車を手放そうと決めた日、買収業者の担当者は不思議そうにこちらを見た。「お客さん、この車は状態もいいですし、お値段も相場よりかなりお安くしていただいてます。どうしてそんなに急いで売ろうとなさるんですか?」車体の縁に指先を添えたまま、私・薄木青里(うすき あおり)は静かに答えた。「設定されたシートポジションメモリーが気に入らないからです」昨日は熱が39度まで上がり、全身がだるくて力が入らなかった。仕事を終えて助手席に乗り込むと、少しでも休もうと、背もたれを倒そうとした。指が調整ボタンに触れたその瞬間、手首をぎゅっと押さえられた。「触るな!」今浜涼太(いまはま りょうた)は、わずかに眉をひそめた。「助手席には美津のポジションメモリーが入ってるんだ。この前だって、お前が勝手に位置をずらしたせいで、美津は何日も腰を痛めて、歩くのも大変だっただろ」そう言うと、シート脇のボタンを押し、位置がずれていないか確かめた。それから、ようやく口調を和らげた。「美津は腰が弱いんだ。親友なんだから、もう少し気づかってやれ」私はその横顔を見つめながら、ふっとおかしく思った。付き合って6年、この助手席には、6年間ずっと私が座り続けてきた。それなのに、一度だって私のためにポジションメモリーを設定してくれたことがない。ところが、私の親友のためだけに、専用のメモリーを残していた。私は何も言い返さず、そのままドアを開けてまっすぐ後部座席へ移った。涼太はルームミラー越しにちらりと私を見たが、また機嫌を損ねたくらいにしか思わなかったのだろう。困ったように小さく首を振るだけで、引き止めるような言葉は何一つかけてこなかった。私は後部座席の窓にもたれ、ぼんやりと外を眺めている。そのとき、スマホに通知が届いた。来週予定していた婚約式の会場予約、キャンセルの手続きが完了した。涼太という男の隣に座るドライブは、もう、ここまでで十分だ。……車がマンションの前に止まったときも、雨はまだ降り続いていた。涼太は傘を差し、私を入り口まで送ってくれた。私が壁に手をついて一息つこうとしたそのとき、彼はふいに足を止めた。「先に上がっててくれ。ちょっと車に戻る」振り返ると、彼はそのまま雨の中へ駆け出していった。車のドアを開け
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