All Chapters of 氷室雪臣の環愛―契約結婚のはずですが、孤高の御曹司はマリッジリングを外さない―: Chapter 31 - Chapter 39

39 Chapters

第三十一話 『見られる側』 ◆雪臣

 ――お母さんが、雪臣くんに会いたいって。  その言葉を聞いてから、一時間ほどが経っていた。 「…………」  湯船に浸かりながら、雪臣は浴室の壁を見つめていた。  ……会いたくないわけではない。  氷室メディカルセンターへの転院手続きを進めるにあたり、珠希の母親の病状や受け入れ体制については、医療側に何度も確認をしてきた。  それなのに……珠希の母親本人に会うという発想だけが、完全に抜け落ちてしまっていた。  氷室家では、珠希を祖父や父たちへ婚約者として紹介した。  あのとき雪臣が気にしていたのは、珠希が何を聞かれるのか、何を言われるのかということばかりだった。  祖父がどこまで踏み込むのか。悠乃介が余計なことを言わないか。  珠希に居心地の悪い思いをさせないか。  自分は、珠希の意思を尊重したいと思いながらも、知らず知らずのうちに彼女を『見られる側』へ立たせてしまっていた。  ――今度は、僕が見られる側なのか。 「…………」  雪臣は、湯船の底に備え付けられた浴槽台に乗せていた右足を、ゆっくりと伸ばした。  ――一体、何を言えばいい。  取引先との会談なら、目的も議題も事前に分かる。必要な資料を読み、相手の求めるものを考えればいい。だが、娘の婚約者に会いたいと言う母親が、何を確認したいのかは予想がつかない。  年収。仕事。家柄――。  そういったデータだけではないことくらいは分かる。  珠希が直人と離婚していくらも経たぬうちに連れてきた男が、どういう人間なのか。  肘置きつきの補助用シャワーチェア、壁付けの手すり、浴槽に固定された移乗台――雪臣はそれぞれを順に見た。  自分は、生まれたときから制限がある。何不自由なく自分のことは自分で解決できると、胸を張って宣言することはできない……。そんな自分のことを、珠希の母親は、どう見るのか。  考えた途端、余計に正解が分からなくなった。  両手のひらで湯を掬い、顔に一度かける。前髪から湯が滴る音まで響きそうなほど、風呂の中は静かだった。 「…………珠希さんを僕に下さい……」
last updateLast Updated : 2026-09-10
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第三十二話 『見る価値のあるもの』 ◆珠希

 母と雪臣の顔合わせの日程が決まり、それから休日を挟んだ翌週の火曜日――。  CAD担当者からマリッジリングの初回データが届くまでの間に、珠希はHIMURO MOTOMACHI本店を見学したいとデザイン部長の岸部へ申し出た。  一階のフラッグシップショップには、INUI Jewelryにいたころも何度か足を運んでいる。けれど当時見ていたのは、商品の価格帯や客層、HIMUROにあってINUIに足りないものを模索することが中心だった。  競合するメーカーという立場ではなく、自分がこの場所でジュエリーを送り出す側として、売り場を見ておきたかった。  部長の勧めで、アシスタントデザイナーのメイユーが見学に同行してくれることになった。 「珠希さん! 今日はこの私に、どんと! 任せてください!」  メイユーは見学には明らかに多すぎる資料を両手に抱え、誇らしげな顔をしていた。その勢いに珠希は目をぱちくりさせる。ずんずんと店舗へ進んでいく小柄な彼女の背が、今日はずいぶん頼もしく見えた。  店内に入ると、開店して間もないというのに、一組の男女が結婚指輪を選んでいた。接客中の販売員が珠希とメイユーに気づき、にこやかに会釈する。 「あちらは、若いアルバイトスタッフですが、HIMURO主催の接客コンテストで三年連続一位を獲得している売野(うりの)さんです」 「えっ……す、すごい人なのね……」 「はい。販売実績の伸び率も、まさに天井知らずなんです」  お客の邪魔にならないよう、店舗の壁際に身を寄せ、小声でメイユーが言った。どんなふうに接客をするのかと、珠希は近くのショーケースを眺めるふりをしながら、売野の言葉や所作を確認していく。  お客の女性側は細身で柔らかな曲線の指輪を、男性側は幅のある直線的なものを気に入ったらしい。売野はどちらか片方の意見には寄せなかった。それぞれの希望を聞き、ペア売りではなく、異なるデザインの二本を並べてみせる。  一見バラバラに感じる二本だが、売野は指輪を眺めながら微笑んだ。 「形は異なりますが、どちらもプラチナで、縁には同じ細かな粒の装飾が施されています。お二人それぞれのお好みを残したまま、
last updateLast Updated : 2026-09-11
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第三十三話 『初恋』 ◆雪臣

『氷室さん、だよね?』  ナポリタンを載せたトレーを手に、背中まで黒髪を伸ばした女性が立っていた。  ――八年前。神本芸術大学一年の秋。  昼休みの学食は、いつものように混み合っていた。人の多い場所は好きではない。けれど、裏門近くのユイット珈琲もこの時間帯は混雑しているし、さらに遠くまで行けば、雪臣の足では昼休み中に戻ってくるのが難しい。味は好きだったから、入学してからはずっと学食を利用していた。今では、杖を使う雪臣を見て、学食のスタッフがいつもの窓際の席までトレーを運んでくれるようになっていた。  そうして指定席のようになったテーブルで、雪臣はいつも一人で昼食を取っていた。その目の前の席だけは、必ずぽっかりと空いている。  どれだけ混雑していても、誰かが雪臣と同じテーブルに着くことはなかった。入学当初から、氷室財閥の御曹司として遠巻きに見ている者がいることには気づいていたが、話しかけられることはなかったし、雪臣から誰かに話しかけることもなかった。  それで困ることはなかった。 『ここ、座っても大丈夫かな?』  突然誰かに声をかけられたことで雪臣がしばらく固まっていると、女性はにっこりと笑って、首を傾げた。雪臣は我に返り、弾かれたように頷く。女性は『ありがとう』と言って、雪臣の目の前の席にトレーを置いた。  ……よく見たら、同じ学科の学生だった。  そういえば入学したばかりのころ、彼女が友人から『タマちゃん』と呼ばれているのを聞いたことがある。  目の前に座った多摩が、神妙な顔で呟いた。 『……午後の必修の課題、量、多いと思わない?』 『…………』 『その前のもまだ終わってないのに。氷室さんは、もうできた?』 『ああ』 『本当に? 私、昨日も遅くまでやってたんだけど、途中から何が正解なのか分からなくなっちゃって』  雪臣が短く答える間にも、多摩は一人で話を続けた。  多摩は、雪臣がいつも独りでいることにも、氷室財閥のことにも触れてくることはなかった。ただ、同じ学科の学生がすぐ傍でナポリタンを食べている光景だけがある。  それでも雪臣は、
last updateLast Updated : 2026-09-12
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第三十四話 『青』 ◆雪臣

 あの日から、多摩の姿を目にすることが増えた……。  正確に言うなら、自ら探しているから目にすることが増えたのだと、自覚していた。  必修が多い一年生という立場上、ほとんど同じ講義を受けているのだから、以前から近くにいたはずだった。けれど今は、講義室へ入ればどこに座っているのかがすぐに分かる。廊下の向こうから笑い声が聞こえるだけで、彼女だと気づく。  話しかけたい……と思ったことがなかったわけではない。  けれどなんと声をかければいいのか、分からなかった。  それは、物心がついたときから、ずっとだ。病弱に生まれ、幼少期のほとんどを氷室メディカルセンターの小児科とリハビリ科で過ごしていた。後から入ってきて、先に退院していく子どもを何度も病床で見送った。小学校へ入学してからは、さらに人との距離の取り方が分からなくなった。雪臣は、いつも周りと違いすぎた。  それに比べて多摩は、いつも友人に囲まれている。  学食でほんの数分、同じ時間を過ごしただけの自分に、多摩の輪の中へ入っていく理由などなかった。分かってはいる。それでも学食へ行くたび、雪臣は目の前の空席を見てしまう。また彼女が座るはずもないのに、ナポリタンを載せたトレーが近づいてこないかと期待していた。慰めにもならないが、家政婦の三板に夕食の献立をナポリタンにしてほしいと頼む回数だけが増えていった。  ――多摩。  課題へ取り組んでいるときも、多摩の姿を探しては、目が合いそうになり、雪臣が先に目を逸らす。その度に、あの言葉が何度も蘇った。  ――笑顔になれる資格って、誰にでもあると思うから。  図案の線を引く前に、誰が身につけるのか、その人に何を感じてほしいのかを考えるようになった。そう簡単に上手くは出来なかった。それでも、以前とは違うものを作りたいと思い始めていた。  ――多摩、今日も遅くまで課題に取り組んでいたのだろうか。  ――多摩なら、僕のこの図案をどう思うだろうか。  ――このあと学食にくるだろうか。多摩は、ナポリタンが好きなのだろうか。  いつの間にか、心の中で彼女の名前を呼ぶことが当たり前になっていた。その感情の名前は知らな
last updateLast Updated : 2026-09-14
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第三十五話 『一緒に』 ◆珠希

 旗艦店の見学と、メイユーとの昼食を終え、HIMURO MOTOMACHI本社へ戻ったその日の午後――珠希はプロジェクトルームAにいた。  珠希のもとへ、CAD担当者から先週頼んでいたマリッジリングの初回データが届いたのだ。図面をもとに起こされた二本のリングが、画面上で立体的に確認できるようになっている。平面では拾いきれなかった違和感や、実際に身につけたときの不都合を探すため、送られてきた項目を一つずつ確認していく。  ――雪臣さんも、このあと三十分ほど、プロジェクトルームへ入る予定ですよ。  先ほどこの部屋へ向かう途中、トイレで偶然すれ違った瀬原からそう聞かされ、驚いた。雪臣が今日も忙しいことは分かっている。それでも瀬原によれば、初回データを確認するために時間を取りたいと、雪臣が瀬原にスケジュールの調整を頼んだらしい。  CADのデータを開きながら、昼食の席で聞いたメイユーの話が、また頭に浮かんだ。  ――僕に聞くよりあの女性に。  今更八年も前のことを考えるなんてくだらない……と言えばそれまでだ。けれど、雪臣はなぜ、わざわざ関わりの乏しい自分のところへメイユーを連れて行ったのだろう。他にもオープンキャンパスの関係者はたくさんいたのに。珠希はどうしても引っかかりを覚えた。  本人に尋ねてみたい気もしたけれど……今は指輪の確認が先だ。珠希は疑問を胸の片隅へ置き、データの閲覧を続けた。  ほどなくして控えめなノックの音がして、ゆっくりと扉が開く。 「雪臣くん。おつかれさま」 「ずっと来られず申し訳ない。見てもいいか」 「もちろん。これ。さっき届いたデータ。そっちのパソコンへ転送した方がいい?」 「そのままでいい」  雪臣は本当に時間がないのか、向かいにある自分の机へは行かず、椅子を動かして珠希の隣へ座った。そして机の脇に杖を立てかけ、直接、珠希のパソコンの画面を覗く。  画面には、まだ色も質感も与えられていない二本のリングが並んでいる。  珠希はマウスを動かし、リングを一回転させた。  珠希のリングは、婚約指輪と重ねても石座に縁が当たらないようになっている。雪臣のものも、左
last updateLast Updated : 2026-09-15
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第三十六話 『彼のために』 ◆ルリカ

 金曜日の午後。  ルリカは、大型商業施設『シカクイ』本社の正面入口を見上げていた。  シカクイの店舗は、お客として何度も利用したことがある。しかし本社を訪れたことは一度もなかった。 「大丈夫……」  ルリカは自分に言い聞かせるように、握った拳を軽く胸にあてがった。  シカクイ最大規模の店舗である『渋谷シカクイ』には、HIMURO MOTOMACHIがテナントとして入っている。若年層の来店が多く、顧客によるSNSでの拡散も見込める場所だった。  ――渋谷シカクイの次の催事で、INUIを目立たせることができれば……上手くいく。  今日、企画を決める必要はない。後日販売促進部の担当者と直人を会わせる。そこまで繋げることに、集中する。喋る内容や所作の一つひとつも、この数日の準備で何度も頭に叩き込んだ。焦らず用意した通りに進めれば、きっと間違えない。  ルリカは宣伝部の社員証を受付で見せ、約束の相手を呼び出してもらった。  案内された応接室には、四十代ほどの男性と、若い女性社員が待っていた。二人から名刺を受け取り、ルリカも慌てて自分の名刺を差し出す。 「まぁまぁ、どうぞおかけください」  男性社員の方に促され、ルリカは緊張で声を震わせながら、「失礼します」と席についた。 「早速ですが、本日は、どのようなご提案でしょうか」  女性社員が手帳を開きながら言った。その声がどこか冷めているような気がして、ルリカの心拍数が上がっていく。  ――しっかりしなきゃ。 「はい。次の渋谷シカクイのブライダル催事に、INUI Jewelryを入れていただきたいんです」  ルリカは持参した資料をテーブルへ置き、事前に練習してきた言葉を順番に話し出した。ジュエリーだけではなく、館内のドレス店や写真館、飲食店も参加するブライダルフェア。メインアトリウムへ期間限定の売り場を設置し、館内を回遊する仕組みを作る。  男性社員はルリカが渡した資料へ目を落とし、難しい顔をした。 「ですが、弊社の渋谷の館にはHIMURO MOTOMACHIさんが長く出店されています。同じ宝飾品を扱うINUIさ
last updateLast Updated : 2026-09-16
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第三十七話 『珠希を幸せにしてくれますか』 ◆雪臣

 ついに迎えた、珠希の母親と会う約束をしていた日曜日。  午後、雪臣は左手で杖をつき、右手に小さな花のアレンジメントを抱えて、珠希と共に氷室メディカルセンターの廊下を歩いていた。 「あっ、田代先生……!」  珠希の声に廊下の先を見ると、産婦人科医の田代沙耶が売店のビニール袋を片手に、こちらに向かって歩いてきていた。 「珠希さん。久しぶりですね。その後、お身体は大丈夫ですか」 「はい。おかげさまで、少しずつですが回復しています」 「それは何よりです。……そして、どうしたんですか、氷室さん」  眉を顰め、雪臣の頭の先からつま先まで怪訝そうに眺めてきた田代。隣の珠希が苦笑する。 「どうもしていない」 「花、潰れますよ」  黄色と白の花を囲む透明のフィルムが、右手の中で音を立てた。雪臣は慌てて指の力を緩める。 「……まぁいいです。それでは、珠希さん。また、なにかあればいつでも診察にいらしてください」 「あ、はい。ありがとうございます」  すたすたと通り過ぎていく田代の背を見送り、雪臣は小さく息をついた。 「雪臣くん、そんなに気を張らなくても大丈夫だよ」 「張ってない」  反射的に否定したものの、実際、雪臣は緊張して昨日ほとんど眠れなかった。  何度か改装されてはいるが、ここは雪臣が幼少期の大半を過ごした病院だ。廊下の造りも、病室の扉が並ぶ景色も見慣れている。けれど今日は、かつての患者としてでも、氷室家の一員としてでもない。珠希の婚約者として、彼女の母親に会うために来たのだ。  そう意識するたび、家のように見慣れたはずの場所が、まるで別の世界のように感じられた。 「お母さんの病室、ここ」  入院棟の三階……廊下の突き当りで珠希が立ち止まった。雪臣は杖のグリップを握り直す。  娘さんを必ず幸せにします――とは言えない。  今日まで色々それらしい挨拶を考えてはいたが、納得できる言葉は、やはり見つからなかった。 「入るね?」 「…………」  雪臣が頷くと、珠希が扉を開けた。
last updateLast Updated : 2026-09-17
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第三十八話 『十年先』 ◆珠希

 研磨機の回転音が、アトリエに低く響いている。  母と雪臣が初めて顔を合わせてから、二週間あまりが経った。  あの日のことが、二人の間で話題に上ることは特になかった。それでも雪臣は、ときおり母の体調を珠希に尋ねてきた。特別な扱いをするわけではない。けれど、彼が母ときちんと向き合ってくれたという実感は、珠希の中に確かに残っていた。  婚姻前の記念として、雪茂から制作を求められたジュエリー――珠希と雪臣、二人の指輪も、完成へと近づいていた。修正後のCADデータを確認してから、原型の出力、細かな調整、鋳造と、これまでいくつもの工程を重ねてきた。  そして今日、二本のマリッジリングは、ようやく最終研磨の日を迎えることになったのだ。  なにかがひとつ進むたび、契約の話でしかなかった結婚が、少しずつ現実味を帯びてきた。隣にいる雪臣は、今、なにを思っているのだろうか。 「綺麗……」  ほんの小さな環を前に、思わず呟いた。職人がリングを研磨用の円盤へ慎重に当てるたびに、白く曇っていた地金の表面に、少しずつ光沢が生まれていく。 「仕上がりました」  職人が布の上へ並べた二本は、形こそ違うが、表面の高低差がひと続きの流れを作っている。 「雪臣くん、左手、貸してくれる?」  雪臣は近くの椅子に腰を下ろし、杖を右手に持ち替えて、ゆっくりと左手を差し出した。珠希がその手を取った瞬間、彼は反射的に手を引っ込め、右手から杖が滑り落ちた。カツン、と床を叩く音が響く。 「ど、どうしたの? 大丈夫?」 「申し訳ない」  珠希が床から杖を拾って渡すと、雪臣はただ気まずそうに下を向いていた。 「もう一度」  珠希は雪臣の手を取り、リングを薬指へ通した。 「平気そう? きつくない?」 「…………」  左手の薬指に嵌った指輪をじっと見つめている雪臣の瞳が、小さく揺れ動く。 「雪臣くん?」 「あぁ……大丈夫だ」 「よかった。私の方も確認してみよう」  珠希は婚約指輪を一度外すと、マリッジリングを自分の薬指にさっと嵌め、その上から再び婚
last updateLast Updated : 2026-09-18
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第三十九話 『その先には』 ◆珠希

 氷室家の本邸を訪れるのは、顔合わせの日以来だった。そのときはまだ、HIMUROへ入社もしていなかった。ほんのひと月ほど前の出来事だというのに、なんだか懐かしく感じてしまう。  応接室には、雪臣の祖父・雪茂だけでなく、父の秋夫と継母の日美呼、そして異母弟の悠乃介も揃っていた。以前、日美呼にも実力を見せてもらいたいと言われていた以上、全員の同席は予想できたことだった。  雪臣が二人で必ず作り上げると宣言した『期待を超えるジュエリー』を、ようやく形にすることができた。雪茂がどう評するかは分からない。けれど、雪臣と二人で作り上げた、全力の二本に変わりはなかった。  ソファの隣へ腰かけていた雪臣が、テーブルの中央に小さなリングケースを置いた。 「これが、僕と珠希さんの答えです」  雪臣がそっと蓋を開く。  雪茂はすぐには手を伸ばさなかった。身を乗り出し、ケースの中をしばらく眺めている。 「おお、これは……! 雪臣、でかした――」  最初に口を開いたのは、秋夫だった。その声に被せるように、日美呼が喋り出す。 「さすが、雪臣さんと、元・INUI Jewelryの珠希さんですわね。一本ずつはとても素晴らしい。……しかし。邪道とまでは言いませんけれど、これでは、老舗・HIMURO MOTOMACHIに相応しい、二本で一組の結婚指輪に見えないのではないかしら」  雪臣と何度も話し合い、互いの手に合わせて作った指輪だ。形が違うことにも、説明できる理由がある。 「同じ形に揃えることが、私たちにとっての一組ではないと考えました」  珠希は、リングをひとつずつ示した。 「私のリングは、婚約指輪の石座に当たらない形です。雪臣さんのリングは、杖を握るときに負担になりにくい幅と厚みにしました。それぞれ一本で完成し、並べると二つの曲線が新しい流れを作ります」 「なるほど。つまりはお二人だから成立する特注品という意味ですわよね? ねぇ、あなた」 「あ、あぁ……そうかもな……」  納得していない顔の日美呼が秋夫に視線を向ける。秋夫は困ったように眉を下げていた。 「HIMUROのデザイナーとしての実
last updateLast Updated : 2026-09-19
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