All Chapters of 13月の秘密を知り、私は花嫁をやめた: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

高瀬晃人(たかせ あきと)は、記念日を祝うのが嫌いだった。付き合って4年。バレンタインも、誕生日も、交際記念日も、彼が花を贈ってくれたことは一度もない。彼は、愛情を形で確かめたがるのは、余裕のない人間だけだと言った。「栞、本当に俺のことを分かってるなら、そんなくだらないもので煩わせるなよ」けれど晃人は、人の心をつなぎ止めるのがうまかった。私、藤沢栞(ふじさわ しおり)が腹を立てると、首の後ろに手を添え、低い声でなだめるのだ。「機嫌直せよ。お前以外に、誰と結婚するんだよ」私はその言葉ひとつに縛られたまま、4年もの月日を過ごした。婚姻届を出す1週間前、私は晃人の書斎を片づけていた。いちばん下の引き出しから、一冊の手作りのカレンダーが出てきた。1年は12か月しかないはずなのに、そのカレンダーには、晃人の手で「13月」が描き足されていた。どの日にも、同じ女性の好みが書かれていた。白いバラが好き。寒がり。眠る前には、物語を読んでほしがる。最後のページには、晃人らしい端正な文字が残されていた。【もし13月があるなら、その1か月だけは彼女と過ごしたい】私は長い間、その一文を見つめていた。目の奥が痛くなるほど見つめ続けたのに、涙はもう出なかった。晃人は、ロマンチックなことが嫌いだったわけではない。ただ、1年のどこにも、私のための月はなかっただけだ。私は怒鳴らなかった。泣きもしなかった。ただ静かにカレンダーを閉じた。その瞬間、ひどく疲れていることに気づいた。もう1日たりとも、彼を愛し続けられないと思うほどに。「何を持ってる?」書斎の扉を開けた晃人がそう尋ねたとき、私はちょうどカレンダーを封筒に入れようとしていた。背中に隠した私の手を見て、晃人がわずかに眉を上げる。「栞、何を隠してるんだ?」指先が表紙の端に食い込んだ。あの一文が、まだ目の前に浮かんでいるようだった。表紙の裏には、柏木琴音(かしわぎ ことね)という名前が書かれていた。私は彼女を知っている。晃人が幼い頃から、ずっと守り続けてきた幼なじみだ。琴音は体が弱いのだから、病人を相手に張り合うな。晃人はいつもそう言っていた。私はその言葉を、4年間ずっと信じていた。けれど、あのカレンダーを開いて初めて
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第2話

翌朝、婚前契約の撤回書類をスマホで確認してから、寝室を出た。物音に気づいた晃人は、こちらを一瞥しただけだった。「ずいぶん顔色が悪いな」私が口を開くより先に、晃人は手元にあった白湯の入ったグラスを押しやった。「ありがとう」そう口にした自分が、いちばん驚いた。晃人はすぐに眉をひそめた。「なんだよ、急によそよそしいな」けれど、私が答える前にインターホンが鳴った。晃人はすぐに立ち上がり、玄関へ向かった。扉の向こうには、晃人の母とスタイリストだけでなく、琴音も立っていた。白いバラの花束を抱えた琴音の顔は、冷たい風にさらされてきたかのように青白かった。部屋に入るなり、晃人は真っ先に彼女の足元へ目をやった。「今日は冷え込むって言っただろ。どうしてそんな薄着で来たんだ?」琴音は目を細めて笑った。「昨日、会えるって言ってくれたから。服のことまで考えてなくて」晃人の母は、傍らで満面の笑みを浮かべた。「晃人は昔からこうなのよ。口では何だかんだ言いながら、結局は放っておけないんだから。琴音のことなんて、できることならいつもそばに置いておきたいくらいでしょうね」私はまだ口をつけていないグラスを手にしたまま、そこに立っていた。まるで、この家とは何の関係もない人間のように。スタイリストが、披露宴で着る服を、ラックに掛けて運び込んできた。晃人の母は、その中にあったパールホワイトのロングドレスを指さした。「それ、琴音に試着させて」スタイリストは戸惑った。「奥様、こちらは藤沢様がお召しになる予定のドレスでは……」晃人の母は私をちらりと見た。「琴音は体が弱いし、晃人が子どもの頃から大切にしてきた子なのよ。当日は私たちと同じテーブルに座るんだから、あまり地味な格好をさせるわけにもいかないでしょう」琴音は慌てたようにうつむいた。「おばさま、そんな……栞さんが気を悪くします」晃人はすぐには何も言わなかった。ただラックからそのドレスを外し、琴音に手渡した。「着てみろよ」私は顔を上げ、晃人を見た。けれど彼は私と目を合わせようとしなかった。「栞は、ほかのを選べばいい」胸の奥を、切れ味の悪い刃で少しずつ削られているようだった。そのドレスは、2か月も前から私が選んでいたものだ。
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第3話

その夜、私は晃人に連れられ、彼の友人たちが集まる食事会へ出かけた。家を出る前、晃人は自分の手で私の首にマフラーを巻いた。「今日はおとなしくしてろよ」私を見下ろし、声を落として続ける。「外で俺に恥をかかせるな。帰ったら、何かうまいものを買ってやるから」私は返事をしなかった。晃人は返事を待っていたが、やがて指先を止めた。結局、それ以上は何も言わず、マフラーをもう一度きつく巻き直した。「まだ怒ってるのか?」彼は小さく笑った。「栞、前はこんなに手こずらなかっただろ」そのとおりだった。以前の私は、彼に傷つけられたあとで、ほんの少し優しくされるだけですべてを忘れた。痛みが消えていなくても、その優しさにまだ温もりがあれば、それでよかった。けれど今は、もうそんなものさえ欲しくなかった。個室には、すでに大勢の友人たちが集まっていた。晃人が私の手を引いて中へ入ると、一斉にからかう声が上がった。「おっ、婚約者のお出ましだ!」「晃人もようやく落ち着く気になったのか?」「栞も4年待った甲斐があったな。いよいよ結婚か」晃人は否定しなかった。それどころか、私のために椅子を引いてくれた。優しく、礼儀正しく、周囲の前では大切に扱ってくれる。琴音が入ってくるまでは。晃人はほとんど反射的に椅子の背から手を離し、立ち上がって琴音を迎えに行った。「遅かったな」琴音は小さな声で答えた。「道が混んでいたの。待たせちゃってごめんね」誰かが笑いながら茶化した。「晃人、お前は婚約者と食事に来たのか、それとも琴音を待ってたのか、どっちなんだよ?」晃人は琴音からバッグを受け取り、何でもないことのように答えた。「どっちでも同じだろ」どっちでも同じ。その一言で、明日婚姻届を出すはずの私は、その場に縫いつけられた。食事の途中、誰かが「本音ゲーム」をやろうと言い出した。選ばれたのは晃人だった。投げかけられた質問は、たちが悪かった。「晃人、今までに本気で結婚したかったのに、結局結婚できなかった相手っている?」個室が一瞬で静まり返った。ある者は私を見て、ある者は琴音を見た。晃人はグラスを手にしたまま、表情ひとつ変えなかった。それどころか、少し笑った。「そんなこと聞いて
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第4話

朝8時。私は予定どおり、市役所の前に来ていた。まだ晃人と結婚したかったわけではない。ただ、4年という月日はあまりにも長かった。せめて、その終わりだけは自分の目で見届けたかった。8時半になると、婚姻届を手にした最初のカップルたちが庁舎へ入っていった。9時40分、晃人からメッセージが届いた。【琴音の具合が昨夜から安定しない。まだ病院にいる。先に待っててくれ】その言葉を見て、私は思わず笑ってしまった。22歳から26歳まで。どうして私は、いつも晃人を待たなければならなかったのだろう。それでも私は、一言だけ返した。【分かった】人は時に、どうしようもなく未練がましい。心が完全に死んでしまう最後の瞬間まで、どこかで期待してしまうのだ。もしかしたら、と。11時半を過ぎると、市役所の前を行き交う人も少なくなった。私はバッグの中に入っている必要書類へ目を落とした。その隣には、婚約指輪も入っていた。正午になって、ようやく晃人から電話がかかってきた。電話の向こうでは、琴音が小さく咳き込んでいた。晃人は声を落として尋ねた。「もう着いてるのか?」「着いてる」「琴音の検査が、まだ終わってないんだ」私は何も言わなかった。晃人は少し苛立ったような声を出した。「栞、今日出すって言ったんだから、婚姻届は必ず出す。あと2時間だけ待っててくれ」あと2時間。私は市役所の階段の下に立ち、正面に掲げられた庁舎の文字を見上げた。急に、何もかもが馬鹿らしくなった。4年間も待たせてきたのだから、あと2時間くらい何でもない。晃人は本気で、そう思っているのだろう。電話の向こうから、さらに言葉が続いた。「わがままを言うなよ。今日は大事な日なんだ。こんな日に喧嘩したくない」私は小さな声で言った。「晃人、私、もう疲れた」けれど彼には、その意味が伝わらなかった。「疲れたなら、近くのカフェにでも入ってろよ。着いたら連絡するから」私は目を閉じた。そして最後に、たった一言だけ返した。「分かった」電話を切ったあと、私はカフェへは向かわなかった。そのまま近くのコンビニに入り、スマホの婚前契約の撤回書類をプリントアウトした。私はその表題を見つめた。涙は出なかった。ただ、
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第5話

職員がそう告げた瞬間、晃人は花束を握る手に力を込めた。オレンジ色のチューリップが、指の間で無残に形を崩す。「3時間前?」職員はうなずいた。「はい。お一人で……あまり顔色もよくありませんでした」晃人は、言葉の意味が理解できないような顔をしていた。腕の中の花束へ視線を落とす。花びらには、まだ新しい水滴が残っていた。4年も経ってから、ようやく栞に花を贈ろうと思った。けれど、それすらもう遅かった。職員がさらに続けた。「藤沢様から、こちらをお預かりしています。高瀬様がいらしたら渡してほしいと」晃人は手を伸ばし、封筒を受け取った。それほど重くはないはずなのに、手の中に落ちた瞬間、指の骨が白く浮き上がるほど強く握り締めた。封を開くと、最初に転がり落ちたのは、婚約指輪だった。銀色の指輪が床に落ち、軽く跳ねてから、晃人の靴先で止まった。その顔色が、ようやく変わった。晃人はかがみ込み、指輪を拾おうとした。指先が触れたとき、内側に細かな傷がついていることに初めて気づいた。栞が3年間、身につけ続けた痕跡だった。これまで一度も、彼は気づかなかった。封筒の中にはほかにも、部屋のカードキー、ネックレス、婚前契約の撤回告知書が入っていた。そして、13月のカレンダーを複写したものも。最後のページには、赤い線で囲まれた一文があった。【もし13月があるなら、その1か月だけは彼女と過ごしたい】その隣には、栞の字でこう書かれていた。【晃人、私はもう婚姻届を出さない】【あなたの13月は、琴音にあげる】【私の12か月にも、もうあなたはいらない】晃人は、その数行をじっと見つめていた。喉に何かが詰まったように、声が出ない。しばらくして、ようやくスマホを取り出すと、何度も私へ電話をかけ始めた。一回目。二回目。三回目。無機質な音声が、同じ言葉を繰り返す。「おかけになった電話は、現在つながりません」晃人は突然顔を上げ、職員を見た。「栞はどこへ行ったんですか?」その目つきに気圧され、職員はわずかに身を引いた。「高瀬様、私どもには分かりません」「分からない?」晃人の声はひどくかすれていた。「さっきまでここにいたんでしょう。それなのに、どうして分からないんで
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第6話

飛行機が南浜に到着した頃には、空はもう薄暗くなり始めていた。私は新しいスマホの電源を入れた。弁護士からメッセージが届いていた。【藤沢様、高瀬様がずっと行方を捜していらっしゃいます】私は一度だけ目を通し、返信した。【相手にしなくて大丈夫です】南浜では、小雨が降っていた。スーツケースを引きながら空港を出る。冷たい風が頬に当たった瞬間、ずっと昔のことを思い出した。晃人と初めて出会ったのも、こんな雨の夜だった。あの頃の彼は、今ほど冷たい人ではなかった。自分のコートを私の肩にかけ、眉をひそめながら言った。「こんなに降ってるのに、雨宿りする場所くらい探せないのか?」私はあの頃、晃人は口が悪いだけで、本当は優しい人なのだと思っていた。けれど後になって分かった。口では冷たくても、本当は優しい――そんな顔を見せる相手は、最初から決まっていたのだ。琴音には優しく、私には言葉どおり冷たかった。迎えの車が道路脇に止まっていた。運転手がドアを開けてくれる。車に乗り込んでから、私はようやく、何もなくなった左手の薬指を開いて眺めた。指輪を外したあとには、うっすらと跡が残っていた。私はその跡を長い間見つめた。やがて手を袖の中へ引っ込める。きっと消える。どれほど深く残った跡でも、いつかは消えていく。……一方、晃人が栞の乗った便を突き止めた頃には、すでに夜8時を回っていた。彼は空港のロビーに立ち、まだあのオレンジ色のチューリップを抱えていた。花びらは風にさらされ、すっかり元気をなくしている。秘書が声を落として告げた。「社長、藤沢様の便は、すでに南浜へ到着しています」南浜……晃人は一瞬、動きを止めた。そこは、栞の亡くなった祖母が暮らしていた街だった。そして栞が何度も、いつか戻って小さな本屋を開きたいと話していた場所でもある。そのたびに、晃人は何と言っただろう。「栞、夢みたいなことを言うなよ。俺と別れて、一人で生活していけると思ってるのか?」今、栞は本当に彼のもとを去った。彼がずっと馬鹿にしていた人生へ向かって。秘書が慎重に尋ねた。「社長、南浜行きの便を手配いたしましょうか?」晃人はすぐには答えなかった。手にした花束へ視線を落とす。そして、
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第7話

晃人が私を見つけたのは、3日後だった。南浜の古い商店街に、小さな本屋が新しくオープンすることになっていた。入口には、まだ包装も解かれていない木製の看板が掛かっている。私は脚立に上り、窓辺に暖かな黄色の小さなライトを飾っていた。背後から、誰かが私の名前を呼んだ。「栞」手が止まった。けれど、振り返らなかった。4年間、聞き続けてきた声だった。以前なら、その声を聞いただけで心が揺らいでいた。今はもう、ひどく遠いものにしか感じなかった。晃人は雨の中に立っていた。黒いコートは濡れ、目は赤く充血している。手には、オレンジ色のチューリップの花束を抱えていた。市役所へ持ってきたものではない。新しい花だった。きっと、買い直したのだろう。「ずっと捜してた」私は脚立から下りた。「何か用?」晃人は私を見つめた。その一言に傷ついたような顔をした。以前の私は、晃人を見るたび、目に何かしらの感情を浮かべていた。つらくても。嬉しくても。怒っていても。そこには必ず、晃人がいた。けれど今は違う。もう何もなかった。晃人は花束を私に差し出した。「前に言ってただろ。婚姻届を出す日には、オレンジ色のチューリップが欲しいって」私は花を一度だけ見た。「遅すぎるよ」晃人の手が宙で止まった。雨粒が花びらを伝って落ちていく。彼は低い声で言った。「栞、ごめん。あの日は、本当に琴音のことで遅くなっただけなんだ。わざと待たせたわけじゃない」私は小さく笑った。「晃人、まだ分からないの?あの日のことだけが理由で、結婚したくなくなったんじゃない。この4年間、毎日の積み重ねの末に、もうあなたとは結婚したくないと思ったの」晃人の顔から、一瞬で血の気が引いた。「でも、お前は俺を愛してた。4年間も愛してたんだろ。それなのに、急にいらないなんて言えるわけないだろ」私は彼を見つめた。その瞬間、初めて少しだけ哀れに思った。許してあげたいと思うような哀れさではない。自分が何を間違えたのか、今になっても理解できていないことへの哀れさだった。「晃人。私があなたを好きだった頃、あなたは私の気持ちを、あって当然のものみたいに扱ってたよね。今さら私が離れたからって、どうして戻ってく
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第8話

それから晃人は、毎日のように店へ来るようになった。花を持ってきたり、朝食を届けたり。通りの向かい側に立ち、私が店を開けるところも、明かりを消すところも、客を迎える姿も、黙って見ていた。けれど私は、一度も受け取らなかった。花は店先に置き、欲しい人に持っていってもらった。朝食は店員に頼んで、そのまま返した。晃人本人については、そこにいないものとして扱った。1か月後、琴音が南浜へやって来た。白いワンピースを着て本屋の前に立つ姿は、相変わらずか弱げだった。「栞さん」私は本棚を整理していた。声に気づいて顔を上げる。「何か用?」琴音の目に、たちまち涙が浮かんだ。「もう晃人のもとを離れたのに、どうしてまだ彼を縛りつけるようなことをするんですか?」思わず笑いそうになった。「私が晃人を縛りつけてるっていうの?」琴音は手にしたバッグを強く握り締めた。「晃人は今、毎日自分を苦しめています。私の電話にも出ないし、会おうともしてくれない。家にだって帰らない。栞さんはもう晃人をいらないんでしょう?それなら、どうして放してあげないんですか?」私は手にしていた本を閉じた。「琴音さん、何か勘違いしてない?晃人がここへ来るのは、本人が勝手にしてること。私が許さないのも、私の自由でしょう。二人の問題を、私のせいにしないで」琴音の顔から血の気が引いた。そのとき、背後から晃人の声がした。「琴音」琴音が振り返ると、すぐに涙がこぼれ落ちた。「晃人、私はただ、栞さんに謝りたくて……」けれど晃人は、以前のように真っ先に彼女をかばおうとはしなかった。ただ黙って、琴音を見つめていた。「13月のカレンダーを俺の書斎に置いたのは、わざとだったんだろ?」琴音の体が固まった。私はそこで初めて、あのカレンダーにまだ続きがあったことを知った。琴音は唇をかんだ。「私はただ……晃人に、私のことを忘れてほしくなかっただけ。栞さんが見るなんて思わなかったの」晃人は目を閉じた。「思わなかった?だったら、どうして婚姻届を出す1週間前に限って、書斎を片づけるよう栞に言ったんだ?」琴音はさらに激しく泣き始めた。「怖かったから。本当にあなたが栞さんと結婚してしまうのが怖かった。晃人、私はずっとあなたを愛
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第9話

晃人は南浜を離れたあと、琴音との連絡をすべて絶った。琴音は取り乱し、泣き続け、とうとう入院までしたらしい。それでも晃人が姿を見せることは、二度となかった。そうした話は、すべて人づてに聞いた。私はただ一言、「私には関係ない」と答えただけだった。本屋の開店日には、朝から激しい雨が降っていた。客はあまり来ないだろうと思っていた。けれど夕方になる頃には、店内の席はほとんど埋まっていた。レジカウンターの後ろに立ちながら、私はふと、人生がひどく軽くなったように感じた。返ってこない連絡を待つこともない。誕生日を忘れられることもない。自分には愛される価値があるのだと、何度も証明しなければならない相手もいない。夜9時。店を閉めようと外へ出ると、晃人が街灯の下に立っていた。ずいぶん痩せていた。その手に花はなかった。ただ、使い込まれた一冊のカレンダーを持っていた。「栞」私は足を止めた。晃人は近づいてくると、そのカレンダーを差し出した。「作り直したんだ。12か月分全部、お前のことを書いた」私は受け取らなかった。晃人の目は、ひどく赤くなっていた。「もう遅いのは分かってる。それでも、埋め合わせたかった」彼は最初のページを開いた。1月。私の誕生日。そこには、こう書かれていた。【ケーキを忘れずに買う。栞を待たせないこと】2月。バレンタイン。【オレンジ色のチューリップを贈る。くだらないなんて言わない】3月。【胃が弱いから、冷たいものは飲ませない】4月。【雨の日は迎えに行く】5月。【一人で食事をするのが嫌い】どのページも、文字でびっしり埋まっていた。昔の私なら、きっと泣いていただろう。そのカレンダーを抱きしめて、ようやく待ち望んでいたものを手に入れたと思ったはずだ。けれど今は、ただ疲れるだけだった。「晃人、何がいちばん可笑しいか、分かる?」彼は黙って私を見つめた。私は静かに言った。「私は、こんなふうに埋め合わせてほしかったわけじゃない。ただ、私がまだあなたを愛していたときに、少しだけ覚えていてほしかったの」晃人の目から、とうとう涙がこぼれた。「栞、俺が間違ってた。本当に分かったんだ。もう1度だけ、機会をくれないか?」
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第10話

1年後。私は南浜で、27歳の誕生日を迎えた。本屋の仲間たちがケーキを用意してくれた。店を訪れた客からは花をもらった。メッセージボードには、こんな言葉が書かれていた。【店主さんが、これから先、どの月も幸せに過ごせますように】私はその一文を見つめ、しばらく笑っていた。その夜、晃人がやって来た。彼は店の外に立ったまま、中へは入ってこなかった。手には、オレンジ色のチューリップを抱えていた。この1年、何度もそうしてきたように。私は扉を開けなかった。晃人も、ガラス越しに私がろうそくの火を吹き消す姿を、ただ見つめていた。あとになって、友人が尋ねた。「あの人、誰?」私は少し考えてから答えた。「間に合わなかった人」友人は笑った。「それでも、まだ待つの?」私は首を横に振った。「もう待たない」窓の外にいた晃人にも、その言葉が聞こえたのかもしれない。彼はうつむき、肩をかすかに震わせた。私はそれ以上、彼を見なかった。その夜、店を閉める頃には、入口に一束の花が置かれていた。花束には、小さなカードが挟まっていた。相変わらず整った文字だった。【栞、誕生日おめでとう】【今度は、忘れなかった】私は数秒、その言葉を見つめた。それから、近くを通りかかった女の子に花束を差し出した。女の子は驚いたように目を輝かせた。「お姉さん、本当にいいの?」「うん」「でも、こんなにきれいなのに」私は笑った。「もう好きじゃないから」通りの向かい側に立っていた晃人の顔から、少しずつ血の気が引いていった。彼はようやく理解したのだろう。後から埋め合わせれば、すべて元どおりになるわけではない。一度離れてしまった人が、振り返ればいつでも同じ場所にいるわけでもない。その後、晃人はどんな記念日も祝わなくなったと聞いた。誕生日会も開かず、記念日の話もしない。バレンタインになると、一人でオレンジ色のチューリップを買い、誰もいない部屋に飾った。花が枯れれば、新しいものに替える。1年、また1年と。まるで、永遠に届くことのない人生を埋め合わせようとするように。一方、私は南浜で穏やかに暮らしていた。春には花を眺め、夏には雨音を聞き、秋には日に当たりながら本を読み
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