All Chapters of 氷室雪臣の環愛―契約結婚のはずですが、孤高の御曹司はマリッジリングを外さない―: Chapter 11 - Chapter 20

39 Chapters

第十三話 『マリッジリング』 ◆雪臣

「申し訳ない」 「ううん、気にしないで」   三板の用意した食事をダイニングテーブルに運んだ珠希が、やさしく微笑む。 脳性麻痺さえなければ、彼女に世話をかけることもなかったのに。 生まれつきだ。今に始まったわけではない。先ほどは、杖を選ぶのが楽しいと言った。嘘ではないけれど、ときどきどうしようもなく自分の右足を恨めしくなるときがあった。  それと同時に、雪臣の胸の内はずっと騒がしかった。   ――タマが、自らここへ上がりたいと言った。   本邸は別として、自分の居宅にまで上げるつもりはなかった。正確には、上げてはならないと思っていた。  珠希は確かに、婚約者だ。これから自分と結婚する女性だ。 しかし、それは仮初の関係に過ぎない。 そうである以上、立場を口実に、珠希を必要以上に自分に関わらせてはいけない。ましてや、彼女の方から望んでくるとも考えてはいなかった。  それなのに珠希は今、雪臣が暮らしてきた、この建物の中で笑っている……。  百二十三本の杖を持っていることも、雪臣にとっては笑われるようなことではなかった。ただ、もう一度、笑った姿が見たいと思っていた。  珠希にとって今の状況は、さほど重大な出来事ではないのかもしれない。 しかし、三板や建物の修繕業者を除き、他人を自宅に上げた経験のなかった雪臣にとって、事情は違った。  「雪臣くん、私、お茶入れてもいい?」 「…………」 「雪臣くん?」 「……あ、ああ。申し訳ない」&nbs
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第十四話 『珠希の居場所』 ◆雪臣

「今日は遅くまでありがとう。私、そろそろ帰るね」   珠希が、椅子の背に掛けていた鞄を手に取る。 ……マリッジリングの方向性は決まった。この先は、実際に会社のデザイン室で進めるというスケジュールも立てた。 彼女を引き留める理由は、もう一つもない。  それでも椅子から立ち上がる珠希の姿を見た瞬間、考えるより先に声が出た。  「待ってくれ」   珠希に続いて勢いよく立ち上がった拍子に、雪臣が座っていた椅子がひっくり返る。 少し遅れて、テーブルに立てかけていた杖が倒れ、カン、と乾いた音を立てた。  「ど、どうしたの?」   帰らないでほしい。  そんなことを言えるはずもない。  「……ここで、暮らさないか」 「え?」 「この家で。僕と」   口にしてから、自分が何を言ったのかを理解した。 ――何を言っているんだ、僕は。  喉が渇き、呼吸が浅くなる。全身が不自然に強張った。右足以外まで思うように動かなくなったみたいだ。  「そう、書面上、僕たちは夫婦で、生活の拠点が別だと知られれば、悠乃介たちに不審に思われる可能性があるし、それに、祖父へ見せるジュエリーを作るにも、これからHIMUROのデザイナーとして活動するのにも、その方が――」   取り繕うように、いくつもの理由を並べた。どれも嘘ではない。けれ
last updateLast Updated : 2026-08-18
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第十五話 『初めての頼み』 ◆珠希

「お世話になりました。本当に、良くしていただき……」「いえいえ、お気になさらず。またいつでもご利用ください」 氷室家と顔合わせをし、雪臣との同居が決まったその翌日。 チェックアウトの手続きを済ませ、ホテルシャトン・ウォームの支配人に珠希は深々と頭を下げた。 随分長いこと、世話になってしまった。それでも支配人は嫌な顔ひとつせずに、外は暑いですから、と冷えたペットボトルのお茶を一本渡してくれた。 ボストンバッグを肩にかけ直し、珠希はホテルの自動ドアをくぐった。 その先に、パンツスーツ姿の細身の人物が立っていた。「珠希さんですね」 初対面のはずの相手は、珠希の右手のビーズリングを見るなり、手にしていたタブレット端末を小脇に挟んで軽く一礼した。「あっ、えっと……」 百八十センチ近くはありそうな長身に、すっきりとしたベリーショートの髪型。 男性だと思い込んだ直後、耳に届いた声が女性のものだったため、珠希は思わず驚きを顔に出してしまった。「初めまして。HIMURO MOTOMACHIにて社長秘書をしております、瀬原渚(せはら・なぎさ)と申します。今日は雪臣さんの指示で、珠希さんの生活に必要なものを揃えるお手伝いに来ました」 差し出された名刺を受け取り、珠希も慌てて頭を下げる。「そうだったんですね。ありがとうございます。白輪珠希です。今日はよろしくお願いします」「その感じだと雪臣さん、また何もお伝えしていない感じですね……こちらこそ、お願いします。あと私、よく男性と間違われるので混乱しないように先にお伝えしておきますね、女性です、一応」 心の内を見透かされたようで、珠希は返す言葉を失った。 一方で、瀬原はどこか楽しそうに笑っている。近寄りがたいほど凜々しい外見とは裏腹に、話しやすそうな人だった。「早速ですが、お荷物はどちらでしょうか」「あ、はい。これです」 珠希が肩にかけたボストンバッグを軽く持ち上げると、瀬原が目を瞬かせた。「……ひょっとして、そちらだけ……ですか?」「あはは……前の住まいから、ほとんど何も持ってこられなくて」 瀬原は何も聞かなかった。 彼女はバッグからすぐに視線を外し、手元のタブレットを操作する。「オーケーです。では、消耗品や寝具に加えて、衣類も一通り揃えましょう」「あ、いや、私まだ仕事もしていないですし、そ
last updateLast Updated : 2026-08-20
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第十六話 『昨日の自分より少しだけ』 ◆珠希

 店に着くと、瀬原は寝具やタオルだけでなく、基礎化粧品から部屋着、仕事用の服や靴まで、足りないものを次々に挙げた。 珠希が値札を見て戻そうとするたび、瀬原が「必要なものです」と買い物カゴへ戻す。  花瓶と目覚まし時計が触れ合う無機質な音が、カゴの中から届く。 黄色い看板が目印の生活雑貨専門店で、商品がいっぱい詰まったカゴを載せたカートを押す瀬原の顔を、珠希は見上げた。  「というか瀬原さん、センスいいですね。選んでくれたこのパジャマ、本当に素敵……」 「私、今年で二十九なんです。珠希さんより年上ですけど、たったの二つしか違いませんから、好みの感覚も似ているかもしれませんね」 「そうだったんですね。どおりで、趣味があうと思いました」 「ふふ。ですから、あまりかしこまらなくて大丈夫ですよ」   同世代の同性ということもあり、小物を一つ選ぶにも、雪臣よりもずっと相談しやすかった。雪臣はそれを分かって、敢えて今日の買い物の同行を、瀬原に頼んでくれたのかもしれない……。  レジの列に並びながら、珠希がぽつりと言った。  「瀬原さん……私がINUI Jewelryにいたことは、ご存知ですか」 「……当然、知っています。チーフデザイナーの乾珠希。正直、HIMURO MOTOMACHIのデザイン室や上層部であなたの存在を知らない者はおりません」 「不思議だったんです。ついこの前まで乾の人間だった私を、どうして皆さんは、こんなに自然に受け入れてくれるんだろうって」 「難しい質問をされますね」   会計の順番が回ってきて、カゴを店員に渡した瀬原が、困っ
last updateLast Updated : 2026-08-21
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第十七話 『HIMURO MOTOMACHIという場で』 ◆珠希

 ものづくりの町、横浜・元町――。  昨晩雪臣と話をし、今朝、予定通り九時に迎えにきた瀬原の運転する車に乗って、珠希ははじめてHIMURO MOTOMACHIの本社に足を踏み入れた。  オフィスの一階にあるフラッグシップショップ――HIMURO MOTOMACHI本店には、何度か足を運んだことがあった。まだ開店前ということもあり、シャッターが下りていたが、外装だけでも洗練された雰囲気を感じ取れる。 珠希はジャケットの襟を直し、瀬原と雪臣に続いて歩いた。  +   +   +   入社に関する一連の手続きを終える。人事部の担当者から渡された社員証を、珠希は両手で受け取った。 HIMUROのロゴマークの下には、『デザイン部』と記されている。  ――白輪珠希。 そこには、誰かの妻でも婚約者でもない、ジュエリーデザイナーとしての自分の名前があった。 珠希は、緊張と安堵が入り混じる息をついた。  ホテルのバーラウンジで、珠希がHIMUROへの入社の希望を伝えた翌日には、人事部に採用の相談を始めていたと雪臣からは聞いていた。 驚いたのは、採用の担当者が、珠希が雪臣の婚約者だということをまったく知らなかったという点だ。   ――妻という役割を担うことと、きみの仕事は別だ。   あの日雪臣がかけてくれた言葉が、今になって形として表れる。  雪臣の婚約者だからではなく、自分の実績が評価されて採用された。その事実が、失いかけていたジュエリーデザイナーとしての自信を、珠希に少しだけ取り戻させてくれた。 採用担当者の「INUI Jewelryでのご経歴と、これまで手がけられたデザインを審査した
last updateLast Updated : 2026-08-24
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第十八話 『誰のための指輪』 ◆珠希

 デザイン室の奥。雪臣に連れられて入ったプロジェクトルームAには、向かい合わせに二つの机が置かれていた。  一方には、雪臣の手帳と資料が並んでいる。 もう一方には真新しい製図道具や端末が揃えられている。地金の色見本や幅の異なるリングサンプル、過去に制作された商品の資料までもが整列していた。 そして、『白輪珠希』という名前が刻まれたプレートが、蛍光灯を浴びて卓上で小さく光っている。  「この部屋はしばらく押さえている」   ホテルの部屋とも、家に用意された自室とも違う。 ここは、ジュエリーデザイナーとしての珠希に与えられた席だった。  「押さえてるって……私たちのマリッジリング用に?」 「……そうだ」 「いいの? 雪茂さんの話は、私と雪臣くんへの、個人的な頼みだったのに」 「祖父から、手を抜くなと念を押された」   前社長の雪茂が、デザイン部長である岸部に直接連絡をとり、本件を一つのプロジェクトとして扱うよう頼んだらしい。珠希と雪臣に必要な設備を利用させる代わりに、HIMURO MOTOMACHIへ正式に制作費を支払う前提で。  「け、結構強引なのね……雪茂さん」 「僕とは行動様式が違う」   呆れたように言った雪臣が、珠希の向かい側の席に着く。   ――まぁ、ひとつの記念に、と思ってくれたらいい。  
last updateLast Updated : 2026-08-25
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第十九話 『悠乃介より』 ◆珠希

「……どうしてここに?」 雪臣の異母弟――悠乃介。 まだ大学生ながら、雪臣と株式の持分がほぼ拮抗する、氷室家の後継者候補の一人だ。 悠乃介の突然の登場に、珠希はただ驚いて立ち尽くしていた。 彼はHIMURO MOTOMACHIの本社を仰いで、柔らかそうな茶髪をサッと掻き上げた。「近くで用事があって。ついでに見に来た。珠希ちゃん、いるかなーって」 悠乃介は人懐っこく笑うと、手にしていたペットボトルを珠希へ軽く放った。 珠希は危うく落としそうになりながらも、ギリギリのところでキャッチする。「冷たい紅茶。転職祝いね」「いいんですか?」「もちろん。ま、学生からのお祝いだから、これくらいで勘弁して」 悠乃介から受け取った紅茶のラベルには、油性ペンで『初出勤、おめでとう。無理しすぎないでね』と書かれていた。横に描かれた不格好なウサギのイラストにも、どこか愛嬌がある。 そしてメッセージの最後には、悠乃介より、と名前が添えられていた。「わざわざ、ありがとうございます」「それ、敬語やめてよ。僕の方が年下なんだし。それより、休憩中? 少しだけ話さない?」 悠乃介に促され、木陰のベンチへ並んで腰を下ろす。 珠希は一応周囲を見渡した。大学生とはいえ悠乃介も氷室家の一人――入社初日に二人で話しているのを誰かに見られたら、どう思われるか予想がつかない。「どう? 初日」「まだ、挨拶をした程度なんだけど……みんな、やさしそうで安心したよ」「そっか。兄貴とは、うまくやってる?」「うん。雪臣くんも、私の意見をちゃんと聞いてくれるから」 答えながら、先ほど途中まで進めた共作の過程を思い返す。
last updateLast Updated : 2026-08-27
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第二十話 『雪臣の紅茶』 ◆珠希

 昼休みを終え、珠希はプロジェクトルームAへ戻った。 悠乃介からもらった紅茶を机に置き、再びスケッチブックへ向き合う。 ――一緒にいて、寂しくないの? 先ほどまで雪臣と一緒に詰めていたラフ画を見ながら、ふと悠乃介の声が蘇る。 雪臣がどんな人間なのか、本当のところ、珠希はまだよく知らない。 それに忙しそうで、珠希が何も言わなければ、ほとんど会話をしないまま一日が終わることもあるだろう。 それでも、この一か月、彼といるときに寂しいと思ったことはなかった。 雪臣の隣は静かではあっても、孤独ではないのだ。「……悠乃介に会ったのか」 突然背後から声をかけられ、珠希の肩がびくりと跳ねる。 振り向くと、外から戻ってきた雪臣が、珠希の机の上にある紅茶を見つめていた。その視線は、ラベルに書かれた悠乃介の名前で止まっている。「う、うん。外に出たら近くにいて。転職のお祝いだって」「何を話した」「仕事はどうかとか……」「とか、何だ」「雪臣くんとうまくやれているかとか……」「それだけか」「雪臣くんが男子校の出身、とか……」「まだあるのか」「彼女がいたことはないんじゃないか、とか……」「他には」「あとは……」 珠希が言い淀むと、雪臣の表情がわずかに硬くなった。「あとは、何だ」 会話というより聴取に近いやりとりに、緊張感が増していく。 どうやら雪臣は、悠乃介をずいぶん警戒しているらしい。それにしても、不機嫌すぎやしないだろうか……。 ――兄貴には内緒ね。 悠乃介の無邪気な顔が思い浮かぶ。 この話をすることによって、雪臣の思い描いている契約
last updateLast Updated : 2026-08-28
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