婚なんてできると思う?」 宙は返事をしなかった。返せなかった。自分でもわからな
ホテルで迎えた朝。 カーテンの隙間から柔らかな朝日が差し込み、部屋いっぱいにコーヒーの香りが広がっていた。 焼きたてのパンの香ばしい匂い。パリッと焼かれたウインナーの香り。スクランブルエッグの優しい湯気。 どうやら時田がモーニングのルームサービスを頼んでくれていたらしい。 その匂いに誘われるように圭はゆっくりと目を開けた。昨日まで張りつめていた心とは違い、不思議と眠ることができた。 ベッドから身体を起こした瞬間、ぐぅ……と小さく腹が鳴る。その音に自分で少し照れてしまった。 この三年間。まともに朝食を食べた記憶はほとんどない。宙は仕事が忙しく、朝はいつも一人だった。食事を作っても手をつけてもらえない日も多く、自分も食欲を失っていった。そんな生活が当たり前になっていた。 「起きたか」 時田がコーヒーカップを置きながら振り返る。 「おや。昨日より少しだけ顔色がいいな」 圭は少し照れくさそうに笑った。 「……すみません」 「また謝る」 時田は苦笑すると、テーブルいっぱいに並べられた料理を指差した。 「謝るより食べろ」 その言い方があまりにも昔と変わらなくて、圭は思わず小さく笑ってしまう。 「……はい」 着替えを済ませ、顔を洗う。 鏡を見ると、青白かった顔色に少しだけ血色が戻っている気がした。 席に着くと、時田は何も言わずパンを取り分ける。 その自然な気遣いが嬉しかった。誰かと向かい合って朝食を食べる。それだけのことなのに、胸の奥がじんわり温かくなる。 宙と暮らした三年間。 一緒に朝食を囲んだ日は、数えるほどしかなかった。 「早く食べろ」 「時間ない」 そう言ってコーヒーだけ飲み、仕事へ向かう背中を見送る毎日。いつしか圭も朝食を作らなくなり、一人でパンをかじることすらなくなっていた。 だからこそ、この何気ない朝の時間が、どこか夢のように感じられる。 「美味しいです」 久しぶりにそう口にすると、時田は嬉しそうに頷いた。 「そうか。それならよかった」 食事を終える頃には、圭の表情にも少しだけ穏やかさが戻っていた。 すると時田はノートパソコンを開き、画面を圭へ向ける。そこには病院のホームページが表示されてい
パソコンのメールアプリに通知が出て圭は全てをログオフし、精算を済ませ慌てて外へ出る。 さっきまで室内にいたのだが外に出ると夜風は冷たく、右手首の古傷がじくりと疼いた。左手でそっと押さえながら視線を上げる。 すると漫画喫茶の前に止まったタクシーの後部座席から、一人の男が颯爽と降り立った。 「……時田先輩」 三年ぶりの再会だった。海外生活が長いせいか、以前よりも洗練された雰囲気をまとっている。上質なスーツに身を包み、革靴は磨き上げられ、手には海外ブランドらしい落ち着いた色合いのバッグ。 大学時代は「そのうち世界で仕事をする」と冗談のように笑っていた人だった。 その言葉を、本当に実現してしまったのだ。彼の言霊はすごい、そう思うほどだ。 だが彼が圭を見つめる眼差しだけは、学生時代と何一つ変わっていなかった。 「圭、待たせたね」 名前を呼ばれた瞬間、張り詰めていた糸が少しだけ緩む。 「……すみません」 口から出たのは、その一言だけだった。時田は何も言わず、ゆっくり圭の前まで歩み寄る。 そして、顔を覗き込んだ。 「……痩せたな」 返事はない。ごもっともではあるが。 「顔色も最悪だ。ちゃんと飯食ってるのか?」 圭は曖昧に笑ってごまかそうとした。しかし、その笑顔はあまりにも弱々しかった。 「他の体調はどうだ。ちゃんと眠れてるか?」 「……大丈夫です」 「大丈夫には見えない」 短く返される。時田の視線が、ふと圭の右手に止まった。 震えている。指先が、小刻みに。 その光景に時田の表情が固まる。大学時代、圭の右手は誰よりも繊細な線を引く手だった。図面を描き始めると何時間でも机に向かい続ける、あの右手。 それが今は、自分の意思とは関係なく震えている。 「……右手、まだ悪いのか。あれから3年経ってるだろ」 圭は慌てて左手で隠す。時田も3年前の事故のことは知っている。 「……大丈夫です。筋肉が少し疼くだけで……いつものことですから」 「……」 「本当に何でもないんです」 「何でもなくて、そんな顔になるか」 静かな声だった。責めるわけでもない。ただ、本気で心配している声だった。 圭は何も言えなかった。視線を落としたまま、小さく唇を噛む。 時田は小さく息を吐いた。







