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春に別れて
春に別れて
作者: 桐谷

第1話

作者: 桐谷
夫の今野洋一(こんの よういち)はもともとそういう欲が薄く、夫婦の営みさえ、いつもきっちり時間を決めていた。

今日も、まさに夫婦の営みの最中だった――彼のスマホが、特別な着信音を響かせた。

漏れ聞こえてきたのは、若い秘書・筒井有菜(つつい ありな)の泣き声だった。

「社長、家の水道管が破裂して……怖くて……」

洋一は一瞬の躊躇もなく、さっとベッドから身を起こして服に手を伸ばした。

私・今野薫(こんの かおる)はシーツをきつく握りしめ、思わず手を伸ばして彼の腕にすがりついた。

「もう遅いし、まだ……終わってないわ」

「有菜には身寄りがない。上司として、見捨てるわけにはいかない」

彼は私と目を合わせることもなく、静かに腕を振り払い、淡々と乱れた襟元を直した。

「今日のノルマは果たした。不足分は、次に埋め合わせる」

私は、短く息を呑んだ。

――そうか。私との営みは、彼にとってただの「ノルマ」でしかなかったんだ。

彼が出て行ってから間もなく、有菜からメッセージが届いた。

送られてきた写真の中で、彼女は洋一の肩にそっと頭を預けていた。

【ほんとごめんなさい。ただ、怖くて。次は絶対、社長にお詫びさせますから。今夜はひとりで何とかしてね】

最後まで読み終えても、私は何も言わなかった。

静かに立ち上がり、シャワーを浴びた。シーツを洗い、新しいパジャマに着替えた。

そして、決心した。

――彼はもう、いらない。

……

深夜に差し掛かった頃、ドアノブがかすかな音を立てた。

洋一が帰ってきたのだ。

彼はやはり、私を見ようとはしなかった。

上着をハンガーに掛けると、そのままベッドに倒れ込んだ。

その体からは、嗅ぎ慣れない甘い香水の匂いが漂っていた。

私が寝返りを打つと、彼のスマホで通知音が立て続けに鳴っていることに気づいた。

そっと手に取ると、有菜からのメッセージだった。

【社長、今日は来てくれてありがとうございました。奥さん、怒ってないですよね?いつか直接謝りに行きます】

私は俯いたまま画面を見つめ、目を伏せた。

指先で静かにトーク履歴を遡る。

ふたりのやり取りは、曖昧さを通り越して露骨だった。洋一からの返信も、明らかに増えていた。私に向けるような冷たさは、そこには微塵もなかった。

喉の奥が、じわりと重く詰まる。

私は指先を動かし、静かに打ち込んだ。

【彼は寝ています。私は怒っていないので、また明日連絡してあげてください】画面を暗くして、スマホを彼の枕元に戻した。

自分の枕を抱え、ゲストルームへ移ろうと身を翻す。

その瞬間、手首を力強く掴まれた。熱い体温が、肌越しに伝わってくる。

私の足が止まった。

洋一は目を閉じたまま、夢うつつに呟いた。

「……っ。有菜、ここにいるよ」

彼の整った横顔を見つめながら、私は自嘲するように薄く笑った。

そして、静かに部屋を出た。

翌朝、ゲストルームの扉が乱暴に開け放たれた。

洋一は袖口を整えながら、低い声で詰め寄ってきた。

「なんで有菜にあんな真似をした。あの子はまだ若いんだ、傷つきやすいのがわからないのか!それに、彼女はただの新入り秘書にすぎない。なんのつもりで嫌がらせをする」

私はゆっくりと顔を上げ、怒りを滲ませた彼の瞳を見つめ返した。

「ただの秘書?そっか。隣で寝ていて、寝言で下の名前を呼ぶ上司もいるものね」

洋一の動きがぴたりと止まった。その表情がわずかに揺れる。

「俺と彼女は、ただの上司と部下だ。仕事で呼び慣れているだけだ。妻なんだから、少しは大目に見られないのか」

私は彼から視線を外し、静かに頷いた。

「ええ。これから、何度呼んでもかまわないわ」

彼はいきなり私の腕を強く掴み、語気を荒げた。

「俺と有菜は何もないんだ。薫、いい加減にしろ」

私は目を伏せ、彼の手から腕を引き抜いた。

指先で彼の襟元を直しながら、努めて穏やかな声で告げた。

「何もないのね。わかったわ。あなたは、部下のために生理用品まで買いに行く上司なのよね」

洋一の背筋が、ぴくりと強張った。さっと顔色が変わる。

彼は深く息を吸い込んだ。

「あいつは量が多くて、家の買い置きじゃ足りないから、俺が……」

私は手を止め、再び顔を上げた。

「気が利くのね。部下の体調までそこまで把握してるなんて」

実は最近、ずっと気づいていたのだ。それだけではない。

家の中には、見覚えのないキャラクターのマグカップや、口紅、片付け忘れた服まで現れるようになっていた。

ただ、私がいちいち口に出さなかっただけ。

洋一は眉をひそめ、苛立ったようにポケットに手を突っ込み、私を一瞥した。

「薫、もう何度も説明したはずだ。お前、おかしくなったんじゃないか?まったく話にならない」

言い終わると同時に、また彼のスマホが鳴った。

あの、深夜と同じ特別な着信音。

私は静かに言った。

「行ってあげて。行かなければ、またここへ泣きついてくるでしょう」

こんなことは、一度や二度のことではない。

洋一は何か言いかけて、一瞬だけ躊躇した。

それでも、彼は背を向けて出て行った。

私はゆっくりと、長く息を吐き出した。

俯いて、広げた地図にある小さな街の場所に、赤い丸をひとつ描き込んだ。

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