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あなたの助手席を降りる

あなたの助手席を降りる

作家:  アスカ完了
言語: Japanese
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概要

切ない恋

ひいき/自己中

偽善

クズ男

後悔

不倫

車を手放そうと決めた日、買収業者の担当者は不思議そうにこちらを見た。 「お客さん、この車は状態もいいですし、お値段も相場よりかなりお安くしていただいてます。どうしてそんなに急いで売ろうとなさるんですか?」 車体の縁に指先を添えたまま、私・薄木青里(うすき あおり)は静かに答えた。 「設定されたシートポジションメモリーが気に入らないからです」 昨日は熱が39度まで上がり、全身がだるくて力が入らなかった。 仕事を終えて助手席に乗り込むと、少しでも休もうと、背もたれを倒そうとした。 指が調整ボタンに触れたその瞬間、手首をぎゅっと押さえられた。 「触るな!」 今浜涼太(いまはま りょうた)は、わずかに眉をひそめた。 「助手席には美津のポジションメモリーが入ってるんだ。この前だって、お前が勝手に位置をずらしたせいで、美津は何日も腰を痛めて、歩くのも大変だっただろ」 そう言うと、シート脇のボタンを押し、位置がずれていないか確かめた。 それから、ようやく口調を和らげた。 「美津は腰が弱いんだ。親友なんだから、もう少し気づかってやれ」 私はその横顔を見つめながら、ふっとおかしく思った。 付き合って6年、この助手席には、6年間ずっと私が座り続けてきた。 それなのに、一度だって私のためにポジションメモリーを設定してくれたことがない。 ところが、私の親友のためだけに、専用のメモリーを残していた。 私は何も言い返さず、そのままドアを開けてまっすぐ後部座席へ移った。 涼太はルームミラー越しにちらりと私を見たが、また機嫌を損ねたくらいにしか思わなかったのだろう。 困ったように小さく首を振るだけで、引き止めるような言葉は何一つかけてこなかった。 私は後部座席の窓にもたれ、ぼんやりと外を眺めている。そのとき、スマホに通知が届いた。 来週予定していた婚約式の会場予約、キャンセルの手続きが完了した。 涼太という男の隣に座るドライブは、もう、ここまでで十分だ。

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第1話

第1話

車を手放そうと決めた日、買収業者の担当者は不思議そうにこちらを見た。

「お客さん、この車は状態もいいですし、お値段も相場よりかなりお安くしていただいてます。どうしてそんなに急いで売ろうとなさるんですか?」

車体の縁に指先を添えたまま、私・薄木青里(うすき あおり)は静かに答えた。

「設定されたシートポジションメモリーが気に入らないからです」

昨日は熱が39度まで上がり、全身がだるくて力が入らなかった。

仕事を終えて助手席に乗り込むと、少しでも休もうと、背もたれを倒そうとした。

指が調整ボタンに触れたその瞬間、手首をぎゅっと押さえられた。

「触るな!」

今浜涼太(いまはま りょうた)は、わずかに眉をひそめた。

「助手席には美津のポジションメモリーが入ってるんだ。この前だって、お前が勝手に位置をずらしたせいで、美津は何日も腰を痛めて、歩くのも大変だっただろ」

そう言うと、シート脇のボタンを押し、位置がずれていないか確かめた。

それから、ようやく口調を和らげた。

「美津は腰が弱いんだ。親友なんだから、もう少し気づかってやれ」

私はその横顔を見つめながら、ふっとおかしく思った。

付き合って6年、この助手席には、6年間ずっと私が座り続けてきた。

それなのに、一度だって私のためにポジションメモリーを設定してくれたことがない。

ところが、私の親友のためだけに、専用のメモリーを残していた。

私は何も言い返さず、そのままドアを開けてまっすぐ後部座席へ移った。

涼太はルームミラー越しにちらりと私を見たが、また機嫌を損ねたくらいにしか思わなかったのだろう。

困ったように小さく首を振るだけで、引き止めるような言葉は何一つかけてこなかった。

私は後部座席の窓にもたれ、ぼんやりと外を眺めている。そのとき、スマホに通知が届いた。

来週予定していた婚約式の会場予約、キャンセルの手続きが完了した。

涼太という男の隣に座るドライブは、もう、ここまでで十分だ。

……

車がマンションの前に止まったときも、雨はまだ降り続いていた。

涼太は傘を差し、私を入り口まで送ってくれた。

私が壁に手をついて一息つこうとしたそのとき、彼はふいに足を止めた。

「先に上がっててくれ。ちょっと車に戻る」

振り返ると、彼はそのまま雨の中へ駆け出していった。

車のドアを開けるなり、助手席脇のボタンを二度押し、背もたれを軽く揺らして角度を確かめた。

さらに身をかがめて、シートの前後位置まで見比べ、一分の狂いもないと確かめてから、ようやくドアを閉めた。

肩の半分は雨で濡れているが、そんなことは少しも気にしていない。

その姿を見つめると、胸の奥がすっと冷えていく。

細やかな気遣いができない人じゃなかった。ただ、その気遣いを向けられる相手が、私ではなかっただけ。

家へ戻ると、私はそのままソファに倒れ込んだ。

その途端、スマホが小さく鳴った。

給与口座から77,800円の自動引き落としが完了したという内容だ。

この車の頭金は、私が7割、涼太が3割を出した。

ローンの名義も私で、引き落とし口座も私の口座を登録している。

あの頃、彼は毎月きちんとお金を振り込んできて、メッセージにはこう書いてあった。

【二人の車のローン代】

けれど、それもいつの間にかなくなった。

思い出したように1万円ぐらい送ってくることもあれば、忘れたまま何事もなかったように過ごす月もある。

私は一度も請求したことがなかった。どうせそのうち結婚するのだから、お金をきっちり分けるのはよそよそしいと思っていたから。

今思えば、本当に笑ってしまう。

車を支えてきたのは私なのに、助手席だけはいつの間にか別の誰かの指定席になっていた。

車のコネクテッドアプリを開いた。

よく使う目的地の一番上は、戸川美津(とがわ みつ)が経営しているヨガスタジオ。

二番目は、彼女が借りているマンション。

三番目でようやく、私の会社だ。

ここ3か月のナビ履歴を見ると、その大半は彼女を迎えに行くための遠回りばかり。

そのとき、ここ半年ほど涼太がよく口にしていた言葉を思い出した。

「ちょうど通り道だから」

「通り道だから、美津をヨガスタジオに送る」

「通り道だから、美津を家まで送る」

「通り道だから、美津のリハビリに付き添う」

私が深夜まで残業して迎えに来てほしいと電話をすると、返ってくるのは決まってこの一言だった。

「タクシーで帰っておいで。代金は後で払うから」

「通り道」の基準にも、ずいぶん個人差があるらしい。

好きな人のためなら、街を半周する回り道でも「通り道」になるのに、たった2キロ先ですら「ガソリンがもったいない」と思われる相手もいる。

涼太は白湯と薬を持って部屋へ入ってきて、手を伸ばして私の額に触れ、優しい声で言った。

「まだ熱いな。薬を飲んで、今日はもう寝ろ」

私はコップを受け取ったまま、何も答えなかった。

彼は小さくため息をつき、隣へ腰を下ろした。

「まだ車のことで怒ってるのか?美津はようやく腰がよくなってきたところなんだ。また悪くしたらかわいそうだろ。少しくらい譲ってやれ」

私はコップの中身を見つめたまま、淡々と話した。

「考えすぎ」

彼は一瞬、言葉を失った。まさか私がこんなにも静かな反応をするとは思っていなかったのだろう。

抱き寄せようと腕を伸ばしてきたが、私は身を引いて避けた。

「体調がよくなったら、モルディブに連れて行ってダイビングしよう。それで機嫌直せるだろ?」

以前の私なら、その言葉だけで折れていただろう。

でも今夜は、聞いているだけで吐き気がした。

そのとき、彼のスマホが鳴った。

画面に映っているのは美津の名前だ。

彼は思わず私の方へ目を向けた。

少し迷った後、スマホを手にベランダへ出て、ガラス戸を閉めた。

けれど、きちんと閉まっていなかったため、声ははっきりと耳に届いた。

「安心して。シートはちゃんと元に戻しておいたから。角度も、この前座ったときとまったく同じだ。

明日は時間どおり迎えに行って、そのままリハビリに連れて行く。腰は絶対痛くさせないから」

私はコップを握る指に、少しずつ力を込めていった。

そのまま中古車アプリを開き、車種などを入力して査定額を調べた。

続けて、ローンの残額も確かめた。

一括で返すには、昨日、新婚旅行をキャンセルしてもらった手付金でちょうど足りる。

あの旅行は、半年近くかけて計画したものだった。婚約式の後、二人で行くはずだった新婚旅行。

それなのに、昨日涼太はあまりにもあっさりと言った。

「美津のリハビリは休めないんだ。旅行はまた今度でいいだろ」

私は責めもしなければ、泣きもしなかった。すぐに航空券もホテルもすべてキャンセルした。

電話を終えた涼太は部屋へ戻り、そっと布団を掛け直してくれた。

「余計なこと考えないで、早く寝ろ」

私は目を閉じたまま、小さく「うん」と返した。

やがて浴室からシャワーの音を確かめてから、ゆっくり目を開けた。

中古車の査定画面をスクリーンショットで保存した。

もう助手席が私の居場所じゃないのなら、この車を置いておく価値なんてない。

彼も同じだ。

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第1話
車を手放そうと決めた日、買収業者の担当者は不思議そうにこちらを見た。「お客さん、この車は状態もいいですし、お値段も相場よりかなりお安くしていただいてます。どうしてそんなに急いで売ろうとなさるんですか?」車体の縁に指先を添えたまま、私・薄木青里(うすき あおり)は静かに答えた。「設定されたシートポジションメモリーが気に入らないからです」昨日は熱が39度まで上がり、全身がだるくて力が入らなかった。仕事を終えて助手席に乗り込むと、少しでも休もうと、背もたれを倒そうとした。指が調整ボタンに触れたその瞬間、手首をぎゅっと押さえられた。「触るな!」今浜涼太(いまはま りょうた)は、わずかに眉をひそめた。「助手席には美津のポジションメモリーが入ってるんだ。この前だって、お前が勝手に位置をずらしたせいで、美津は何日も腰を痛めて、歩くのも大変だっただろ」そう言うと、シート脇のボタンを押し、位置がずれていないか確かめた。それから、ようやく口調を和らげた。「美津は腰が弱いんだ。親友なんだから、もう少し気づかってやれ」私はその横顔を見つめながら、ふっとおかしく思った。付き合って6年、この助手席には、6年間ずっと私が座り続けてきた。それなのに、一度だって私のためにポジションメモリーを設定してくれたことがない。ところが、私の親友のためだけに、専用のメモリーを残していた。私は何も言い返さず、そのままドアを開けてまっすぐ後部座席へ移った。涼太はルームミラー越しにちらりと私を見たが、また機嫌を損ねたくらいにしか思わなかったのだろう。困ったように小さく首を振るだけで、引き止めるような言葉は何一つかけてこなかった。私は後部座席の窓にもたれ、ぼんやりと外を眺めている。そのとき、スマホに通知が届いた。来週予定していた婚約式の会場予約、キャンセルの手続きが完了した。涼太という男の隣に座るドライブは、もう、ここまでで十分だ。……車がマンションの前に止まったときも、雨はまだ降り続いていた。涼太は傘を差し、私を入り口まで送ってくれた。私が壁に手をついて一息つこうとしたそのとき、彼はふいに足を止めた。「先に上がっててくれ。ちょっと車に戻る」振り返ると、彼はそのまま雨の中へ駆け出していった。車のドアを開け
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第2話
翌朝、玄関へ宅配便を受け取りに向かった。そこで真っ先に目に入ったのは、靴箱の一番取りやすい位置に並べられた、うさぎ柄のルームシューズだ。いつも私が履いている靴は、奥の隅へ押しやられていた。涼太がキッチンから出てきて、私が靴箱を見つめているのに気づくと、どこか気まずそうに口を開いた。「昨日、美津が家に来て俺を待ってたんだ。腰が悪いから、ずっと立たせるのもかわいそうでさ。青里の親友でもあるし、一足用意しただけだ。変に考えるな」私は小さくうなずいた。二人がいつからそんなに気安い仲になったのかも、どうして私のよく使う場所に他人の物を置いたのかも、何一つ聞かなかった。そのまま冷蔵庫へ向かい、水を取ろうと扉を開けると、内側に一枚の付箋が貼られていた。涼太の字だ。【美津はお茶やコーヒーが苦手で、ジュースが好き】いつも私が買い置きしていた缶コーヒーは、一番下の段へ追いやられていた。代わりに並んでいたのは、美津の好きなヨーグルトが2列。涼太が近づいてきて、そのうちの1個を私へ差し出した。「美津が腸活したいって言ったから買ってきたんだ。ちょうどいいだろ?お前も酸っぱいのが好きだし」私は口元だけ少し動かして笑い、冷蔵庫の扉を閉めた。違う。酸っぱいものが好きなのは、ずっと美津のほうだ。私の反応を見て、彼は何か思い出したように慌てて取り繕った。「ほら、病人相手なんだからさ。そんなことで張り合うな」言い終わるか終わらないかのうちに、彼のスマホが鳴った。美津から届いたボイスメッセージだ。慌てた拍子に、スピーカー再生になってしまった。「涼太、友達からM山ロープウェイのペアチケットをもらったよ。今週の土曜日、一緒に行かない?」彼は慌ただしく返事を打ちながら、何気ない口調で私に言った。「土曜日は美津とM山に行ってくる。夕飯は適当に済ませてくれ」私は顔を上げた。「誘ってくれないの?」彼はちらりとこちらを見た。その表情には、わずかな迷いもない。「行きたいなら、自分でチケットを買えばいい。美津は優しいから、気にしないと思う」ペットボトルを握る指先に、知らず知らずのうちに力が入っていた。私は何も言わなかった。こんなことは、もう何年も前から当たり前になっていた。抽選のプレゼントや、割引でペアチ
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第3話
美津はすぐに振り返り、申し訳なさそうな表情を浮かべた。​「美津のせいだよ。本当にごめんね。青里が後ろだとつらいなら、美津と代わってもいいよ。​腰は大丈夫だから。帰ったらリハビリを少し増やせばいいだけだし。美津のせいで二人が気まずくなるなんて嫌だもん」​そう言ってシートベルトを外そうとした瞬間、涼太は素早く彼女の肩を押さえた。​「動くな。やっとよくなってきたのに、また痛めたらどうする?」​そして私を振り返ると、その声には怒りがにじんでいる。​「青里、これ以上美津を困らせるな。あいつの腰がまだ治ってないぞ。お前だって知ってるだろ?少しくらい我慢できないのか」​「我慢なんてできない……車酔いするの!」​視界はすでに暗くかすみ始め、喉に酸っぱいものが込み上げてきた。​「車酔い?」​涼太は鼻で笑った。信じる気など、初めからない顔だ。​「今までそんなこと一度も言わなかったじゃないか。どうせまた面倒を起こしたいだけだろ」​ようやく駐車場に着くと、私はドアを押し開け、そのまま車外へ飛び出した。​トイレに入った途端、込み上げるものを堪えきれず、激しく吐いてしまった。​ふらつきながら外に出ると、壁に手をついて、何とか倒れずに済んだ。​涼太はそんな私を見ても微動だにせず、ただ車にもたれたまま眉をひそめた。​「せっかく遊びに来たのに、これじゃ台無しだな。本当に手がかかる」​美津は目を潤ませた。​「全部美津のせいだね……ペアチケットをもらわなければ、青里もこんな思いをしなくて済んだのに」​そう言って、自分の腰にそっと手を添え、無理をして立っているような素振りを見せた。​すると涼太はすぐに彼女の腰へ手を回し、そっと自分のほうへ引き寄せた。少しでも立ち疲れないようにという気遣いだ。​それから私の方へ目を向けた。​吐きすぎて涙まで流している私を見て、ようやく彼の表情が少しだけ和らいだ。​「もういいだろ。吐いたなら早く来い」​そう言うと、美津の肩を抱いたまま、ロープウェイ乗り場へ歩き出した。​石畳はでこぼこして歩きにくい。それでも前を行く二人はどんどん先へ進み、涼太は美津の腕を支えながら、一度も振り返ろうとはしなかった。​私は歯を食いしばって追いかけた。けれど突然、ぐきっと足首が大きくねじれた。
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第4話
足の痛みを何とか堪えながらロープウェイに乗り、頂上の景色を満喫した後のこと。空が裂けるような雷鳴が突然響き渡り、激しい風が豪雨を巻き込み、一気に叩きつけてきた。私は歯を食いしばり、片足を引きずりながら前へ進んだ。ようやくロープウェイ乗り場へ戻った頃には、全身がずぶ濡れになっていた。「悪天候のため、本日の営業は終了させていただきます。まもなく最終便の出発です。残り2名様がご乗車いただけます。至急ご搭乗をお願いいたします」係員が大声で叫んでいる。胸が締めつけられた。私は涼太の袖を掴み、かすれた声で言った。「涼太……お願い、乗らせて。もう歩けないの」すると美津は、彼の胸元へ身を寄せた。「涼太、雷怖いよ……それに腰もすごく痛いの。このまま歩いて下りたら、また悪くなっちゃう……」そして私を見上げ、目を赤くしながら言った。「青里、ごめんね。全部美津が悪いの。だから……二人乗っていいよ。美津は大丈夫だから」涼太は困ったような表情を浮かべた後、私に向き直って優しく言い聞かせた。「青里、ここで30分だけ待っててくれ。美津を下まで送ったら、すぐに車で迎えに戻る。彼女の腰は古傷だからな。雨に濡れて悪化したら大変だ」私は彼を見つめ、ふっと笑った。「私が足をひねったのは見えないの?どうして乗らせないの?ここで雨に打たれて待たなきゃいけないの?」「少しは思いやりを持てないのか?」彼の顔が険しく曇った。そして、着ていた上着を無造作に私へ放った。「これでも羽織ってろ。すぐ戻る。絶対に長くは待たせないから」ガチャンとゴンドラの扉が閉まり、鍵がかかる音が響いた。その音は、鈍い刃物で胸を深くえぐられたようだ。土砂降りの雨が容赦なく体を打ちつけている。涼太の上着はあっという間に冷え切り、何の役にも立たなくなった。私は誰もいない乗り場に立ち尽くし、雨煙の向こうへと消えていくゴンドラを見送った。結局、傷めた足を引きずりながら、一歩一歩、山を下りるしかなかった。雨と冷や汗が頬を伝って流れ落ちる。ようやく麓までたどり着いたその瞬間、限界が訪れ、その場に崩れ落ちた。翌日。涼太は、私とのトーク画面が静まり返っていることに、ようやく違和感を覚えた。車の鍵を手に取ったそのとき、母親から電話がかかってきた
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第5話
涼太は気でも狂ったように何度も電話をかけてきたが、私は出なかった。着信を消音にして、そのまま放っておいた。そして荷造りを始めた。半分ほどまとめた頃、玄関の外から怒りを押し殺した声が響いてきた。「青里!開けてくれ!」私はドアを開けた。そこには怒りをまとった涼太が立っている。美津は彼の後ろに身を隠し、目を真っ赤にしている。「どういうつもりで車なんか売ったんだ!」涼太は部屋へ踏み込み、私を問い詰めた。「二人で買った車だろ!売る前に俺へ相談くらいしろ!」私は壁にもたれながら、淡々と答えた。「頭金の7割を払ったよ。ローンも私名義で、毎月私の給与口座から引き落とされてるの。1年近く返済してきたけど、涼太が送ってきたお金は、合わせてもたった6万円だけ。私がお金を払い続けてきた車を売るのに、どうして涼太の許可がいるの?」「全部……美津のせい」美津が絶妙な間合いで口を挟んだ。「美津がいつも乗せてもらってたから、こんなことになっちゃったよね。お願いだから涼太を責めないで。美津が悪かったの。もう二度と頼ったりしないから」そう言って一歩下がろうとすると、涼太はすぐに彼女を支え、振り返って私を睨みつけた。「聞いただろ?美津だってこう言ってるんだ。まだ責め続けるのか?彼女がシートポジションメモリーを設定したことが気に入らなかっただろう?その程度の理由で車まで売るなんて大げさすぎる!婚約式の会場までキャンセルする必要がどこにある?」「大げさって?」私は眉を上げ、笑った。スマホを取り出し、ナビの履歴を開いて彼の前へ突きつけた。「この半年、通り道って言いながら街を半周しても美津を迎えに行ってたのね。けれど、私が夜中の2時まで残業して迎えを頼んだところ、2キロのためにガソリンがもったいないからタクシーで帰れって言ってくれた。助手席は彼女が座るのが当たり前で、私がシートを動かしただけで空気を読めって。涼太、それでも大げさって言うの?」美津の顔から血の気が引き、唇を噛みしめると涙がこぼれ落ちた。「青里……誤解しないで。涼太とは本当に何もないの。ただ腰が悪いから、少し気にかけてもらってるだけなの。そんなに嫌なら……もう二度と連絡しない。それでいいでしょ?」「いい人ぶるのはやめて」私
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第6話
腕を組み、涼太を見つめた。彼はその場に立ち尽くし、怒りで胸を激しく上下させている。完全に頭に血が上っているのが見て取れた。美津は私の視線に気づくと、慌てて涼太のそばへさらに身を寄せた。「涼太……その、お金なら……美津が払うわ。全部、美津のせいだから……」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、突然彼女の足元がぐらりと揺れ、そのまま床へ倒れ込みそうになった。涼太は思わず腕を伸ばし、彼女を抱き留めた。そして私を振り返り、その目は人でも殺しかねないほど鋭い。「青里!美津をここまで追い詰めたのは、お前だろ!」怒鳴り声が廊下中に響き渡った。「シートポジションメモリーが気に入らないだけで車を売ったり、婚約式の会場をキャンセルしたり……いったい何がしたいんだ!」私が黙っていると、彼はそれを「図星だ」と受け取ったらしい。「今ならまだ引き返せる。俺が折れてやるから、その話に乗れ。今すぐ買い取り店へ電話して、車の売却を取り消せ。婚約式の会場予約も元どおりに戻すんだ。それから美津に謝れ。そうすれば、この件は終わりだ。俺ももう責めたりしない」美津は彼の胸に寄りかかりながら、芝居がかった仕草で袖を引いた。「涼太、青里を責めないで……全部、美津が悪いの。これからはもう、二人の車には乗らないから」その瞬間、涼太の表情はさらに険しくなり、私を見据える目は冷え切っている。「やけに急に態度が変わったと思ったら……外に男でもできたんだろ?だから俺と縁を切って、そいつと一緒になりたいってわけか?」私が思わず笑ってしまった。「涼太、毎日のように街を半周して別の女を迎えに行って、助手席まで彼女の専用席にしてるのは誰?それなのに、私が浮気してるって疑うの?ずいぶん都合のいい考え方をしてるね」「俺は病人の面倒を見てただけだ!」彼は首を突き出し、苦しい言い訳を重ねた。私たちの言い争いが激しくなるのを見て、美津は突然「きゃっ!」と悲鳴を上げ、その場へ倒れ込んだ。「涼太……腰が痛い……」涼太は目を真っ赤にし、慌ててしゃがみ込んで彼女を支えた。そして私に向かって怒鳴った。「青里!わざと足を出して転ばせたんだろ!なんて性格の悪いやつなんだ!」騒ぎを聞きつけた近所の住人たちが、次々と玄関のドアを開けてこちら
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第7話
「あいつが折れて婚約を破棄したら、私は堂々とその家に住めるようになるでしょ。そうなれば、車も家も……全部、私の思いどおりになるんだから」録音が流れ終わった瞬間、涼太の顔から一気に血の気が引いた。彼は勢いよく腕の中の美津を見下ろした。美津は慌てて私のスマホへ手を伸ばした。「違う!そんなの嘘よ!加工した録音なんだから!美津を陥れようとしてるだけ!」私は身をひるがえしてその手をかわし、冷たく彼女を見つめた。「警察に音声鑑定してもらおうか?それとも、半年以上も腰のケガを演じ続けてきたことを説明してくれる?」「涼太、信じて!本当に違うの!」美津は泣きながら涼太の服を掴み、必死に揺さぶっている。「青里は美津を嫌ってるから、こんなものまで作って陥れようとしてるの!」それでも涼太は、思わず彼女をかばうよう前へ立った。「青里、今ここで録音を消して、美津に謝れ。そうすれば、まだ話し合える」「話し合いなら、もう結構」私はスマホをしまい、静かな声で告げた。「今日は一つ伝えに来ただけ。3日以内に、私の家に置いてある荷物をすべて引き取って。来なければ、そのままゴミ置き場へ捨てるから」そう言い残し、振り返ることなく歩き出した。背後から涼太の怒鳴り声が飛んできた。「青里!今ここで行ったら、絶対に後悔するぞ!」翌日。出勤すると、同僚たちの視線がどこか落ち着かない。私は気にも留めず、パソコンのフォルダを開いた。そこには整然と並んでいた。ナビの走行履歴、振込明細、そして昨日駅で録音した音声データ。慌てる必要はない。今はあの二人を好きにさせておけばいい。午後になり、部長が困ったような表情で私の席へやって来た。「薄木さん、会議室へ来てもらえる?来客がいるんだ。人事も同席してる」私はドアを開けた。美津が小さく身を縮めて椅子に座っており、目は真っ赤に腫れている。その隣には涼太。私の姿を見るなり、机を強く叩いた。「青里!いい加減にしろ!」私を指さし、怒鳴りつけた。「別れるのは勝手だ!でも、美津のヨガスタジオを潰そうとするなんて、一体どういうつもりだ!悪質な低評価レビューを書いて、脅迫メッセージまで送りつけるなんて!いつからそんな卑劣な人間になった!」美津は顔を上げ、涙がぽろぽろと頬を伝った。
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第8話
会議室は、一瞬にして静まり返った。涼太の顔は青ざめたり赤くなったりし、表情が少し固まった後、無理やり声を張り上げた。「捏造だ!全部お前が作った画像だ!美津を陥れるためなら、何だってやるつもりか!」美津も完全に取り乱し、何度も首を横に振った。「違う……本当に私じゃない……誰かが私を陥れたの……」私はスマホをしまい、静かに立ち上がった。「誰がやったかなんて。警察へ届ければ、すぐ分かるよ」「待ってくれ!」私が部屋を出ようとすると、涼太は慌てて叫んだ。「行くな!」私は振り返ることなく、そのまま会議室を後にした。その夜。家に帰るとすぐ、玄関のドアが壊れそうな勢いで叩かれた。ドアを開けると、涼太が険しい面持ちで押し入ってきた。リビングを一瞥した後、まっすぐ寝室へ駆け込んだ。戻ってきた彼の手には、一枚の男性用ワイシャツ。それを勢いよく、テーブルへ叩きつけた。「青里!まだ言い逃れする気か!」怒りで肩を震わせながら、私を睨みつけた。「どうりで、何が何でも別れたがるわけだ!家の中に男を隠してたんだな!6年の付き合いを、こんな形で裏切るのか!」美津は慌てて彼の腕を掴み、小さな声でなだめた。「涼太、落ち着いて。何かの勘違いかもしれないし、青里はそんなことをする人じゃないよ」私はソファにもたれたまま、身じろぎもしなかった。そんな私の態度が、涼太には気に入らなかったのだろう。「今すぐその男と縁を切れ。車も買い戻せ。婚約式の会場ももう一度予約しろ。それから美津へ謝れ。そうすれば、すべてなかったことにしてやる。これ以上、俺を本気で怒らせるな……」彼が言い終える前に、私はリビングの隅にある防犯カメラを指さした。「録画、見る?今日の午後3時17分、誰かが合鍵で私の部屋へ入って、寝室に12分間いた。出てきたときには、持ってた袋が空になってたよ」その瞬間、涼太の動きがぴたりと止まった。美津は慌てて首を振った。「違うの!涼太、私じゃないよ!青里の家の鍵なんて持ってないんだから!」私はスマホを取り出し、マンションの防犯カメラの映像を流した。そこには、袋を提げた美津が、私の部屋の鍵を開けて入っていく後ろ姿がはっきり映っている。「これでも違うって言うの?その合鍵。去年、お弁当を作るのにう
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第9話
涙を流しながら、美津は震える手でスマホを取り出した。「見て。これ、美津が撮った写真よ。それに、先週青里が通販で買ったあの高い腕時計、送り先はその男の家なの!青里はお金を持ち去って、その人と一緒になるつもりだったの。涼太が何も知らないままで傷つくのが嫌だから、ついあんなことを思いついてしまったの。追い詰めれば、青里が自分から本当のことを話すと思って……」涼太は画面を見つめたまま、顔を真っ青にしている。「本当は、一生隠しておくつもりだったの」美津はうつむき、小さな声で恐る恐る話を続けた。「6年も一緒だったんだもの。涼太には耐えられないと思って……ワイシャツを置いたのも、試したかっただけ。もし青里にやましいことがなければ、ちゃんと説明するはずだと思ったの。でも、まさか防犯カメラまで付けてて、逆に美津が悪者にされるなんて思わなかった」その涙ぐむ姿を見つめているうちに、涼太の心に残っていた疑いは、きれいさっぱり消えてしまった。慌てて彼女を抱き寄せた。「つらかったな。悪いのはあいつなのに、お前が全部背負わされたなんて」美津は彼の胸へ顔を埋め、泣き声を少し落ち着かせた。「平気よ。涼太が信じてくれるなら、それだけでいいの。でも、やっぱり青里とちゃんと話したほうがいいと思う。6年の付き合いなんだから、もし戻ってきてくれるなら、このことは水に流そう」「放っておけ」涼太の声は怒りに満ちている。「俺をここまでコケにしたんだ。必ず代償を払わせてやる。俺がいなくなって、あの男とうまくやっていけるか見ものだ」私は窓辺にもたれ、抱き合いながら去っていく二人の背中を見送った。胸の奥が静かに冷え切っていく。翌日の午前中。会議室で取引先と企画について打ち合わせをしている。突然、バンッと会議室のドアが乱暴に蹴り開けられた。涼太が怒りに満ちた顔で入ってきた。手には分厚い紙の束を持ち、それを会議机へ叩きつけた。取引先も同僚も一斉に静まり返った。印刷された内容を見た途端、全員の視線が私へ集まった。「青里!まだ言い訳する気か!」涼太は大声で怒鳴った。「俺の知らないところで初恋の男と切れてなかったくせに!被害者ぶって別れ話を切り出したのか!」私は何も言い返さず、そのまま彼を連れて路地裏にある小さな喫茶店へ向か
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第10話
「違うの、涼太!」美津はたちまち涙をこぼし、その場へ崩れ落ちるようにひざまずいた。「涼太が好きすぎただけなの!青里に奪われるのが怖くて、つい間違ったことをしてしまったの。お願い、見捨てないで!」泣き崩れながら、彼女は涼太の足へすがろうと手を伸ばした。だが、彼は嫌悪をあらわにして、その手を振り払った。「触るな!」涼太は疲れ切ったように目を閉じた。「……もう二度と、俺の前に現れるな」そう言い残し、彼はふらつく足取りで店を出ていった。私の前まで来ると、足を止めて静かに顔を上げた。けれど私はもう視線を外し、そのまま背を向けた。最初に言ったとおり、涼太という男の隣に座るドライブは、私にとって、とっくにゴールに着いていた。会社を出る頃には、空が夕闇に染まり始めていた。入り口を抜けると、涼太が一台の車にもたれかかって立っていた。私を見つけた途端、その目がぱっと明るくなった。急いで駆け寄り、私のカバンを持とうと手を伸ばした。私は身をかわして避けた。「青里、見てくれ」彼は車のドアを開け、助手席脇のボタンを押すと、シートが静かに後ろへ動き、ぴたりと決まった位置で止まった。「同じ車を買い直したんだ。シートも、青里が一番座りやすかった角度に合わせてある。ボタン一つで調整できる」そう言って、恐る恐る私の表情をうかがった。「前は俺が馬鹿だった。青里専用のポジションメモリーを設定するのを忘れてた。今からでも遅くない。これからは助手席はずっと青里だけの場所だ。誰にも座らせない」そう言うと、ポケットから小さな指輪の箱を取り出し、ゆっくりと開いて私へ差し出した。その声は震えている。「婚約式の会場をもう一度予約した。本当に悪かった。やり直すチャンスをくれ。昔みたいに戻れないか?」夕風が枯れ葉を巻き上げ、私たちの足元をかすめていく。新しい車。見慣れた助手席の角度。それを見つめながら、ふと6年前のことを思い出した。大学を卒業したばかりの頃、一緒に駅から20分以上も離れた狭いアパートで暮らし、彼は毎日駅まで仕事帰りの私を迎えに来てくれた。あの夜、彼はまっすぐな目で言った。「いつか車を買ったらさ。助手席のポジションメモリー、青里専用に設定しておく。座るだけで一番楽な位置になるように。あれこれ動かさ
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