九条嗣道は雪のように静かな男だった。応接に通された老人は八十に近い。痩せて、品が良く、目だけが底の見えない井戸のように暗い。検察を半世紀、裏から束ねてきた男。総理を二人挿げ替えたと噂される男。その人がたった一人で、護衛もつけず、わたしの淹れた茶の前に座っている。護衛をつけない。その一点をわたしは読んだ。恐れていない。つまりこの訪問でわたしが何をしようと、自分は安全だと確信している。録音されても証言されても痛くない。司法そのものが彼の側にあるなら、当然だ。——だとすれば、わざわざ来た理由はひとつ。彼の方が、わたしから欲しいものがある。「父君は惜しい人だった」九条は静かに切り出した。「優秀すぎた。世の中には、知らないでいる方が長く生きられることがある。朝霧弁護士は、それを知りすぎた」「お悔やみなら、七年遅いです」わたしは座らなかった。「ご用件を。あなたが頭を下げに来る相手は、この国に何人もいないでしょう」九条の口元がわずかに動いた。笑みではない。値踏みだ。「君は、父君が遺したものを持っている」彼は茶に手をつけなかった。「あるいは、その在り処に近づいている。違うかね」そこだ。わたしは表情を動かさなかった。だが頭の中では、いま聞いた一文を分解していた。「持っている、あるいは在り処に近づいている」——確信があるなら、こんな両義的な言い方はしない。彼は知らないのだ。父が遺した“何か”が存在することは掴んでいる。だがそれがどこにあるか、わたしが既に手にしたのか、まだなのか——そこが見えていない。見えていないから、探りに来た。半世紀、影から国を動かしてきた男が、ひとりの新人弁護士の手の内を直接見に来るほどに。それが意味することは、ひとつ。父が遺したものは、九条嗣道を倒せる。「仮に」わたしは慎重に言葉を選んだ。「父が何かを遺していたとして。あなたは、それを買いに来た。いくらで?」「再審だ」九条は即答した。「朝霧誠一の無実。検察が自ら認める。それと——」彼は指を一本立てた。「氷室玲二の、実兄殺害の容疑。明日にも取り下げられる。私が一言、言えばいい」世界が、ほんの一瞬、傾いだ。父の無実。玲二の無罪。七年、求め続けたもの。それがこの老人の乾いた手のひらに載っている。差し出せば、わたしは何もかも手に入る。「失うものは何もない」九条はわたしの沈黙を読んで囁いた
Terakhir Diperbarui : 2026-06-27 Baca selengkapnya