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第3話

Penulis: 狐坂
その夜、私は晃人に連れられ、彼の友人たちが集まる食事会へ出かけた。

家を出る前、晃人は自分の手で私の首にマフラーを巻いた。

「今日はおとなしくしてろよ」

私を見下ろし、声を落として続ける。

「外で俺に恥をかかせるな。帰ったら、何かうまいものを買ってやるから」

私は返事をしなかった。

晃人は返事を待っていたが、やがて指先を止めた。

結局、それ以上は何も言わず、マフラーをもう一度きつく巻き直した。

「まだ怒ってるのか?」

彼は小さく笑った。

「栞、前はこんなに手こずらなかっただろ」

そのとおりだった。

以前の私は、彼に傷つけられたあとで、ほんの少し優しくされるだけですべてを忘れた。

痛みが消えていなくても、その優しさにまだ温もりがあれば、それでよかった。

けれど今は、もうそんなものさえ欲しくなかった。

個室には、すでに大勢の友人たちが集まっていた。

晃人が私の手を引いて中へ入ると、一斉にからかう声が上がった。

「おっ、婚約者のお出ましだ!」

「晃人もようやく落ち着く気になったのか?」

「栞も4年待った甲斐があったな。いよいよ結婚か」

晃人は否定しなかった。

それどころか、私のために椅子を引いてくれた。

優しく、礼儀正しく、周囲の前では大切に扱ってくれる。

琴音が入ってくるまでは。

晃人はほとんど反射的に椅子の背から手を離し、立ち上がって琴音を迎えに行った。

「遅かったな」

琴音は小さな声で答えた。

「道が混んでいたの。待たせちゃってごめんね」

誰かが笑いながら茶化した。

「晃人、お前は婚約者と食事に来たのか、それとも琴音を待ってたのか、どっちなんだよ?」

晃人は琴音からバッグを受け取り、何でもないことのように答えた。

「どっちでも同じだろ」

どっちでも同じ。

その一言で、明日婚姻届を出すはずの私は、その場に縫いつけられた。

食事の途中、誰かが「本音ゲーム」をやろうと言い出した。

選ばれたのは晃人だった。

投げかけられた質問は、たちが悪かった。

「晃人、今までに本気で結婚したかったのに、結局結婚できなかった相手っている?」

個室が一瞬で静まり返った。

ある者は私を見て、ある者は琴音を見た。

晃人はグラスを手にしたまま、表情ひとつ変えなかった。

それどころか、少し笑った。

「そんなこと聞いて、俺の婚約者が怒っても知らないぞ」

周囲から、すぐにからかう声が上がった。

「栞は物分かりがいいから、怒るわけないだろ」

「そうそう。栞さんが優しいのは有名だし」

晃人は私を見た。

その目には、子どもをなだめるような笑みが浮かんでいた。

「栞、怒らないよな?」

私は彼を見返した。

「怒らないよ」

晃人は満足そうに視線を戻すと、グラスの中の酒をゆっくり揺らした。

空気を読まない誰かが、さらに追及した。

「ごまかすなよ。結局、いるのか、いないのか?」

晃人は椅子の背にもたれ、指先でグラスの縁をなぞった。

やがて、低く笑った。

「いる」

その一言で、個室はたちまち騒然となった。

琴音はうつむき、耳まで赤くなっていた。

私は席に座ったまま、呼吸さえも浅くなっていくのを感じた。

人は本当に、心が壊れる音を聞くことがあるのだ。

胸の奥に走った亀裂がじわじわと広がり、内側から体を切り裂いていくようだった。

けれど晃人は、自分の言葉がどれほど残酷なのか、まるで分かっていないようだった。

私を見て、変わらない口調で言う。

「栞、変なふうに考えるなよ。若い頃の心残りくらい、誰にだってあるだろ。明日、婚姻届を出す相手はお前なんだ。それで十分じゃないか?」

誰かが口笛を吹いた。

「なるほどな。晃人には、今でも忘れられない女がいるってことか」

晃人はグラスをテーブルに置いた。

「そのくらいにしておけ」

静かながらも、有無を言わせない口調だった。

琴音に向けられた意味深なからかいを、彼はそうやって止めた。

その一方で、私はその場にいる全員の視線にさらされた。

私は目を伏せ、自分の皿に載っている、すっかり冷めた魚を見つめた。

さっき晃人が取り分けてくれたものだった。

ずっと前にも、晃人は魚の骨を1本ずつ取り除いてくれたことがある。

不器用だと笑いながら、これからは俺がやると言ってくれた。

けれど、彼の言った「これから」は、あまりにも短かった。

今日までしか続かなかったのだから。

胸の上に重いものがのしかかり、息をするのも苦しくなった。

少し外の空気を吸おうと立ち上がりかけた、そのときだった。

琴音が突然、胸元を押さえた。

「晃人……息が苦しい」

晃人の表情が変わった。すぐに琴音を抱き上げる。

勢いで椅子が倒れるほど、素早い動きだった。

倒れたグラスから酒が飛び散り、私の服を濡らした。

それでも、晃人は私を一度も見なかった。

「病院へ行くぞ」

私はその場に立ったまま、動かなかった。

晃人は琴音を抱いて出口まで行くと、ようやく私の存在を思い出したように振り返った。

その目は、ぞっとするほど冷たかった。

「お前は一人で帰れ」

琴音が彼の腕の中で、弱々しく口を開いた。

「栞さん、ごめんなさい。私のせいなの。晃人を責めないで……」

晃人は顔を伏せ、彼女をなだめた。

「もう話すな」

私は思わず尋ねていた。

「明日の婚姻届は?」

晃人は足を止めた。

とうとう我慢の限界に達したとでもいうように、険しい顔で私を見る。

「婚姻届って、お前の頭にはそれしかないのか?琴音がこんな状態なのに、今ここで結婚の話を持ち出すのか?」

喉の奥が詰まった。

言い過ぎたことには気づいたようだったが、晃人は言葉を撤回しなかった。

ただ、少しだけ声を和らげた。

「いいから、わがままを言うな。明日、市役所の前で待ってろ。必ず行くから」

そう言い残し、琴音を抱いたまま足早に出ていった。

個室の扉が閉まる。

気まずい沈黙の中、誰かが乾いた笑いを漏らした。

「栞さん、晃人も焦ってただけだから。あまり気にするなよ」

別の誰かが声を潜めた。

「でも、琴音は体が弱いんだし、あんなときに張り合わなくてもいいだろ」

私はその場に立ったまま、あの13月のカレンダーを思い出していた。

そこには、こう書かれた日があった。

【琴音の具合が悪いときは、ほかの予定はすべて後回しにすること】

その「ほかの予定」には、私も含まれていた。

私たちが迎えるはずだった未来さえも。

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