ログイン婚約者を義妹に奪われた日――私は家族にも捨てられた。 父は邪魔になった私を勘当し、豪雨の中へ追い出した。 行く場所も生きる希望も失った私を救ってくれたのは、冷酷と噂されるCEO・篠原樹。 「ここにいろ」 その一言から、私の人生は少しずつ変わり始める。 誰にも必要とされないと思っていた私を、彼は何も求めず守り、私自身も気づいていなかった"本当の価値"を見つけてくれた。 一方、私を捨てた朝比奈家では大きな誤算が起きていた。 昏睡状態だった父の後見人が目を覚まし、隠し続けてきた嘘が少しずつ崩れ始める。 「悪女」と呼ばれ続けた私。 けれど、本当に悪かったのは誰なのか――。
もっと見る祝福の拍手が起こるはずだった、その瞬間だった。
「
その声に、会場は水を打ったように静まり返った。
小春はゆっくりと顔を上げる。
目の前には婚約者である
悠真の手は、その隣に立つ小春の異母妹・
千夏はお腹をかばうように両手を添え、震えている。
「お姉様……ごめんなさい」
小春と千夏の視線が絡む。
千夏の瞳の奥には隠しきれない優越感が滲んでいた。
(この計画があったから、こんな格好をさせたのね)
小春は自分の着ているドレスを見る。
今日のために新しく仕立てると聞いたとき喜んだ自分を愚かに思った。
はしたないほど肌の見えるドレス。
(これでは本当に"悪女"だわ)
会場に集まった医療関係者や財界人たちがざわめき始める。
「やっぱり悪女だったか」
「千夏先生を虐めていた話も本当だったんだ」
「御堂先生も被害者だな」
その囁きに小春は何一つ言い返さなかった。
言い返せないのではない。
言い返してはいけないのだ。
.
「千夏のお腹には俺の子がいる」
小春の沈黙を抵抗だと思ったのか、悠真が迷いなく言い放つ。
「俺は愛する女性と、その子どもを守りたい」
会場から感動のため息が漏れる。
「なんて責任感があるの」
「素敵……」
「悪女より可憐な聖女を選ぶなんて当然よね」
誰も彼もが悠真と千夏を称賛し、小春を蔑む。
その様子を見ながら、小春は静かに微笑んだ。
「分かりました」
小春のその一言に、悠真は眉をひそめる。
「引き留めないのか」
「引き留める理由がありませんもの」
虚無感に飲み込まれそうだ。
悠真との婚約は小春が生まれてすぐ、政略的に結ばれたもの。
恋だったのかは分からない。
それでも、大切な婚約者だった。
小春は千夏を見た。
正確にはその腹部を。
(子ども……)
子どもがいる以上、男と女の恋情の話ではない。
一つの命がかかわる問題だ。
「どうぞ、お幸せに……」
「……なんだ、その態度は」
淡々と返した小春の言葉に、今度は朝比奈家の当主であり、小春の父・朝比奈崇道が怒鳴り声が被さる。
「なぜお前はいつもそう千夏にきつく当たるんだ」
会場中の視線が小春へ突き刺さる。
「千夏に謝りなさい!」
「はい」
小春は何の迷いもなく頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
誰もが驚いた。
傲慢で自分勝手。
いつも家族を困らせていると言われている悪女が、あっさりと謝罪したからだ。
騒めきが戸惑いになる。
その瞬間――。
「お腹が……」
千夏が倒れ込んできて、小春の左腕を強く掴んだ。
幼い頃に負った怪我の後遺症がある場所。
「……っ!」
強い痛みが走り、咄嗟に振った腕に千夏が大きく悲鳴を上げる。
「千夏先生が!」
誰かの声で、会場は一斉に小春を非難しはじめる。
千夏の体は悠真が抱き留めて大事なかったが、力が抜けたように悠真に寄り掛かる。
「君という女はっ!」
悠真の怒りが小春に向く。
自分は何もしていない。
そう仕向けたのは千夏だ。
でも、小春の声を聴いてくれる者はいない。
「……申し訳ありません」
だから謝るしかできなかった。
それでも。
「心がこもっていない!」
「だから悪女なんだ!」
小春を責める声は強くなるばかり。
小春は知っていた。
どんな言葉も、どんな態度も、この人たちには届かない。
でも否定はしない。
悪女。
それが与えられた小春の役目だから。
「小春、下がりなさい」
父親の幕引きの言葉に小春は内心ため息を吐いた。
◇◇◇
小春が去った会場は、悠真と千夏の婚約を祝うパーティーになっていた。
悠真は千夏の肩を抱き寄せる。
「千夏、俺と結婚してくれ」
「もちろんよ」
再び拍手が起こる。
そんな会場を、端に立って鋭い眼差しで見つめる男がいた。
経済界でも社交界でも『冷酷』と恐れられる男――篠原樹。
「とんだ茶番だな」
樹はグラスを傍のテーブルに置くとパーティー会場を後にした。
「お嬢様、お体が冷えてしまいます。そろそろお部屋にいきましょう」橘に声を掛けられ、小春は名残惜しそうに子猫の頭を撫でた。「また来るね」子猫は「にゃあ」と短く鳴くと、植え込みの中へ駆けていく。その姿を見送りながら、小春は自然と頬を緩めた。「可愛らしい」橘が穏やかに言う。「そうですね」小春は同意するように応えたが、橘が可愛らしいと言ったのは子猫でなく小春である。このくらい気負わない自然の微笑みだった。「次はカメラを持ってまいりましょう」そこまで気に入ったのか。思わず笑い声が出て、小春は自分が笑っていることが照れ臭くなった。視線を逸らす。笑うのに慣れない。朝比奈家では笑うことさえ忘れていた。笑えば「悪女が媚びている」と嗤われる。それで笑わないでいると「可愛げがない」と怒られる。いつしか感情を表に出さないことが当たり前になっていた。「戻りましょう」橘に促され、屋敷へ入ろうとした。そのとき、一台の黒い車が門を潜ってきた。小春は反射的に身を固くする。朝比奈家からきた車かもしれない。そう考えると胸が締めつけられた。「お嬢様」背中に温かい手の感触。顔を上げると橘が優しく笑っていた。視線を車に向けると、いつの間にか来ていた柳沢が運転手から分厚い封筒を受け取っていた。「部屋に行きましょう」「あの……」「私たちの自信作ですので、ぜひ」◇◇◇「失礼します」柳沢は分厚い封筒を持って樹の書斎に入った。そして深く頭を下げる。樹はすぐに察した。「何があった」柳沢を見る。柳沢は不注意で小春を怯えさせてしまったことを詫びる。「朝比奈家の迎えだと思ったか」樹は顔をしかめる。「彼女を守れ。何があろうと朝比奈家には渡さない」柳沢はしっかり頷いた。「朝比奈家の資料です」朝比奈総合病院の経営状況。朝比奈崇道の人脈。夏美や千夏の交友関係。「朝比奈小春を『悪女』などと言っているのは社交界だけだ」小春は小学校から高校までずっと公立校に通っていた。学生時代の成績は常に上位。素行にも問題は見当たらない。むしろ教師からの評価は高く、ボランティア活動にも積極的だった。「……なぜだ?」樹の視線が一枚の資料で止まる。先日の小春の婚約発表のSNSの投稿。婚約中に不義を働いた男とその浮気相手の妹を『真実の愛』と褒めそやし
朝食を終えた小春は落ち着かなかった。(このまま何もしないなんて、やっぱり無理……)ベッドで休んでいるだけ。身体のことを考えると、それはありがたいことだ。しかし、どうしても居心地が悪い。ここは朝比奈家ではないと分かっている。熱があっても家事を休むことは許されなかった朝比奈家とは違う。それどころか熱があるのに家事をしたら叱られてしまいそうだ。 コンコン。扉を叩く音に「どうぞ」と返事をすると、橘が部屋へ入ってきた。「お部屋の準備ができました」橘はサイドテーブルに視線を向け、どの皿も空であることに満足したような顔をする。「しっかり食べられましたね」食事しただけで褒められる。どうにもむず痒い。「あの……」「なんでしょう」「もう動くこともできるので、私にも何か……」「まあ、それはようございました」何かやることがほしい。その言葉は橘の明るい声で遮られる。「それでしたら、お屋敷を案内しながらお部屋に向かえますね」「そうではなくてですね……」橘が首を傾げる。「やはり樹様をお呼びして運んでいただいたほうがよろしいですか?」「え?」「車椅子もありませんし、あったとしても上の階になるのでお姫様抱っこになりますが」「おっ……!」お姫様抱っこ。強烈な単語に小春は思わず大きな声を出してしまった。そんな小春に橘が微笑む。「分かりますわ。お姫様抱っこは乙女の夢ですものね」「ち、違……っ!」「樹様をお呼びしましょう。そろそろウェブ会議も終わるでしょうし」「た、橘さん!」いまにも弾んだ足取りで部屋を出ていきそうな橘を慌てて止める。「歩きますので」「でも……」納得しない表情の橘に、言葉が違うと気づく。「歩きたいので」「分かりました」橘が扉から離れて戻ってきたことに小春はほっとした。◇◇◇廊下へ出る。白木の壁と深みのある床板が整然と続く光景に思わず感嘆の吐息が漏れる。連なる大きな窓からは庭が見える。建物の趣に寄り添うように整えられた庭。和風と簡単に言えないのは、ところどころに西洋の意匠が散りばめられているからか。石灯籠の隣にはアイアンのガーデンチェア。和を感じさせる植栽の奥には、低く刈り込まれた西洋風のボーダーガーデン。「素敵……」白砂利の小径は和庭らしい落ち着きがある。小径は先のほうでレンガ
翌朝、小春は鳥のさえずりで目を覚ました。穏やかな朝の音で目覚めるのはいつ以来だろう。ゆっくりと身体を起こす。ふらつきはない。熱は下がったようだが、まだ少しだけ体が重い。小春は部屋を見回す。(昨日は……夢じゃなかったんだ)見慣れない部屋。上質な家具。窓の外には手入れの行き届いた庭が広がっている。 コンコン。控えめなノックが響いた。「失礼いたします」入ってきたのは橘だった。小春を見て微かに驚いたようだが、すぐに微笑を浮かべる。「お身体の調子はいかがですか?」「大丈夫です」橘の表情が変わり、何かを探るような目になる。思わず。「倦怠感はありますけれど……」正直に言うと、橘の表情がまた微笑みに変わった。嘘は許されない。(ううん、違う)カーテンを引き、日光を部屋に入れてくれる橘を見ながら小春は思う。(嘘を吐く必要はない、ということだ)「今朝はおかゆをご用意したのですが、食べられそうですか?」小春は頷く。「あの、昨日のお雑炊もとても美味しかったです。ありがとうございました」小春の言葉に橘は軽く目を瞠ると、優しく微笑む。「お気に召していただいて嬉しいです」橘は姿勢を整えた。「改めまして、橘と申します。この屋敷で家政を預かっております」「朝比奈小春です。このたびは、ご迷惑をおかけして申し訳ありません」小春は慌てて姿勢を正し、頭を下げた。「ところで、お好きな色はございますか?」「色、ですか?」「ええ。系統でもいいのですよ。赤系とか青系とか」質問の意図は分からなかったが、聞かれたので赤と答える。「鮮やかな赤というより、淡い赤のほうがお好きな感じがしますね」「そうですね。原色に近い強い色は少し苦手です」婚約破棄されたときに着ていたドレスを思い出す。血のような深い赤は毒々しかった。「それでしたらピンクでお部屋を準備しますね」「……部屋?」小春が首を傾げると、橘は頷く。「このお部屋は客間なので、お部屋を準備させていただきました」「そんな、わざわざ……」橘が首を傾げる。「樹様から朝比奈様はしばらくここで暮らすとお聞きしましたが?」「そうなのですが……」置いてほしいと言った。暮らすと言われると少しニュアンスが違う気がした。「でしたらやはり移動をしましょう。客間はどうにも落ち着きませんからね」
小春が食事を終えると、篠原樹は空になった器を静かに見つめた。「全部食べたな」「……はい。ごちそうさまでした」小春は小さく頭を下げる。その姿を確認すると、樹は短く「今日は休め」とだけ告げて部屋を後にした。扉が閉まる音を聞き、小春は深く息をつく。(……不思議な人)樹のことを詳しく知っていたわけではない。冷酷な男。それは、先代である父親から篠原グループを継いだあと樹が従業員を大量に解雇したことに由来している。その中には親族も含まれ、身内でも容赦のない男だと今も恐れられている。(あの顔立ちもその一因だと思う)美しい顔にじっと見つめられると居た堪れなくなる。そう思って気づく。小春は冷酷さはもちろん、恐ろしいと思ったことさえない。先ほどまでこの部屋にいた樹は小春にとって。(普通の人……だった)ハッとして、慌てて付け足す。(もちろんいい意味で)◇◇◇一方、廊下へ出た樹を秘書の柳沢が待っていた。樹は視線だけで「ついてこい」と告げ、足早に小春のいる客間から遠ざかった。「社長」客間から離れたところで柳沢は口を開く。「調べろ」樹は歩みを止めない。「朝比奈家を徹底的に、だ」樹の目に冷たい怒りが炎のように揺らぐ。それを見た柳沢は黙って頷く。「朝比奈崇道、夏美、そして千夏。朝比奈総合病院の経営、スタッフ、資金の流れ。噂話は真偽を問わない。全て探れ」「畏まりました」「屋敷の警備は?」「指示された通り、母屋の警備員を倍にしました」「今はそれでいい。彼女が動けるようになったら屋敷全体の人員を増やす。準備しておけ」柳沢はすぐにメモを取る。樹は続けた。「それと、小春にはこの屋敷の警備体制を知られないようにしろ」「……畏まりました」このことを知ったら保護した女性は驚くに違いないと柳沢は思った。元からこの屋敷の警備は厳重だった。それを倍にしたことで国家の要人か亡国の王族でも保護したような物々しさになっている。「失礼いたします」柳沢が一礼して立ち去り、樹は書斎へ入った。机の引き出しを開ける。そこには一枚の写真があった。病院のベンチに座る、白い三角巾で左腕を吊った少女。まだ少女の朝比奈小春。幼くも美しい容姿をした少女の儚げな様子は絵本の挿絵にでもなりそうだが、現実と思うと胸の痛みしかない。「まだ笑えないか」樹は苦