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あなたの助手席を降りる
あなたの助手席を降りる
作者: アスカ

第1話

作者: アスカ
車を手放そうと決めた日、買収業者の担当者は不思議そうにこちらを見た。

「お客さん、この車は状態もいいですし、お値段も相場よりかなりお安くしていただいてます。どうしてそんなに急いで売ろうとなさるんですか?」

車体の縁に指先を添えたまま、私・薄木青里(うすき あおり)は静かに答えた。

「設定されたシートポジションメモリーが気に入らないからです」

昨日は熱が39度まで上がり、全身がだるくて力が入らなかった。

仕事を終えて助手席に乗り込むと、少しでも休もうと、背もたれを倒そうとした。

指が調整ボタンに触れたその瞬間、手首をぎゅっと押さえられた。

「触るな!」

今浜涼太(いまはま りょうた)は、わずかに眉をひそめた。

「助手席には美津のポジションメモリーが入ってるんだ。この前だって、お前が勝手に位置をずらしたせいで、美津は何日も腰を痛めて、歩くのも大変だっただろ」

そう言うと、シート脇のボタンを押し、位置がずれていないか確かめた。

それから、ようやく口調を和らげた。

「美津は腰が弱いんだ。親友なんだから、もう少し気づかってやれ」

私はその横顔を見つめながら、ふっとおかしく思った。

付き合って6年、この助手席には、6年間ずっと私が座り続けてきた。

それなのに、一度だって私のためにポジションメモリーを設定してくれたことがない。

ところが、私の親友のためだけに、専用のメモリーを残していた。

私は何も言い返さず、そのままドアを開けてまっすぐ後部座席へ移った。

涼太はルームミラー越しにちらりと私を見たが、また機嫌を損ねたくらいにしか思わなかったのだろう。

困ったように小さく首を振るだけで、引き止めるような言葉は何一つかけてこなかった。

私は後部座席の窓にもたれ、ぼんやりと外を眺めている。そのとき、スマホに通知が届いた。

来週予定していた婚約式の会場予約、キャンセルの手続きが完了した。

涼太という男の隣に座るドライブは、もう、ここまでで十分だ。

……

車がマンションの前に止まったときも、雨はまだ降り続いていた。

涼太は傘を差し、私を入り口まで送ってくれた。

私が壁に手をついて一息つこうとしたそのとき、彼はふいに足を止めた。

「先に上がっててくれ。ちょっと車に戻る」

振り返ると、彼はそのまま雨の中へ駆け出していった。

車のドアを開けるなり、助手席脇のボタンを二度押し、背もたれを軽く揺らして角度を確かめた。

さらに身をかがめて、シートの前後位置まで見比べ、一分の狂いもないと確かめてから、ようやくドアを閉めた。

肩の半分は雨で濡れているが、そんなことは少しも気にしていない。

その姿を見つめると、胸の奥がすっと冷えていく。

細やかな気遣いができない人じゃなかった。ただ、その気遣いを向けられる相手が、私ではなかっただけ。

家へ戻ると、私はそのままソファに倒れ込んだ。

その途端、スマホが小さく鳴った。

給与口座から77,800円の自動引き落としが完了したという内容だ。

この車の頭金は、私が7割、涼太が3割を出した。

ローンの名義も私で、引き落とし口座も私の口座を登録している。

あの頃、彼は毎月きちんとお金を振り込んできて、メッセージにはこう書いてあった。

【二人の車のローン代】

けれど、それもいつの間にかなくなった。

思い出したように1万円ぐらい送ってくることもあれば、忘れたまま何事もなかったように過ごす月もある。

私は一度も請求したことがなかった。どうせそのうち結婚するのだから、お金をきっちり分けるのはよそよそしいと思っていたから。

今思えば、本当に笑ってしまう。

車を支えてきたのは私なのに、助手席だけはいつの間にか別の誰かの指定席になっていた。

車のコネクテッドアプリを開いた。

よく使う目的地の一番上は、戸川美津(とがわ みつ)が経営しているヨガスタジオ。

二番目は、彼女が借りているマンション。

三番目でようやく、私の会社だ。

ここ3か月のナビ履歴を見ると、その大半は彼女を迎えに行くための遠回りばかり。

そのとき、ここ半年ほど涼太がよく口にしていた言葉を思い出した。

「ちょうど通り道だから」

「通り道だから、美津をヨガスタジオに送る」

「通り道だから、美津を家まで送る」

「通り道だから、美津のリハビリに付き添う」

私が深夜まで残業して迎えに来てほしいと電話をすると、返ってくるのは決まってこの一言だった。

「タクシーで帰っておいで。代金は後で払うから」

「通り道」の基準にも、ずいぶん個人差があるらしい。

好きな人のためなら、街を半周する回り道でも「通り道」になるのに、たった2キロ先ですら「ガソリンがもったいない」と思われる相手もいる。

涼太は白湯と薬を持って部屋へ入ってきて、手を伸ばして私の額に触れ、優しい声で言った。

「まだ熱いな。薬を飲んで、今日はもう寝ろ」

私はコップを受け取ったまま、何も答えなかった。

彼は小さくため息をつき、隣へ腰を下ろした。

「まだ車のことで怒ってるのか?美津はようやく腰がよくなってきたところなんだ。また悪くしたらかわいそうだろ。少しくらい譲ってやれ」

私はコップの中身を見つめたまま、淡々と話した。

「考えすぎ」

彼は一瞬、言葉を失った。まさか私がこんなにも静かな反応をするとは思っていなかったのだろう。

抱き寄せようと腕を伸ばしてきたが、私は身を引いて避けた。

「体調がよくなったら、モルディブに連れて行ってダイビングしよう。それで機嫌直せるだろ?」

以前の私なら、その言葉だけで折れていただろう。

でも今夜は、聞いているだけで吐き気がした。

そのとき、彼のスマホが鳴った。

画面に映っているのは美津の名前だ。

彼は思わず私の方へ目を向けた。

少し迷った後、スマホを手にベランダへ出て、ガラス戸を閉めた。

けれど、きちんと閉まっていなかったため、声ははっきりと耳に届いた。

「安心して。シートはちゃんと元に戻しておいたから。角度も、この前座ったときとまったく同じだ。

明日は時間どおり迎えに行って、そのままリハビリに連れて行く。腰は絶対痛くさせないから」

私はコップを握る指に、少しずつ力を込めていった。

そのまま中古車アプリを開き、車種などを入力して査定額を調べた。

続けて、ローンの残額も確かめた。

一括で返すには、昨日、新婚旅行をキャンセルしてもらった手付金でちょうど足りる。

あの旅行は、半年近くかけて計画したものだった。婚約式の後、二人で行くはずだった新婚旅行。

それなのに、昨日涼太はあまりにもあっさりと言った。

「美津のリハビリは休めないんだ。旅行はまた今度でいいだろ」

私は責めもしなければ、泣きもしなかった。すぐに航空券もホテルもすべてキャンセルした。

電話を終えた涼太は部屋へ戻り、そっと布団を掛け直してくれた。

「余計なこと考えないで、早く寝ろ」

私は目を閉じたまま、小さく「うん」と返した。

やがて浴室からシャワーの音を確かめてから、ゆっくり目を開けた。

中古車の査定画面をスクリーンショットで保存した。

もう助手席が私の居場所じゃないのなら、この車を置いておく価値なんてない。

彼も同じだ。

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