《冷酷なCEOが溺愛するのは「悪女」》全部章節:第 1 章 - 第 10 章

11 章節

第1話 祝福される裏切り

祝福の拍手が起こるはずだった、その瞬間だった。「朝比奈小春。お前との婚約を破棄する」その声に、会場は水を打ったように静まり返った。小春はゆっくりと顔を上げる。目の前には婚約者である門倉悠真。悠真の手は、その隣に立つ小春の異母妹・朝比奈千夏の肩を抱いていた。千夏はお腹をかばうように両手を添え、震えている。「お姉様……ごめんなさい」小春と千夏の視線が絡む。千夏の瞳の奥には隠しきれない優越感が滲んでいた。(この計画があったから、こんな格好をさせたのね)小春は自分の着ているドレスを見る。今日のために新しく仕立てると聞いたとき喜んだ自分を愚かに思った。はしたないほど肌の見えるドレス。(これでは本当に"悪女"だわ)会場に集まった医療関係者や財界人たちがざわめき始める。「やっぱり悪女だったか」「千夏先生を虐めていた話も本当だったんだ」「御堂先生も被害者だな」その囁きに小春は何一つ言い返さなかった。言い返せないのではない。言い返してはいけないのだ。.「千夏のお腹には俺の子がいる」小春の沈黙を抵抗だと思ったのか、悠真が迷いなく言い放つ。「俺は愛する女性と、その子どもを守りたい」会場から感動のため息が漏れる。「なんて責任感があるの」「素敵……」「悪女より可憐な聖女を選ぶなんて当然よね」誰も彼もが悠真と千夏を称賛し、小春を蔑む。その様子を見ながら、小春は静かに微笑んだ。「分かりました」小春のその一言に、悠真は眉をひそめる。「引き留めないのか」「引き留める理由がありませんもの」虚無感に飲み込まれそうだ。悠真との婚約は小春が生まれてすぐ、政略的に結ばれたもの。恋だったのかは分からない。それでも、大切な婚約者だった。小春は千夏を見た。正確にはその腹部を。(子ども……)子どもがいる以上、男と女の恋情の話ではない。一つの命がかかわる問題だ。「どうぞ、お幸せに……」「……なんだ、その態度は」淡々と返した小春の言葉に、今度は朝比奈家の当主であり、小春の父・朝比奈崇道が怒鳴り声が被さる。「なぜお前はいつもそう千夏にきつく当たるんだ」会場中の視線が小春へ突き刺さる。「千夏に謝りなさい!」「はい」小春は何の迷いもなく頭を下げた
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第2話 居場所を奪われて

「小春!」家族が帰ってきたと分かった直後、崇道の声が家中に響いた。夜勤務になっていた若い使用人が驚いて肩を震わせる。「大丈夫ですよ」「小春お嬢様……」「ごめんなさい。呼ばれたから、あとはお任せしますね」小春はガスの火を止めると、エプロンを外しながら玄関に急いだ。「お帰りなさいませ」頭を下げた小春の周りに上着や宝飾品が散らばる。「片付けておきなさい」継母の夏美の言葉に、小春は黙って頭を下げた。「お姉様。随分とみずぼらしい格好をしているけれど、さっきの素敵なドレスはどうしちゃったの?」顔を上げると、千夏の唇が愉快そうに歪んでいた。「着替えて片付けました」「へえ。どこに?」(どこにって……)「お部屋に……」「お前の部屋だが、千夏と悠真君の子どもの部屋に改装する」「え?」それなら自分の部屋はどこになるのか。反射的に小春は玄関脇の物置に目を向けていた。そんな小春を千夏が笑う。「お姉様にはお似合いだと思うけれど」千夏が首を傾げる。「邪魔なの」「え?」「夫の元婚約者が同じ屋根の下にいるなんて――胎教によくないから」夏美が千夏の肩を優しく抱き寄せる。「大丈夫よ。あなたと赤ちゃんは、私たちが守るから」夏美の顔は慈愛に満ちていたが、小春に向いた瞬間、その顔は敵意を剝き出しにする。敵意はいつものことだけど、何かが違う。小春の背筋が冷えた。その瞬間。「小春。今日限りで朝比奈家から出ていけ」崇道が冷たく言い放った。「……え?」「耳が遠くなったのか。出ていけと言ったんだ」思考が止まる。今まで何度も罰は受けてきた。食事を抜かれたこともある。真冬に庭で長時間立たされたこともある。それでも家を追い出されることは考えたことがなかった。「お前はもう要らん」「……要ら、ん?」思わず疑問の声が漏れた。要らない。そのたった一言で捨てられるとは思わなかった。必要とされていると思ったことはない。でもここは、小春が生まれ育った家だ。帰る場所がなくなる事実は、どんな罰よりも重い。「私が……あの、どこへ行けば……」「知るか」崇道は鼻で笑う。「お前は顔だけは無駄にいいんだ。女なのだから体を売れば生きていけるだろう」小春の肩が震えた。その言葉に傷ついたからではない。実の父親なのに、崇道が娘の自分に対して本気でそ
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第3話 豪雨の再会

豪雨は弱まるどころか、さらに勢いを増していた。小春は雨に打たれながら歩き続ける。傘はない。着替えもない。財布もない。コンビニに入ることさえできなかった。小春はスマートフォンの画面を開く。スタート画面に映った母・花乃の姿に視界が滲む。「お母さん……」亡き母を呼ぶ小春の細い声は豪雨の音で搔き消える。小春は花乃が生きていた頃を思い出す。両親は共に医者で忙しく、小春はいつも一人だった。寂しさはあったが、哀しくはなかった。休みの日は花乃が日頃の不在を埋めるようにずっと一緒にいてくれたから。崇道は花乃以上に家にいなかった。なぜ父は二か月に一度しか帰ってこないのか。その理由は花乃の死後、崇道が連れてきた夏美と千夏を見て分かった。崇道は浮気をし、外に子どもまで作っていた。その日から小春は“悪い子”になった。実際には何もしていない。千夏が「姉に虐められた」と泣き、崇道が「悪い子だ」と𠮟る。何もしていないと言えば、嘘を吐くなと罰を与えられる。罰が嫌だったから、小春は何も言えなくなった。(全ては……)崇道は自分の不倫を正当化するために花乃まで悪女にしたかった。小春が悪い子であるほど、周囲は「あの母親だから」と囁いた。やがて、悪い子は悪女へとなっていった。身に覚えのない罪がどんどん積み重なっていく。自分のせいで花乃まで悪く言われることが小春には何よりもつらかった。「お母さんの名誉だけは……取り戻したかったな……」小さく零れた声は激しい雨音にかき消される。その瞬間、視界が大きく揺れた。「……っ!」感じたのは熱さ。体が燃えるように熱い。それなのに震えが止まらない。小春は何日もまともに眠れていなかった。元々の重労働に加えて、婚約披露の準備をしなければいけなかった。食事もほとんど与えられない環境だったが、この数日は食べた記憶すらない。足元がふらついた。その瞬間、小春は死を意識した。「まだ……死んじゃ、だめ……」花乃の名誉を取り戻す。その誓いだけが小春を支えていた。しかし足は思うように動かない。ふらついた体を歩道のガードレールが支えてくれた。少しだけ。そう思ってガードレールにもたれかかった。冷たい雨が容赦なく小春の体温を奪っていく。遠くから車のライトが近づいてきた。だが、ぼやけた視界では
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第4話 冷酷CEOの誓い

小春を抱きながら樹が車まで戻ると、運転席から秘書の柳沢が降りてきた。「傘を」「今さらだ」樹が後ろのドアを見たため、柳沢はドアを急いで開ける。小春を抱えたまま器用に樹が車に乗り込む。樹が小春に向けた目を見て柳沢は戸惑った。優しい。もしくは、甘い。冷酷と言われる上司の意外な表情に柳沢の動きが止まったが。「出せ」その一言で慌てて柳沢は運転席に向かった。「空調を暖房で、最大にしろ」樹の指示に従いつつ、雨だからと車に用意しておいたバスタオルを樹に渡す。バックミラー越しに樹が割れ物を包むかのような慎重さで小春にバスタオルをかけるのを見る。「なんだ?」ミラー越しに樹と目が合う。「いえ、その……病院へ向かいますか」「……いや」樹は腕の中で意識を失っている小春を見下ろした。苦しそうな呼吸を繰り返している。異常なくらい痩せている。医者にみせる必要があることは素人でも分かる。だが。「自宅へ向かえ」「……は?」柳沢は耳を疑った。樹が女性を自宅へ連れ帰るなど、一度もなかった。相手が病人で人道支援の観点からかと考えたが、すぐに否定した。それならば救急車を呼ぶ。自宅に連れ帰るという選択のほうがおかしい。そう思ったとき、ヒュウッと細い音が小春の口から漏れた。次の瞬間に激しく咳込む。「社長、すぐに総合病院へ搬送した方が……」「ここから一番近いのは朝比奈総合病院だな」「あそこならば夜間の受付もやっておりますので」「あり得ない」吐き捨てるような低い声。激情を孕んだ声音に柳沢は言葉を失う。「彼女を朝比奈家に帰すわけにはいかない」樹の言葉に柳沢は理解した。帰す。つまり、この女性は朝比奈家のご令嬢。皮膚科医で美容アドバイザーの称号を持つ朝比奈千夏は知っている。知らない顔ということは。「彼女が、例の悪女と言われる……」「柳沢」樹の静かな声にゾッとし、柳沢は急いで謝罪した。「会社が契約している病院へ……」「そこにも情報は流れる」樹は考え、スマートフォンを取り出した。数分後、樹の自宅に医者がすぐ派遣されることになった。その間も樹の視線は小春から離れなかった。熱で苦しいのか、小春は小さく眉を寄せる。「……い」小さな声。樹は小春の口元に耳を寄せる。「……ごめんなさい……」か細い声が漏れた。
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第5話 診断された真実

小春の浅く荒い呼吸を聞きながら、樹は窓の外をじっと見ていた。雨粒がガラスを激しく叩き続ける。「樹様、先生がいらっしゃいました」「お待たせしました」部屋へ入ってきた初老の医師は、ベッドで眠る小春を見るなり表情を引き締めた。「診察します」樹は無言で一歩下がる。医師は手際よく熱を測り、瞳孔を確認し、聴診器を当てていく。診察が進むにつれ、その眉間の皺は深くなっていった。「……これは」静かな声が漏れる。「どうした」樹の問いに、医師は樹に顔を向ける。しかしすぐには答えない。言葉を探しているようだ。「かなり栄養状態が悪いですね」医師は小春の細い手首へ視線を落とした。「ただ痩せているだけではありません。長期間、まともな食事を摂れていなかったと思われます」樹の瞳が細められる。「感染症の確認もしたほうがよいでしょう」医師は考える仕草をする。「麻疹か、何か……日本では予防接種がありますから……」“日本では”。その言葉で樹は医師が小春を外国籍、痩せ具合から貧困地域の者だと勘違いしたことが樹には分かった。栄養失調。医者一族の娘に出るとは思えない診断。それどころか、現代の日本においてはあまり聞くことはない。聞くとすれば。(……虐待)「彼女は日本人だ。確認したわけではないが、小学三年くらいまでの予防接種は受けているだろう」「安全のため検査は行います」医師は手際よく採血をする。あまりにも細い腕に樹は眉を寄せた。「意識がないのは高熱だけが原因ではないでしょう。栄養状態も悪く、おそらく疲労も溜まっているかと」医師の声に痛ましさが滲む。「あと数時間発見が遅ければ、命に関わっていた可能性もあります」樹は目を閉じる。「……そうか」短い返事。しかし、その声はいつもより低かった。「それと」医師は左手をそっと持ち上げる。「この左腕ですが……昨日今日にできたものではありませんが、肘の関節に歪みがあります」「痛みがあるのか」「おそらく。日常ではなくても重いものを持つなどしたときは痛みがあったでしょう」「……治るのか」樹の質問は当然のものだが、医師は微かに視線をそらした。「完全に戻るのは難しいでしょう。外傷、おそらく骨折だと思いますが、適切な治療は受けたもののリハビリが不十分だったと思われます」樹は黙って小春の左腕を見つめ
last update最後更新 : 2026-07-02
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第6話 帰る場所がないなら

小春が目を覚ましたのは、翌日の昼過ぎだった。見慣れない天井が視界いっぱいに広がる。(ここは……?)体を起こそうとした瞬間、全身に重だるさが走る。「っ……」思わず顔をしかめる。そのとき。「無理をするな」低い声が聞こえた。小春は驚いてそちらに顔を向ける。一人の男性が座っていた。整った顔立ち。感情を読み取らせない鋭い眼差し。その人物を見た瞬間、小春の表情が凍りつく。雑誌では黒いスーツばかりだったけれど。「篠原……社長、ですか?」丸首シャツに濃紺のジャケットを羽織ったラフな姿だが間違いない。『冷酷』として知られる篠原樹が、なぜ自分の前にいるのか。小春には理解できなかった。「そうだ」小春が戸惑っていることが分かったのか。樹の答えは短かく、明確だった。「私は……」「雨の中で立っているところを見つけ、近づいたら倒れた」小春はゆっくりと昨日の記憶を辿る。家を追い出された。豪雨の中を歩き続け、体が熱くなったことは覚えている。でもそこまで。窓の外は明るい。夜ではない。日差しもあるということは、雨も止んでいるということ。一日近く眠っていたのだ。迷惑をかけてしまった。「……っ」小春は頭を下げようと慌てて体を起こそうとしたが、起きることができない。頭が大きく揺れて、吐き気さえする。「何をしている!」「あ……の……」揺れを抑えるために頭にあてた小春の手に樹は自分の手を重ねる。「痛むのか?」「あ……」「……まずは水分を摂ったほうがいいな」そう言うと樹はストローを小春に差し出す。そんなことをさせてしまった申し訳なさから小春は一口飲んだ。それで体は水分不足だと気づいたらしい。気づけば介護用カップの中の水を全て飲んでいた。.「ご迷惑をおかけしました」「気にすることはない。体調は?」悪い。でも、それを言える状況ではない。「大丈夫です」「どこがだ」小春の答えに樹の眉間にしわが寄る。「すぐに帰りますので……」気丈に見えるよう、笑おうとした。しかし、浮かんだ表情は泣いているとも見える曖昧なもので。「帰る?」樹の声がわずかに低くなる。「帰る場所があるのか」小春の表情が曖昧なまま固まった。「それは……」言葉が続かない。帰る家は失った。答えが見つからない。「帰れるか、帰りたいのか分から
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第7話 温かい食事

――お前を傷つける者は誰一人として近づけさせない。樹の言葉に小春は返事ができなかった。そんなことを言われたのは初めてだった。家族から与えられるものは命令と罰ばかりだった。家族になるはずの婚約者から与えられたのは別れだった。自分のことは自分で守るしかない。それが小春にとっての当たり前だった。.「……ありがとうございます」ようやく絞り出した声は小さかった。「ご推察の通り、今の私に帰れる場所はありません」小春は唾を飲み込み、布団の中の手を強く握った。「しばらく置いてくださるととても助かります」「……そうか」樹の声は事実として受け入れるような響きがあった。小春の拳が緩む。「ですから、働かせてください」樹の表情が怪訝なものになる。「ご厚意だけ受け取るわけにはいきません」樹の表情は変わらない。言っている意味が分からないという表情だ。「掃除でも洗濯でも料理でも、私にできることなら何でもします」「その必要はない」「でも……」「ここは使用人がいる」即答だった。「それでは……」小春は俯く。恩を受けるだけという状況が落ち着かなかった。役に立たなければ罰を受ける。そう思う癖が身についてしまっていた。「役に立たなければ……」「役に立つ必要はない」樹は言葉を止める。「いや、その言葉は正しくないな」樹は小春を見る。「役に立とうと考える必要はない」樹の声は静かだった。しかし、有無を言わせない強さがあった。「まずは体を治せ」「ですが」「焦るな」叱責が滲む樹の声に小春は「でも」を飲み込む。そんな小春に樹は目元を緩める。「身体を治しながら、ゆっくり気づけばいい」「……気づく?」不思議な表現に小春は首を傾げる。「自分にできること」樹は小さく口角を上げた。「自分のやりたいこと」「……やりたいこと」思いがけないことを言われた。「どちらにせよ、まずは身体を治すことだ」「あ……」「これは命令だ」小春は思わず口を閉じる。命令。その言葉に胸が小さく震えた。反射的に「はい」と答えそうになる。「やはり……命令されることには慣れているようだな」樹がぽつりと呟く。小春ははっとした。「違います」反射的に否定の言葉が出てきて、次の瞬間に浮かんだのは崇道の顔。要らないといって自分を捨てたときの表情。「
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第8話 迎えに行くべきだった

小春が食事を終えると、篠原樹は空になった器を静かに見つめた。「全部食べたな」「……はい。ごちそうさまでした」小春は小さく頭を下げる。その姿を確認すると、樹は短く「今日は休め」とだけ告げて部屋を後にした。扉が閉まる音を聞き、小春は深く息をつく。(……不思議な人)樹のことを詳しく知っていたわけではない。冷酷な男。それは、先代である父親から篠原グループを継いだあと樹が従業員を大量に解雇したことに由来している。その中には親族も含まれ、身内でも容赦のない男だと今も恐れられている。(あの顔立ちもその一因だと思う)美しい顔にじっと見つめられると居た堪れなくなる。そう思って気づく。小春は冷酷さはもちろん、恐ろしいと思ったことさえない。先ほどまでこの部屋にいた樹は小春にとって。(普通の人……だった)ハッとして、慌てて付け足す。(もちろんいい意味で)◇◇◇一方、廊下へ出た樹を秘書の柳沢が待っていた。樹は視線だけで「ついてこい」と告げ、足早に小春のいる客間から遠ざかった。「社長」客間から離れたところで柳沢は口を開く。「調べろ」樹は歩みを止めない。「朝比奈家を徹底的に、だ」樹の目に冷たい怒りが炎のように揺らぐ。それを見た柳沢は黙って頷く。「朝比奈崇道、夏美、そして千夏。朝比奈総合病院の経営、スタッフ、資金の流れ。噂話は真偽を問わない。全て探れ」「畏まりました」「屋敷の警備は?」「指示された通り、母屋の警備員を倍にしました」「今はそれでいい。彼女が動けるようになったら屋敷全体の人員を増やす。準備しておけ」柳沢はすぐにメモを取る。樹は続けた。「それと、小春にはこの屋敷の警備体制を知られないようにしろ」「……畏まりました」このことを知ったら保護した女性は驚くに違いないと柳沢は思った。元からこの屋敷の警備は厳重だった。それを倍にしたことで国家の要人か亡国の王族でも保護したような物々しさになっている。「失礼いたします」柳沢が一礼して立ち去り、樹は書斎へ入った。机の引き出しを開ける。そこには一枚の写真があった。病院のベンチに座る、白い三角巾で左腕を吊った少女。まだ少女の朝比奈小春。幼くも美しい容姿をした少女の儚げな様子は絵本の挿絵にでもなりそうだが、現実と思うと胸の痛みしかない。「まだ笑えないか」樹は苦
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第9話 初めての笑顔

翌朝、小春は鳥のさえずりで目を覚ました。穏やかな朝の音で目覚めるのはいつ以来だろう。ゆっくりと身体を起こす。ふらつきはない。熱は下がったようだが、まだ少しだけ体が重い。小春は部屋を見回す。(昨日は……夢じゃなかったんだ)見慣れない部屋。上質な家具。窓の外には手入れの行き届いた庭が広がっている。  コンコン。控えめなノックが響いた。「失礼いたします」入ってきたのは橘だった。小春を見て微かに驚いたようだが、すぐに微笑を浮かべる。「お身体の調子はいかがですか?」「大丈夫です」橘の表情が変わり、何かを探るような目になる。思わず。「倦怠感はありますけれど……」正直に言うと、橘の表情がまた微笑みに変わった。嘘は許されない。(ううん、違う)カーテンを引き、日光を部屋に入れてくれる橘を見ながら小春は思う。(嘘を吐く必要はない、ということだ)「今朝はおかゆをご用意したのですが、食べられそうですか?」小春は頷く。「あの、昨日のお雑炊もとても美味しかったです。ありがとうございました」小春の言葉に橘は軽く目を瞠ると、優しく微笑む。「お気に召していただいて嬉しいです」橘は姿勢を整えた。「改めまして、橘と申します。この屋敷で家政を預かっております」「朝比奈小春です。このたびは、ご迷惑をおかけして申し訳ありません」小春は慌てて姿勢を正し、頭を下げた。「ところで、お好きな色はございますか?」「色、ですか?」「ええ。系統でもいいのですよ。赤系とか青系とか」質問の意図は分からなかったが、聞かれたので赤と答える。「鮮やかな赤というより、淡い赤のほうがお好きな感じがしますね」「そうですね。原色に近い強い色は少し苦手です」婚約破棄されたときに着ていたドレスを思い出す。血のような深い赤は毒々しかった。「それでしたらピンクでお部屋を準備しますね」「……部屋?」小春が首を傾げると、橘は頷く。「このお部屋は客間なので、お部屋を準備させていただきました」「そんな、わざわざ……」橘が首を傾げる。「樹様から朝比奈様はしばらくここで暮らすとお聞きしましたが?」「そうなのですが……」置いてほしいと言った。暮らすと言われると少しニュアンスが違う気がした。「でしたらやはり移動をしましょう。客間はどうにも落ち着きませんからね」
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第10話 また、笑った

朝食を終えた小春は落ち着かなかった。(このまま何もしないなんて、やっぱり無理……)ベッドで休んでいるだけ。身体のことを考えると、それはありがたいことだ。しかし、どうしても居心地が悪い。ここは朝比奈家ではないと分かっている。熱があっても家事を休むことは許されなかった朝比奈家とは違う。それどころか熱があるのに家事をしたら叱られてしまいそうだ。  コンコン。扉を叩く音に「どうぞ」と返事をすると、橘が部屋へ入ってきた。「お部屋の準備ができました」橘はサイドテーブルに視線を向け、どの皿も空であることに満足したような顔をする。「しっかり食べられましたね」食事しただけで褒められる。どうにもむず痒い。「あの……」「なんでしょう」「もう動くこともできるので、私にも何か……」「まあ、それはようございました」何かやることがほしい。その言葉は橘の明るい声で遮られる。「それでしたら、お屋敷を案内しながらお部屋に向かえますね」「そうではなくてですね……」橘が首を傾げる。「やはり樹様をお呼びして運んでいただいたほうがよろしいですか?」「え?」「車椅子もありませんし、あったとしても上の階になるのでお姫様抱っこになりますが」「おっ……!」お姫様抱っこ。強烈な単語に小春は思わず大きな声を出してしまった。そんな小春に橘が微笑む。「分かりますわ。お姫様抱っこは乙女の夢ですものね」「ち、違……っ!」「樹様をお呼びしましょう。そろそろウェブ会議も終わるでしょうし」「た、橘さん!」いまにも弾んだ足取りで部屋を出ていきそうな橘を慌てて止める。「歩きますので」「でも……」納得しない表情の橘に、言葉が違うと気づく。「歩きたいので」「分かりました」橘が扉から離れて戻ってきたことに小春はほっとした。◇◇◇廊下へ出る。白木の壁と深みのある床板が整然と続く光景に思わず感嘆の吐息が漏れる。連なる大きな窓からは庭が見える。建物の趣に寄り添うように整えられた庭。和風と簡単に言えないのは、ところどころに西洋の意匠が散りばめられているからか。石灯籠の隣にはアイアンのガーデンチェア。和を感じさせる植栽の奥には、低く刈り込まれた西洋風のボーダーガーデン。「素敵……」白砂利の小径は和庭らしい落ち着きがある。小径は先のほうでレンガ
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