All Chapters of あなたの助手席を降りる: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

車を手放そうと決めた日、買収業者の担当者は不思議そうにこちらを見た。「お客さん、この車は状態もいいですし、お値段も相場よりかなりお安くしていただいてます。どうしてそんなに急いで売ろうとなさるんですか?」車体の縁に指先を添えたまま、私・薄木青里(うすき あおり)は静かに答えた。「設定されたシートポジションメモリーが気に入らないからです」昨日は熱が39度まで上がり、全身がだるくて力が入らなかった。仕事を終えて助手席に乗り込むと、少しでも休もうと、背もたれを倒そうとした。指が調整ボタンに触れたその瞬間、手首をぎゅっと押さえられた。「触るな!」今浜涼太(いまはま りょうた)は、わずかに眉をひそめた。「助手席には美津のポジションメモリーが入ってるんだ。この前だって、お前が勝手に位置をずらしたせいで、美津は何日も腰を痛めて、歩くのも大変だっただろ」そう言うと、シート脇のボタンを押し、位置がずれていないか確かめた。それから、ようやく口調を和らげた。「美津は腰が弱いんだ。親友なんだから、もう少し気づかってやれ」私はその横顔を見つめながら、ふっとおかしく思った。付き合って6年、この助手席には、6年間ずっと私が座り続けてきた。それなのに、一度だって私のためにポジションメモリーを設定してくれたことがない。ところが、私の親友のためだけに、専用のメモリーを残していた。私は何も言い返さず、そのままドアを開けてまっすぐ後部座席へ移った。涼太はルームミラー越しにちらりと私を見たが、また機嫌を損ねたくらいにしか思わなかったのだろう。困ったように小さく首を振るだけで、引き止めるような言葉は何一つかけてこなかった。私は後部座席の窓にもたれ、ぼんやりと外を眺めている。そのとき、スマホに通知が届いた。来週予定していた婚約式の会場予約、キャンセルの手続きが完了した。涼太という男の隣に座るドライブは、もう、ここまでで十分だ。……車がマンションの前に止まったときも、雨はまだ降り続いていた。涼太は傘を差し、私を入り口まで送ってくれた。私が壁に手をついて一息つこうとしたそのとき、彼はふいに足を止めた。「先に上がっててくれ。ちょっと車に戻る」振り返ると、彼はそのまま雨の中へ駆け出していった。車のドアを開け
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第2話

翌朝、玄関へ宅配便を受け取りに向かった。そこで真っ先に目に入ったのは、靴箱の一番取りやすい位置に並べられた、うさぎ柄のルームシューズだ。いつも私が履いている靴は、奥の隅へ押しやられていた。涼太がキッチンから出てきて、私が靴箱を見つめているのに気づくと、どこか気まずそうに口を開いた。「昨日、美津が家に来て俺を待ってたんだ。腰が悪いから、ずっと立たせるのもかわいそうでさ。青里の親友でもあるし、一足用意しただけだ。変に考えるな」私は小さくうなずいた。二人がいつからそんなに気安い仲になったのかも、どうして私のよく使う場所に他人の物を置いたのかも、何一つ聞かなかった。そのまま冷蔵庫へ向かい、水を取ろうと扉を開けると、内側に一枚の付箋が貼られていた。涼太の字だ。【美津はお茶やコーヒーが苦手で、ジュースが好き】いつも私が買い置きしていた缶コーヒーは、一番下の段へ追いやられていた。代わりに並んでいたのは、美津の好きなヨーグルトが2列。涼太が近づいてきて、そのうちの1個を私へ差し出した。「美津が腸活したいって言ったから買ってきたんだ。ちょうどいいだろ?お前も酸っぱいのが好きだし」私は口元だけ少し動かして笑い、冷蔵庫の扉を閉めた。違う。酸っぱいものが好きなのは、ずっと美津のほうだ。私の反応を見て、彼は何か思い出したように慌てて取り繕った。「ほら、病人相手なんだからさ。そんなことで張り合うな」言い終わるか終わらないかのうちに、彼のスマホが鳴った。美津から届いたボイスメッセージだ。慌てた拍子に、スピーカー再生になってしまった。「涼太、友達からM山ロープウェイのペアチケットをもらったよ。今週の土曜日、一緒に行かない?」彼は慌ただしく返事を打ちながら、何気ない口調で私に言った。「土曜日は美津とM山に行ってくる。夕飯は適当に済ませてくれ」私は顔を上げた。「誘ってくれないの?」彼はちらりとこちらを見た。その表情には、わずかな迷いもない。「行きたいなら、自分でチケットを買えばいい。美津は優しいから、気にしないと思う」ペットボトルを握る指先に、知らず知らずのうちに力が入っていた。私は何も言わなかった。こんなことは、もう何年も前から当たり前になっていた。抽選のプレゼントや、割引でペアチ
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第3話

美津はすぐに振り返り、申し訳なさそうな表情を浮かべた。​「美津のせいだよ。本当にごめんね。青里が後ろだとつらいなら、美津と代わってもいいよ。​腰は大丈夫だから。帰ったらリハビリを少し増やせばいいだけだし。美津のせいで二人が気まずくなるなんて嫌だもん」​そう言ってシートベルトを外そうとした瞬間、涼太は素早く彼女の肩を押さえた。​「動くな。やっとよくなってきたのに、また痛めたらどうする?」​そして私を振り返ると、その声には怒りがにじんでいる。​「青里、これ以上美津を困らせるな。あいつの腰がまだ治ってないぞ。お前だって知ってるだろ?少しくらい我慢できないのか」​「我慢なんてできない……車酔いするの!」​視界はすでに暗くかすみ始め、喉に酸っぱいものが込み上げてきた。​「車酔い?」​涼太は鼻で笑った。信じる気など、初めからない顔だ。​「今までそんなこと一度も言わなかったじゃないか。どうせまた面倒を起こしたいだけだろ」​ようやく駐車場に着くと、私はドアを押し開け、そのまま車外へ飛び出した。​トイレに入った途端、込み上げるものを堪えきれず、激しく吐いてしまった。​ふらつきながら外に出ると、壁に手をついて、何とか倒れずに済んだ。​涼太はそんな私を見ても微動だにせず、ただ車にもたれたまま眉をひそめた。​「せっかく遊びに来たのに、これじゃ台無しだな。本当に手がかかる」​美津は目を潤ませた。​「全部美津のせいだね……ペアチケットをもらわなければ、青里もこんな思いをしなくて済んだのに」​そう言って、自分の腰にそっと手を添え、無理をして立っているような素振りを見せた。​すると涼太はすぐに彼女の腰へ手を回し、そっと自分のほうへ引き寄せた。少しでも立ち疲れないようにという気遣いだ。​それから私の方へ目を向けた。​吐きすぎて涙まで流している私を見て、ようやく彼の表情が少しだけ和らいだ。​「もういいだろ。吐いたなら早く来い」​そう言うと、美津の肩を抱いたまま、ロープウェイ乗り場へ歩き出した。​石畳はでこぼこして歩きにくい。それでも前を行く二人はどんどん先へ進み、涼太は美津の腕を支えながら、一度も振り返ろうとはしなかった。​私は歯を食いしばって追いかけた。けれど突然、ぐきっと足首が大きくねじれた。
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第4話

足の痛みを何とか堪えながらロープウェイに乗り、頂上の景色を満喫した後のこと。空が裂けるような雷鳴が突然響き渡り、激しい風が豪雨を巻き込み、一気に叩きつけてきた。私は歯を食いしばり、片足を引きずりながら前へ進んだ。ようやくロープウェイ乗り場へ戻った頃には、全身がずぶ濡れになっていた。「悪天候のため、本日の営業は終了させていただきます。まもなく最終便の出発です。残り2名様がご乗車いただけます。至急ご搭乗をお願いいたします」係員が大声で叫んでいる。胸が締めつけられた。私は涼太の袖を掴み、かすれた声で言った。「涼太……お願い、乗らせて。もう歩けないの」すると美津は、彼の胸元へ身を寄せた。「涼太、雷怖いよ……それに腰もすごく痛いの。このまま歩いて下りたら、また悪くなっちゃう……」そして私を見上げ、目を赤くしながら言った。「青里、ごめんね。全部美津が悪いの。だから……二人乗っていいよ。美津は大丈夫だから」涼太は困ったような表情を浮かべた後、私に向き直って優しく言い聞かせた。「青里、ここで30分だけ待っててくれ。美津を下まで送ったら、すぐに車で迎えに戻る。彼女の腰は古傷だからな。雨に濡れて悪化したら大変だ」私は彼を見つめ、ふっと笑った。「私が足をひねったのは見えないの?どうして乗らせないの?ここで雨に打たれて待たなきゃいけないの?」「少しは思いやりを持てないのか?」彼の顔が険しく曇った。そして、着ていた上着を無造作に私へ放った。「これでも羽織ってろ。すぐ戻る。絶対に長くは待たせないから」ガチャンとゴンドラの扉が閉まり、鍵がかかる音が響いた。その音は、鈍い刃物で胸を深くえぐられたようだ。土砂降りの雨が容赦なく体を打ちつけている。涼太の上着はあっという間に冷え切り、何の役にも立たなくなった。私は誰もいない乗り場に立ち尽くし、雨煙の向こうへと消えていくゴンドラを見送った。結局、傷めた足を引きずりながら、一歩一歩、山を下りるしかなかった。雨と冷や汗が頬を伝って流れ落ちる。ようやく麓までたどり着いたその瞬間、限界が訪れ、その場に崩れ落ちた。翌日。涼太は、私とのトーク画面が静まり返っていることに、ようやく違和感を覚えた。車の鍵を手に取ったそのとき、母親から電話がかかってきた
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第5話

涼太は気でも狂ったように何度も電話をかけてきたが、私は出なかった。着信を消音にして、そのまま放っておいた。そして荷造りを始めた。半分ほどまとめた頃、玄関の外から怒りを押し殺した声が響いてきた。「青里!開けてくれ!」私はドアを開けた。そこには怒りをまとった涼太が立っている。美津は彼の後ろに身を隠し、目を真っ赤にしている。「どういうつもりで車なんか売ったんだ!」涼太は部屋へ踏み込み、私を問い詰めた。「二人で買った車だろ!売る前に俺へ相談くらいしろ!」私は壁にもたれながら、淡々と答えた。「頭金の7割を払ったよ。ローンも私名義で、毎月私の給与口座から引き落とされてるの。1年近く返済してきたけど、涼太が送ってきたお金は、合わせてもたった6万円だけ。私がお金を払い続けてきた車を売るのに、どうして涼太の許可がいるの?」「全部……美津のせい」美津が絶妙な間合いで口を挟んだ。「美津がいつも乗せてもらってたから、こんなことになっちゃったよね。お願いだから涼太を責めないで。美津が悪かったの。もう二度と頼ったりしないから」そう言って一歩下がろうとすると、涼太はすぐに彼女を支え、振り返って私を睨みつけた。「聞いただろ?美津だってこう言ってるんだ。まだ責め続けるのか?彼女がシートポジションメモリーを設定したことが気に入らなかっただろう?その程度の理由で車まで売るなんて大げさすぎる!婚約式の会場までキャンセルする必要がどこにある?」「大げさって?」私は眉を上げ、笑った。スマホを取り出し、ナビの履歴を開いて彼の前へ突きつけた。「この半年、通り道って言いながら街を半周しても美津を迎えに行ってたのね。けれど、私が夜中の2時まで残業して迎えを頼んだところ、2キロのためにガソリンがもったいないからタクシーで帰れって言ってくれた。助手席は彼女が座るのが当たり前で、私がシートを動かしただけで空気を読めって。涼太、それでも大げさって言うの?」美津の顔から血の気が引き、唇を噛みしめると涙がこぼれ落ちた。「青里……誤解しないで。涼太とは本当に何もないの。ただ腰が悪いから、少し気にかけてもらってるだけなの。そんなに嫌なら……もう二度と連絡しない。それでいいでしょ?」「いい人ぶるのはやめて」私
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第6話

腕を組み、涼太を見つめた。彼はその場に立ち尽くし、怒りで胸を激しく上下させている。完全に頭に血が上っているのが見て取れた。美津は私の視線に気づくと、慌てて涼太のそばへさらに身を寄せた。「涼太……その、お金なら……美津が払うわ。全部、美津のせいだから……」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、突然彼女の足元がぐらりと揺れ、そのまま床へ倒れ込みそうになった。涼太は思わず腕を伸ばし、彼女を抱き留めた。そして私を振り返り、その目は人でも殺しかねないほど鋭い。「青里!美津をここまで追い詰めたのは、お前だろ!」怒鳴り声が廊下中に響き渡った。「シートポジションメモリーが気に入らないだけで車を売ったり、婚約式の会場をキャンセルしたり……いったい何がしたいんだ!」私が黙っていると、彼はそれを「図星だ」と受け取ったらしい。「今ならまだ引き返せる。俺が折れてやるから、その話に乗れ。今すぐ買い取り店へ電話して、車の売却を取り消せ。婚約式の会場予約も元どおりに戻すんだ。それから美津に謝れ。そうすれば、この件は終わりだ。俺ももう責めたりしない」美津は彼の胸に寄りかかりながら、芝居がかった仕草で袖を引いた。「涼太、青里を責めないで……全部、美津が悪いの。これからはもう、二人の車には乗らないから」その瞬間、涼太の表情はさらに険しくなり、私を見据える目は冷え切っている。「やけに急に態度が変わったと思ったら……外に男でもできたんだろ?だから俺と縁を切って、そいつと一緒になりたいってわけか?」私が思わず笑ってしまった。「涼太、毎日のように街を半周して別の女を迎えに行って、助手席まで彼女の専用席にしてるのは誰?それなのに、私が浮気してるって疑うの?ずいぶん都合のいい考え方をしてるね」「俺は病人の面倒を見てただけだ!」彼は首を突き出し、苦しい言い訳を重ねた。私たちの言い争いが激しくなるのを見て、美津は突然「きゃっ!」と悲鳴を上げ、その場へ倒れ込んだ。「涼太……腰が痛い……」涼太は目を真っ赤にし、慌ててしゃがみ込んで彼女を支えた。そして私に向かって怒鳴った。「青里!わざと足を出して転ばせたんだろ!なんて性格の悪いやつなんだ!」騒ぎを聞きつけた近所の住人たちが、次々と玄関のドアを開けてこちら
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第7話

「あいつが折れて婚約を破棄したら、私は堂々とその家に住めるようになるでしょ。そうなれば、車も家も……全部、私の思いどおりになるんだから」録音が流れ終わった瞬間、涼太の顔から一気に血の気が引いた。彼は勢いよく腕の中の美津を見下ろした。美津は慌てて私のスマホへ手を伸ばした。「違う!そんなの嘘よ!加工した録音なんだから!美津を陥れようとしてるだけ!」私は身をひるがえしてその手をかわし、冷たく彼女を見つめた。「警察に音声鑑定してもらおうか?それとも、半年以上も腰のケガを演じ続けてきたことを説明してくれる?」「涼太、信じて!本当に違うの!」美津は泣きながら涼太の服を掴み、必死に揺さぶっている。「青里は美津を嫌ってるから、こんなものまで作って陥れようとしてるの!」それでも涼太は、思わず彼女をかばうよう前へ立った。「青里、今ここで録音を消して、美津に謝れ。そうすれば、まだ話し合える」「話し合いなら、もう結構」私はスマホをしまい、静かな声で告げた。「今日は一つ伝えに来ただけ。3日以内に、私の家に置いてある荷物をすべて引き取って。来なければ、そのままゴミ置き場へ捨てるから」そう言い残し、振り返ることなく歩き出した。背後から涼太の怒鳴り声が飛んできた。「青里!今ここで行ったら、絶対に後悔するぞ!」翌日。出勤すると、同僚たちの視線がどこか落ち着かない。私は気にも留めず、パソコンのフォルダを開いた。そこには整然と並んでいた。ナビの走行履歴、振込明細、そして昨日駅で録音した音声データ。慌てる必要はない。今はあの二人を好きにさせておけばいい。午後になり、部長が困ったような表情で私の席へやって来た。「薄木さん、会議室へ来てもらえる?来客がいるんだ。人事も同席してる」私はドアを開けた。美津が小さく身を縮めて椅子に座っており、目は真っ赤に腫れている。その隣には涼太。私の姿を見るなり、机を強く叩いた。「青里!いい加減にしろ!」私を指さし、怒鳴りつけた。「別れるのは勝手だ!でも、美津のヨガスタジオを潰そうとするなんて、一体どういうつもりだ!悪質な低評価レビューを書いて、脅迫メッセージまで送りつけるなんて!いつからそんな卑劣な人間になった!」美津は顔を上げ、涙がぽろぽろと頬を伝った。
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第8話

会議室は、一瞬にして静まり返った。涼太の顔は青ざめたり赤くなったりし、表情が少し固まった後、無理やり声を張り上げた。「捏造だ!全部お前が作った画像だ!美津を陥れるためなら、何だってやるつもりか!」美津も完全に取り乱し、何度も首を横に振った。「違う……本当に私じゃない……誰かが私を陥れたの……」私はスマホをしまい、静かに立ち上がった。「誰がやったかなんて。警察へ届ければ、すぐ分かるよ」「待ってくれ!」私が部屋を出ようとすると、涼太は慌てて叫んだ。「行くな!」私は振り返ることなく、そのまま会議室を後にした。その夜。家に帰るとすぐ、玄関のドアが壊れそうな勢いで叩かれた。ドアを開けると、涼太が険しい面持ちで押し入ってきた。リビングを一瞥した後、まっすぐ寝室へ駆け込んだ。戻ってきた彼の手には、一枚の男性用ワイシャツ。それを勢いよく、テーブルへ叩きつけた。「青里!まだ言い逃れする気か!」怒りで肩を震わせながら、私を睨みつけた。「どうりで、何が何でも別れたがるわけだ!家の中に男を隠してたんだな!6年の付き合いを、こんな形で裏切るのか!」美津は慌てて彼の腕を掴み、小さな声でなだめた。「涼太、落ち着いて。何かの勘違いかもしれないし、青里はそんなことをする人じゃないよ」私はソファにもたれたまま、身じろぎもしなかった。そんな私の態度が、涼太には気に入らなかったのだろう。「今すぐその男と縁を切れ。車も買い戻せ。婚約式の会場ももう一度予約しろ。それから美津へ謝れ。そうすれば、すべてなかったことにしてやる。これ以上、俺を本気で怒らせるな……」彼が言い終える前に、私はリビングの隅にある防犯カメラを指さした。「録画、見る?今日の午後3時17分、誰かが合鍵で私の部屋へ入って、寝室に12分間いた。出てきたときには、持ってた袋が空になってたよ」その瞬間、涼太の動きがぴたりと止まった。美津は慌てて首を振った。「違うの!涼太、私じゃないよ!青里の家の鍵なんて持ってないんだから!」私はスマホを取り出し、マンションの防犯カメラの映像を流した。そこには、袋を提げた美津が、私の部屋の鍵を開けて入っていく後ろ姿がはっきり映っている。「これでも違うって言うの?その合鍵。去年、お弁当を作るのにう
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第9話

涙を流しながら、美津は震える手でスマホを取り出した。「見て。これ、美津が撮った写真よ。それに、先週青里が通販で買ったあの高い腕時計、送り先はその男の家なの!青里はお金を持ち去って、その人と一緒になるつもりだったの。涼太が何も知らないままで傷つくのが嫌だから、ついあんなことを思いついてしまったの。追い詰めれば、青里が自分から本当のことを話すと思って……」涼太は画面を見つめたまま、顔を真っ青にしている。「本当は、一生隠しておくつもりだったの」美津はうつむき、小さな声で恐る恐る話を続けた。「6年も一緒だったんだもの。涼太には耐えられないと思って……ワイシャツを置いたのも、試したかっただけ。もし青里にやましいことがなければ、ちゃんと説明するはずだと思ったの。でも、まさか防犯カメラまで付けてて、逆に美津が悪者にされるなんて思わなかった」その涙ぐむ姿を見つめているうちに、涼太の心に残っていた疑いは、きれいさっぱり消えてしまった。慌てて彼女を抱き寄せた。「つらかったな。悪いのはあいつなのに、お前が全部背負わされたなんて」美津は彼の胸へ顔を埋め、泣き声を少し落ち着かせた。「平気よ。涼太が信じてくれるなら、それだけでいいの。でも、やっぱり青里とちゃんと話したほうがいいと思う。6年の付き合いなんだから、もし戻ってきてくれるなら、このことは水に流そう」「放っておけ」涼太の声は怒りに満ちている。「俺をここまでコケにしたんだ。必ず代償を払わせてやる。俺がいなくなって、あの男とうまくやっていけるか見ものだ」私は窓辺にもたれ、抱き合いながら去っていく二人の背中を見送った。胸の奥が静かに冷え切っていく。翌日の午前中。会議室で取引先と企画について打ち合わせをしている。突然、バンッと会議室のドアが乱暴に蹴り開けられた。涼太が怒りに満ちた顔で入ってきた。手には分厚い紙の束を持ち、それを会議机へ叩きつけた。取引先も同僚も一斉に静まり返った。印刷された内容を見た途端、全員の視線が私へ集まった。「青里!まだ言い訳する気か!」涼太は大声で怒鳴った。「俺の知らないところで初恋の男と切れてなかったくせに!被害者ぶって別れ話を切り出したのか!」私は何も言い返さず、そのまま彼を連れて路地裏にある小さな喫茶店へ向か
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第10話

「違うの、涼太!」美津はたちまち涙をこぼし、その場へ崩れ落ちるようにひざまずいた。「涼太が好きすぎただけなの!青里に奪われるのが怖くて、つい間違ったことをしてしまったの。お願い、見捨てないで!」泣き崩れながら、彼女は涼太の足へすがろうと手を伸ばした。だが、彼は嫌悪をあらわにして、その手を振り払った。「触るな!」涼太は疲れ切ったように目を閉じた。「……もう二度と、俺の前に現れるな」そう言い残し、彼はふらつく足取りで店を出ていった。私の前まで来ると、足を止めて静かに顔を上げた。けれど私はもう視線を外し、そのまま背を向けた。最初に言ったとおり、涼太という男の隣に座るドライブは、私にとって、とっくにゴールに着いていた。会社を出る頃には、空が夕闇に染まり始めていた。入り口を抜けると、涼太が一台の車にもたれかかって立っていた。私を見つけた途端、その目がぱっと明るくなった。急いで駆け寄り、私のカバンを持とうと手を伸ばした。私は身をかわして避けた。「青里、見てくれ」彼は車のドアを開け、助手席脇のボタンを押すと、シートが静かに後ろへ動き、ぴたりと決まった位置で止まった。「同じ車を買い直したんだ。シートも、青里が一番座りやすかった角度に合わせてある。ボタン一つで調整できる」そう言って、恐る恐る私の表情をうかがった。「前は俺が馬鹿だった。青里専用のポジションメモリーを設定するのを忘れてた。今からでも遅くない。これからは助手席はずっと青里だけの場所だ。誰にも座らせない」そう言うと、ポケットから小さな指輪の箱を取り出し、ゆっくりと開いて私へ差し出した。その声は震えている。「婚約式の会場をもう一度予約した。本当に悪かった。やり直すチャンスをくれ。昔みたいに戻れないか?」夕風が枯れ葉を巻き上げ、私たちの足元をかすめていく。新しい車。見慣れた助手席の角度。それを見つめながら、ふと6年前のことを思い出した。大学を卒業したばかりの頃、一緒に駅から20分以上も離れた狭いアパートで暮らし、彼は毎日駅まで仕事帰りの私を迎えに来てくれた。あの夜、彼はまっすぐな目で言った。「いつか車を買ったらさ。助手席のポジションメモリー、青里専用に設定しておく。座るだけで一番楽な位置になるように。あれこれ動かさ
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