All Chapters of 息子を捨てた夫が、命で償った日: Chapter 1 - Chapter 10

18 Chapters

第1話

私、中原柚希(なかはら ゆずき)の六歳になる息子が、学校でコンパスを目に突き刺された。医師は言った。「失明するおそれがあります。お父さんにも連絡しておいてください」私は震える手で、夫の藤原悠真(ふじわら ゆうま)に電話をかけた。「湊がいじめに遭ったの。これから手術なの。お願い、すぐ病院に来て」電話の向こうはひどく騒がしく、女の笑い声まで混じっていた。悠真は気の抜けた声で言った。「今は距離を置いている。連絡してくるな」湊はストレッチャーに横たわり、血のこびりついた目元から涙を流していた。「お母さん、お父さんはもう僕のこと、好きじゃないの?」私は苦笑いを浮かべ、なだめるように言った。「お父さんは賭けに負けちゃったから、今だけ湊と距離を置いているの。好きじゃなくなったわけじゃないよ」湊はそれを信じた。私まで、危うく信じてしまうところだった。半年前、悠真は自分の誕生日パーティーで、ずっと心に残っていた女性、白石茉莉(しらいし まり)との賭けに負け、一年間、彼女と夫婦のふりをすることになった。私はその場で反対した。悠真は、いかにも正論のように言い張った。「賭けに負けた以上、約束は守るべきだ。人として、言ったことをなかったことにはできない。ここにいる全員が証人だ。俺たちは今までずっと潔白だった。だが今日から、茉莉が俺の妻だ。お前とお前の息子は、俺と距離を置け」息子の保護者会の日、彼は言った。「今は距離を置いている。連絡してくるな」私の母が亡くなり、葬儀の手配を手伝ってほしいと頼んだ時も、彼は言った。「今は距離を置いている。連絡してくるな」私が大きな交通事故に遭い、手術の同意書に彼の署名が必要だった時でさえ。返ってきたのは、やはり同じ言葉だった。「今は距離を置いている。連絡してくるな」車椅子に乗って会員制クラブまで彼を捜しに行くと、茉莉はちょうど彼の膝の上に座っていた。周りの人々は拍手しながら、面白がってはやし立てていた。「二人目!二人目!」悠真が笑って応じたその瞬間、私はついに堪えきれなくなった。彼は茉莉を抱き寄せたまま、私に顔を向けることすらしなかった。「賭けはまだ半年残ってる。俺たち夫婦が二人目を作る話に、部外者のお前が口を挟むな」茉莉は笑いながら彼をつね
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第2話

手術が終わったのは、五時間が経ってからだった。眼球はなんとか残せた。湊は泣き疲れ、病室のベッドの隅で体を丸めて眠っていた。私はその隙に、着替えを取りに家へ戻った。玄関のドアを開けた瞬間、私はその場に立ち尽くした。リビングはまるで空き巣に入られた後のようだった。引き出しはすべて開け放たれ、物が床一面に散乱し、その荒れようは主寝室の入口まで続いていた。中へ入ると、半年ものあいだ家に寄りつかなかった悠真が、クローゼットの前に片膝をつき、何かを探し回っていた。「何を探してるの?」私が尋ねても、彼は答えなかった。ただ黙って手を動かし続けている。息子のことを思い出し、私はもう一度口を開いた。「湊が学校でいじめられたの。明日、一緒に学校へ行って。今回ばかりは、本当にあなたが必要なの」私の服は床に投げ出され、高級な革靴で何度も踏みつけられていた。悠真は顔も上げない。明らかに上の空だった。「ああ、湊が学校で何かやらかしたのか?」まるで話が通じていなかった。目当ての物が見つからなかったらしく、彼は立ち上がると、その苛立ちをすべて私にぶつけてきた。「柚希、お前は本当に母親失格だな。俺は忙しいんだ。どうでもいいことで、いちいち俺を呼び出すな」そう言うと、彼はまた身をかがめ、自分の大事な物を探し始めた。つまり、担任からのあの電話を、彼は一言も聞いていなかったのか。それとも、そもそも気にも留めていなかったのか。あるいは、私からのメッセージなど読んですらおらず、息子がいじめられたことも、私が離婚を切り出したことも知らないのかもしれない。月明かりだけが差し込む部屋は、息が詰まるほど静まり返っていた。壁の時計の針が、耳元でかちかちと音を立てていた。普段なら、茉莉が悠真を家に帰すはずがない。案の定、長針が一周するかしないかのうちに、彼女から電話がかかってきた。専用の着信音が一小節も流れきらないうちに、悠真はすぐさま通話ボタンを押した。声は、別人のように優しかった。「どうした、茉莉?」相手が何かを言った途端、彼の顔色がみるみる険しくなっていった。「何だって?陽翔が学校でいじめられた?」悠真が額に青筋を浮かべるほど怒ることなど、めったにない。それを今日、私は他人のために目にした。「分かっ
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第3話

彼は悲鳴を上げ、鼻血が鼻の下を伝って流れ落ちた。私はそのまま彼を壁に押しつけた。その瞬間、私の体の中では、「母性本能」という名の感情だけが煮えたぎっていた。それが理性も恐怖も、何もかも呑み込んでいく。もう一度手を振り上げた時、視界の端で、悠真が息子を乱暴に引き寄せるのが見えた。乾いた音が、二度続けて響いた。彼は容赦なく、息子の頬を二発叩いた。「お前が俺の息子を叩くなら、俺は倍にしてお前の息子に返す。もう一度でも手を出してみろ!」湊は叩かれた勢いで顔を横に向けた。あまりに強く引っ張られたせいで、上着は肩までずり落ちていた。ぽたり、ぽたり。包帯ににじんだ血が目元を伝い、悠真の靴の上に落ちた。それは、声にならない涙のようだった。湊はその場に立ち尽くしたまま、泣きもせず、抵抗もしなかった。ただ、いつだって澄んで輝いていた瞳に、薄い靄がかかっていた。「悠真!」胸の奥で、何かが弾け飛んだ。けれど、彼がもう一度手を振り上げるのを見て、私は動きを止めるしかなかった。私が手を離したその瞬間、陽翔は唇を突き出し、私の顔に唾を吐きかけた。「ぺっ!腰抜け!」ほかのことなど、もう構っていられなかった。私は駆け寄り、息子を胸に抱きしめてかばった。こらえていた涙が、ついに落ちた。私は顔を上げ、真っ赤な目で悠真を見た。「あなたが茉莉と何をしていようと、私はもう何も言わない。あなたがよその女に料理を作ろうが、それもどうでもいい。でも、湊がいじめられたのに助けてくれないどころか、どうして赤の他人と一緒になって、この子まで傷つけるの?」彼は私を見なかった。陽翔の鼻血を拭くのに夢中で、痛ましそうに眉をひそめていた。その表情を見た瞬間、湊を産んだ時のことを思い出した。難産だったあの日も、彼は同じように眉をひそめ、私の手を握って言った。「お前と息子のどちらかに何かあったら、俺も生きていけない」あの人は、今も目の前にいる。けれど、すべてが変わってしまった。「どうして?」私は、どうしても納得できなかった。「もういい!」悠真が怒鳴った。「湊がけがをした件は、俺には事情が分からない。だが、陽翔が間違ったことをするはずがない。茉莉がきちんと育てているからだ。それに比べて湊はどうだ。お前が甘
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第4話

暖かな黄色い灯り。湯気の立つ料理。まるで夢でも見ているようだった。湊はまだ状況をのみ込めず、その場に立ち尽くしていたのに、悠真に手を引かれ、いつの間にか席に座らされていた。「ほら、お父さんの料理を食べてみろ」彼はスペアリブを一つ取り、細い両手を組んで、息子が食べるのをじっと見つめていた。その瞳に宿る光は、月明かりよりも優しかった。私がまだ呆然としているのを見ると、彼は慌てたように立ち上がり、私の手を取った。「なあ、もう怒るな。全部、俺が悪かった。湊がけがをしていたなんて知らなかったんだ。あの時は頭に血が上って、あんなことを言ってしまった。お前が嫌なら、この賭けはもう終わりにする。これからは、あいつらとも距離を置く」彼は歩み寄ろうとしていた。本当に、私たちに償おうとしているようにさえ見えた。けれど、その錯覚は一秒も続かなかった。彼のスマホが鳴った。画面に表示された「嫁」の文字を見た瞬間、彼は慌てて電話に出た。茉莉の泣き声が、受話口越しに聞こえてくる。「悠真、陽翔があなたを呼んでるの。泣いて、何も食べようとしなくて……私、どうしたらいいか分からない!」悠真は勢いよく立ち上がった。茶碗が皿にぶつかり、がちゃんと音を立てる。「柚希、謝ることは謝った。学校の件は、これで終わりにしよう。会社で少し用ができた。先に行ってくる。今夜は待たなくていい」結局、私たちにこれ以上追及させたくなかっただけなのだ。彼の大事な「息子」を守るために。彼はあまりにも慌てて出ていったせいで、服の裾がスペアリブの甘酢煮の皿に引っかかった。ぱりん。皿は粉々に割れ、とろりとしたソースが花火のように飛び散った。湊はしゃがみ込み、床に散らばったスペアリブを拾おうとした。私はその手首をつかんだ。「スペアリブはもういらない。お父さんも、もういらない。お母さんが外に食べに連れていってあげる」それから数日間、私は悠真に一度も会わなかった。息子のけがも、少しずつよくなっていった。ある日、湊は朝早くから起き出し、嬉しそうに私に抱きついてきた。「お母さん、今日は花おばさんの誕生日だよ。いつ行くの?」私はスマホを開いたが、佐伯花(さえき はな)からの連絡は来ていなかった。花は私のいちばんの親友だっ
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第5話

私は悠真に視線を向けた。彼は目を伏せ、食器をいじりながら、わざと私の視線を避けていた。私はその場を見渡し、一人ひとりの顔に目をやった。悠真のことは、何もないところから、私がここまで支えてきた。花の持ち株は、私が譲ったものだった。ここにいる幹部たちも、私が一人ずつ引き上げた人間ばかりだ。みんな、私が心から信じていた人たちだった。その最後に、私は彼らに寄ってたかって狩られ、骨までしゃぶり尽くされようとしている。笑える。要するに、私にはもう価値がないと思っているのだ。けれど彼らは忘れている。中核技術は、まだ私の手の中にある。「いいわ」私は笑ってうなずいた。「ただし、条件が一つある。悠真、私と離婚して」「認めない!」意外にも、悠真は激しく反応した。「俺は離婚しない」茉莉が慌てて彼の耳元に顔を寄せ、何かを囁いた。悠真は整った眉をわずかにひそめたあと、狼のような目で私を見据えた。「いい。離婚には応じる。ただし、条件を一つ加える。お前には一銭も渡さない」「いいわ。私も一つ加える。息子の親権は私がもらう」私は冷静に言った。「お前!」悠真は、私がここまできっぱりと言い切るとは思っていなかったのだろう。拳を固く握りしめたが、結局、何も言わなかった。離婚協議書に署名したその時、茉莉が私の耳元に顔を寄せた。「柚希、まさか中核技術を握っていれば、悠真があんたから離れられないとでも思っているの?あんたの二人の弟子なら、もうとっくに買収してあるわ。すぐにあんたは会社から追い出される。何もかも失って、身一つで放り出されるのよ」私はペンをテーブルに置き、笑った。「それなら、先にお祝いしておくわ」欲しかったものを手に入れると、私は息子の手を引き、振り返らずにその場を後にした。教えたのは、あくまで表に出してもいい部分だけ。いちばん大事なものまで渡すほど、私は愚かではない。中核技術の核は、私自身なのに。蓮と悠真の会社は競合関係にある。これまで悠真のために、私はあえて蓮とは距離を置いていた。けれど、今は違う。悠真をここまで押し上げられた私なら、蓮だって同じように押し上げられる。彼が泣きながら私に助けを求めてくる日を、楽しみに待つことにしよう。離婚協議
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第6話

私が黙り込んだままでいると、悠真は電話を手に取った。「渡辺弁護士、離婚協議書を作り直してくれ。今度は親権を争う……」「待って!」理性より先に、口が勝手に動いていた。「やるわ」「お母さん、だめ!」湊が止めようと駆け寄ろうとしたが、悠真のボディガードに力ずくで押さえつけられた。「湊、目を閉じなさい。お母さんからの命令よ」湊は昔から、私の言いつけをよく守る子だった。泣きすぎて息もできないほどなのに、それでも素直に目を閉じた。私の子。聞かないで。見ないで。これさえ耐えれば、お母さんがあなたを連れていけるから。大勢の視線が突き刺さる中、私はゆっくりと膝を折った。両手を地面につき、額が触れそうになるほど頭を下げる。頭上から、誰かの息を呑む気配と、押し殺した笑い声が降ってきた。悔しさで奥歯を噛みしめると、口の中に鉄の味が広がった。自分の声が聞こえた。まるで、誰か別の人間の喉から絞り出された声のようだった。「私、中原柚希は……母親として失格です……白石副社長……ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした……どうか、お許しください……」言い終える前に、茉莉が私の腕を踏みつけた。細いヒールが、骨の上でぐりぐりと押し込まれる。「ご飯でも食べてないの?もっと大きな声で言いなさいよ。ここにいる全員に、あんたがどんな女なのか聞かせてあげなさい」陽翔も私の顔に唾を吐きかけた。「ぺっ!価値のない女!」私は地面にうつ伏せになったまま、涙を床に落とした。それは唾と混ざり合った。その瞬間、ようやく分かった。茉莉が奪いたかったのは、私の結婚だけではなかったのだ。母親である私の尊厳まで、自分の手で踏みにじりたかったのだ。屈辱がどれほど続いたのか、もう分からなかった。私は地面に座り込んだまま、長いこと何も考えられずにいた。全員の注意がこちらに向いていた、その時だった。一人の男が、隙をついて会場に紛れ込んできた。次の瞬間、陽翔の悲鳴が響いた。「お父さん、助けて!」男は鋭い刃物を手に、陽翔の首元へ突きつけていた。「動くな。動いたらこいつを殺す!」悲鳴が上がり、その場にいた人々は一斉に逃げ惑った。茉莉は真っ青な顔で叫んだ。「息子を傷つけないで。欲しいもの
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第7話

私は目を真っ赤にして、悠真を見た。彼はうつむいた。迷っていた。刃物の先が息子の喉元に突きつけられているのに。それなのに彼は、迷っていた。「払う!」私は泣き叫ぶように言った。「いくらでも払う。欲しいだけ払うから」犯人の表情が、ほんの少し緩んだ。その瞬間、茉莉が慌てて口を挟んだ。「その人、さっき一銭ももらわずに離婚協議書へサインしたばかりよ。お金なんて一円も持っていないわ。あなたを騙してるのよ!警察が来るまで時間稼ぎをしているだけ!」私は一瞬で悟った。彼女は犯人をわざと煽っている。私の息子を、生かして帰すつもりなどないのだ。「俺を騙しやがったな!」犯人の手に力がこもり、息子の首に細い血の筋が浮かんだ。「騙してなんかいない!」私は押さえつけていた腕を振りほどき、地面に膝をついた。「私には友人がいるの。上場企業の会長で、黒崎蓮という人よ。彼に頼めばお金は借りられる。いくらだって払う!」「黒崎蓮」という名前を聞いた瞬間、悠真の顔に初めてひびが入った。その目は私に注がれ、火のように私を焼き尽くそうとしていた。「黒崎蓮?お前、まだあいつと連絡を取っていたのか?」「悠真、そんなでたらめを信じないで」茉莉は顔を上げ、犯人に向かって大声で叫んだ。「黒崎蓮を知らない人なんていないでしょう?京市で最年少の上場企業会長よ。そんな人が、既婚者で何も持っていない離婚寸前の女なんか相手にすると思う?夢を見るのも大概にしなさいよ!その女はあなたに一円も払えないわ。それどころか、警察が来たら、その場で始末してくれって言い出すに決まってる。たとえ投降したって、幼稚園で刃物を振り回したのよ。重い罪になるに決まっているでしょう。よく考えなさい!」彼女の唇が動くたびに、犯人の怒りは煽られていった。そしてついに、犯人は刃物を振り上げ、息子へ突き立てた。「湊!」刃が湊の胸に突き刺さった瞬間、私と悠真は同時に駆け出した。二度目の刃が振り下ろされる寸前、私は素手で刃をつかんだ。手のひらが裂ける激痛に耐えながら、力ずくで刃物を奪い取った。血しぶきが飛んだ。武器を失った犯人は、すぐに警備員たちに取り押さえられた。悠真は息子を抱き上げようと近づいた。けれど、血にまみれたその姿を前に、ど
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第8話

一方、その頃。陽翔は病院へ運ばれていた。全身をくまなく検査した結果、驚くほどどこにもけがはなかった。悠真は病室の隅に立ったまま、しばらく動けなかった。陽翔が無事だったと分かった瞬間、張りつめていたものが切れた。けれど胸に残ったのは、安堵ではなく、底の抜けたような空虚さだった。柚希の顔が脳裏をよぎった。息子の胸に咲いた、あのどんどん広がっていく血の花も。「用がある」彼は背を向け、そのまま出ていこうとした。「あなた!」茉莉が慌てて彼の腕をつかんだ。「陽翔はまだ目を覚ましていないのよ。私、不安でたまらないの。私たちにはあなたが必要なの」悠真は眉をひそめた。「柚希と湊が俺を待っている」その二つの名前を聞いた瞬間、茉莉の表情が凍った。彼女は腹立たしげに、彼の手を振り払った。「賭けはまだ終わっていないのよ。あなたはまだ私の夫でしょう?あんな女のことなんて、どうして気にするの?」すると悠真は、珍しく怒りをあらわにした。「賭け?あんなもの、ただの冗談だ。本気にしていたのか?それに、二度と俺の妻を侮辱するな。次は容赦しない」日差しが、背の高い痩せた男の輪郭を照らしていた。そこには、凍りつくような冷たさが漂っていた。茉莉は呆然とした。「冗談?私たち、この半年ずっと一緒にいたじゃない。何もかもしたでしょう?それも全部、冗談だったって言うの?」「遊びだった。それだけだ。あまり本気にするな」悠真の声は淡々としていた。まるで、今日の天気を口にしているだけのようだった。「悠真、そんな意地を張らないで」茉莉は焦り、彼に一歩近づいた。「私たち、やっとよりを戻せたのよ。もっと大切にするべきじゃないの?」よりを戻した。その言葉は、かつて彼女にとって切り札だった。何度使っても、悠真にはよく効いた。けれど、同じ言葉も繰り返せば色あせる。悠真は冷たく笑った。「茉莉、たしかに俺たちは昔、付き合っていた。だが俺はもう柚希と結婚している。賭けを守ったのは、お前たち親子が可哀そうだったからだ。少し助けてやろうと思っただけだ」可哀そう。その一言に、茉莉は息を呑み、その場に立ち尽くした。目の縁が赤くなる。「信じない!私が何か怒らせることをしたの?直すから!」彼女は
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第9話

粘つく汗が、悠真の上着を濡らしていた。それなのに、彼は寒さに震えていた。ありえない。柚希という女は、誰よりも芯が強い。一銭も受け取らずに離婚することになっても、人前で辱められても、土下座を強いられても、彼女は倒れなかった。そんな女が、死ぬはずがない。きっと何か企んでいるのだ。どうせ彼を焦らせたいだけだ。後悔させて、彼のほうからおとなしく頭を下げて戻ってくるのを待っているだけだ。そんな手には乗らない。ふと、彼は一人の人物を思い出した。田舎で暮らしている、柚希の母だ。柚希にとって唯一の肉親であり、この世で一番彼女を可愛がっていた人でもある。彼女のところへ行けば、きっとこの身の程知らずな女をきつく叱ってくれる。死を冗談にしていいと思っているのか、と。彼は車を走らせた。がたがたと揺れる道を進み、小さな庭のある家の前で車を止めた。村は、昔のままだった。けれど目の前の光景は、見知らぬもののように彼を不安にさせた。門の前には雑草がふくらはぎの高さまで伸びていた。庭の古い杏の木は塀の外へ枝を伸ばしていたが、その枝はすっかり枯れ黄ばんでいた。隣家の門が、ぎい、と音を立てて開いた。隣人が顔を出し、様子をうかがう。悠真は慌てて駆け寄った。「佐藤さん、義母さんはどこですか?」近づききる前に、門はばたんと閉められた。危うく悠真の鼻先にぶつかるところだった。「佐藤さん!」悠真は狂ったように門を叩いた。「義母に会いに来たんです。柚希は家に隠れているんですか?義母さんはどこへ……」言い終える前に、門が再び勢いよく開いた。佐藤は冷笑を浮かべて彼を見た。「いいだろう。義母さんのところへ連れていってやる。ついて来い」悠真は佐藤のあとについて、住宅の並ぶ場所から荒れ地へと歩いていった。佐藤は、土を高く盛った墓を指さした。「ほら。あんたの義母さんはそこだ。会いたいなら、そこで会えばいい」頭の中で、轟音が鳴り響いたようだった。悠真の視界が、一瞬真っ暗になる。墓碑の脇に刻まれた建立者の名を見て、悠真は息を呑んだ。【中原柚希】【藤原悠真】そこには、確かに自分の名前まで刻まれていた。「ありえない……」彼は呆然とつぶやいた。「ありえない?あんた
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第10話

それから数日間、悠真の頭の中には、ただ一つの考えしかなかった。生きているなら本人を。死んでいるなら遺体を。たった数言で、柚希が死んだなんて決めつけられるはずがない。彼はそう信じていた。けれど、柚希の痕跡をたどろうとするたび、一歩進むごとに泥沼へ足を取られていくようだった。病院には、湊の入院記録はないと言われた。葬儀場には、柚希の火葬記録はないと言われた。佐藤に電話をかけても、もうつながらなかった。まるで見えない手が、すべての痕跡を一つひとつ消し去っているかのようだった。考えれば考えるほど、悠真は違和感を覚えた。幼稚園で柚希が追い詰められた時、とっさに口にした名前を思い出す。黒崎蓮。悠真の心臓が、激しく跳ねた。自分と蓮が恋敵だったことは、誰もが知っている。まさか、あいつが隙を突いて柚希を連れ去り、どこかに匿っているのではないか。それどころか――悠真は、それ以上考えるのが怖くなった。蓮の身辺を調べさせようとした時、先に秘書から電話がかかってきた。「藤原社長、ご依頼の件、結果が出ました」「話せ」秘書は、どこから切り出すべきか迷っているようだった。「白石茉莉には、何年も前から深刻なギャンブル癖がありました。これまで横領していた会社の資金は、すべて賭博の借金の穴埋めに使われています」悠真は何も言わなかった。「それから……彼女と元夫は、実は離婚していません」「何だと?」「以前、元夫の浮気が原因で離婚したと言っていましたが、本当は彼女自身が何度も不倫していたんです。婚姻関係は今も続いています。陽翔も、元夫の子ではありません」悠真の手が震え始めた。「一年前、藤原社長が白石茉莉と偶然再会した件も、佐伯花が仕組んだものでした。白石茉莉が見返りを約束していたようです」一年前。彼はショッピングモールで茉莉と偶然再会した。彼女は陽翔を連れていて、自分は離婚し、一人で子どもを育てていて大変なのだと言った。目を赤くして、まるでひどく傷つけられた被害者のようだった。彼は、情にほだされた。「それから、犯人もすでに供述しました」秘書は深く息を吸った。「犯人は癌で、余命いくばくもない状態でした。白石茉莉が大金を渡すと約束し、あの事件を計画させたんです」悠真の手か
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