Tous les chapitres de : Chapitre 1 - Chapitre 10

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第1話

付き合って7年、紀野尋人(きの ひろと)は一度も私に自分のパソコンを触らせなかった。今回は出張に出る前、パソコン版ラインを開いたままにしていた。書斎を片づけていると、机に触れた拍子にスリープが解除された。画面には、ラインの新着メッセージが表示されていた。【尋人、本当に今日、茉莉とスイスで式を挙げたのか?】【入籍はしてないにしても、林美月(はやし みつき)に知られたら大変なことになるぞ】【結婚式まで、あと3日しかないんだぞ】【目を覚ませよ!】尋人の昔からの親友が、ラインで彼を問い詰めていた。私は机に手をつき、画面から目を離せなかった。白川茉莉(しらかわ まり)。彼が18歳のころに付き合っていた初恋の人だ。その後、遠距離になって別れたと聞いている。もう8年も前の話だ。私たちの結婚式が目前に迫った今、彼が茉莉と式を挙げるなんて、あり得ない。机の角を握りしめる手に力が入り、私は瞬きもせず画面を見つめた。彼がどう返すのか、気になった。ほどなくして、彼から返信が来た。【本当だ。ちゃんと考えて決めた】【18歳のとき、茉莉と約束した。彼女が俺に望んだことは、それだけだった。だから、どうしても叶えてやりたかった】【美月のことは】そこで一度、返信が途切れた。しばらくして、次のメッセージが画面に表示された。【美月は何も知らない。この先も、何もなかったことにする】そのメッセージを、信じられない思いで見つめた。やがて私は、ふと笑う。無理だよ、尋人。もう知ってしまったよ。私は椅子を引き寄せて座り、かすかに震える手でマウスを握った。そして、尋人と茉莉のトーク画面を開いた。彼と7年も一緒にいたのに、私は何も知らなかった。二人は毎日のように連絡を取り合っていた。茉莉が子猫の写真を送れば、彼は【可愛い。茉莉もな】と返していた。茉莉が仕事のストレスや上司への不満をこぼすと、彼は優しく返した。【仕事大変だね。でも、自分を追い詰めないで。俺がついてる】茉莉のマンションが停電し、暗いのが怖いと絵文字のメッセージを送ると、彼は迷わず【いま行くから待ってて】と返していた。その日、私は体調を崩して寝込んでいた。彼は慌ただしく出ていき、私を気遣う言葉ひとつなかった。私は二人のやり取り
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第2話

画面に並ぶ言葉の端々から、彼の気持ちは嫌でも伝わってきた。私と尋人の7年は、彼にとって何でもなかったのだ。私は書斎で一晩中座っていた。……翌日、会社を休み、親友の桜井遥(さくらい はるか)に付き添ってもらって式のキャンセルに向かった。「美月、本当にいいの?」会うなり、遥が心配そうに聞いた。「決めた」「尋人と7年付き合って、あさってが結婚式なんだよ。本人に何も言わず、本当に全部キャンセルするの?」「うん」「尋人は知ってるの?」「忙しいの」「何に?」私は答えなかった。遥は少し黙った。「言いにくいなら、私から電話するよ。7年も一緒にいて、人生の一大イベントだよ。美月ひとりで悩むなんて……」「彼は別の女との結婚で忙しいの」私は静かに言った。遥はびっくりした顔を向け、聞いた。「今、何て言った?」私はかすかに笑い、昨夜スマホで撮っておいた、彼のパソコン画面のやり取りを彼女に見せた。「尋人は昨日、スイスで式を挙げたの。茉莉という、彼の初恋の人と」遥は黙り込んだ。彼女の目の縁が少しずつ赤くなっていった。「美月は昨日、ブライダル会社の人とリハーサルでヴィラに行ってたじゃん?夜遅くまで頑張って、途中で胃が痛いって電話くれたよね。つまりその時、尋人はスイスで別の女と式を挙げていたってこと?」私はかすかに笑った。「うん」遥はそれ以上、何も聞かなかった。ブライダル会社へ向かう車の中で、ずっと私の手を握っていた。痛いくらい強く。……私たちは、郊外の湖畔のヴィラを貸し切り、庭で小さな結婚式を挙げる予定だった。結婚式専用の施設ではないがブライダル会社と相談し、装花も音響も、料理や衣装、送迎の車まで、一つずつ手配してくれることになっていた。ブライダル会社の担当者には詳しい事情を伏せて、ヴィラの予約だけ残し、すべてをキャンセルした。式をキャンセルして家に戻ると、私は荷物をまとめ始めた。彼と暮らす予定だった新居から、出ていくつもりだった。そのとき、彼からラインが届いた。空港のラウンジらしき写真に添えられたメッセージは、【出張終わった。疲れた】私は返信せず、写真の左下をぼんやり見つめた。写真の端に、細く白い手が写り込んでいた。薬指にはダイヤの指輪が光ってい
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第3話

「ねえ、尋人」電話の向こうから女の声が聞こえた瞬間、私はスピーカーモードに切り替え、録音ボタンを押した。「尋人、この指輪、少し緩くない?」彼は短く答えた。「ちょっと待って」少し間をおいて、彼は続けた。「美月、まだ何かある?なければ切るよ」私は一瞬ためらいながら聞いた。「尋人、本当に私と結婚するつもりなの?」何を今さら、とでも言うように、彼は電話の向こうで笑った。「当たり前だろ。7年も一緒にいたんだぞ。今さら俺たちが結婚しないなんて、あるわけないだろ」私はスマホの画面を見つめた。3分前まで私は、彼と彼の家族へ、式のキャンセルを知らせるメールを打ち込んでいた。【二人で話し合いのうえ、私たちの結婚式は中止することになりました】そのときはまだ、彼の顔を立ててやるつもりだった。でも今、私はそのメールを削除した。「わかった」……翌日、私は荷物を実家へ送った。尋人の母から電話がかかってきた。「美月さん、お昼はうちにいらっしゃい。尋人が帰ってきたの」少し間を置いて、彼女は笑いながら付け足した。「茉莉さんっていうお友達も一緒に来ているの。せっかくだから、あなたにも紹介するわ」尋人の母は、一見とても感じのいい人だった。彼が初めて私を家に連れていった日、彼女は笑顔でお茶を出してくれた。私の容姿を褒めたあと、学歴や家庭環境、家事がどのくらいできるのかまで聞いてきた。まるで面接を受けるみたいで、妙に緊張したけど、一つひとつ丁寧に答えた。私は、気に入られる嫁になりたかった。彼女も嬉しそうに、「尋人があなたみたいな人と付き合えて、本当によかった」と言ってくれた。けれどそのあと、彼女が果物を洗ってほしいと息子をキッチンへ呼んだ時、彼女のため息交じりの声を聞いてしまった。「惜しいわね。やっぱり前の子のほうがよかった」前の子。それが茉莉のことだった。彼は茉莉のことを一切語らなかったが、あとで自分で調べて知った。それ以来、彼の実家へ行くたび、私はその名前を思い出した。そして今日、ついに彼女に会う。私が到着したとき、茉莉はリビングのソファの真ん中に座り、その隣で彼がみかんの皮をむいていた。7年一緒にいて、彼が私にそんなことをしてくれたことは一度もない。私を
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第4話

尋人が追いかけてきて、エレベーターまで私を送った。エレベーターの中で、彼がふいに口を開いた。「母さんに悪気はなかった」「何のこと?」彼は少し黙った。「茉莉に母さんって呼ばせようとしたこと。悪気はないんだ」私はかすかに笑い、自分の手を見た。「あなたのお母さん、初めて私に会ったとき、きれいな手ね、苦労したことがなさそうって言ってくれた。それなのに、あなたの家へ行くたび、食事のたびに洗い物を手伝わされたの。この7年で、私はあなたの家で数えきれないほど、食器を洗ったの。でもさっきの食事のとき、茉莉さんには何ひとつ手伝わせなかった」尋人の顔色がわずかに変わった。「美月、茉莉はお客さんだ」「客に母さんって呼ばせるの?」尋人は黙った。私はさらに聞いた。「私にあのお菓子を持ってくるって、誰のアイデア?」尋人は固まった。「茉莉が幸せのおすそ分けになるからって」「あなたもそれでいいの?」「そこまで考えてなかった」私はまた笑った。7年の間に、その言葉を何度聞いただろう。私の誕生日を忘れたとき、彼は「仕事が忙しくて、そこまで考えてなかった」と言った。記念日に私と茉莉へ同じブランドのブレスレットを贈ったときも、「同じブランドなだけだ。そこまで考えてなかった」と言った。婚約指輪のサイズが一つ大きかったときでさえ、彼は「そういう細かいことは覚えてない。そこまで考えてなかった」と言った。本当に考えていなかったのかどうか、もう私にはわからない。今となっては、確かめる気にもなれなかった。私は最後に一つだけ聞いた。「今なら、私と結婚するのをやめても間に合うよ」尋人は急に真顔になり、左手で私の手首を強くつかんだ。「美月、変なことを言うな。俺たちは7年も一緒にいるんだぞ。俺と結婚しないで、誰と結婚するつもりだ。お菓子が嫌なら捨てればいい。でも今の言い方はないだろ。そんなこと、二度と言うな」珍しく怒った彼を見て、私は微笑んだ。「わかった」エレベーターを降り、私は振り返らずに歩き出した。その夜、新居に残っていた最後の荷物をまとめた。空っぽになった部屋の写真を遥に送ると、尋人からメッセージが来た。【まだ怒ってる?】【母さんには言っておいた。これからは美月に洗い
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第5話

ヴィラに着いた瞬間、全員が言葉を失った。そこにあったのは、結婚式の華やぎなどどこにもない、静まり返ったヴィラだった。庭に並ぶはずだった椅子も、バージンロードを飾る花も、ウエルカムボードもない。尋人たちは急いでヴィラの中へ入っていった。広いリビングの真ん中にはテーブルが一つ。その上に、婚約指輪がぽつんと置かれているだけだった。顔に浮かんでいた尋人の笑みが、少しずつ消えていく。後ろにいた親族が、先に我に返った。「どういうことだ?」「なんで何にもないの?」「受け付けは8時って話じゃなかったのか?誰もいないぞ」「ここは、ただのヴィラじゃないか」新郎側の友人たちも固まっていた。誰かが小声で聞いた。「尋人、美月と喧嘩でもしたのか?」「場所、間違えたわけじゃないよな?」「何か言えよ」彼には聞こえていないようだった。彼は人々の間を抜け、ゆっくりリビングの奥へ向かった。静まり返った室内に、足音だけが響く。そのたびに、彼の顔がこわばっていった。尋人の親友、大原昴(おおはら すばる)は人だかりの一番後ろにいた。その光景を見た瞬間、彼の顔色が変わった。昴は足早に尋人のそばへ行き、声を低くした。「尋人、美月にバレたんじゃないのか?」勢いよく振り返った。「何を?」その声は、かすかに上ずっていた。昴は彼を見据えた。「何をって、マジで聞いてるの?お前と茉莉がスイスで式を挙げたことだよ」その言葉が出た途端、室内は静まり返った。彼の顔から、一瞬で血の気が引いた。だが彼は、現実を振り払うように何度も首を振った。「ありえない。美月が知るはずがない。気づかれないようにしていた。ニュースは海外にしか出ていないし、周りには絶対言うなと言ってある」その言葉の最後のほうは、声がどんどん小さくなっていった。自分でも、その言葉がどれほど無理のあるものか気づいたのだろう。私が知らないなら、なぜここが空っぽなのか。私が知らないなら、なぜ指輪は外されているのか。私が知らないなら、なぜ美月が結婚式当日に消えたのか。茉莉はリビングの隅に立っていた。薄いピンクのドレスを着て、今日もきれいに装っている。ゆるく巻いた髪、整ったメイク。そして指には、あのダイヤの指輪。
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第6話

「尋人が体調を崩した時、夜中に遠くの薬局まで薬を買いに走ったのは美月だ。尋人が起業したばかりで資金繰りが行き詰まったとき、3年かけて貯めた金を出したのも彼女だ。尋人のお母さんが入院したとき、仕事を休んで入院の手続きを引き受け、必要なものを揃えたのも彼女だ。自分の都合なんて、一度も口にしなかった。なのに、お前は?」昴は冷たく笑った。「今さら現れて、尋人をスイスまで連れ出して式を挙げたうえ、愛人のくせに、花嫁の座まで奪うつもりか?ふざけるな!」周りが一気に騒然となった。「スイスの式って何?」「誰と誰が式を挙げたの?」「尋人は今日結婚するんじゃなかったのか」「茉莉って同級生じゃないの?」尋人の従妹が最初に気づき、茉莉の指輪を見つめた。「その指輪……婚約指輪じゃない?」茉莉は反射的に手を後ろへ隠した。けれど、もう遅かった。全員の視線が彼女の手に集まる。その指輪だけが、場違いなほどきらめいていた。それでも尋人だけ、茉莉を見なかった。彼の視線は、テーブルへ向けられていた。そこには、私の婚約指輪が置かれていた。内側には、二人の名前がローマ字で刻まれていた。【h&m】ひろとと、みつき。私が何度も頼み、彼がしぶしぶ刻むことに同意したものだった。そのとき彼は言った。「指輪は指輪だろ。こういう刻印に意味なんてない」私は真剣に答えた。「意味はあるよ。私たちが本当に一生を約束する証しにしたいの」そんな私が、その指輪を外したのだ。それが、彼への最後の答えだった。彼はゆっくり近づき、指輪を手に取った。手が震えていた。「どうして……美月が、俺を捨てるなんて……」彼はスマホを取り出し、私に電話をかけた。一度目、つながらない。二度目も、つながらない。三度目も、流れてきたのは機械音声だけだった。彼は何度もメッセージを送り続けた。【美月、どこにいる?】【頼むから、冗談はやめてくれ】【今日は俺たちの結婚式だ】【何があったか、会って話そう。な?】何通送っても、彼のスマホの画面メッセージは既読にならなかった。私は彼をブロックしていたのだ。彼は返事のない画面を見つめたまま動けなくなり、その場に力なく座り込んだ。茉莉は悔しそうに彼を見
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第7話

雪山を背に、花々に囲まれた二人は、本物の新婚夫婦のように見えた。記者が尋ねている。「なぜスイスで式を挙げたのですか?」彼は答えていた。「妻の願いを叶えてあげたかったです」室内は水を打ったように静まり返った。次の瞬間、みんなが一斉に声を上げた。「正気かよ」「これ、重婚じゃないのか?」「入籍してなくても、これはあり得ないだろ」「結婚式の数日前に、初恋とも式を挙げたってこと?」「美月が式に来なかったのも当然だ」尋人の伯父が真っ青な顔で、彼を指さして怒鳴った。「馬鹿げている!よくも紀野家に泥を塗ったな!林さんと結婚する気がないなら、最初からそう言えばよかっただろう!7年も付き合った女性を、こんなふうに踏みにじるのか!」尋人は何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。茉莉は青ざめ、それでも言い訳しようとした。「違うんです!私たちは、昔の約束を果たしただけで……お二人の邪魔をするつもりなんてなかったんです。私はただ……」尋人の従妹が冷笑した。「ただ、ウエディングドレスを着て、婚約指輪をはめて、人の婚約者を夫と呼んだ。そして尋人さんのお母様には嫁のように振る舞って、今日もまた花嫁の代わりになろうとした。白川さんにとっては、全部『ただ』で済むことなんですね」茉莉の目が赤くなり、彼を見た。「尋人、何か言ってよ」けれど、彼は指輪を握り、ヴィラの外へ飛び出していった。茉莉のほうを、もう振り返ることさえしなかった。……私はヴィラでの騒ぎを直接見たわけではない。現地にいた遥の彼氏が、私と遥をラインのグループビデオ通話につなぎ、こっそり会場の様子を映してくれていたのだ。彼は受付と会場設営を手伝うため、新郎側の友人として早くからヴィラに来ていた。スイスでの式を知ったあと、その場で尋人と縁を切ると言い出すほど怒っていたが、遥が止めた。「まだ早い。あの人たちが最後にどんな顔をするのか、美月が見てみたいって」そうして私は今、実家のリビングに座り、スマホの画面に映る尋人を見ている。目の前には、母が淹れてくれたコーヒーがあった。本当なら、今日、私が花嫁として立っていたはずのヴィラ。そこを画面越しに見たら、きっと泣くと思っていた。けれど、不思議なく
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第8話

車を降りた尋人の母は、静まり返った庭を見回し、眉をひそめた。スタッフの姿もなく、式が始まるような気配はどこにもない。そこへ、青ざめた顔の尋人が駆け寄ってきた。「尋人、いったいどうなってるの?」「中で話す」彼女はさらに問い詰めようとしたが、遥の彼氏や親族たちの視線に気づき、ひとまず尋人と一緒にヴィラの中へ入っていった。尋人の母は式用のドレス姿のまま、苛立ちを隠そうともせずに尋ねた。「尋人、美月さんは?」彼は目を合わせようともせず、奥へ進んでいった。尋人の母はあとを追った。「聞いているの?」彼は足を止めた。声はひどくかすれていた。「彼女、来ないよ」尋人の母は固まった。「来ないって、誰が?」「美月はもう来ない。全部、知ってしまったんだ」リビングにいた全員が彼を見た。尋人の母の顔色が変わった。「何を知ったの?」彼は目を閉じた。「俺と茉莉がスイスで式を挙げたこと」その瞬間、リビングはもう一度騒然となった。「何だって?」「尋人が別の女性と先に式を挙げた?」「じゃあ今日結婚するはずだった美月をどうするつもりだった?」「えらいことしてくれたな!」後から到着した親族たちは状況をのみ込めず、口々に尋人と母を問い詰めた。尋人の母は慌てて取り繕おうとした。「皆さんが思っているようなことじゃないの。茉莉さんと尋人は、ただ若いころのちょっとした約束を果たしただけです。入籍もしてないし、正式なものでもないですし……」「正式ではない?」伯父が怒りに任せてテーブルを叩いた。「式まで挙げておいて、正式じゃないで済むと思ってるのか?そのうえ今日、何食わぬ顔であの女まで式に呼んだんだろう!」親族たちの非難に、尋人の母はみるみる青ざめていった。彼女は人一倍、世間体を気にする人だった。今日招いたのは親戚や友人だけではない。エントランス前には、尋人の仕事関係者を乗せた車も到着し始めていた。リビングにいた誰もが、尋人の母へ冷ややかな視線を向けていた。そこでようやく、自分の面目が丸つぶれになったことに気づいたのだ。騒ぎはテラスや前庭にも広がり、後から到着した招待客にまで伝わり始めていた。誰もが気まずそうな顔をしていた。誰かが低く言った。「林さ
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第9話

「ほら、指輪まで置いていったんだ。美月は……俺を捨てたんだ」その言葉を最後に、グループビデオ通話が切れた。遥からメッセージが来た。【私もすっきりしたよ】【でも美月、本当にこのまま何も言わなくていいの?】私はしばらくスマホを見つめ、返信した。【うん。もう、話すことは何もないから】7年も一緒にいれば、言いたいことはいくらでもあった。ただ、伝えるべきことは、失望するたびに何度も口にしてきた。彼は聞かなかった。だから、私はもう話さない。……結婚式を取りやめた日、私は10時間もぐっすり眠れた。目を覚ますと、窓から差し込む日差しが、ベッドの足元まで伸びていた。リビングでは母が、りんごの皮をむいていた。どうして実家に戻ったのか、母は聞かなかった。どうして式を取りやめたかも、聞かなかった。ただ、りんごを小さく切って差し出してくれた。「食べなさい」鼻の奥がつんとして、泣きそうになった。この数年、私は尋人のことを優先するあまり、自分のことはずっと後回しにしていた。年末年始の予定も、まず彼の都合に合わせた。ボーナスが入れば、自分のものより先に、彼に何を買おうか考えた。尋人の母に何か言われるたび、何日も悩んだ。好きな人のためなら、自分のことは後回しにして当然だと思っていた。我慢し続ければ、いつか思いは届くのだと。でも、我慢したからといって愛されるわけではない。ただ、自分をすり減らしていただけだった。……式を取りやめた翌日、私は証拠を整理し始めた。ラインのメッセージ。スイスの記事のスクリーンショット。彼が茉莉のために買ったドレス、指輪、ホテルの予約確認メール。茉莉が彼に送った、甘えた口調のボイスメッセージ。それから、彼が電話で「友人の結婚式に来ている」と嘘をついたときの通話の録音。私は集めた証拠を、時系列に沿って整理していった。日時。金額。出来事。傷つき度。遥は私が作った表を見て、しばらく黙った。「美月、これ……」私は言った。「あとで、向こうの都合のいいように話を変えられたくないの。それに、私自身も忘れないようにしておきたいから」その表には、全部で32項目あった。25歳の誕生日、彼は残業だと言った。実際
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第10話

「予定どおり婚姻届を出そう。これからは、ちゃんと美月を大事にする」私は彼を見つめ、呆れて笑いそうになった。「尋人。あなた、今でも私が気にしているのは、入籍のことだと思ってるの?」彼は固まった。「違うのか?」私は小さく笑った。「違うよ」私はポケットからスマホを取り出し、まとめておいた記録を開き、画面を彼に向けた。「いくつか聞きたいことがあるの」そこに並ぶ内容を目で追い、次第に表情をこわばらせた。私は最初の質問を口にした。「私の25歳の誕生日、私は一晩中、あなたの帰りを待ってた。急な残業だって言ってたけど、本当はどこにいたの?」彼は答えに詰まった。「俺は……」「本当のことを言って」彼はうつむいた。「茉莉と映画を観に行ってた」「どうして?」「あの日、彼女が落ち込んでいたから」私はうなずき、次の項目を開いた。「7周年の記念日に、私にブレスレットをくれたよね。でもあとで、茉莉も同じものを持っていると知った。あのとき、どういうつもりだったの?」気まずそうに目をそらした。「そこまで考えてなかった」「そう」私はスマホから顔を上げ、彼を見た。「じゃあ、どうして茉莉のだけ限定ボックスに入っていて、私のは普通の箱だったの?」さっと青ざめた。長い沈黙のあと、彼はかすれた声で言った。「茉莉が、その箱を気に入ったって言ったから……それで……」「限定ボックスのほうを茉莉にあげたのね」言いよどむ彼に代わって、私が続きを口にした。尋人の顔がこわばった。私はそのまま続けた。「私が体調を崩して寝込んでいた夜、会社で急用ができたって言って出ていったよね。本当は茉莉のところへ行ったんでしょう?」彼は目を閉じた。「……ああ。マンションが停電して、暗いのが怖いって言うから」私は力なく笑った。「私だって、ひとりで寝込んでいるのはつらかったよ。でも、あなたは戻ってこなかった」彼の目が潤んだ。「美月、そんなにつらいとは思わなかった」「メッセージで伝えたよ。具合が悪くて、ベッドから起き上がれないって。でも、あなたの返事は『わかった』の一言だけだった」そのやり取りを思い出したのか、何も言えなくなった。私はスマホをポケット
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