氷室百貨店の周年記念に向けた動きが徐々に本格化し、百貨店本部との協議が予想以上に長引いた。 瀬原の運転する車から降りたところで、腕時計を一瞥する。 ――だいぶ遅くなってしまった。 日はすっかり暮れ、夏夜の虫の音だけが聞こえていた。 疲れた体で杖をつき、本邸の脇を進んでいく。通りがかりに、悠乃介がいつも自転車を停めているスペースを確認したが、まだ帰宅していないらしく、そこには何もなかった。 杖をつくテンポが速まる。自宅の明かりがついていることを確認すると、雪臣は安堵の溜息をついた。珠希は無事に家に帰ってきているようだ。「…………」「あら、雪臣さん。おかえりなさい。ずいぶん遅かったですね」 玄関のドアを開けると、真っ先に家政婦の三板が出迎えた。「珠希様なら、二時間ほど前に無事にお戻りになりましたよ」 尋ねてもいないのにそう告げられ、気にしていたことを見透かされたようで、少し気恥ずかしくなる。 とはいえ、三板が面白がっているわけではないことは分かっている。彼女は二人の関係を契約結婚だとは思っていない。普通の婚約者同士なら、雪臣が珠希を案じるのも自然なことだろう。 三板にカバンを渡した後、室内用の杖に取り換え、ダイニングへ進む。 するとそこには、夕食を前にして、ただ座っているだけの珠希の姿があった。 箸置きの上には、恐らくまだ手に取っていない箸が綺麗に揃ったままになっている。「雪臣くん。おかえりなさい」「なぜ先に食べない」「なんか悪いかな……って」 珠希はそわそわした様子で、雪臣の顔を見上げた。 これ以上彼女を待たせまいと、雪臣は急いで洗面所へ向かい、手洗いを済ませる。 ――まだ、タマにとってはここでの暮らしが始まって二日目だ。気を遣わせてしまって申し訳ない……。+ + + 三板が用意した夕食を終えた二人。ダイニングからほど近い台所の隅で、三板は椅子に腰掛け、本邸へ渡す日誌を
Last Updated : 2026-08-31 Read more