로그인七年前、父が冤罪で逮捕された夜、朝霧澪は全てを失った。家も、名前も、信じていた人も。残ったのは、復讐だけ。弁護士となった澪の前に現れたのは、父を陥れた企業グループの総帥・氷室玲二。彼が突きつけたのは、三年間の契約結婚。報酬は五千万円と、父の事件の真相に繋がる証拠。復讐のために仇の妻となった澪だったが、氷室の冷たい仮面の下に隠された真実が、少しずつ明かされていく。彼は本当に敵なのか、それとも——。法廷サスペンスと禁断のロマンスが交錯する、七年越しの復讐劇。契約の先に待つのは、破滅か、それとも——。
더 보기シャンパンの泡が、わたしの未来みたいに弾けて消えた。
帝国ホテルの大広間。三百人の招待客。父を喪ってから七年、わたしが歯を食いしばって積み上げてきたものが、今夜ぜんぶ報われるはずだった。九条颯太との婚約披露。検察エリート一族への嫁入り。世間が"殺人犯の娘"と囁いた女が、ようやく光の側へ渡る夜。
ステージの中央で、颯太がマイクを取った。
「皆さん。今日は——大切なご報告があります」
わたしは微笑んで、彼の隣に進み出ようとした。
颯太は、進み出なかった。代わりに、片膝をついた。
わたしの足元ではなく。
——わたしの三歩うしろ、純白のドレスで立つ継妹、詩織の前で。
「詩織。僕と、結婚してください」
会場の空気が、音を立てて凍った。
詩織が両手で口を覆い、瞳に涙の膜を張る。練習したみたいに完璧な仕草で。「颯太さん……いいの? お姉ちゃんが……」
「君に隠していたことがある」颯太が立ち上がり、こちらを——わたしを、まっすぐ指さした。三百人の視線がいっせいに刃になる。「朝霧澪。この女の父親は、依頼人の金を横領し、それを隠すために人を殺して、獄中で死んだ詐欺師だ」
ざわめきが、波になって広がっていく。
「殺人犯の娘だ」誰かが囁いた。「道理で目つきがね」別の誰かが笑った。
スマホのレンズが、あちこちでこちらを向いた。録画の赤い点が、暗がりの中で何十個も灯る。明日にはわたしの顔がネットの隅々まで貼られるだろう。
わたしは、笑おうとした。弁護士だから。法廷で何を言われても顔を変えない訓練を、何百時間も積んできたから。
なのに、唇が震えた。
「颯太」声がかすれた。「父の事件は……冤罪だった。あなたなら、知ってるはずでしょう。検察の中にいるあなたなら——」
「冤罪?」颯太が鼻で笑った。「有罪判決は確定している。覆らない事実だ。——澪、君は優秀な弁護士だが、ひとつだけ向いていないことがある。負けを認めることだ」
詩織が、わたしの薬指から婚約指輪をそっと抜き取った。「お姉ちゃん、これ、わたしがもらうね」
頭の奥で、何かがぷつりと切れる音がした。
気づけばわたしは、広間を出ていた。裸足で、回転扉を抜けて、外へ。
雨だった。
七月の、生ぬるい夜の雨。ドレスの裾が一瞬で重くなる。七年かけて手に入れた"まともな人生"が、十分で消えた。
縁石に座り込みそうになったとき——目の前に、黒塗りの車が滑り込んできた。
後部座席の窓が、すっと下りる。
闇より暗い車内に、男がひとり。仕立てのいい黒のスーツ。氷で彫ったような目が、わたしを上から下まで捉えた。
わたしはこの男を、写真でしか知らない。だが、知っている。この国の経済欄でその名を見ない日はない男。冷酷で、無慈悲で、誰の前でも頭を下げないと言われる支配者。
そして——わたしが七年かけて、滅ぼすと決めた相手。
「乗れ」男が言った。命令だった。「風邪をひく」
「……結構です」わたしは雨の中で背筋を伸ばした。「あなたが誰だか知っています。あなたの車になんか、死んでも乗らない」
「朝霧澪。二十八歳。父親は朝霧誠一——弁護士。七年前、依頼人の資産横領と、その口封じの殺人で有罪。獄中で自死。残された娘は父の汚名を晴らすために弁護士になった」彼は手元の書類を見もせずに諳んじた。「——お前が今夜捨てられたのも、台本どおりだ。九条家は最初から、お前を継妹の踏み台にするつもりで婚約させた。気づいていたか?」
雨の音が、遠のいた。
「……なぜ」喉が干上がる。「なぜ、あなたがそれを」
男はドアを内側から押し開けた。隣の座席が、暗く口を開ける。
「氷室だ」彼は言った。「氷室玲二。——お前の復讐、俺が買おう」
氷室玖二は無罪。実兄殺害の真犯人として、九条颯太がその場で緊急逮捕された。九条嗣道には、贈収賄、証拠隠滅教唆、殺人教唆——半世紀分の罪状の捜査が始まった。彼の“静けさ”を恐れぬ検事たちが、地方から続々と動き出した。わたしへの綱紀調査も、告発が虚偽だったと判明し、撤回された。そして——朝霧誠一の再審が決定した。横領も、口封じの殺人も、その濡れ衣のすべてが晴れる道が開いた。七年。わたしはようやく、父の無実を証明した。法廷を出ると、雨が上がっていた。あの夜、わたしを捨てた雨と、同じ七月の空。けれど今日は、雲の切れ間から光が射していた。詩織が人混みの端に立っていた。証言を終えた継妹は、何かを言いかけ、結局、小さく頭を下げて去っていった。許しは、まだ遠い。けれど七年で初めて、わたしたちは同じ側に立った。それは、ゼロではなかった。玖二が隣に来た。もう、被告人ではない。もう、わたしが滅ぼすべき男でもない。「契約は」彼が静かに言った。「もう、お前を縛らない。父君の無実は証明された。お前は自由だ。氷室の名を捨てて、どこへでも行ける」七年越しの復讐は、終わった。契約は、その役目を終えた。わたしは鞄から一枚の紙を取り出した。あの夜、署名した契約書。三年、妻になれと記された、あの一枚。そして彼の目の前で、それを二つに破いた。「これで、契約は消えた」わたしは破片を見せた。「あなたがわたしに求めた二つ——弁護人として隣に立つこと、敵の懐に入ること。どちらも、もう果たした。契約は、ない」玖二の、氷の目が揺れた。「だから、ここから先は」わたしは彼の手を取った。雨上がりの光の中で。「契約じゃなく、わたしが自分の意志で言う。——もう一度、結婚して。氷室玖二。今度は、三年の期限も、報酬の一枚もなしで」長い、ながい沈黙のあと。氷の総帥が、初めて、何の計算もない顔で笑った。「条項は?」彼がかすれた声で訊いた。「ひとつだけ」わたしは答えた。「——もう、ひとりで盤に立たないこと。二人で立つこと」彼の腕が、わたしを抱き寄せた。今度は、宙で止まらなかった。七年前、わたしを生かしたのは、復讐だった。七年後、わたしを生かすのは——もう、復讐じゃ、なかった。〔第一部・完〕
詩織が証言台に立った。七年、わたしから奪い続けた女。今朝、わたしを刺した女。その手が震えながら、レコーダーを掲げた。颯太と九条嗣道の肉声が、法廷に響いた。三年前の、あの夜の会話。『——崖の件は、処理した』『玖一は、どこまで掘んでいた』『氷室の社印の件まで。朝霧の娘に渡る前に、潰しました』法廷の空気が凍りついた。颯太が立ち上がった。「黙れっ、それは……っ」その狼狽が、何よりの自白だった。そして——傍聴席の老人が初めて、口を開いた。「弁護人」九条嗣道の声は静かだった。半世紀、影から国を動かしてきた男の声。「その録音は、いつのものかね。三年前。録音の同意は? 違法に取得された会話は、証拠から排除される。それがこの国の法だ。——私が作った法だ」最後の一手。違法収集証拠の排除。録音を、法廷から消す。だがわたしはその一手を読んでいた。弁護人がわたしを見た。わたしは証言台から、静かに告げた。「九条さん。その録音単体なら、おっしゃるとおりです」わたしは言った。「でも、わたしは録音“だけ”を出していません。録音は、桐生氏の証言と、颯太検事の通行記録を、相互に裏づける一枚として出した。三枚は、互いに独立した経路で、互いを証明し合っている。一枚を排除しても、残る二枚が、排除された一枚の内容を、間接事実として立証します」一拍。「あなたが教えてくれた手口です。一枚の証拠は潰せる。でも、独立した三枚は潰せない。——七年前、あなたは父を、一枚のアリバイ潰しで葬った。今日のわたしは三枚で来ました」九条嗣道の、底の見えない目が、初めて——揺れた。「それと」わたしは続けた。「この法廷の外に、同じ三枚が複製されています。全国紙、日弁連、地方検察庁。わたしの合図が途絶えれば、自動で公開される。あなたが今、この法廷で何を排除しようと、外の三枚は止まらない。あなたが半世紀握り続けてきた“静けさ”は——今朝、もう、終わったんです」これは、弁護ではなかった。交渉だった。父が拒み、殺された取引。それをわたしは立場を逆にして、逃げ場を完全に塞いだ上で突きつけていた。半世紀、司法を操ってきた男は、自分が作り上げた法廷で、自分が築いた証拠の作法によって、初めて追い詰められていた。その日、すべてが、覆った。
東京地方裁判所、第一〇四号法廷。被告人席に、氷室玖二。検察側主任に、九条颯太。傍聴席の最前列に、車椅子の老人——九条嗣道が勝者の顔で座っている。弁護人席には、わたしが立てた追加選任の弁護士。そしてわたしは傍聴席ではなく、証人として廊下に控えていた。颯太の冒頭陳述は完璧だった。動機、機会、状況証拠。氷室玖二が兄を憎み、総帥の座を奪うために崖から突き落とした——三百人の前でわたしを切り捨てたときと同じ、淀みない弁舌で。開廷十分後、弁護側が新証拠の取り調べを請求した。「異議あり」颯太が即座に立った。「弁護側の証拠は、氷室玖二の妻——資格を停止された弁護士・氷室澄が収集したものだ。証拠偽造の調査対象者が集めた証拠に、証拠能力はない」来た。九条の本命の一手。わたしを毒の源にして、三枚すべてを枯らす狙い。弁護人が静かに答えた。「では、収集者本人を証人として尋問します。証拠の入手経緯を、宣誓のうえ本人の口から明らかにします。偽造でないことは、経緯が証明します」わたしは証言台に立った。宣誓し、語った。父が湖畔の小屋に七年前から託していたデータを、どんな言葉の手がかりで見つけ、どう奪取したか。一切の捻造の入る余地がない、その経緯を。法廷は水を打ったように静まった。経緯が具体的であればあるほど、偽造の主張は痩せていく。颯太の額に、汗が滲み始めた。「次の証人を」弁護人が言った。「桐生章吾」老いた恩師が証言台に立った。そして七年の罪を、すべて認めた。自らの破滅と引き換えに。「私は九条嗣道に脅され、朝霧誠一を嵌めました。そして三年前、九条颯太が氷室玖一氏を崖から突き落とすのを、この目で見ました」傍聴席の老人の、組んだ手が初めて動いた。颯太が立ち上がった。「桐生の私怨です。証言は信用できな——」「では、物証を」弁護人が一枚の記録を示した。「事故当夜、深夜二時。現場へ続く唯一のインターを通過した、九条颯太検事の公用車の通行記録。聞き込み先は、現場から十分の無人の漁港。深夜二時に、誰に、聞き込みを?」法廷がざわめいた。颯太の口が、開いて、閉じた。「最後の証人を」弁護人が言った。「朝霧詩織」颯太の顔から血の気が引いた。
午前八時四十分。公判まで、二十分。わたしは詩織と、裁判所の地下の喫茶室で向き合っていた。七年ぶりに、まっすぐに。奪われ続けた七年だった。この女に、父の死後の居場所を、婚約者を、弁護士資格を、何度も。憎しみは骨の髄まで沁みている。許せるわけがない。「なぜ、わたしに渡すの」わたしは訊いた。冷たく聞こえたかもしれない。「あなたはわたしを刺した。今朝、刺したばかりよ」詩織は両手で顔を覆った。「お姉ちゃんが、いつも、まっすぐだったから」嗚咽の隙間から、言葉が漏れた。「お父さんが死んでも、殺人犯の娘って言われても、絶対に折れなかった。わたしには、それができなかった。だから……欲しかったの。お姉ちゃんの持ってるものを、ぜんぶ。そうすれば、お姉ちゃんになれる気がして」——ああ、と思った。この女は、ずっとわたしを憎んでいたんじゃない。なりたかったんだ。なれなくて、奪うことしかできなかった。歪んでいる。歪んでいるけれど、それはわたしがいちばんよく知っている飢えだった。父を奪われた人間の、飢えだった。「録音を」わたしは手を差し出した。「証人として、法廷に立てる? 立てば、あなたは九条を裏切ったことになる。颯太の言うとおり、“消される番”が本当に来るかもしれない」詩織の手が震えた。それでも、彼女は鞄からレコーダーを取り出した。「立つ」涙でぐしゃぐしゃの顔で、彼女は言った。「お姉ちゃんの、妹として。……最後に、一回だけ」わたしはその手を取った。許したわけじゃない。七年は、そんなに軽くない。だがいま差し出された手を振り払えるほど、わたしは強くも、冷たくもなかった。「資格を停止されたのは、わたし」わたしは立ち上がった。頭の芯が、また氷のように冴えていく。「でも、弁護人はわたし一人じゃない」隣に、玲二がいた。「弁護人の追加選任を、開廷直後に申し立てる」わたしは言った。「主任は別の弁護士に立ってもらう。わたしは資格停止中でも、“証人”にはなれる。証拠の入手経緯を、証言台から語れる。——詩織の録音と、桐生の証言と、颯太自身の通行記録。三枚を、別の口から法廷に入れる」九条はわたしという駒を盤から外した。だが駒を外された盤の上に、わたしは別の三人を立たせる。父も、恩師も、継妹も——あの男が踏みつけてきた人間たちを、ぜんぶ。「行きましょう」わたしは詩織を見た。生まれて初めて