Semua Bab 氷室雪臣の環愛―契約結婚のはずですが、孤高の御曹司はマリッジリングを外さない―: Bab 1 - Bab 10

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第二話 『氷室雪臣』 ◆珠希

 赤ちゃんが助からなかったと告げられた瞬間から、記憶はほとんど残っていない。 診察してくれた女医の顔も、名前も思い出せない。そもそもあの夕立の中、誰が、どうやって病院まで連れてきてくれたのかも分からない。 気がついたときには、もう、珠希は病室のベッドの上にいた。 ただ一つ、言葉では表せない激情が、胸を締め付けるほどに渦巻いていたことだけが確かだった。泣き疲れて痺れている手で、ベッドのシーツを握る。「素敵な指輪ね。その、右手の薬指。ビーズ? 懐かしいわ、私も若いころよく作ったの」「…………」「なんて。おしゃべりする気持ちになんて、なれないわよね」 年増の看護師が、珠希の点滴を交換しながら掠れた声で言った。 気遣いのはずであるその一言が、流産したという事実を裏付けるようで、胸と鳩尾の間あたりが一層重苦しくなってくる。 さっきまで。つい、さっきまで。エコーの画面の中で小さな心臓がペコペコ、白い光を見せていたのに。そらまめみたいな体に、小さな丸い手足が、可愛くて……そして…………もう、どこにも、ないだなんて。「……私が……もっとちゃんと――」「先生も言っていたでしょう? まだ妊娠九週。この段階の流産はママの生活ではなくて、赤ちゃん側の都合のことが……とは言っても、すぐには整理できないのも分かってる」 珠希が視線をさまよわせていると、不意に病室のドアからノックの音が届いてくる。「氷室さん」 看護師が口にした名に、珠希はドアの方へ視線を流した。 そこに立っていた姿に息をのむ。 皺ひとつないシャツとベストを隙なく着こなした、見覚えのある長身の男。冬曇を思わせる静かな眼差しだけが、じっと珠希へ向けられていた。 カツ、カツ、カツ――。 男は後ろ手にドアを閉めると、杖をつきながら珠希の病床へゆっくり近づいてきた。その表情から感情を読み取ることはできない。「……加減は」「良い、とは言えませんけどね。状況的にも」 こちらの顔も見ずに看護師と話し始めた男に、珠希の動揺が深まっていく。 そのとき看護師が血圧計を用意して、横目で男を見ながら言った。「こちらね、氷室雪臣さん。この病院――氷室メディカルセンターの理事長のお孫さん。タクシーであなたをここまで連れてきたのも、彼なのよ」「――雪臣くんが……?」「あら? 知り合いだったの」 シュ、シュ、シ
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-07-31
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第三話 『お前を探していた』 ◆直人

 駒場産婦人科――ルリカの実家近くにある、先週彼女が初診で訪れたという病院に、直人は母と共に付き添っていた。 珠希を追い出してからすぐに、腹に違和感があると彼女が泣きだしたからだ。「わたしの不注意で……赤ちゃんになにかあったらどうしよう……」「大丈夫よ。ルリカちゃんは悪くないわ。あの嫁が、突き飛ばしたりなんてしなければ、こんな――」 ここに来るまでの道中も、雨の中で母はずっと珠希に対して文句を言っていた。 一方で直人は、自分とルリカの子どものことが心配で、ただ口が重くなっている。 診察室に呼ばれるまでの待合で、薔薇柄のネクタイを緩め、ソファーの背に肘を置く。受付のスタッフに見えるように、わざとらしく苛立ちを顕わにしていた。 ――遅せぇ。こうしている間になにかあったらどうする。 そのとき、ルリカが不意に直人の膝へ手を乗せてきた。  直人は彼女の柔らかい髪を、そっと撫でた。 いま一番不安なのはルリカだ。自分までここで取り乱すわけにはいかない。 そう。ルリカは、珠希ではない。ジュエリーデザイナーとしての才に恵まれ、なんでも卒なくこなしてきた珠希とは、根本的に違う。 ……ルリカは、守るべき存在なのだ。 一線を越えた日、ルリカは「社長が色々教えてくれたおかげで、無事に免許取れちゃいました」と笑った。あのときの彼女の瞳を、今でも鮮明に思い出せる。 わざわざ自動車免許の教本まで買ってきて、夜な夜な内容を頭に叩き込んでは、翌日、彼女に問題を出すのが楽しかった。 思えば、その頃から彼女は直人を頼り、必要としてくれる女だった。+   +   +「乾家の……私の初孫なのよ!? そんな数分の内診で、ちゃんと診たの!?」 検査を終え、診察室の中に母の怒鳴り声が響き渡る。 初老の医師は眼鏡をかけ直しながら「胎嚢も胎児も異常はありませんからなぁ」と、困惑したような表情を見せていた。 背中を強張らせているルリカの肩に手を置き、直人は彼女の顔を覗き込んだ。 なんとかしなければ。ルリカと、子どもを支えていかなければいけない。「ルリカ。まだ不安か?」「直ちゃんの赤ちゃんだから……大切にしたいから、心配なの……」 今にも泣きだしそうな声を絞り出したルリカに、母が鼻をすすりながらハンカチで目頭を押さえる。 直人が医師を睨みつけると、彼は溜息をつき、机上の棚
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第四話 『子どもに罪はない』 ◆雪臣

 電話を切ってから三十分ほどが経った頃、雨はすでに上がっていた。 氷室メディカルセンターの入り口で、腕を組んで待つ雪臣の瞳が、鈍い光を帯びる。 外来の受付時刻はとうに過ぎていたが、雪臣が事情を伝えて受け入れを頼むと、当直の職員たちは快く応じた。正面玄関の灯りも、自動ドアも、まだ電源を落とされてはいない。 目の前に停車したタクシーから降りてきたのは、直人と、直人の母親と、そして初めて見る二十代前半くらいの女。 電話で言っていた、田代に診察を依頼したいというのは、この女のことだろうか。 直人が女と母親を先にセンター内へ入らせた。二人の背を見送り、自動ドアが閉まると同時に、雪臣を睨みつける。「田代とやらに、すぐ診察できるように話は通したんだろうな? 氷室雪臣」「……お前か。彼女を放り出したのは」「相変わらず会話ができねぇ男だな。質問に答えろ」「タマはここへ一晩入院する。雨の中ひとりで倒れていた。僕が、連れてきた」 カツ、と小さく杖の音が鳴る。 雪臣は直人へ一歩近づき、わずかに顔を下げてその目を見据えた。「なぜ、タマをこんな目に遭わせた」「お前に関係ないだろうが、雪臣。珠希は、ルリカ――俺の子を孕んでいる女を突き飛ばした。自分が不妊だから、くだらない嫉妬でもしたんだろうな」 珠希が誰かを――まして妊婦を突き飛ばしたなど、にわかに信じられるはずがない。彼女自身が身ごもり、小さな命を何より大切にしていたからだ。失った直後でさえ、雪臣を気遣おうとした人間だ。 センター入口の照明を受けて、直人のゴテゴテした柄のネクタイがぬらりと光った。 雪臣の下瞼が小さく痙攣する。「心配ではないのか」「今日はよく喋るじゃねぇか。どうせちょっとすっ転んだだけってオチだろ。それに珠希は……あいつは一人でなんでもできる」 会話が途切れ、静けさが際立つ。コオロギの鳴き声だけがやたらはっきりと聞こえた。 小さく鼻を鳴らしてセンターへ入ろうとした直人。その腕を掴むため、雪臣は杖を取り落とした。カラン、と杖が地面を叩く。支えを失った右脚がわずかに揺らいでも、雪臣は直人から手を離さなかった。「しつけぇな。そもそも、氷室の人間がなんで珠希を助ける必要がある。……へっ。まさか、未だに珠希を俺から奪い返したいのか、お前」「……そういう話はしていない」 珠希は――いや、人は誰
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第五話 『氷室雪臣の環愛』 ◆珠希

「うん。体のほうは異常なさそうですね」「田代先生……本当にありがとうございました。それと、流産の診断を受けたときは取り乱してしまってすみません」 入院して一夜が明け、田代の最後の回診を受けた珠希は、病床に腰を下ろしたまま深く頭を下げた。 乾の商売敵であるはずの氷室が仕切る病院だというのに、ここのスタッフは終始、珠希に温かく接してくれている。「気にする必要はないです。今は自分自身を労わってあげてください」 田代のやさしい声が、珠希の胸の奥に染み込んでいく。 ふと窓の外へ目を向けると、淡い綿雲がいくつも空に浮かび、静かに流れている。直人もきっと、この同じ空の下にいるはずだ……それでも、彼の心はもうここにはない。 どうすれば自分を労われるのか、珠希にはその答えが見つけられずにいた。「それと、これは氷室さんに頼まれた伝言です。今日の十一時、大学近くのユイット珈琲で待っている――だそうです」+   +   + ユイット珈琲――ずいぶん懐かしい店の名前を思い出させられた。 通っていた神本芸術大学の裏門を出てすぐ。蜂蜜の入ったロイヤルミルクティーが看板メニューで、素朴な純喫茶だが珠希はその店が好きだった。 雪臣が珠希に何の用があるのかは分からない。けれど、時計を見ると時刻は十時を過ぎていて、今から向かえばまだ間に合う――そんな考えが、気づけば胸の奥で芽生えていた。 今、ひとりでいるのが怖かったのだ。誰でもいい、ただこの流産という深い喪失感を、ほんの少しでも紛らわせてくれる存在が欲しかったのかもしれない。 退院手続き中、スマホどころか手持ちが千円しかないことを思い出した珠希だったが、支払いの必要はないと告げられ、目を丸くする。「お支払いの件でしたら、すでに話は済んでおりますので。……氷室さんから」 退院後の書類を渡しながら言ってきた受付の女性の言葉に、珠希の動きが止まった。 ――どうなっているの。雪臣くんが、なんでそこまで……。「それから、別件になりますが……東京国際記念病院から、お急ぎのご連絡が入っています。珠希さんへお電話が繋がらないと……」「えっ……?」「先方がご主人へも何度かご連絡されたそうですが、『氷室メディカルセンターへ伝えておいてくれ』とお話があったそうで……」 珠希の鼓動が一つ跳ね上がる。体の末端から、さっと血の気が引いてい
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第六話 『愛の挨拶』 ◆珠希

「け、結婚?」 飛び出してきた思いもよらない提案に、珠希の顔がこわばった。差し出されたリングケースと二枚の書類へ、戸惑いながら視線を往復させる。 紙面の上部には、『婚姻契約書(案)』と記されていた。  ――婚姻の契約期間は一年間。 互いの私生活には、必要以上に干渉しない。 愛情および身体的関係を強要しない。 公の場では夫婦として振る舞い、契約期間の満了後、速やかに離婚手続きを行う。  文面を追いながら、首筋に汗が伝った。 つい先ほど離婚協議書に名前を書いたばかりなのに、今度は冗談のような書面を突きつけられている。「変なジョーク……だよね?」「本気だ」 雪臣の表情は少しも変わらない。 午後の日差しが窓辺のステンドグラスを透かし、白いリングケースを彩る。「でも、私はまだ直人さんと……」「当然、タマが自由になった後の話だ」「どうして契約結婚なんて――」 雪臣はわずかにためらうような表情を見せた。けれど何も答えず、契約書の下に重ねられていたもう一枚の書類を抜き取った。 そこには、雪臣が契約結婚を必要とする理由が、簡潔にまとめられていた。 雪臣によると、氷室グループでは祖父から父への代替わりはすでに終わっているという。だが祖父はいまも、氷室グループの持株会社が発行する議決権株式の一部を保有しているらしい。その持分は、父の次にグループを継ぐ者を見極めるために残されているのだという。「期限までに条件を満たせれば、祖父の持分は僕に譲られる」「できなかったら……?」「異母弟(おとうと)――悠乃介へ渡る」 雪臣と悠乃介(ゆうのすけ)の持分は、現在ほぼ拮抗しているらしい。祖父の持分が悠乃介へ渡れば、その均衡は崩れる。「そうなったら……」 雪臣はぽつりと、事実だけを告げた。「僕は、HIMURO MOTOMACHIの経営権を失う」 雪臣が答えたのは、それだけだった。 珠希には、氷室家の内情など分からない。けれど、雪臣が冗談や思いつきで、こんな話を持ち出しているわけではないことだけは伝わってきた。 それでも、分からないことがある。「どうして。なんで、私なの」 雪臣はすぐには答えなかった。 BGMが変わり、エルガーの愛の挨拶が店内をやわらかく包み込む。珈琲豆を挽く音が、二人の間に落ちる静けさを埋めていった。 雪臣はしばらく視線を
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-08-03
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第七話 『見えない想い』 ◆珠希

 ユイット珈琲を出たあと、雪臣に渡されたカードの住所を頼りに最寄りのモノレールに乗り込んだ。 珠希の暗い瞳に車窓が映る。そこに広がる湾の水面は、日差しを受けて無数のルースをちりばめたように煌めいていた。 二十分ほどしてたどり着いたのは、赤れんが造りのホテルだった。 白い窓枠がきっちりと並び、黒いドーム屋根から細い塔が空へ伸びている。 ――ホテル・シャトンウォーム。 この建物には薄っすらと既視感があった。かつて前を通り過ぎたとき、氷室グループが運営しているホテルだ、と誰かが言っていた覚えがある。 宿泊費がいくらかかるのかも分からない。財布は無事に戻ってきたが、残金だってたかが知れている。 それでも、ほかに行く場所がなかった。 意を決し、フロントへ進む。雪臣から預かったカードを握りしめ、珠希は口を開いた。「あ、あの……予約はしていないのですが」 その場に立っていた支配人が、珠希の右手に光るビーズのリングへ一瞬視線を落とすと、柔らかな微笑みを浮かべた。「乾珠希様でいらっしゃいますね。氷室より伺っております」「……っ、え?」「お手荷物、お運びいたしますね。すぐ、お部屋へご案内いたします」「ちょっと待ってください。チェックアウトはいつまでに――」 珠希からボストンバッグを受け取った支配人が、不思議そうに首を傾げる。「次のご滞在先がお決まりになるまで、お部屋を確保するよう申しつかっております。……氷室からお聞きではございませんか?」「いえ、なにも……」「それは失礼いたしました。ご滞在中のお食事も、館内でご利用いただけます。ご精算については手配済みですので、お気になさらずに」 たちどころに案内されたのは、三階の突き当りにあるシングルルームだった。 ルームキーと共に手荷物を渡される。「どうぞごゆっくり」と言い残した支配人の対応に、珠希は瞬きを繰り返すことしかできなかった。 部屋のドアを開けて真っ先に目についたのは、白いシーツが敷かれたベッド。 窓辺には一人掛けのソファーが置かれている。ただ一人で身体を休めるために用意されたような空間に、僅かに肩の力が抜けていく。 あのとき雪臣は、少しも恩着せがましい態度をとっていなかった。 契約結婚という取引を受けるかどうかも分からない相手に、いつまでかかるかも分からない部屋を用意するなんて……。「
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-08-05
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第八話 『本当の願いは』 ◆珠希

「あら、珠希さん。久しぶりね」 ベッドのそばの椅子に腰かけた直恵が、親しげに微笑んだ。 足元に見舞いの品はなく、扇子で顔をあおぐ彼女の膝には、艶のある革のバッグだけが置かれていた。「直人から、お母さん……珠美さんが骨折したと聞いてね。お見舞いに来たのよ」 白々しい声音に、珠希は眉をひそめる。 直恵が母の身を案じて、わざわざ病院まで足を運ぶはずがない。「母の前で、なんの話をしていたんですか」「なんの話って、もちろん、あなたのことよ。乾家に泥を塗ったこと。妊娠中の女性を突き飛ばしたこと――」「病室で話すことではありません。お引き取りください」 珠希が言葉を遮っても、直恵は椅子から立ち上がろうとしなかった。 それどころか、赤い口紅をべったり塗った唇が、満足げに弧を描いた。「あのね、珠希さん。実のお母さんだからこそ、私も勇気を出して本当のことをお話ししなくちゃと思ったの。あなたが会社に多大な損害を与えて、懲戒解雇になったことは、もうジュエリー業界に広まっているのよ。これからどう生きていくのか、珠美さんにも一緒に考えてもらわなくちゃならないでしょう?」 珠希の身体から、すっと血の気が引いていく。 やはり直恵は見舞いに来たつもりなど初めからない。もう宝飾の世界に珠希の居場所はないのだと、思い知らせに来たのだ。 一方で、ベッドの上の母は直恵の挑発に乗ることなく、ただ静かに直恵の顔を見つめている。 その反応が気に障ったのか、直恵は大げさに肩をすくめた。「あぁ、そうそう! 先日、ルリカちゃんを直人の婚約者として、親戚を集めてお披露目会をしたの。彼女、地主さんの末娘だけあって、しっかりしたお嬢さんでしょう? 直人もようやく相応しい相手と縁を結べたって、皆さんとっても喜んでくださったわ」 直恵の話の中で、直人とルリカの不倫など初めからなかったことにされているのは明らかだった。「はぁ、それにしても珠希さんもお気の毒ね……」 直恵は母へ冷たい視線を向けた。 扇子をぴしゃりと閉じる音を合図に、直恵はさらに言葉を重ねた。「女手一つねぇ……まぁ、ろくでもない母親に育てられたから、こんなことになってしまったのでしょう」「……っ! 母を侮辱しないでください!」 自分でも驚くほど張り詰めた声が出た。 直恵の目が、わずかに見開かれる。「桃沢さんが、直人さん
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-08-07
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第十話 『挑戦』 ◆珠希

 バーラウンジで婚姻契約書へ署名した数日後、珠希は雪臣と共に、ホテル・シャトンウォームから氷室家の本邸へタクシーで向かっていた。  母の転院については、すでに氷室メディカルセンターとの調整が進んでいる。 婚姻届は、一連の手続きが落ち着いてから提出することにしようと、二人の間で話はまとまっていた。  「無理に話を合わせる必要はない」   移動中、隣に座る雪臣が口にしたのはそれだけだった。 珠希は小さく頷いた。  今日から珠希は、雪臣の婚約者として振る舞うことになる。  もちろん、この結婚が契約の上で成り立っていることは二人だけの秘密だ。誰にも知られてはいけない。 左手の薬指には、あの婚約指輪がある。右手のビーズの指輪とは違う重みが、まだ慣れない指にまとわりついていた。  +   +   +   ――思っていたよりも、ずっと歴史を感じる建物だわ……。   氷室家の本邸は、長い年月を重ねた洋館だった。  けれど、古いからといって傷んだものは一つもない。長い時間をかけて大切に守られてきたと分かる佇まいが、むしろこの家の格式を物語っているようだった。  「暑い中、よくいらしてくださいましたわね」   応接間には、氷室家の面々がすでに揃っていた。  雪臣から、一人ずつ紹介を受ける。  ――正面の一人掛け椅子に座っているのが、雪臣の祖父・雪茂(ゆきしげ)。 手前側のソファーには父の秋夫(あきお)と、継母の日美呼(ひみこ)が腰かけてい
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-08-11
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