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9 Chapters

第1話

夫の今野洋一(こんの よういち)はもともとそういう欲が薄く、夫婦の営みさえ、いつもきっちり時間を決めていた。今日も、まさに夫婦の営みの最中だった――彼のスマホが、特別な着信音を響かせた。漏れ聞こえてきたのは、若い秘書・筒井有菜(つつい ありな)の泣き声だった。「社長、家の水道管が破裂して……怖くて……」洋一は一瞬の躊躇もなく、さっとベッドから身を起こして服に手を伸ばした。私・今野薫(こんの かおる)はシーツをきつく握りしめ、思わず手を伸ばして彼の腕にすがりついた。「もう遅いし、まだ……終わってないわ」「有菜には身寄りがない。上司として、見捨てるわけにはいかない」彼は私と目を合わせることもなく、静かに腕を振り払い、淡々と乱れた襟元を直した。「今日のノルマは果たした。不足分は、次に埋め合わせる」私は、短く息を呑んだ。――そうか。私との営みは、彼にとってただの「ノルマ」でしかなかったんだ。彼が出て行ってから間もなく、有菜からメッセージが届いた。送られてきた写真の中で、彼女は洋一の肩にそっと頭を預けていた。【ほんとごめんなさい。ただ、怖くて。次は絶対、社長にお詫びさせますから。今夜はひとりで何とかしてね】最後まで読み終えても、私は何も言わなかった。静かに立ち上がり、シャワーを浴びた。シーツを洗い、新しいパジャマに着替えた。そして、決心した。――彼はもう、いらない。……深夜に差し掛かった頃、ドアノブがかすかな音を立てた。洋一が帰ってきたのだ。彼はやはり、私を見ようとはしなかった。上着をハンガーに掛けると、そのままベッドに倒れ込んだ。その体からは、嗅ぎ慣れない甘い香水の匂いが漂っていた。私が寝返りを打つと、彼のスマホで通知音が立て続けに鳴っていることに気づいた。そっと手に取ると、有菜からのメッセージだった。【社長、今日は来てくれてありがとうございました。奥さん、怒ってないですよね?いつか直接謝りに行きます】私は俯いたまま画面を見つめ、目を伏せた。指先で静かにトーク履歴を遡る。ふたりのやり取りは、曖昧さを通り越して露骨だった。洋一からの返信も、明らかに増えていた。私に向けるような冷たさは、そこには微塵もなかった。喉の奥が、じわりと重く詰まる。私は指先を動
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第2話

洋一と私は、無言の冷戦状態に陥った。彼は家に帰らず、私も彼の動向を一切尋ねなくなった。3日目の朝、彼の秘書からメッセージが届いた。【奥様、社長はここ数日ずっとS国への出張で大変お忙しく、今日ようやく戻られました】私は返信した。【もう大丈夫です。これからは報告しなくていいですよ】メッセージ履歴を遡ると、いつも私から洋一に連絡していたことがわかる。本人よりも、秘書に連絡した回数の方がずっと多かった。しばらくして、また秘書からメッセージが届いた。【奥様、もしかして喧嘩をされましたか?】返事をしないでいると、さらに続きが送られてきた。【社長の心の中には、奥様しかいないはずです。あの方がご自分からアプローチされるなんて、普通じゃないことですから】私は思わず、瞬きをした。確かに、この結婚は彼が望んでくれたものだった。あの頃の洋一は冷たい性格ながらも、自分から私の側にいてくれた。いつも私を見つめて、綺麗だと言ってくれた。なのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。秘書のメッセージは続く。【社長は今日が奥様のお誕生日だとご存じで、ずっと欲しがっていらっしゃったブレスレットを用意されているそうです】一緒に送られてきた写真には、本当にそれが写っていた。以前、洋一の前で何度もねだったことのあるブレスレット。まさか覚えていてくれたなんて。胸の奥が、小さく震えた。私は小さくため息をついて立ち上がり、彼の好きな料理を作り始めた。洋一が帰宅したのは、すっかり夜も更けてからだった。ネクタイを緩めながら、足早に書斎へ向かおうとした。私が呼び止めると、彼は煩わしそうに眉を寄せて振り返った。「何だ」その声は、相変わらず冷ややかだった。私は息が乱れそうになるのを抑えながら、テーブルの縁をぎゅっと握りしめた。「今日が何の日か、わかる?」彼はさらに眉をひそめた。「何?」胸の奥がじくりと痛み、声が掠れた。「……私の、誕生日」洋一はようやく納得したように頷き、袖口を下ろした。「今日か。忘れてた」たった、それだけだった。喉が締め付けられるようだった。水底に沈められたように、息が詰まる。彼は私を一瞥して、淡々と言い放った。「来月、埋め合わせをする。そもそも、別
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第3話

彼は朝早く家を出て、夜遅くに帰るようになった。私は彼が不在の昼間に荷物をまとめ、私たちはすれ違いの生活を続けた。ひと通りの片付けが終わりかけた頃、突然、彼から電話がかかってきた。画面上で揺れる名前を、私はしばらくの間、ただ見つめていた。それでも、通話ボタンを押した。「何?」彼の口調は相変わらず、仕事の電話のようだった。「服が濡れた。クローゼットの一番右にある黒いスーツを持ってきてくれ」私は何も返事をしなかった。ただ何となく、クローゼットへ向かい、その服に手を触れた。ポケットの中に、硬いものが入っている。息が止まった。電話をつないだままのスピーカーから、洋一の低い笑い声が聞こえた。どこか気だるげな声で、彼は言った。「気づいたか」私はぼんやりとした頭で、それをポケットから引きずり出した。指輪だった。ぎゅっと握りしめると、ダイヤモンドの鋭いカットが手のひらに食い込んで痛かった。声が、かすれる。「あなた……」彼は相変わらず淡々としていたが、少しだけ声を張った。「気に入ったか?」心臓が激しく跳ね上がった。手のひらが、じんわりと汗ばんでいく。唇を開きかけたものの、すぐには言葉にならなかった。胸の奥から、言葉にできない感情が止めどなく溢れ出してくる。「なんで……っ」しかし、先に向こうから言葉を遮られた。「有菜に感謝しろよ。あいつのアイデアだ。あいつがお前に謝れって言うから、詫びを入れることにしたんだ。あいつの顔を潰すわけにもいかないからな」私は、その場に縫い止められたように立ち尽くした。まるで頭から氷水を浴びせられたみたいだった。心が、完全に凍りついた。手の中の指輪を見つめていると、喉が焼けるように熱くなった。服の生地をぎゅっと掴み、激しく呼吸が乱れる。「……そこまでして私を辱めて、一体どういうつもり!?」長い沈黙が流れた。やがて、電話の向こうから洋一のくぐもった低い声と、有菜の甘い吐息が混ざり合って漏れ聞こえてきた。彼の声は、ひどく柔らかだった。「痛かったか?俺を怖がる必要なんてないだろう」その声音は、私に向けるものとは明らかに違っていた。濃密な情欲を帯びた声だった。全身が小刻みに震えた。思わず目を強く閉じる。自分でも信じら
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第4話

電話の向こうに落ちた沈黙のなかで、洋一もようやく異変に気づいたようだった。「どうした?」私は、壁に飾られたウェディングフォトをスマホで撮り、彼に送信した。「ちゃんと見て」再び沈黙が落ちる。やがて、深いため息が聞こえた。「送り先を間違えたんだろう」「間違いですって?じゃあ、有菜とウェディングフォトを撮ったのも間違いだと言うの?」洋一の口調は、少し困ったようだった。「会社に来い。説明する」通話が切れる。私はバッグを掴み、ふらつく足取りで家を出た。胸の奥が、きつく締め付けられた。公私のけじめだと言って、洋一はこれまで、私を絶対に会社へ来させなかった。まさか、その唯一の例外がこんな理由になるなんて、思いもしなかった。エレベーターに乗ろうとしたところで、見知らぬ社員に呼び止められた。「申し訳ありません、外部の方はオフィスに入れません。応接室でお待ちください」私が口を開きかけたその時、有菜が突然姿を現した。彼女は私の腕を引き、強引に中へ連れ込んだ。「大丈夫ですよ、私の知り合いですから」彼女はまるで自分がここの主であるかのように、我が物顔で振る舞っていた。連れ込まれた部屋で、有菜はグラスに水を注ぎ、私に差し出してきた。「社長は今、会議中です。少しお待ちくださいね」私はそれを受け取ることなく、ゆっくりと部屋の中を見渡した。ソファにはペアのパジャマが無造作に置かれていた。洋一のマグカップも、いつの間にかペアのものに変わっている。デスクの上には、ふたりで手作りしたと思われる小物が並んでいた。思わず、自嘲の笑みが口元を歪めた。結婚してから、私もずっと「一緒に何かを作りたい」と彼に言い続けていた。でも洋一はいつも気乗りしない顔をして、「時間がない」「また今度にしよう」と躱すばかりだった。結局、その願いが叶うことはなかった。今になって、ようやくわかった。彼はただ、「私とは」一緒に何かを作りたくなかっただけなのだ。有菜は私の視線に気づかないふりをして、笑いながら自分の荷物をまとめていた。「誤解しないでくださいね。私と社長は、何でもないんですから。奥さんが傷つくのもわかります。夫婦の時間も少なくて、寂しいんですよね。あとでちゃんと、社長に話しておきますから。でも、社長は体力がありま
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第5話

洋一は病室に飛び込み、室内を見回した。得体の知れない不安が胸に広がる。すぐに踵を返し、廊下を走ってナースステーションの看護師に詰め寄った。声が、自分でも止められないほど震えていた。「この病室の患者は、どこに行ったんですか!」看護師は彼の剣幕に顔を引きつらせて、思わず後ずさった。「お、落ち着いてください」彼女はパソコンの記録をちらりと確認し、続けた。「こちらの患者様はご自分で退院手続きを済まされて、朝一番で退院されましたよ」洋一は息を呑み、掴んでいた手の力をゆっくりと抜いた。全身の血が、一瞬にして凍りついていくようだった。「退院した……あんな体で、どうやって……それに、どこへ……」看護師もひどく困惑しているようだった。「私たちも全力で止めようとしたんです。でも、まったく聞く耳を持っていただけなくて。絶対に行くと言って譲らず、医師でも止められませんでした」洋一は喉を鳴らし、ひきつるように深く息を吸い込んだ。鉛のように重くなった足を引きずるようにして、再び病室に戻る。小刻みに震える手で、ベッドの上に残された離婚届を掴み上げた。目の中から、一切の光が消えていく。なぜ、彼女が去るんだ。なぜ、俺を置いて去ることができるんだ……!拳を握りしめる腕に、青筋が浮き上がった。離婚届を、力任せにぐしゃぐしゃに握り潰す。心の底から湧き上がる乱れを無理やり押さえつけ、彼はすぐに踵を返した。家へ駆け戻り、勢いよく玄関の扉を開け放つ。家の中は、不気味なほど静まり返っていた。彼女の服、彼女の靴、彼女の匂い――薫に関わるものが、家の中から何もかも消え失せていた。まるで最初から、この家に存在しなかったかのように。ただひとつ、リビングの壁には、自分と有菜が写ったあのウェディングフォトだけが、やけに鮮明に残されていた。息が詰まった。洋一はうめき声を上げ、壁からその写真を引き剥がした。空白になった壁を見つめて、彼は初めて気づいた。「ここには……薫と一緒に撮った写真があったのに」薫はいつも、あの場所に飾ってあった写真を大切にしていた。意味などないものだったかもしれないのに、彼女は定期的に埃を払い、それを見つめては満足そうに微笑んでいたのだ。洋一は立ち上がり、取り憑かれたように家の中を隅か
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第6話

洋一はそのまま、玄関に立ち尽くしていた。どれだけの時間が過ぎたのかわからなかった。全身が鉛のように固まった。ふと、耳がわずかな音に反応した。廊下の向こうから、軽い足音がこちらへ近づいてくるのが聞こえた。息を潜めると、自分の心臓だけが耳障りなほど激しく打っている。振り返りざまに、縋るような声が出た。「薫、戻ったのか。ずっと探して……」しかし、言葉は喉の奥で無様に詰まった。目の前に立つ人物の顔を確認した瞬間、彼の表情が一気に底冷えするような暗さへと沈んだ。「……なんでお前なんだ。ここに何しに来た」有菜は満面の笑みを浮かべながら小走りで近づき、洋一の腕にべったりと絡みついた。「だって、会いたくなっちゃいましたよぉ。私のこと、いつでも来ていいって言ってくれたじゃないですか」洋一は全身を強張らせ、さりげなく腕を引き抜いた。彼女の方へ視線すら向けなかった。「今はまだ、勤務時間中だろう」有菜はあからさまに口を尖らせ、さらにぴったりと彼の肩に寄り添ってきた。その声には、はっきりとした不満がにじんでいる。「えー、いつでも休んでいいって言ったの、社長ですよね?昼も夜も働くなんて、絶対に御免です」そう不平をこぼしながら、有菜は上目遣いで洋一だけを見つめ、わざとらしく自分が穿いているスカートの裾を揺らし、彼の脚に軽く触れさせた。「ねえ社長、このスカート、私に似合いそうじゃないですか?着たら絶対かわいいと思いません?」洋一が疎ましげに視線を上げた瞬間、その表情が完全に凍りついた。彼は有菜の手首を、折れんばかりの力で強く掴み上げた。「誰がそれを着ていいと言った!それは……薫のために買ったものだと、わからないのか!」有菜が痛みに顔を歪め、甘えた声で小さく悲鳴を上げた。「痛っ……社長、痛いです……!奥さんの代わりに、私が試着してみたかっただけなのに……」彼女は力いっぱい振りほどき、手首を押さえた。洋一は数歩後ずさり、その顔をじっと睨みつけた。彼女の存在そのものに、ただひたすらうんざりしていた。有菜はまるで気づいていない様子で、ふと顔を上げると、そばにあったウェディングフォトに目を留め、嬉しそうに歩み寄った。そして写真を手に取り、自分に重ねるようにしてはしゃいでいた。「あ、社長、私たち
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第7話

洋一のもとを去った後、私は遠く離れた街へと向かった。そこでしばらくの間入院し、退院してからは周辺の街を転々と旅して回った。ある日、駅を出た途端にスーツケースのキャスターが壊れてしまった。折れた肋骨がようやく治ったばかりで、重い荷物を持ち上げることはまだできなかった。誰かに助けを求めようかと迷っていると、ふいにスーツケースの重さが消えた。ほっとして、横を向く。「あ、ありがとうございますっ」しかし、相手の顔を確認した瞬間、私の言葉は完全に凍りついた。そこにいたのは、何ヶ月ぶりかに見る洋一だった。彼は片手で私のスーツケースを持ち上げながら、かすかに震える声で言った。「……どう、いたしまして」私は少し間を置いて、激しく波打つ動悸を無理やりねじ伏せた。タクシーを呼ぼうとスマホを取り出し、画面を操作し始める。すると洋一が手を伸ばし、私の腕を掴んだ。縋るような、弱々しい声で問いかけてくる。「俺を見て……言うことは、何もないのか」私は静かに首を振り、再びスマホへ目を落とした。彼はあわてたように私の前に立ち塞がり、スマホの画面を手で塞いだ。そして、もう一方の手でスーツケースをしっかりと持ち上げる。「どこへ帰るんだ?すぐそこに車を停めてある。俺が送っていく」焦りを滲ませたような、それでいて昔と変わらない広い背中を見つめ、私は小さくため息をついて彼の後を追った。車のそばに立ち、少しだけためらってから後部座席のドアノブに手をかけた。開かない。顔を上げると、窓ガラス越しに洋一の視線とぶつかった。私はドアノブを指差した。「開かないんだけど」彼の暗い瞳の奥には、数え切れないほどの感情がどす黒い泥水のように渦巻いていた。しばらくじっと私を見つめた後、ようやくロックを解除するカチッという音が響いた。車の中に入ると、彼はもう私を見ようとはしなかった。ただ、静かな声でぽつりと言った。「薫、助手席にはまだ、お前の好きなキャラのシールが貼ってあるんだ」ちらりと視線を向けると、ダッシュボードの隅に少し色褪せたシールが残っていた。几帳面な彼が、例外として許してくれた、私たちのささやかな思い出の一つだった。でも、私は何も言わなかった。ただ今の住所を短く告げて、窓の外の景色へと目を向けた。
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第8話

息が詰まるような長い沈黙が続いた。このまま膠着状態が続くのかと思い始めた、その時。彼は突然、車のロックを解除した。私はドアを開け、外の空気を吸い込んだ。「今日はありがとう。今度、ご飯でも奢るわ」スーツケースを引き寄せ、私は振り返ることなく静かに自分の部屋へと上がった。シャワーを浴びて、髪を乾かし、ふとベランダから下を見下ろした。彼は、まだそこにいた。車の窓を少しだけ開け、煙草を挟んだ指先を、わずかに開いた窓から出している。しばらくの間、その姿は彫像のように動かなかった。私は見なかったことにして、カーテンを引いた。翌日、私は昼過ぎまで深い眠りに落ちていた。午後になり、ゴミを捨てにマンションの下へ降りると、洋一がそこに立っていた。ひどくやつれ、憔悴しきった様子で、両手には食材の入った袋を提げていた。きっと、朝からずっとあそこで待っていたのだろう。私が驚いて立ち尽くしていると、彼が先に口を開いた。「あっ、食材を買ってきたんだ。料理を作ろうと思ってさ。ずっと一緒にやりたいって言ってたこと、これから俺が全部叶えるから」私はその場から動かなかった。「仕事は?」彼は気まずそうに目を逸らした。「その、仕事は……急がないし、俺も……暇だから」私は、自嘲するように薄く笑った。昔、私は泣きながら彼に頼んだ。少しでも一緒にいてほしいと、すがりついて訴えた。でもその度に、「子どもっぽい」「重い」と突き放された。それが今になって、こうして私の後を追いかけてきている。仕事よりも大切なものがあることに、ようやく気づいたのだろうか。遅すぎた。あまりにも。私は顔を上げ、静かに告げた。「いいの。あなたにとっては、仕事の方が大事でしょう。早く戻って」彼は視線の置き場を失い、悔しそうに唇を噛んだ。「違う……ただ、お前のそばにいたいんだ」私が彼を愛してやまなかった頃は、何もかもが私より優先されていた。今更こんな甘い言葉を聞かされても、胸の中にはただ虚無感だけが広がっていく。私が何も言わずにいると、彼は勝手に私の部屋の台所へ入り、かつての私がそうしていたように、不器用な手つきで料理を始めた。手際は決して良くはなかった。ぎこちなく食材を刻みながら、彼は背中越しに続けた。「
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第9話

彼の返事を待つことなく、私はその場を離れた。近くのレストランに入り、ひとりで遅い昼食を取った。ふとスマホを取り出し、部屋に設置してある室内カメラの映像を確認する。画面の中では、洋一が台所のテーブルに座り、不格好な料理をたくさん並べて、ひたすら私を待っていた。目の奥が、じわりと熱くなった。昔の私も、いつもあんな風にして彼の帰りを待っていたのだ。立場が完全に逆転してしまった今、あの頃の自分がひどく哀れに思えてならなかった。食事を終え、ショッピングモールをあてもなくぶらついた。夕暮れが深まり、すっかり夜になってから部屋へ帰った。洋一の姿はもうなかった。テーブルの上には、すっかり冷めきった料理だけが残されていた。かなりの量だった。彼なりに、随分と手間をかけたのだろう。でも私は一切手をつけなかった。家事代行の人を呼び、残さず全て片付けてもらった。それ以来、洋一が私の前に姿を見せることはなくなった。私の生活は少しずつ、本来の穏やかさを取り戻していった。そんなある夕方のこと。突然、有菜が私の部屋を訪ねてきた。見る影もなくやつれ果て、まるで幽鬼のようだった。彼女はふらつきながら私に近づき、しゃがれた金切り声を上げた。「消えなさい!洋一に、二度と近づかないで!あの人は私のものだと言ったじゃない。なんであんたが奪うの!」私は深く眉をひそめた。まともに相手にするつもりなど毛頭なかった。彼女の体を押し返し、外へ出そうとする。「帰ってください」しかし、その冷たい態度が火に油を注いだのか、有菜は突然発作を起こしたように体を震わせた。そしてそのまま、獣のように私に向かって突進してきた。「返して!あの人は、私のものなの!愛してるって言ってくれた!私だけだって言ったわ!なんでも私に話してくれたじゃない。なんで、なんでまだあんたのことを好きでいられるの!」有菜は突然顔を上げ、私を睨みつけた。その目の焦点は、ぞっとするほど合っていなかった。そのまま、ガラスを引っ掻くような不気味な声で笑い出した。「あの人は、あんたより私のほうを何度も抱いたのよ。だから、私が隣にいるべきなのよ……!」私は強い力で彼女を突き放した。心の底で、どこか哀れみさえ感じながら。「あなた、正気なの?」でも、私の言
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