――お母さんが、雪臣くんに会いたいって。 その言葉を聞いてから、一時間ほどが経っていた。 「…………」 湯船に浸かりながら、雪臣は浴室の壁を見つめていた。 ……会いたくないわけではない。 氷室メディカルセンターへの転院手続きを進めるにあたり、珠希の母親の病状や受け入れ体制については、医療側に何度も確認をしてきた。 それなのに……珠希の母親本人に会うという発想だけが、完全に抜け落ちてしまっていた。 氷室家では、珠希を祖父や父たちへ婚約者として紹介した。 あのとき雪臣が気にしていたのは、珠希が何を聞かれるのか、何を言われるのかということばかりだった。 祖父がどこまで踏み込むのか。悠乃介が余計なことを言わないか。 珠希に居心地の悪い思いをさせないか。 自分は、珠希の意思を尊重したいと思いながらも、知らず知らずのうちに彼女を『見られる側』へ立たせてしまっていた。 ――今度は、僕が見られる側なのか。 「…………」 雪臣は、湯船の底に備え付けられた浴槽台に乗せていた右足を、ゆっくりと伸ばした。 ――一体、何を言えばいい。 取引先との会談なら、目的も議題も事前に分かる。必要な資料を読み、相手の求めるものを考えればいい。だが、娘の婚約者に会いたいと言う母親が、何を確認したいのかは予想がつかない。 年収。仕事。家柄――。 そういったデータだけではないことくらいは分かる。 珠希が直人と離婚していくらも経たぬうちに連れてきた男が、どういう人間なのか。 肘置きつきの補助用シャワーチェア、壁付けの手すり、浴槽に固定された移乗台――雪臣はそれぞれを順に見た。 自分は、生まれたときから制限がある。何不自由なく自分のことは自分で解決できると、胸を張って宣言することはできない……。そんな自分のことを、珠希の母親は、どう見るのか。 考えた途端、余計に正解が分からなくなった。 両手のひらで湯を掬い、顔に一度かける。前髪から湯が滴る音まで響きそうなほど、風呂の中は静かだった。 「…………珠希さんを僕に下さい……」
Last Updated : 2026-09-10 Read more