赤ちゃんが助からなかったと告げられた瞬間から、記憶はほとんど残っていない。 診察してくれた女医の顔も、名前も思い出せない。そもそもあの夕立の中、誰が、どうやって病院まで連れてきてくれたのかも分からない。 気がついたときには、もう、珠希は病室のベッドの上にいた。 ただ一つ、言葉では表せない激情が、胸を締め付けるほどに渦巻いていたことだけが確かだった。泣き疲れて痺れている手で、ベッドのシーツを握る。「素敵な指輪ね。その、右手の薬指。ビーズ? 懐かしいわ、私も若いころよく作ったの」「…………」「なんて。おしゃべりする気持ちになんて、なれないわよね」 年増の看護師が、珠希の点滴を交換しながら掠れた声で言った。 気遣いのはずであるその一言が、流産したという事実を裏付けるようで、胸と鳩尾の間あたりが一層重苦しくなってくる。 さっきまで。つい、さっきまで。エコーの画面の中で小さな心臓がペコペコ、白い光を見せていたのに。そらまめみたいな体に、小さな丸い手足が、可愛くて……そして…………もう、どこにも、ないだなんて。「……私が……もっとちゃんと――」「先生も言っていたでしょう? まだ妊娠九週。この段階の流産はママの生活ではなくて、赤ちゃん側の都合のことが……とは言っても、すぐには整理できないのも分かってる」 珠希が視線をさまよわせていると、不意に病室のドアからノックの音が届いてくる。「氷室さん」 看護師が口にした名に、珠希はドアの方へ視線を流した。 そこに立っていた姿に息をのむ。 皺ひとつないシャツとベストを隙なく着こなした、見覚えのある長身の男。冬曇を思わせる静かな眼差しだけが、じっと珠希へ向けられていた。 カツ、カツ、カツ――。 男は後ろ手にドアを閉めると、杖をつきながら珠希の病床へゆっくり近づいてきた。その表情から感情を読み取ることはできない。「……加減は」「良い、とは言えませんけどね。状況的にも」 こちらの顔も見ずに看護師と話し始めた男に、珠希の動揺が深まっていく。 そのとき看護師が血圧計を用意して、横目で男を見ながら言った。「こちらね、氷室雪臣さん。この病院――氷室メディカルセンターの理事長のお孫さん。タクシーであなたをここまで連れてきたのも、彼なのよ」「――雪臣くんが……?」「あら? 知り合いだったの」 シュ、シュ、シ
Terakhir Diperbarui : 2026-07-31 Baca selengkapnya