Share

第3話

Author: 桐谷
彼は朝早く家を出て、夜遅くに帰るようになった。

私は彼が不在の昼間に荷物をまとめ、私たちはすれ違いの生活を続けた。

ひと通りの片付けが終わりかけた頃、突然、彼から電話がかかってきた。

画面上で揺れる名前を、私はしばらくの間、ただ見つめていた。

それでも、通話ボタンを押した。

「何?」

彼の口調は相変わらず、仕事の電話のようだった。

「服が濡れた。クローゼットの一番右にある黒いスーツを持ってきてくれ」

私は何も返事をしなかった。

ただ何となく、クローゼットへ向かい、その服に手を触れた。

ポケットの中に、硬いものが入っている。

息が止まった。

電話をつないだままのスピーカーから、洋一の低い笑い声が聞こえた。どこか気だるげな声で、彼は言った。

「気づいたか」

私はぼんやりとした頭で、それをポケットから引きずり出した。

指輪だった。

ぎゅっと握りしめると、ダイヤモンドの鋭いカットが手のひらに食い込んで痛かった。

声が、かすれる。

「あなた……」

彼は相変わらず淡々としていたが、少しだけ声を張った。

「気に入ったか?」

心臓が激しく跳ね上がった。手のひらが、じんわりと汗ばんでいく。

唇を開きかけたものの、すぐには言葉にならなかった。

胸の奥から、言葉にできない感情が止めどなく溢れ出してくる。

「なんで……っ」

しかし、先に向こうから言葉を遮られた。

「有菜に感謝しろよ。あいつのアイデアだ。あいつがお前に謝れって言うから、詫びを入れることにしたんだ。あいつの顔を潰すわけにもいかないからな」

私は、その場に縫い止められたように立ち尽くした。

まるで頭から氷水を浴びせられたみたいだった。

心が、完全に凍りついた。

手の中の指輪を見つめていると、喉が焼けるように熱くなった。

服の生地をぎゅっと掴み、激しく呼吸が乱れる。

「……そこまでして私を辱めて、一体どういうつもり!?」

長い沈黙が流れた。

やがて、電話の向こうから洋一のくぐもった低い声と、有菜の甘い吐息が混ざり合って漏れ聞こえてきた。

彼の声は、ひどく柔らかだった。

「痛かったか?俺を怖がる必要なんてないだろう」

その声音は、私に向けるものとは明らかに違っていた。濃密な情欲を帯びた声だった。

全身が小刻みに震えた。思わず目を強く閉じる。

自分でも信じられなかった。心のどこかでまだ彼に期待していた自分が、あまりにも滑稽だった。

けれど、私の知る洋一は、もともとそういう欲の薄い人だった。

しばらくして、再び受話口から彼の声がした。

「指輪も見たんだ、もう機嫌を直しただろう。何日も口もきかずに俺を避けて……薫、そんなことを続けてもお前のためにならないぞ」

少し間を置いて、彼は傲慢な響きを含ませて続けた。

「もし許してくれるなら、ベッドでの時間……あと一時間増やしてやってもいい」

私は、信じられない言葉に目を見開いた。

「洋一、何を言ってるの」

返事をしたのは、洋一ではなく有菜だった。

「社長ぉ、あの指輪で奥さんを丸め込んだら、私にくれるって言ったじゃないですかぁ。いつ持ってきてくれるんですか……裏に、私のイニシャルまで入ってるのに」

全身の毛が逆立った。

慌てて俯き、指輪の裏側を確認する。

冷たいプラチナの内側には、確かに刻まれていた。

【AT】

――有菜のイニシャルだ。

ぞっとするような鳥肌が、全身を一気に駆け巡った。

もう、感情を抑えきれなかった。

「洋一、最低!」

洋一の声が、途端に低く冷たく沈んだ。

「薫、謝りもしたし、プレゼントもやった。なにが不満なんだ。最低だと?お前がもっと抱いてくれと俺に縋りついてきた時は、最低じゃなかったのか」

目の前が真っ暗になった。

口を動かしたけれど、声が出なかった。

電話の向こうでは、有菜を優しくあやす声が聞こえ続けている。

「わかった、あれは、とりあえず先にあいつへ渡すだけだ。次はお前に、もっと大きなダイヤを買ってやるからな」

有菜が拗ねたように不満を漏らすと、彼はさらに甘く囁いた。

「俺のために頑張って働いてくれれば、何でも好きなものを与える。わかったか?」

私は力の限り、その指輪を壁に投げつけた。とめどなく涙が、頬を伝い落ちる。

「洋一!ひどすぎるわ!自分が昔言ったこと、もう忘れたの?」

結婚式の日、彼は私の頬に優しくキスをしてくれた。

そして、確かにこう言ったのだ。

「安心してくれ、薫。一生お前のそばにいるから。いつか子どもを作ろう。お前に似れば、絶対に可愛い子になる」

それなのに、今は――

声もなく震えながら、ふと気づいた。電話は、とっくに切られていたのだ。

スマホが手から滑り落ち、床に転がった。私は呼吸をすることさえ満足にできなかった。

その時、リビングの方から騒がしい物音が聞こえてきた。

私は涙を拭い、勢いよくドアを開けた。

鍵が開けっぱなしだったのか、見知らぬ業者が入り込み、壁に巨大なウェディングフォトを飾りつけているところだった。

彼らは私を見ると、愛想よく笑いながらご祝儀を催促してきた。

「おめでとうございます、末永くお幸せに!」

「旦那様に本当に愛されてますねぇ。このウェディングフォト、お金に糸目をつけずに最高のプランで撮られたんですよね」

「本当にお似合いのカップルですよ」

私はゆっくりと顔を上げた。

そして、息が完全に止まった。

写真の中で微笑む新郎は、間違いなく洋一だった。

しかし、その隣で純白のドレスを身に纏う花嫁は、私ではなかった。

私は、力なく薄く笑った。

「そうね。あの人は、不倫相手にはお金を惜しまないから」

一瞬にして、部屋が凍りつくように静まりかえった。業者たちは気まずそうに小声で謝罪した。

私は再び、洋一に電話をかけた。

「……家に、写真が飾られてるわよ。洋一、あなたはまだ、私をどこまで辱めれば気が済むのかしら?」

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 春に別れて   第9話

    彼の返事を待つことなく、私はその場を離れた。近くのレストランに入り、ひとりで遅い昼食を取った。ふとスマホを取り出し、部屋に設置してある室内カメラの映像を確認する。画面の中では、洋一が台所のテーブルに座り、不格好な料理をたくさん並べて、ひたすら私を待っていた。目の奥が、じわりと熱くなった。昔の私も、いつもあんな風にして彼の帰りを待っていたのだ。立場が完全に逆転してしまった今、あの頃の自分がひどく哀れに思えてならなかった。食事を終え、ショッピングモールをあてもなくぶらついた。夕暮れが深まり、すっかり夜になってから部屋へ帰った。洋一の姿はもうなかった。テーブルの上には、すっかり冷めきった料理だけが残されていた。かなりの量だった。彼なりに、随分と手間をかけたのだろう。でも私は一切手をつけなかった。家事代行の人を呼び、残さず全て片付けてもらった。それ以来、洋一が私の前に姿を見せることはなくなった。私の生活は少しずつ、本来の穏やかさを取り戻していった。そんなある夕方のこと。突然、有菜が私の部屋を訪ねてきた。見る影もなくやつれ果て、まるで幽鬼のようだった。彼女はふらつきながら私に近づき、しゃがれた金切り声を上げた。「消えなさい!洋一に、二度と近づかないで!あの人は私のものだと言ったじゃない。なんであんたが奪うの!」私は深く眉をひそめた。まともに相手にするつもりなど毛頭なかった。彼女の体を押し返し、外へ出そうとする。「帰ってください」しかし、その冷たい態度が火に油を注いだのか、有菜は突然発作を起こしたように体を震わせた。そしてそのまま、獣のように私に向かって突進してきた。「返して!あの人は、私のものなの!愛してるって言ってくれた!私だけだって言ったわ!なんでも私に話してくれたじゃない。なんで、なんでまだあんたのことを好きでいられるの!」有菜は突然顔を上げ、私を睨みつけた。その目の焦点は、ぞっとするほど合っていなかった。そのまま、ガラスを引っ掻くような不気味な声で笑い出した。「あの人は、あんたより私のほうを何度も抱いたのよ。だから、私が隣にいるべきなのよ……!」私は強い力で彼女を突き放した。心の底で、どこか哀れみさえ感じながら。「あなた、正気なの?」でも、私の言

  • 春に別れて   第8話

    息が詰まるような長い沈黙が続いた。このまま膠着状態が続くのかと思い始めた、その時。彼は突然、車のロックを解除した。私はドアを開け、外の空気を吸い込んだ。「今日はありがとう。今度、ご飯でも奢るわ」スーツケースを引き寄せ、私は振り返ることなく静かに自分の部屋へと上がった。シャワーを浴びて、髪を乾かし、ふとベランダから下を見下ろした。彼は、まだそこにいた。車の窓を少しだけ開け、煙草を挟んだ指先を、わずかに開いた窓から出している。しばらくの間、その姿は彫像のように動かなかった。私は見なかったことにして、カーテンを引いた。翌日、私は昼過ぎまで深い眠りに落ちていた。午後になり、ゴミを捨てにマンションの下へ降りると、洋一がそこに立っていた。ひどくやつれ、憔悴しきった様子で、両手には食材の入った袋を提げていた。きっと、朝からずっとあそこで待っていたのだろう。私が驚いて立ち尽くしていると、彼が先に口を開いた。「あっ、食材を買ってきたんだ。料理を作ろうと思ってさ。ずっと一緒にやりたいって言ってたこと、これから俺が全部叶えるから」私はその場から動かなかった。「仕事は?」彼は気まずそうに目を逸らした。「その、仕事は……急がないし、俺も……暇だから」私は、自嘲するように薄く笑った。昔、私は泣きながら彼に頼んだ。少しでも一緒にいてほしいと、すがりついて訴えた。でもその度に、「子どもっぽい」「重い」と突き放された。それが今になって、こうして私の後を追いかけてきている。仕事よりも大切なものがあることに、ようやく気づいたのだろうか。遅すぎた。あまりにも。私は顔を上げ、静かに告げた。「いいの。あなたにとっては、仕事の方が大事でしょう。早く戻って」彼は視線の置き場を失い、悔しそうに唇を噛んだ。「違う……ただ、お前のそばにいたいんだ」私が彼を愛してやまなかった頃は、何もかもが私より優先されていた。今更こんな甘い言葉を聞かされても、胸の中にはただ虚無感だけが広がっていく。私が何も言わずにいると、彼は勝手に私の部屋の台所へ入り、かつての私がそうしていたように、不器用な手つきで料理を始めた。手際は決して良くはなかった。ぎこちなく食材を刻みながら、彼は背中越しに続けた。「

  • 春に別れて   第7話

    洋一のもとを去った後、私は遠く離れた街へと向かった。そこでしばらくの間入院し、退院してからは周辺の街を転々と旅して回った。ある日、駅を出た途端にスーツケースのキャスターが壊れてしまった。折れた肋骨がようやく治ったばかりで、重い荷物を持ち上げることはまだできなかった。誰かに助けを求めようかと迷っていると、ふいにスーツケースの重さが消えた。ほっとして、横を向く。「あ、ありがとうございますっ」しかし、相手の顔を確認した瞬間、私の言葉は完全に凍りついた。そこにいたのは、何ヶ月ぶりかに見る洋一だった。彼は片手で私のスーツケースを持ち上げながら、かすかに震える声で言った。「……どう、いたしまして」私は少し間を置いて、激しく波打つ動悸を無理やりねじ伏せた。タクシーを呼ぼうとスマホを取り出し、画面を操作し始める。すると洋一が手を伸ばし、私の腕を掴んだ。縋るような、弱々しい声で問いかけてくる。「俺を見て……言うことは、何もないのか」私は静かに首を振り、再びスマホへ目を落とした。彼はあわてたように私の前に立ち塞がり、スマホの画面を手で塞いだ。そして、もう一方の手でスーツケースをしっかりと持ち上げる。「どこへ帰るんだ?すぐそこに車を停めてある。俺が送っていく」焦りを滲ませたような、それでいて昔と変わらない広い背中を見つめ、私は小さくため息をついて彼の後を追った。車のそばに立ち、少しだけためらってから後部座席のドアノブに手をかけた。開かない。顔を上げると、窓ガラス越しに洋一の視線とぶつかった。私はドアノブを指差した。「開かないんだけど」彼の暗い瞳の奥には、数え切れないほどの感情がどす黒い泥水のように渦巻いていた。しばらくじっと私を見つめた後、ようやくロックを解除するカチッという音が響いた。車の中に入ると、彼はもう私を見ようとはしなかった。ただ、静かな声でぽつりと言った。「薫、助手席にはまだ、お前の好きなキャラのシールが貼ってあるんだ」ちらりと視線を向けると、ダッシュボードの隅に少し色褪せたシールが残っていた。几帳面な彼が、例外として許してくれた、私たちのささやかな思い出の一つだった。でも、私は何も言わなかった。ただ今の住所を短く告げて、窓の外の景色へと目を向けた。

  • 春に別れて   第6話

    洋一はそのまま、玄関に立ち尽くしていた。どれだけの時間が過ぎたのかわからなかった。全身が鉛のように固まった。ふと、耳がわずかな音に反応した。廊下の向こうから、軽い足音がこちらへ近づいてくるのが聞こえた。息を潜めると、自分の心臓だけが耳障りなほど激しく打っている。振り返りざまに、縋るような声が出た。「薫、戻ったのか。ずっと探して……」しかし、言葉は喉の奥で無様に詰まった。目の前に立つ人物の顔を確認した瞬間、彼の表情が一気に底冷えするような暗さへと沈んだ。「……なんでお前なんだ。ここに何しに来た」有菜は満面の笑みを浮かべながら小走りで近づき、洋一の腕にべったりと絡みついた。「だって、会いたくなっちゃいましたよぉ。私のこと、いつでも来ていいって言ってくれたじゃないですか」洋一は全身を強張らせ、さりげなく腕を引き抜いた。彼女の方へ視線すら向けなかった。「今はまだ、勤務時間中だろう」有菜はあからさまに口を尖らせ、さらにぴったりと彼の肩に寄り添ってきた。その声には、はっきりとした不満がにじんでいる。「えー、いつでも休んでいいって言ったの、社長ですよね?昼も夜も働くなんて、絶対に御免です」そう不平をこぼしながら、有菜は上目遣いで洋一だけを見つめ、わざとらしく自分が穿いているスカートの裾を揺らし、彼の脚に軽く触れさせた。「ねえ社長、このスカート、私に似合いそうじゃないですか?着たら絶対かわいいと思いません?」洋一が疎ましげに視線を上げた瞬間、その表情が完全に凍りついた。彼は有菜の手首を、折れんばかりの力で強く掴み上げた。「誰がそれを着ていいと言った!それは……薫のために買ったものだと、わからないのか!」有菜が痛みに顔を歪め、甘えた声で小さく悲鳴を上げた。「痛っ……社長、痛いです……!奥さんの代わりに、私が試着してみたかっただけなのに……」彼女は力いっぱい振りほどき、手首を押さえた。洋一は数歩後ずさり、その顔をじっと睨みつけた。彼女の存在そのものに、ただひたすらうんざりしていた。有菜はまるで気づいていない様子で、ふと顔を上げると、そばにあったウェディングフォトに目を留め、嬉しそうに歩み寄った。そして写真を手に取り、自分に重ねるようにしてはしゃいでいた。「あ、社長、私たち

  • 春に別れて   第5話

    洋一は病室に飛び込み、室内を見回した。得体の知れない不安が胸に広がる。すぐに踵を返し、廊下を走ってナースステーションの看護師に詰め寄った。声が、自分でも止められないほど震えていた。「この病室の患者は、どこに行ったんですか!」看護師は彼の剣幕に顔を引きつらせて、思わず後ずさった。「お、落ち着いてください」彼女はパソコンの記録をちらりと確認し、続けた。「こちらの患者様はご自分で退院手続きを済まされて、朝一番で退院されましたよ」洋一は息を呑み、掴んでいた手の力をゆっくりと抜いた。全身の血が、一瞬にして凍りついていくようだった。「退院した……あんな体で、どうやって……それに、どこへ……」看護師もひどく困惑しているようだった。「私たちも全力で止めようとしたんです。でも、まったく聞く耳を持っていただけなくて。絶対に行くと言って譲らず、医師でも止められませんでした」洋一は喉を鳴らし、ひきつるように深く息を吸い込んだ。鉛のように重くなった足を引きずるようにして、再び病室に戻る。小刻みに震える手で、ベッドの上に残された離婚届を掴み上げた。目の中から、一切の光が消えていく。なぜ、彼女が去るんだ。なぜ、俺を置いて去ることができるんだ……!拳を握りしめる腕に、青筋が浮き上がった。離婚届を、力任せにぐしゃぐしゃに握り潰す。心の底から湧き上がる乱れを無理やり押さえつけ、彼はすぐに踵を返した。家へ駆け戻り、勢いよく玄関の扉を開け放つ。家の中は、不気味なほど静まり返っていた。彼女の服、彼女の靴、彼女の匂い――薫に関わるものが、家の中から何もかも消え失せていた。まるで最初から、この家に存在しなかったかのように。ただひとつ、リビングの壁には、自分と有菜が写ったあのウェディングフォトだけが、やけに鮮明に残されていた。息が詰まった。洋一はうめき声を上げ、壁からその写真を引き剥がした。空白になった壁を見つめて、彼は初めて気づいた。「ここには……薫と一緒に撮った写真があったのに」薫はいつも、あの場所に飾ってあった写真を大切にしていた。意味などないものだったかもしれないのに、彼女は定期的に埃を払い、それを見つめては満足そうに微笑んでいたのだ。洋一は立ち上がり、取り憑かれたように家の中を隅か

  • 春に別れて   第4話

    電話の向こうに落ちた沈黙のなかで、洋一もようやく異変に気づいたようだった。「どうした?」私は、壁に飾られたウェディングフォトをスマホで撮り、彼に送信した。「ちゃんと見て」再び沈黙が落ちる。やがて、深いため息が聞こえた。「送り先を間違えたんだろう」「間違いですって?じゃあ、有菜とウェディングフォトを撮ったのも間違いだと言うの?」洋一の口調は、少し困ったようだった。「会社に来い。説明する」通話が切れる。私はバッグを掴み、ふらつく足取りで家を出た。胸の奥が、きつく締め付けられた。公私のけじめだと言って、洋一はこれまで、私を絶対に会社へ来させなかった。まさか、その唯一の例外がこんな理由になるなんて、思いもしなかった。エレベーターに乗ろうとしたところで、見知らぬ社員に呼び止められた。「申し訳ありません、外部の方はオフィスに入れません。応接室でお待ちください」私が口を開きかけたその時、有菜が突然姿を現した。彼女は私の腕を引き、強引に中へ連れ込んだ。「大丈夫ですよ、私の知り合いですから」彼女はまるで自分がここの主であるかのように、我が物顔で振る舞っていた。連れ込まれた部屋で、有菜はグラスに水を注ぎ、私に差し出してきた。「社長は今、会議中です。少しお待ちくださいね」私はそれを受け取ることなく、ゆっくりと部屋の中を見渡した。ソファにはペアのパジャマが無造作に置かれていた。洋一のマグカップも、いつの間にかペアのものに変わっている。デスクの上には、ふたりで手作りしたと思われる小物が並んでいた。思わず、自嘲の笑みが口元を歪めた。結婚してから、私もずっと「一緒に何かを作りたい」と彼に言い続けていた。でも洋一はいつも気乗りしない顔をして、「時間がない」「また今度にしよう」と躱すばかりだった。結局、その願いが叶うことはなかった。今になって、ようやくわかった。彼はただ、「私とは」一緒に何かを作りたくなかっただけなのだ。有菜は私の視線に気づかないふりをして、笑いながら自分の荷物をまとめていた。「誤解しないでくださいね。私と社長は、何でもないんですから。奥さんが傷つくのもわかります。夫婦の時間も少なくて、寂しいんですよね。あとでちゃんと、社長に話しておきますから。でも、社長は体力がありま

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status