All Chapters of 亡き元夫がくれた祝福のメール: Chapter 11 - Chapter 20

40 Chapters

第11話

彩寧は、全身を襲う痛みの中で目を覚ました。目を開けると、最初に視界へ入ったのは真っ白な天井だった。しばらく呆然と天井を見つめ、ようやく何が起きたのかを思い出した。記憶が戻った瞬間、瞳から熱い涙がこぼれ落ちた。そっとお腹を撫でようとして、ふいに思い出した。もう、子供はいないのだ。「ああっ!うう、ううう……!」苦しみは果てしない闇となって彩寧を包み込んだ。漆黒の暗闇の中で、出口はどこにも見つからない。悲痛な呻き声が喉の奥から漏れ出た。その声を聞きつけ、扉の外から一瞬で大勢の人がなだれ込んできた。皆は彩寧の安静を妨げないよう、扉の外で小声で話していた。けれど彼女の泣き声を聞いた途端、慌てて病室へ駆け込んできたのだ。凪はすぐに医師を呼びに走った。「彩寧、痛いの?」綾乃は胸を引き裂かれる思いで、娘の青白い顔をそっと撫でた。娘が痛みに冷や汗を流し、声も出ないほどむせび泣く姿を見て、綾乃もこらえきれずに涙を拭った。「彩寧、俺は……ごめん……」最後に病室へ入ってきたのは、景介だった。彩寧の悲鳴を聞いた瞬間、彼の心臓は激しく震えた。まるで誰かにきつく握り潰されたかのように痛み、その顔色は一瞬で血の気を失っていた。景介は、彼女の顔を見るのが怖かった。彼女が痛みに苦しむ姿を見るのも怖かったし、彼女から完全に拒絶されるのも怖かった。皆が駆け込んだ後、扉の外で立ちすくんでいた彼も、ようやく重い足を踏み入れたのだ。彩寧に謝りたかった。悪いのは全部自分だ。自分が彼女に取り返しのつかないことをしてしまったのだと。それでも、説明もしたかった。彼女を本気で犯人に傷つけさせるつもりはなかった。ただ、あの犯人があんなにも早く異変に気づくとは思わなかったのだと……けれど、青白い顔で病床に横たわり、両手でシーツをきつく握りしめて涙を流す彩寧を見た瞬間、景介は一言も発せなくなった。ただ、何度も謝ることしかできなかった。だが、いつもは優しく穏やかだった彼女が景介の姿を捉えた瞬間、ぴたりと泣き声が止んだ。その瞳には、絶望の痛みと深い憎悪が浮かんでいた。それは鋭い刃のように景介の胸へ突き刺さり、彼の心臓を無残にえぐった。「何をしに来たの?」泣き声が止まった瞬間、全員が息を呑んだ。異様なほど静まり返った病室に、彩寧の氷のよう
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第12話

景介は一人、病室の外の廊下に長い間座っていた。やがて、突然扉の開く音が聞こえた。彼は立ち上がり、入口へ向かった。遠くからでいい。ただ彩寧を一目見たかった。けれど扉までたどり着く前に、中から出てきた人物に蹴り飛ばされ、床へ倒れ込んだ。後頭部が壁に激しくぶつかった。顔を上げると、そこには怒りと信じられないという色を浮かべた泰三が立っていた。景介が口を開くより早く、泰三は彼をつかみ上げた。襟首をつかんだまま景介を壁へ押しつける。怒りに燃えた顔で、泰三は目を血走らせていた。「聞かせろ。彩寧が貧血だと、君は知っていたのか?!」景介はうつむいたまま、何も言わなかった。泰三の怒りはさらに膨れ上がった。声をいっそう強めて問い詰める。「知っていたのかと聞いているんだ?!」景介が知らないはずなどなかった。ただ、あのときは一瞬で取り乱し、何かに取り憑かれたように頭が真っ白になっていた。七瀬を助けなければならない、そのことしか考えられなかった。だから、彩寧がそもそも献血できる体ではないことを、忘れてしまったのだ。景介は苦しげに目を閉じ、小さな声で答えた。「知っています」泰三は突然手を離した。一歩下がり、暗い目で景介を見据え、冷ややかに笑った。「知っていて、外の女のためにあの子へ献血を強いたのか?陸川、俺が長い年月、手塩にかけて大事に育ててきた娘を君に託したのは、別の女を助ける道具にさせるためだったのか?」「違います。お義父さん、聞いてください……」景介は慌てて説明しようとした。だが、思いきり振り下ろされた平手打ちで顔が横へ弾かれた。口の中に、かすかな血の味が広がる。「説明はいらない。どんな理由があろうと、俺の娘を傷つけていい理由にはならない。よく聞け。俺たちはすぐ彩寧を連れて海外で療養させる。離婚協議書は明日、君の手元へ届く。少しでも良心が残っているなら、できるだけ遠くへ消えろ。二度と彩寧の前に現れるな。俺たちの前にも二度と顔を見せるな」景介はうつむいて自嘲気味に苦笑し、うなずくしかなかった。今の彩寧は、それほどまでに自分を憎んでいる。顔を見ることさえ拒んでいる。自分がどれほど謝り、説明しても、彼女は受け入れてくれないだろう。無理やりそばに留めるくらいなら、海外でしばらく療養させたほうがいいのかもし
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第13話

あっという間に5年が過ぎた。再びこの土地を踏んだ彩寧の心は、5年前とはすっかり違っていた。海外へ向かったときの自分があまりにも惨めだったからかもしれない。あるいは、この土地に残る記憶があまりにも悲痛だったからかもしれない。帰国することになっても、彩寧は少しも嬉しいとは思えなかった。けれど長谷川グループの本拠は国内にある。それにこの数年で、実際、多くの分野において国内のほうが海外より環境が整ってきていた。両親は彩寧を連れて海外で療養させた。体が回復してからはずっと学び続け、今では学業も終えている。国内へ戻って仕事を始めるのは、ごく自然な流れだった。ただ、戻れば必ず、会いたくない人たちと向き合わなければならない。そう思っただけで、彩寧はひどく気が重くなった。空港にて。飛行機はすでに着陸し、誘導路を移動していた。彩寧がスマホの機内モードを解除すると、従兄の凪からLINEが届いた。【彩寧、18番ゲートで待ってる】少し考えてから、彩寧は返信した。【分かった】返事を送ると、彼女は窓の外へ目を向けた。懐かしいはずなのに、どこかよそよそしい景色が広がっている。胸の奥がざわついた。到着ロビーへ向かう道中、彩寧のスーツケースの上に座った小さな男の子は、ずっと質問を続けていた。あれは食べられるのか、これは面白いのか、と。彩寧の顔には終始、穏やかで柔らかな笑みが浮かんでいた。少しも面倒がる様子はなく、優しい声で一つひとつ丁寧に答えていた。ゲートを出ると、凪夫妻はすでに待っていた。二人が出てくるのを見るなり、嬉しそうに手を振る。彩寧は男の子へ視線を落とし、尋ねた。「暁、二人の呼び方は覚えてる?あとでちゃんと挨拶するのよ」長谷川暁(はせがわ あきら)は力強くうなずき、小さな手でポンと胸を叩いてみせた。「もちろんだよ、ママ。左がおじさんで、右がおばさん。ちゃんと覚えてる」彩寧は満足そうにうなずき、彼を乗せたスーツケースを押して前へ進んだ。「おじさん!おばさん!会えてうれしいです!」凪夫妻の前まで来ると、暁はスーツケースから飛び降りた。二人の前に立ち、小さな紳士のように手を差し出して握手を求める。二人は笑いながら右手を差し出し、軽く握り返して目を細めた。「暁はえらいね。私たちも会えてうれしいよ」凪は
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第14話

一行が長谷川家へ戻ると、泰三と綾乃はすでにテーブルいっぱいにごちそうを用意して待っていた。二人の姿を見るなり、泰三は歩み寄り、暁をひょいと抱き上げた。愛おしそうに小さな頬をつまんで尋ねる。「暁、おじいちゃんとおばあちゃんに会いたかったか?」「すっごく会いたかった!」そう言うと、暁は泰三の腕の中からするりと抜け出し、綾乃の胸へ飛び込んだ。「おばあちゃん!前に言ってた、すっごくおいしい白身魚の甘酢あんかけ、作ってくれた?」綾乃は暁をぎゅっと抱きしめ、そのまま抱き上げて食卓へ向かった。「もちろん作ったわよ」彩寧は呆れたように暁を見た。何か言おうとしたところで、泰三が慌てて割って入った。「ほらほら、みんな手を洗って食べよう。冷めてしまうぞ」泰三が助け舟を出したおかげで、彩寧のお説教は始まらずに済んだ。一方、そのころ。空港から戻って以来、景介はずっと上の空だった。目を閉じると、彩寧の洗練された柔らかな笑顔と、あの小さな男の子が彼女に話しかけている姿が浮かんでくる。あの「ママ」という一言は、鋭い刃のように景介の胸へ突き刺さっていた。あれは彩寧の子供だ。彩寧はもう、結婚している。あの母子を見た瞬間、景介の頭にも、その子が自分の子供ではないかという疑いが一瞬よぎった。あの男の子は、確かに4歳前後に見えた。その顔立ちは彩寧によく似ていた。鼻も口元もそっくりで、輪郭も彼女の面影を色濃く残していた。ただ、瞳だけが違っていた。透き通るような青い瞳だった。だから、あの子が景介と彩寧の子供であるはずがない。唯一考えられるのは、彩寧が海外でほかの男とのあいだに産んだ子供だということだった。けれど、そんなことがあり得るのだろうか。景介が手配した調査員たちは、戻るたびに細かく報告を上げていた。【彩寧さんは最近治療を受けており、かなり回復してきている】【学業に励んでおり、最近はずっと課題に追われている】【両親と一緒に出かけた】……どんな些細な行動も、すべて報告させていた。それなのに、彩寧が誰かと交際しているなどという報告は、ただの一度も上がってこなかった。それがいったい、なぜ突然。どうして急に、あれほど大きな息子が現れたというのか。「景介?どうして食べないの?」七瀬の声が、景介を現実に引
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第15話

子供の成長は早い。数日見ないだけで、ぐんと背が伸びている。帰国するとき、彩寧はそのことも考えて、暁の服をあまり持ち帰らなかった。国内へ戻ってから一緒に買いに行けばいい。ついでに、国内の暮らしにも慣れさせられると思ったのだ。この日は天気がよく、彩寧もちょうど予定が空いていた。そこで暁を連れて街へ出て、あちこち遊びながら服も買うことにした。歩いているうちに、実家が経営するショッピングモールの近くまで来た。彩寧は、秋になってからまた暑さがぶり返した強い日差しを見上げ、ふと眉を寄せた。彼女は振り返り、暁を見た。暁は普段、気候の穏やかなフランスで暮らしている。外を少し歩いただけなのに、もう額にびっしょりと汗をかいていた。彩寧はそれを見てかわいそうになり、その場で決めた。先にショッピングモールへ入って日差しを避け、服を買おう。遊ぶのは、いつだってできるのだから。「暁、先にお洋服を買いに行こうか?」「でも、最初の約束は、外で遊んでから服を買って帰る、だったよ」暁は、マイルールが強い子どもだった。彩寧は眉を下げ、困ったような顔をしてみせた。「でも見て。日差しがこんなに強いでしょう?ママ、すごく暑いの。お肌も赤くなってきちゃったわ」暁は整った小さな顔をきゅっとしかめ、大きな目をくるりと動かした。しばらく考えた末、やはりママのために自分のルールを曲げることにした。パパが言っていた。女は大切に守ってあげるものだ、と。「じゃあ仕方ないね。ママのお肌はデリケートだから、あまり長くお日様に当たっちゃだめなんだ。先に中へ入って、少し日差しを避けよう」彩寧は目を細めて笑い、暁と手をつないでショッピングモールへ入った。ところが入ってすぐ、七瀬を連れて買い物をしている景介と出くわした。大人三人と子供一人が鉢合わせになり、互いに顔を見合わせた。七瀬は、彩寧が手をつないでいる小さな男の子を見た瞬間、その場で凍りついたようになった。口を開けたまま、しばらく言葉が出てこなかった。やがて、その異様な沈黙を破ったのは暁だった。「ママ?この人たち、知ってる人?」子供特有の無邪気な声が七瀬の耳に届いた。七瀬は奇妙な目で二人を見つめ、呆然と繰り返した。「ママ?」彩寧は暁の手を引き、景介の横を通り抜けて二人を避けようとした
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第16話

「景介、あの子は……」七瀬はそこから先を言えなかった。彼女は誰よりも恐れていた。あの子はやはり彩寧との子供なのだと、景介の口から告げられることを。景介には、七瀬が何を聞きたいのか分かっていた。けれど本当は、景介自身、あの子が自分の子であってほしいと、どれほど願っていたことか。ただ……「俺の子じゃない。行こう。送る」初めてあの男の子を見たとき、景介も一縷の望みにすがった。あのとき医師は嘘をついていて、本当は子供は生き延びていたのではないか。あの青い瞳も、ただの偶然なのではないか、と。だが、調査を命じていた部下たちが持ち帰った報告によれば、あの子は二人の子供ではなかった。子供の父親は、フランスで名高い富豪、オトフェルだった。あの子は、オトフェルと前妻との子供だった。前妻は3年前、不慮の交通事故で亡くなり、1歳を過ぎたばかりの子供とオトフェルを残して、この世界から先に旅立ってしまったのだ。当時、彩寧は心臓に深刻な損傷を負い、ペースメーカーに支えられながら心臓移植を待っていた。そんな彼女が、偶然にもオトフェルの妻と適合したのだ。その美しい女性の心臓を受け取ったあと、彩寧の両親は伝手をたどってオトフェルに会い、感謝を伝えた。そのとき、彼らは驚くべきことに気づいた。オトフェルの息子アナトールが、自分たちの娘に驚くほど似ていたのだ。それもまた、ひとつの不思議な偶然だったのだろう。彩寧は、まるで見えない力が用意した出会いのように感じた。もしかすると、アナトールは本当に、あのとき失った小さな赤ちゃんの生まれ変わりなのかもしれない、と。退院後、彩寧はオトフェルのもとを訪ねた。彼女とオトフェルたちのあいだにある数奇な縁を伝え、オトフェルに、彼の息子と自分がどれほど似ているのかを実際に見せた。ちょうどそのころ、オトフェルは深い悲しみの中にあり、仕事も多忙を極めていた。そこで彼は彩寧の申し出を受け入れ、亡き妻の代わりに、息子の母親代わりになってもらうことにしたのだ。そうして1年余りが過ぎるうちに、二人の距離もずいぶん縮まっていった。やがてオトフェルは彩寧に、自分の妻となり、息子の母親になってくれないかとプロポーズした。彩寧はうなずいた。二人はフランスで結婚の手続きをし、夫婦となった。アナトールも、長谷
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第17話

彩寧と暁は、大きな荷物をいくつも抱えて帰ってきた。暁はまだ、さっき道で出会った小さな野良猫のことで、彩寧に食い下がっていた。「ママ、本当に飼っちゃだめなの?すごくかわいそうだったよ」「もう病院に連れていったでしょう?少し元気になったら、一緒に新しいおうちを探してあげようね」暁は彩寧の真似をしてスリッパに履き替え、自分の靴を棚に入れて消毒した。それでも、まだ名残惜しそうだった。「でもママ、僕、本当に子猫を飼いたいんだ。あんなにおとなしくて、かわいいのに」彩寧は手にしていた買い物袋を置き、しゃがみ込んだ。真剣な目で暁を見る。「暁、かわいそうっていう一時の気持ちだけで子猫を飼うって決めてはいけないの。ちゃんと、その子に一生責任を持てるか考えないと。あの子がいたずらしても、怒ったり叩いたりしないでいられる?あちこちでおしっこやうんちをしても、根気よく片づけて、何度でもトイレの場所を教えてあげられる?自分がどんなに大変なときでも、絶対に見捨てないって約束できる?そういうことを全部考えなきゃいけないの。でも暁はまだ小さいから、できないことは結局ママがやることになる。ママはちゃんと考えたけど、ママにはそこまでできないと思った。だから、ママはあの子の飼い主にはなれないの」背後から拍手の音が聞こえた。彩寧と暁は同時に振り返った。「パパ!」暁は小さな足でスリッパをぱたぱた鳴らしながら、拍手をしていた人物へ駆け寄った。彩寧は夫の姿を見て、ふわりと微笑んだ。歩み寄り、軽く抱き合う。「いつ着いたの?」「少し前だよ。君と暁の微笑ましいやり取りが聞こえてきてね」オトフェルは笑って答えた。それから、腕の中に抱いた息子へ視線を向け、まるで一人の大人と接するように真剣な顔で言った。「パパもママの言う通りだと思うよ。暁はどう思う?」「そうだけど、でもやっぱり子猫を飼いたい」彩寧の眉がぴくりと動いた。やれやれと呆れたように額へ手を当てる。オトフェルは声を上げて笑い、かわいい息子の小さな鼻をつまんだ。優しい声で言う。「じゃあ、まずはあの子猫の様子を見よう。決めるのはそのあとだ」暁はオトフェルの腕の中で小さく鼻を鳴らし、しぶしぶといった声で言った。「じゃあ、そうする」オトフェルの来日を祝うため、彩寧は自らキッチンに立ち、テ
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第18話

景介自身も、まさかここで彼ら家族三人に出くわすとは思っていなかった。もともとは、助手が「彩寧さんのご主人がこちらへ来ました。お調べしますか」と知らせてきただけだった。景介は必要ないと答えた。けれど頭は、正面から鈍器で殴られたようにぼんやりとし、重く鈍い痛みが広がっていた。心臓はひきつるように痛み、息もできなくなりそうだった。だから彼は酒を飲みに戻った。酒で自分を麻痺させ、考えないようにしたかった。考えなければ、痛まないと思っていた。けれど飲めば飲むほど頭は冴え、心はますます痛くなった。どうしても彩寧に会いたくなった。たとえ会えなくても、彼女の近くに少し座っているだけでよかった。遠くない場所に彼女がいる、その気配を感じられるだけでよかった。もともと、本当に彼女の前に現れるつもりはなかった。彼女の生活をかき乱すつもりもなかった。彼女の父親からの警告も覚えている。何年も前、病床で息も絶え絶えだった彼女が口にした願いも覚えている。けれどこの世界は、ときどき、あまりにも偶然が重なり、あまりにも間が悪い。この数日、景介はいつも車をこの場所に停めていた。長谷川家の邸宅のそばだ。けれど一度も彼女に見つかったことはなかった。彼らは普段、この道を通らない。景介は暗がりに隠れていられた。静かに彼女を見ているだけでよかった。それなのに今日に限って、彼女が夫と息子と手をつなぎ、散歩を終えて帰ってきたその瞬間に出くわしてしまった。一番見られてはいけない瞬間に、ちょうど鉢合わせてしまったのだ。景介はどうしようもなく苦笑した。きっと自分は運が悪いのだろう。あるいは、天さえも、自分はこの苦しみを受けて当然だと思っているのかもしれない。これは自分が負うべき痛みなのだ。景介は背筋を伸ばし、車のそばから体を起こした。タバコの煙が体に悪いことを思い出し、足元でもみ消す。うつむいたまま言った。「酔って道を間違えました。すぐ帰ります」言い終えると、景介は車のドアを開け、運転席に座った。けれどエンジンはかけなかった。彩寧は軽く眉を寄せて彼を見た。何も言わない。ただ唇をきつく結んでいる。景介には分かった。彼女はきっと怒っている。オトフェルは景介を一瞥した。片手で息子を抱き上げ、もう片方の手で彩寧の手を取る。そのまま邸
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第19話

「早く早く、動いて。何度も同じことを言わせないで……」彩寧がまだ会場へ着く前から、中からは騒がしい物音と、助手がスタッフを急かす声が聞こえてきた。今夜ここでは、チャリティーパーティーが開かれる。彩寧たちの財団が主催するもので、プロジェクトの総責任者として、彩寧は早めに会場へ来て現場を見ておかなければならなかった。一般的には、こうしたことは部下に任せておけばいい。彩寧自身が細かく気を揉む必要はない。けれど長年仕事をしてきた経験から、自分が直接見ないと、ほぼ必ずどこかで問題が起きると分かっていた。彩寧が扉を押して中へ入ると、会場の設営はほとんど整っていた。広い会場には座席がきちんと並び、照明も明るく、隅々まで清潔だった。入念に設計されたステージの上では、色とりどりの照明が流れるように変化している。彼女が入ってきたのを見ると、助手はすぐに歩み寄り、進捗を報告した。「社長、設営と人員配置はほぼ完了しています。こちらが今夜の会場スタッフの配置表です。ほかに何か指示はありますか?」彩寧はうなずいた。「分かったわ」彩寧は周囲を見渡した。会場をひと回りし、立ち止まっては細かく確認する。助手はずっと彼女の後ろについていた。ふと、彩寧の視界の端に一人の人物が入った。その瞬間、彼女の表情がスッと冷たくなった。景介……?どうして彼がここにいるのだろう。チャリティーパーティーに、陸川グループのトップである景介が姿を見せること自体は不自然ではない。ただ、今はまだ早すぎる。パーティーは始まってすらいない。彩寧は歩み寄り、景介を冷ややかに見据えた。「陸川社長、ずいぶんとお早いですね」景介は彼女が近づいてきたのを見て、一瞬呆然とした。わずかに反応が遅れ、ただ小さくうなずく。「彩寧……」彩寧とは違い、景介は低く彼女の名を呼んだだけで、それ以上何も言わなかった。「パーティーはまだ始まっていません。関係者以外は会場内に残れませんので、今はご退出をお願いします」彩寧は余計な言葉を交わさなかった。無表情のまま、事務的に彼を追い払った。景介はため息をつき、結局外へ出ていった。彼が出ていくのを見届けても、彩寧は何も言わなかった。ただ、自分の仕事へ戻った。あっという間に時間が過ぎた。チャリティーパーティーの開始が迫り、各界の
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第20話

まあいい。どうせ、自分には関係のないことだ。彩寧は首を振り、外の空気を吸いに行こうとした。扉を開けたところで、雪が降っていることに気づいた。背後から声がした。「覚えてるか。俺が初めて彩寧に告白した日も、初雪だった」彩寧は一瞬固まり、振り返った。そこにいたのは景介だった。「覚えています。あのころ、私は留学から戻ってまだ間もなくて。あなたが告白してくれたとき、私、てっきりあなたも私のことをずっと好きでいてくれたんだと思っていました」彩寧は彼を一瞥し、自嘲するように笑った。そして、言葉を続けた。「でも、後になって分かったんです。あなたが私に告白したのは、私を愛していたからではなく、むしろ私のことなど愛していなかったからですよね」景介の胸が痛んだ。目には、一瞬だけ罪悪感と疼くような痛みがよぎる。「彩寧、俺は間違っていた……」彩寧は薄着だった。外の気温は低く、彼女は冷たくなった頬をさすり、身を縮めた。上着を取りに行こうとしたが、振り返るより先に、肩へスーツのジャケットが掛けられた。まだ温かな体温が残っている。彩寧は振り向き、自分に上着を脱いで渡し、シャツ一枚になった景介を見た。唇を軽く引き結んだ。景介は彩寧を見つめ、手を上げて、そっと彼女の頭に触れた。「俺が、取り返しのつかないことをした。許してもらえなくても、俺には何も言えない。でも彩寧、俺たちは少なくとも、一緒に育った幼なじみではあるだろう?」「ええ」彩寧は軽く眉を寄せた。幼なじみなら、それでいい。両家はもともと昔から付き合いがある。これから一生、まったく関わらずに生きていくことはできないのだから。「先に中へ入れ。外は寒い」景介は彼女を見て、静かに言った。彩寧はうなずき、上着を脱いで返そうと手を上げた。けれど景介に止められた。「着ていろ。中に入って暖かくなってから脱ぐか、自分の上着を見つけてから着替えればいい。急に冷えたり暖まったりすると、風邪を引く」「分かりました。ありがとうございます」彩寧は中へ戻っていった。その背中が角を曲がり、見えなくなるまで見送ってから、景介はようやく視線を戻した。彼は外を見た。雪は少しずつ強くなっている。何を思い出したのか、景介の目頭が急に熱くなった。あの全身全霊で自分を愛
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