All Chapters of 氷室雪臣の環愛―契約結婚のはずですが、孤高の御曹司はマリッジリングを外さない―: Chapter 21 - Chapter 30

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第二十一話 『雪臣くんとタマの家』 ◆雪臣

 氷室百貨店の周年記念に向けた動きが徐々に本格化し、百貨店本部との協議が予想以上に長引いた。 瀬原の運転する車から降りたところで、腕時計を一瞥する。 ――だいぶ遅くなってしまった。 日はすっかり暮れ、夏夜の虫の音だけが聞こえていた。 疲れた体で杖をつき、本邸の脇を進んでいく。通りがかりに、悠乃介がいつも自転車を停めているスペースを確認したが、まだ帰宅していないらしく、そこには何もなかった。 杖をつくテンポが速まる。自宅の明かりがついていることを確認すると、雪臣は安堵の溜息をついた。珠希は無事に家に帰ってきているようだ。「…………」「あら、雪臣さん。おかえりなさい。ずいぶん遅かったですね」 玄関のドアを開けると、真っ先に家政婦の三板が出迎えた。「珠希様なら、二時間ほど前に無事にお戻りになりましたよ」 尋ねてもいないのにそう告げられ、気にしていたことを見透かされたようで、少し気恥ずかしくなる。 とはいえ、三板が面白がっているわけではないことは分かっている。彼女は二人の関係を契約結婚だとは思っていない。普通の婚約者同士なら、雪臣が珠希を案じるのも自然なことだろう。 三板にカバンを渡した後、室内用の杖に取り換え、ダイニングへ進む。  するとそこには、夕食を前にして、ただ座っているだけの珠希の姿があった。 箸置きの上には、恐らくまだ手に取っていない箸が綺麗に揃ったままになっている。「雪臣くん。おかえりなさい」「なぜ先に食べない」「なんか悪いかな……って」 珠希はそわそわした様子で、雪臣の顔を見上げた。 これ以上彼女を待たせまいと、雪臣は急いで洗面所へ向かい、手洗いを済ませる。 ――まだ、タマにとってはここでの暮らしが始まって二日目だ。気を遣わせてしまって申し訳ない……。+   +   + 三板が用意した夕食を終えた二人。ダイニングからほど近い台所の隅で、三板は椅子に腰掛け、本邸へ渡す日誌を
last updateLast Updated : 2026-08-31
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第二十二話 『タマだった』 ◆雪臣

「雪臣くんは、どうして私のことをタマって呼ぶの?」 不思議そうに首を傾げる珠希を前に、雪臣は、すぐにはなにも言えなかった。――意図して特別な呼び方をしているつもりはなかったからだ。 雪臣にとって珠希は、初めから『タマ』だった。「きみが周囲から――」 神芸大へ入学したばかりのころの光景が蘇ってくる――。◇   ◇   ◇ 桜がまだ残るころだった。必修の講義が始まる前、雪臣の席より少し前に座っていた珠希をそこで初めて見た。 数人の女子学生が集まる輪の中に、背中まで届く長い黒髪の女性がいた。それが珠希だった。 雪臣は彼女たちの横を、杖をつきながら一人で通り過ぎようとしていた。最前列の机に置かれた出席票を取りに行くためだった。 ――タマちゃん、もうどの部活に入るか決めた? 通り過ぎるとき、ふと誰かの声が耳に入り、その言葉に返事をする珠希の姿が目に留まった。 小さなときから友人と呼べる相手もいなかった雪臣には、誰かを愛称で呼んだ経験などない。だから、彼女は多摩(たま)という名字に『ちゃん』を付けて呼ばれているものだと、何の疑いもなく思ったのだ。  珠希の名前を知ったのは、それから季節がいくつか過ぎてからだった。 一年次の学科課題で制作した彼女の作品が評価され、展示室へ飾られたのだ。 ――すごいじゃん、タマちゃん! 友人に褒められてはにかむ彼女の前に、作品が飾られている。その傍らには、『白輪珠希』と記された作品票が添えられていた――。 ◇   ◇   ◇「――タマちゃん……と呼ばれていた」「あっ、懐かしい。学科の子たちに、そう呼ばれてたんだよね」「名字が、多摩なのだと思った」 珠希は目を丸くしたあと、堪えるように口元を押さえた。「タマちゃんは、珠希の『珠』からとったあだ名だよ」「もう知っている」「じゃあ、間違いだって分かってから、どうして直さなかったの?」 雪臣は答えに詰まった。  本名を知ったときには、すでに心の
last updateLast Updated : 2026-09-01
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第二十三話 『マヨ』 ◆珠希

 翌朝、珠希は目覚ましが鳴るよりも先に目を覚ました。  いつも以上に、しんとしている。 珠希がここで暮らし始めて、まだ今日で三日目。それでも三板がいない朝は、これまでとは違う顔をしていた。 顔を洗い、身支度を整えて台所に立つ。 料理を始める前に、右手のビーズリングを外して、カウンターの隅へそっと置いた。 冷蔵庫には、昨夜のうちに三板から教えてもらったとおりに食材が揃っていた。 卵とベーコンを焼き、パンをトースターへ入れる。 サラダボウルに野菜を盛りつければ、簡単な朝食のできあがりだ。 豪華とは言えない。それでも、用意されたものを受け取るだけではなく、自分の手でこの家の朝を作っている。 それだけで昨日までより少し、この家の床に自分の足で立てているような気がした。 最後にサラダへかけるものを探して、珠希は冷蔵庫の中を見回した。「あれ。おかしいな……」 扉側のポケットにも、調味料棚にも、ドレッシングが見当たらない。 三板に場所を確認するのを忘れていた。それとも氷室家では、その都度ドレッシングを手作りしているのだろうか……。 ――この家に来たからには、マヨネーズなんてベタベタしたものを使わないでちょうだい。 直人と結婚したばかりのころ、直恵から言われた言葉が蘇る。 乾家では、サラダには決まって白トリュフのオイルを使っていた。 乾家よりもはるかに大きな財閥である氷室家ならば、もっと特別なものを使っていてもおかしくない。「何を探している」 不意に背後から声をかけられ、珠希は肩を揺らした。振り返ると、スラックスにシャツ、そしていつものようにベストを身につけた雪臣が立っていた。 ベストは普段通りのアーガイル柄だったが、これまで見たものとは少しだけデザインが違う。 杖をついて立つ雪臣は、遅くまで仕事でもしていたのか、どこか眠り足りない顔をしていた。 時計を見ると、まだ七時五分前だった。「おはよう、雪臣くん」「…&h
last updateLast Updated : 2026-09-02
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第二十四話 『雪の結晶』 ◆珠希

「小さいころに、母と一緒に作ったの。と言っても、ほとんど私は見ていただけなんだけど」 雪臣の視線を追うように、珠希も指先のリングを見つめた。 母に教わりながら作った指輪だ。作ったのは、小学校へ上がるよりも前だったと思う。 初めて自分でなにかを作りあげた喜びもあった。 けれどそれ以上に、母が一粒ずつ通してくれた仕上げのビーズと、一緒に作った時間そのものが何よりも記憶に焼きついている。 母は最後にビーズで雪の結晶のモチーフを編み上げ、指輪のトップにあしらってくれた。 出来上がった指輪を右手にはめたとき、母は「珠希だけの宝物だね」と笑ってくれた。「ビーズリングの部分は何度もリメイクしているけど、この雪の結晶のモチーフだけは、最初からずっと同じものなんだ」「…………そうか」「うん。私がジュエリーを作りたいと思った原点みたいなものかな」 宝石と呼べるようなものは、当然一つも使われていない。 けれど珠希にとっては、どれほど高価な宝石にも代えられないものだった。「……一度だけ、失くしちゃったことがあるんだけどね」 そう口にすると、大学四年のころの記憶が蘇ってくる――。◇   ◇   ◇ 夏季休暇が明けて、卒業制作が本格的に始まった時期だった。 実家で暮らす母が、自宅の火災から逃げ遅れ、重度の火傷を負った。 何度も手術を受け、どうにか一命は取り留めたものの、まだ予断を許さない状態が続いていた。 大学と病院を往復する日々が続いた。 許された面会時間いっぱいまで母のそばにいる。そのあと大学へ戻り、遅れた分を取り戻すように卒業制作を進める。 返事のない母に他愛のない話をすることも、大学ゆきの八十八番バスも、すっかり日常の一部になっていた。 家に帰っても眠れず、目を閉じれば、全身を包帯で覆われた母の姿が浮かんだ。 ――このまま、目を覚まさなかったらどうしよう。 泣かない日はなかったが、卒業制作を投げ出すことはできなかった。
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第二十五話 『直人の救済』 ◆珠希

 雪の結晶が戻ってきたのは、なくしてから何日も経った、雨の日のことだった。 秋の終わりと冬の始まりの境目。夏季休暇が明けてから初めてカーディガンに袖を通したことを、なんとなく覚えている。◇   ◇   ◇ その日も珠希は、病院から大学へ向かった。卒業制作の進捗が予定よりも遅れていた。 濡れた靴のまま五階の研究室の工房へ入り、自分の席まで歩く。湿気を含んだ床材から独特なにおいが立ち込めていた。 時刻は十六時半手前。珠希以外の学生は残っておらず、仄暗い窓の外から響く雨音が、心の内側に靄をかけてくる。『……あ』 机の上にぽつんと置かれていたものを見つけたのは、鞄を下ろそうとしたときだった。 白い紙の上にある、ほんの小さなビーズのかたまり。 あの雪の結晶だった――。 テグスが切れた場所を通るたびに、何度も探していた。膝をついてまで地面を確認して、見つからなくても諦めることができなかった。 その雪の結晶が、傷一つなく、珠希の席へ戻ってきていたのだ。 震える指で拾い上げる。 見間違いではない。幼いころに母が一粒ずつ編んでくれた、珠希だけの宝ものだった。 下に敷かれていた紙は、スケッチブックを裂いたような、少し厚みのある白い紙だった。差出人の名前はなく、端の方に短い一言だけが記されていた。『誰?』 拾ってくれた人がまだ近くにいるかもしれない。珠希は咄嗟に廊下へ飛び出したが、そこには誰もいなかった。 工房の窓へ駆け寄り、五階からキャンパスを見下ろす。 雨の中、校門へ向かって歩いていく黒い傘が一つだけ見えた。ただ遠すぎて、男か女かも分からない。そもそも、その人物が雪の結晶を置いたのかさえ、珠希には確かめようがなかった。『…………っ』 珠希は雪の結晶を握りしめ、窓に額を押し付けた。結露に前髪が貼りつき、肩が震える。 ――まだ、すべてを失ったわけじゃない。 もしかしたら、母がもう一度目を覚ましてくれる日も来るのではないか。 失く
last updateLast Updated : 2026-09-04
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第二十六話 『二発』 ◆直人

 今日も帰り道まで、直人の苛立ちは収まらなかった。思い通りに動かないデザイン部と外商部、取引先の商業施設の責任者。神経を逆撫でする彼らを思い出し、直人は舌打ちした。 送迎車が自宅前に着くと、秘書が車のドアを開けて頭を下げた。直人は挨拶も返さず、その場を離れた。  自宅の玄関の扉を開けた瞬間、直人は息をつまらせた。 自分のものではない男性用の黒い革靴が、向きを揃えて置かれている。 使い込まれているのは分かるのに、新品同様の光沢を帯びた革を見て、瞬時に理解した。 ――父さんが帰ってきている……。 父――乾律人(いぬい・りつと)は、INUI Jewelryの前社長で、代表取締役会長に就任している。現在も大株主として経営に強い影響力を持っている。「……うわ…………」 直人は全く予想していなかった出来事に、目頭をつまんだ。ほとほと困り果て、深いため息を吐いた。 父はここ数年海外の取引先を回っていて、帰国はまだ先だと聞いていた。 予定を変えたのなら誰か知らせろと苛立ったが、声には出せない。 父が帰宅した日は、家の空気が変わる。子供のころからそうだった。家政婦の足音まで小さくなり、母は父の機嫌を損ねないことだけを考える。 リビングの扉は開いていた。 ソファーの中央に父が座り、その向かいには母がいる。 長旅から戻ったばかりだというのに、父はネクタイ一つ外してもいない。 日頃は家政婦に嫌味を垂れている母だが、今はその場に直立し、両手を下腹の上で固く組んでいる。鷹の前の雀のようだ。よく見ると、大ぶりな宝石で飾られた指が震えている。「……父さん、お、おつかれ」 なるべく足音をたてないようにリビングへ入ったが、すぐに父の眼鏡越しに目が合った。かける言葉も分からず、直人の声が裏返る。それに対して父は返事をしなかった。 直人に座るようにも言わず、父は一つだけ尋ねた。「嫁はどこだ」 直人は母を見た。
last updateLast Updated : 2026-09-05
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第二十七話 『乾の人間』 ◆直人

 二度目の拳を受け、直人は床へ膝をついた。 頬の内側が切れたのか、先ほどよりも濃い血の味がする。 それでも痛みに顔をしかめることさえできなかった。父がまだ、目の前で自分を見下ろしていたからだ。「お前が神本芸術大学へ進んだ理由を言ってみろ」 唐突な問いに、直人は眉を寄せた。「……経営者として、ジュエリーについて基礎から学ぶため――」 言葉を発するたびに口の中に鋭い痛みが走った。「そういう表向きの話じゃない」 即座に切り捨てられる。 大きなため息をついた父が、その場にしゃがみ込む。跪いている直人の前髪を乱暴に掴み、顔を引き寄せた。額が当たりそうなほどの距離で、父は囁いた。「あの年、氷室の長男が神芸大へ進むという情報を得た。だから、お前はあの大学へ送られた」「…………」「あの男の近くで学び、HIMUROを上回る人間になれ。それがお前を神芸大へ行かせた理由だったはずだが」 高校三年生の冬。 合格通知を見せた日も、父から祝いの言葉は何ひとつなかった。 ――ただ、氷室の長男と同じ講義室に入る切符を、手にしただけだ。 代わりに告げられた言葉を、直人は今でも覚えている。 大学も、専攻も、その先の進路も、直人が進む道の先には、いつも雪臣が立っていた。「あれから何年が経つ。お前はあの男の何を見ていた。その結果、INUIにどれだけの損失を与えた」「俺は……」「答える必要はない。結論は、もう出ている」 父は立ち上がり、跪いている直人を再び見下ろした。 そしてソファーの肘置きに掛けていたネクタイを手に取り、無表情でそれを畳む。「ち、違う! 珠希は俺の……乾の妻として本当に相応しくなかった! 子どもも産めないうえに、ルリカを――」「まだそんな話をしているのか」 直人の言葉が止まる。「あれが女として使えるかどうかなど聞いていない。ただHIMURO
last updateLast Updated : 2026-09-07
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第二十八話 『対』 ◆珠希

 洗い終わった食器を、水切りカゴへ並べていく。最後に雪臣のグラスを洗い、カゴの隅に置いた。 手を拭き、ビーズリングを右手の薬指に通す。そして左手の薬指には、雪臣から預かっている婚約指輪を嵌めた。「申し訳ない」 洗い物を終えてダイニングへ戻ってきた珠希を見るなり、雪臣がそう口にする。彼は椅子から立ち上がりかけ、結局また座った。どうにもそわそわした、落ち着かない様子に見える。 珠希がこの家に暮らし始めて今日で三日目になるが、当然まだ慣れたわけではない。そして、それは彼も同じみたいだ。「いいの。それより雪臣くん、今日は何時に出るの?」「八時に瀬原が迎えにくる」「えっ……八時って、もうあと二分だよ!?」 今にも長針が十二に重なりそうな時計を見て、珠希の肩が一度跳ねる。 雪臣は少し困惑したふうな顔をして、杖をついて席を立った。「まだ、洗い物をしてくれていた」「そんな、社長なんだし、気にしないで出発していいのに。瀬原さんが来ちゃう、急がなきゃ」 慌てだす珠希とは対照的に、雪臣はいつものようにベストの裾を整えた。「僕は今日、プロジェクトルームに顔を出せない」「え? あ、昨日言ってたもんね……来られる時間があまりないって」「百貨店の周年記念の打ち合わせで。申し訳ない」 雪臣が謝ることではない。 ただこれまで、雪臣と相談しながらマリッジリングの制作を進めていた。入社二日目にして、いきなり一人で大丈夫なものか、珠希には不安があるのも確かだった。「謝らないで。……けど、本当に私が進めてしまっていいの?」「二人で決めた軸は変わらない」 雪臣は足元に置いてあった鞄を手に取り、玄関に向かって歩き出す。「頼んだ。ただ、無理する必要はない」 短い言葉だった。 けれど、これまで何かと自分で抱え込んできた雪臣からの『頼んだ』は、珠希には思った以上に重く響いた。 玄関で靴を履き、扉を開ける雪臣の背中へ、珠希は何気なく声をかけた。
last updateLast Updated : 2026-09-08
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第二十九話 『その人の隣』 ◆珠希

 仕事を終えた珠希は、その足で地下鉄へ乗り込んだ。 氷室メディカルセンターへ向かっていた。 母が長く入院していた東京国際記念病院。そこから氷室メディカルセンターへ転院が完了するのは、今日の昼過ぎの予定だった。 本当は仕事を休んで付き添うつもりだった。けれど母から、「珠希の今やるべきことに集中してほしい」と言われ、搬送や手続きは医療ソーシャルワーカーたちに任せることになったのだ。 ほんの少し前の珠希なら、それを受け入れられなかったかもしれない。 物心がついたときから母と二人きりで生きてきた。これから先も、何かがあれば自分が支えなければならない――ずっと、そう思ってきたからだ。+   +   + 案内された病室へ入ると、大きな窓いっぱいに、沈む直前の夕日が輝いていた。「お母さん」 ベッドの上で本を読んでいた母が顔を上げる。「珠希。わざわざ来てくれたの?」「当たり前じゃない。それより、大丈夫だった? 疲れてない?」「大丈夫よ。皆さん、とても親切なの」 記念病院で固定されていた右足には、装具がつけられていた。 今しがたすれ違った看護師からも、火災や煙を連想させるものが母のパニック症状につながることについて、すでに申し送りを受けていると説明された。「良かった……」 珠希はようやく肩の力を抜いた。 契約結婚をするにあたり、珠希が提示した一つ目の条件。……母を、氷室メディカルセンターへ転院させてほしい。雪臣に伝えた願いが、今日、本当に形になった。 交通の便や、氷室財閥が管理する病院だからというだけで、この病院への転院を願い出たわけではなかった。 あの日――乾家から追い出され、流産し、絶望の淵に立っていた珠希を氷室メディカルセンターの職員たちが献身的に支えてくれた。 産婦人科、小児科、精神科、整形外科、リハビリテーション科。診療科は記念病院よりも限られているが、治療の後も続く患者の人生と向き合うという病院の理念に、強く惹かれていた。まさに、母と珠希が必要としている場所に思えたのだ。
last updateLast Updated : 2026-09-08
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第三十話 『会うほどに遠く』 ◆雪臣

 金曜日の昼過ぎ。会議室の席で、雪臣は資料へ目を落としていた。  氷室百貨店の周年記念に向けた打ち合わせは、予定していた時間を大幅に超えていた。 「限定商品の追加は可能です。ただ、今から点数を増やせば、試作と量産の工程が圧迫されますね……」  HIMURO MOTOMACHIの制作部長の意見に、百貨店側の企画部長が困ったような表情で、長い前髪を掻き上げた。   百貨店側から提示されたのは、周年記念商品の新作展開数を、当初より増やしたいという案だった。 「では、ジュエリーの受注販売の納期を遅らせるというのはいかがでしょう?」 「本企画の熱が冷めないうちに顧客へ届けたい」  即座に答えた雪臣に、百貨店の企画部長が目を泳がせながら俯いた。  なにも責める口調ではなかったが、思いのほか彼女には響いたらしい。 「点数の多さが目的ではなかったはずです」  司会者を挟んだ隣の席に着いている、氷室百貨店社長の氷室秋夫――父の顔を、雪臣は横目で見た。 「来場者が何に期待するか明確にすべきです」  会議室が静かになった。  販売部門、制作部門、百貨店側。それぞれの希望を整理しながら、雪臣はスケジュール表へ修正を書き込む。  ……すべての意見を通すことはできない。  だからといって、現場へ無理を押しつけて帳尻を合わせるつもりもなかった。自分の選択ひとつが、多くの従業員の生活へ影響を与える。念頭にあるのは、いつもその意識だった。  最終的には、周年記念の催事でのHIMUROの新作展開数は維持し、代わりに既存商品の展示方法と店頭演出を拡充する方向で話がまとまった。 「では、その案で再度見積もりをお願いします」  雪臣が資料を閉じると、長時間に及んだ会議はようやく終了した。  関係者たちが次々と退室していく。その背を見送りながら、瀬原が手元のタブレットを操作した。 「十分後に、次の打ち合わせです」 「分かった」    一度頷いてから、雪臣は聞いた。 「……珠希さんは」  瀬原の指が止まる。 「先ほどもプロジェクトルームへ伺いました。
last updateLast Updated : 2026-09-09
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