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13月の秘密を知り、私は花嫁をやめた

13月の秘密を知り、私は花嫁をやめた

Par:  狐坂Complété
Langue: Japanese
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高瀬晃人(たかせ あきと)は、記念日を祝うのが嫌いだった。 付き合って4年。バレンタインも、誕生日も、交際記念日も、彼が花を贈ってくれたことは一度もない。 彼は、愛情を形で確かめたがるのは、余裕のない人間だけだと言った。 「栞、本当に俺のことを分かってるなら、そんなくだらないもので煩わせるなよ」 けれど晃人は、人の心をつなぎ止めるのがうまかった。 私、藤沢栞(ふじさわ しおり)が腹を立てると、首の後ろに手を添え、低い声でなだめるのだ。 「機嫌直せよ。お前以外に、誰と結婚するんだよ」 私はその言葉ひとつに縛られたまま、4年もの月日を過ごした。 婚姻届を出す1週間前、私は晃人の書斎を片づけていた。 いちばん下の引き出しから、一冊の手作りのカレンダーが出てきた。 1年は12か月しかないはずなのに、そのカレンダーには、晃人の手で「13月」が描き足されていた。 どの日にも、同じ女性の好みが書かれていた。 白いバラが好き。 寒がり。 眠る前には、物語を読んでほしがる。 最後のページには、晃人らしい端正な文字が残されていた。 【もし13月があるなら、その1か月だけは彼女と過ごしたい】 私は長い間、その一文を見つめていた。目の奥が痛くなるほど見つめ続けたのに、涙はもう出なかった。 晃人は、ロマンチックなことが嫌いだったわけではない。 ただ、1年のどこにも、私のための月はなかっただけだ。 私は怒鳴らなかった。泣きもしなかった。 ただ静かにカレンダーを閉じた。その瞬間、ひどく疲れていることに気づいた。 もう1日たりとも、彼を愛し続けられないと思うほどに。

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Chapitre 1

第1話

高瀬晃人(たかせ あきと)は、記念日を祝うのが嫌いだった。

付き合って4年。バレンタインも、誕生日も、交際記念日も、彼が花を贈ってくれたことは一度もない。

彼は、愛情を形で確かめたがるのは、余裕のない人間だけだと言った。

「栞、本当に俺のことを分かってるなら、そんなくだらないもので煩わせるなよ」

けれど晃人は、人の心をつなぎ止めるのがうまかった。

私、藤沢栞(ふじさわ しおり)が腹を立てると、首の後ろに手を添え、低い声でなだめるのだ。

「機嫌直せよ。お前以外に、誰と結婚するんだよ」

私はその言葉ひとつに縛られたまま、4年もの月日を過ごした。

婚姻届を出す1週間前、私は晃人の書斎を片づけていた。

いちばん下の引き出しから、一冊の手作りのカレンダーが出てきた。

1年は12か月しかないはずなのに、そのカレンダーには、晃人の手で「13月」が描き足されていた。

どの日にも、同じ女性の好みが書かれていた。

白いバラが好き。

寒がり。

眠る前には、物語を読んでほしがる。

最後のページには、晃人らしい端正な文字が残されていた。

【もし13月があるなら、その1か月だけは彼女と過ごしたい】

私は長い間、その一文を見つめていた。目の奥が痛くなるほど見つめ続けたのに、涙はもう出なかった。

晃人は、ロマンチックなことが嫌いだったわけではない。

ただ、1年のどこにも、私のための月はなかっただけだ。

私は怒鳴らなかった。泣きもしなかった。

ただ静かにカレンダーを閉じた。その瞬間、ひどく疲れていることに気づいた。

もう1日たりとも、彼を愛し続けられないと思うほどに。

「何を持ってる?」

書斎の扉を開けた晃人がそう尋ねたとき、私はちょうどカレンダーを封筒に入れようとしていた。

背中に隠した私の手を見て、晃人がわずかに眉を上げる。

「栞、何を隠してるんだ?」

指先が表紙の端に食い込んだ。あの一文が、まだ目の前に浮かんでいるようだった。

表紙の裏には、柏木琴音(かしわぎ ことね)という名前が書かれていた。

私は彼女を知っている。

晃人が幼い頃から、ずっと守り続けてきた幼なじみだ。

琴音は体が弱いのだから、病人を相手に張り合うな。

晃人はいつもそう言っていた。

私はその言葉を、4年間ずっと信じていた。

けれど、あのカレンダーを開いて初めて分かった。

少し気にかけているだけだと言いながら、晃人は12か月に収まりきらないほどの愛情を、すべて琴音に注いでいたのだ。

私は顔を上げ、晃人を見た。

この4年間、晃人はいつもこういう目で私を見た。

怒っているわけでもなく、焦っているわけでもない。

自分が手を伸ばせば、私は涙も心も、何もかも差し出すと信じ切っている目だった。

「昔の領収書」

私は封筒をさらに背中へ隠した。

「書斎を片づけていたら出てきたの」

晃人がこちらへ歩み寄ってくる。

頭を撫でようと手を上げ、少しだけ声を和らげた。

「目、真っ赤じゃないか。それでも何でもないって?」

以前の私なら、泣きながら説明を求めていただろう。

自分を納得させられる言い訳を、彼の口から聞こうとしていたはずだ。

けれど今は、ただ顔をそらした。

「埃が入っただけ」

晃人の手が宙で止まった。

やがて、その口元から笑みが消えた。

「栞」

「なに?」

「婚姻届を出す前に、面倒なことを起こすなよ」

言い方がきつかったと思ったのか、晃人は再び手を伸ばし、私を腕の中へ引き寄せた。

「結婚前で不安になって、余計なことを考えてるのか?」

思わず笑いそうになった。

以前なら、彼がほんの少し声を柔らかくしただけで、私はすぐにほだされていた。

どんなに傷ついても飲み込み、晃人が私をなだめてくれたのだと思い込んでいた。

けれど今、腰の後ろに隠したカレンダーが、冷たい刃のように体へ食い込んでいた。

私は静かに尋ねた。

「晃人、本当に私と結婚したいの?」

彼は低く笑った。

「当たり前だろ」

「どうして?」

まるで理不尽な言いがかりでもつけられたように、晃人は顔をしかめた。

「栞、俺たちはもう4年も一緒にいるんだぞ。いちばん苦しい時期を一緒に乗り越えてきたお前と結婚しなかったら、周りにどう思われるんだよ」

胸の奥を、細い針で刺されたようだった。

この4年間は、愛ではなかった。

4年も付き合ったという事実。世間体。周囲からどう見られるか。

彼にとって大切なのは、ただそれだけだった。

私が体をこわばらせたことにも気づかず、晃人は額に口づけた。

「余計なことは考えるな。明日、母さんがスタイリストを連れてくる。ちゃんと合わせろよ」

そのとき、晃人のスマホが光った。

画面が見えたのはほんの一瞬で、彼はすぐに手のひらで伏せた。

けれど、登録名は見えてしまった。

【琴音】

晃人は画面に目を落とした。

眉間に浮かんでいたわずかな苛立ちが、たちまち消えていく。

スマホを部屋着のポケットに入れ、私の髪を軽く撫でた。

「勝手に俺のものを漁るなよ」

声は変わらず落ち着いていた。

けれど、バルコニーへ向かう足取りは、さっきよりも明らかに速かった。

ガラス戸は完全には閉まっていなかった。

夜風に乗って、彼がわざと抑えた声が聞こえてくる。

「また眠れないのか?」

「うん、怖がらなくていい」

「俺がいるから」

たった三言。

それなのに、別人かと思うほど優しい声だった。

数分後、晃人が書斎へ戻ってきた。

まだ同じ場所に立っている私を見て、わずかに足を止める。

「聞こえたか?」

私は答えなかった。

晃人はしばらく私の目を見つめたあと、ふっと笑った。

「何だよ。ヤキモチしてるのか?」

私は黙ったままだった。

晃人は私の髪を撫で、甘やかすような口調で言った。

「琴音は体が弱いんだ。少し声をかけたくらいで、そんな顔をするなよ」

私の手が、ゆっくりと握り締められていく。

晃人は、私が傷つくと分かっている。

ただ、私の痛みには、立ち止まるほどの価値がないだけだ。

突然、胃の奥から何かがこみ上げた。

胸につかえ、息をするのさえ苦しくなる。

それを見て、晃人が眉を寄せた。

「どうした?」

私は声を落とした。

「少し気分が悪いから、先に部屋へ戻るね」

晃人はまだ何か言いたそうに私を見ていた。

けれど、その瞬間、またスマホが鳴った。

彼は画面に目を落とす。

再び顔を上げたときには、もう気のない表情に戻っていた。

「じゃあ、早く寝ろよ」

私はうなずき、書斎を出た。

扉の前まで来たとき、背後から低い声が聞こえた。

「うん、聞いてる」

私は振り返らなかった。

寝室に戻ると鍵をかけ、封筒からカレンダーを取り出した。

13月の一日一日には、小さな絵が描かれていた。

白いバラ。

温かいミルク。

ふわふわのルームシューズ。

私の誕生日の日には、琴音のための言葉が書かれていた。

【今日は雷を怖がるかもしれない。そばにいてやること】

その日、私は午後から深夜まで、晃人を待ち続けていた。

返ってきたのは、たった一言だった。

【催促するな。鬱陶しい】

私はカレンダーを閉じた。

スマホには、弁護士からメッセージが届いていた。

【藤沢様、婚前契約の撤回告知書が完成しました。本当に撤回されますか?】

私は、扉の隙間から差し込む明かりを見つめた。

リビングでは、晃人が琴音と電話をしている。

ひどく優しい声だった。

「眠れないのか?じゃあ、少し読んでやるよ」

しばらくその声を聞いているうちに、私はふと思った。

私の4年間は、まるで出来の悪い冗談だった。

指先を画面に落とす。

【はい。撤回してください】

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第1話
高瀬晃人(たかせ あきと)は、記念日を祝うのが嫌いだった。付き合って4年。バレンタインも、誕生日も、交際記念日も、彼が花を贈ってくれたことは一度もない。彼は、愛情を形で確かめたがるのは、余裕のない人間だけだと言った。「栞、本当に俺のことを分かってるなら、そんなくだらないもので煩わせるなよ」けれど晃人は、人の心をつなぎ止めるのがうまかった。私、藤沢栞(ふじさわ しおり)が腹を立てると、首の後ろに手を添え、低い声でなだめるのだ。「機嫌直せよ。お前以外に、誰と結婚するんだよ」私はその言葉ひとつに縛られたまま、4年もの月日を過ごした。婚姻届を出す1週間前、私は晃人の書斎を片づけていた。いちばん下の引き出しから、一冊の手作りのカレンダーが出てきた。1年は12か月しかないはずなのに、そのカレンダーには、晃人の手で「13月」が描き足されていた。どの日にも、同じ女性の好みが書かれていた。白いバラが好き。寒がり。眠る前には、物語を読んでほしがる。最後のページには、晃人らしい端正な文字が残されていた。【もし13月があるなら、その1か月だけは彼女と過ごしたい】私は長い間、その一文を見つめていた。目の奥が痛くなるほど見つめ続けたのに、涙はもう出なかった。晃人は、ロマンチックなことが嫌いだったわけではない。ただ、1年のどこにも、私のための月はなかっただけだ。私は怒鳴らなかった。泣きもしなかった。ただ静かにカレンダーを閉じた。その瞬間、ひどく疲れていることに気づいた。もう1日たりとも、彼を愛し続けられないと思うほどに。「何を持ってる?」書斎の扉を開けた晃人がそう尋ねたとき、私はちょうどカレンダーを封筒に入れようとしていた。背中に隠した私の手を見て、晃人がわずかに眉を上げる。「栞、何を隠してるんだ?」指先が表紙の端に食い込んだ。あの一文が、まだ目の前に浮かんでいるようだった。表紙の裏には、柏木琴音(かしわぎ ことね)という名前が書かれていた。私は彼女を知っている。晃人が幼い頃から、ずっと守り続けてきた幼なじみだ。琴音は体が弱いのだから、病人を相手に張り合うな。晃人はいつもそう言っていた。私はその言葉を、4年間ずっと信じていた。けれど、あのカレンダーを開いて初めて
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第2話
翌朝、婚前契約の撤回書類をスマホで確認してから、寝室を出た。物音に気づいた晃人は、こちらを一瞥しただけだった。「ずいぶん顔色が悪いな」私が口を開くより先に、晃人は手元にあった白湯の入ったグラスを押しやった。「ありがとう」そう口にした自分が、いちばん驚いた。晃人はすぐに眉をひそめた。「なんだよ、急によそよそしいな」けれど、私が答える前にインターホンが鳴った。晃人はすぐに立ち上がり、玄関へ向かった。扉の向こうには、晃人の母とスタイリストだけでなく、琴音も立っていた。白いバラの花束を抱えた琴音の顔は、冷たい風にさらされてきたかのように青白かった。部屋に入るなり、晃人は真っ先に彼女の足元へ目をやった。「今日は冷え込むって言っただろ。どうしてそんな薄着で来たんだ?」琴音は目を細めて笑った。「昨日、会えるって言ってくれたから。服のことまで考えてなくて」晃人の母は、傍らで満面の笑みを浮かべた。「晃人は昔からこうなのよ。口では何だかんだ言いながら、結局は放っておけないんだから。琴音のことなんて、できることならいつもそばに置いておきたいくらいでしょうね」私はまだ口をつけていないグラスを手にしたまま、そこに立っていた。まるで、この家とは何の関係もない人間のように。スタイリストが、披露宴で着る服を、ラックに掛けて運び込んできた。晃人の母は、その中にあったパールホワイトのロングドレスを指さした。「それ、琴音に試着させて」スタイリストは戸惑った。「奥様、こちらは藤沢様がお召しになる予定のドレスでは……」晃人の母は私をちらりと見た。「琴音は体が弱いし、晃人が子どもの頃から大切にしてきた子なのよ。当日は私たちと同じテーブルに座るんだから、あまり地味な格好をさせるわけにもいかないでしょう」琴音は慌てたようにうつむいた。「おばさま、そんな……栞さんが気を悪くします」晃人はすぐには何も言わなかった。ただラックからそのドレスを外し、琴音に手渡した。「着てみろよ」私は顔を上げ、晃人を見た。けれど彼は私と目を合わせようとしなかった。「栞は、ほかのを選べばいい」胸の奥を、切れ味の悪い刃で少しずつ削られているようだった。そのドレスは、2か月も前から私が選んでいたものだ。
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第3話
その夜、私は晃人に連れられ、彼の友人たちが集まる食事会へ出かけた。家を出る前、晃人は自分の手で私の首にマフラーを巻いた。「今日はおとなしくしてろよ」私を見下ろし、声を落として続ける。「外で俺に恥をかかせるな。帰ったら、何かうまいものを買ってやるから」私は返事をしなかった。晃人は返事を待っていたが、やがて指先を止めた。結局、それ以上は何も言わず、マフラーをもう一度きつく巻き直した。「まだ怒ってるのか?」彼は小さく笑った。「栞、前はこんなに手こずらなかっただろ」そのとおりだった。以前の私は、彼に傷つけられたあとで、ほんの少し優しくされるだけですべてを忘れた。痛みが消えていなくても、その優しさにまだ温もりがあれば、それでよかった。けれど今は、もうそんなものさえ欲しくなかった。個室には、すでに大勢の友人たちが集まっていた。晃人が私の手を引いて中へ入ると、一斉にからかう声が上がった。「おっ、婚約者のお出ましだ!」「晃人もようやく落ち着く気になったのか?」「栞も4年待った甲斐があったな。いよいよ結婚か」晃人は否定しなかった。それどころか、私のために椅子を引いてくれた。優しく、礼儀正しく、周囲の前では大切に扱ってくれる。琴音が入ってくるまでは。晃人はほとんど反射的に椅子の背から手を離し、立ち上がって琴音を迎えに行った。「遅かったな」琴音は小さな声で答えた。「道が混んでいたの。待たせちゃってごめんね」誰かが笑いながら茶化した。「晃人、お前は婚約者と食事に来たのか、それとも琴音を待ってたのか、どっちなんだよ?」晃人は琴音からバッグを受け取り、何でもないことのように答えた。「どっちでも同じだろ」どっちでも同じ。その一言で、明日婚姻届を出すはずの私は、その場に縫いつけられた。食事の途中、誰かが「本音ゲーム」をやろうと言い出した。選ばれたのは晃人だった。投げかけられた質問は、たちが悪かった。「晃人、今までに本気で結婚したかったのに、結局結婚できなかった相手っている?」個室が一瞬で静まり返った。ある者は私を見て、ある者は琴音を見た。晃人はグラスを手にしたまま、表情ひとつ変えなかった。それどころか、少し笑った。「そんなこと聞いて
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第4話
朝8時。私は予定どおり、市役所の前に来ていた。まだ晃人と結婚したかったわけではない。ただ、4年という月日はあまりにも長かった。せめて、その終わりだけは自分の目で見届けたかった。8時半になると、婚姻届を手にした最初のカップルたちが庁舎へ入っていった。9時40分、晃人からメッセージが届いた。【琴音の具合が昨夜から安定しない。まだ病院にいる。先に待っててくれ】その言葉を見て、私は思わず笑ってしまった。22歳から26歳まで。どうして私は、いつも晃人を待たなければならなかったのだろう。それでも私は、一言だけ返した。【分かった】人は時に、どうしようもなく未練がましい。心が完全に死んでしまう最後の瞬間まで、どこかで期待してしまうのだ。もしかしたら、と。11時半を過ぎると、市役所の前を行き交う人も少なくなった。私はバッグの中に入っている必要書類へ目を落とした。その隣には、婚約指輪も入っていた。正午になって、ようやく晃人から電話がかかってきた。電話の向こうでは、琴音が小さく咳き込んでいた。晃人は声を落として尋ねた。「もう着いてるのか?」「着いてる」「琴音の検査が、まだ終わってないんだ」私は何も言わなかった。晃人は少し苛立ったような声を出した。「栞、今日出すって言ったんだから、婚姻届は必ず出す。あと2時間だけ待っててくれ」あと2時間。私は市役所の階段の下に立ち、正面に掲げられた庁舎の文字を見上げた。急に、何もかもが馬鹿らしくなった。4年間も待たせてきたのだから、あと2時間くらい何でもない。晃人は本気で、そう思っているのだろう。電話の向こうから、さらに言葉が続いた。「わがままを言うなよ。今日は大事な日なんだ。こんな日に喧嘩したくない」私は小さな声で言った。「晃人、私、もう疲れた」けれど彼には、その意味が伝わらなかった。「疲れたなら、近くのカフェにでも入ってろよ。着いたら連絡するから」私は目を閉じた。そして最後に、たった一言だけ返した。「分かった」電話を切ったあと、私はカフェへは向かわなかった。そのまま近くのコンビニに入り、スマホの婚前契約の撤回書類をプリントアウトした。私はその表題を見つめた。涙は出なかった。ただ、
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第5話
職員がそう告げた瞬間、晃人は花束を握る手に力を込めた。オレンジ色のチューリップが、指の間で無残に形を崩す。「3時間前?」職員はうなずいた。「はい。お一人で……あまり顔色もよくありませんでした」晃人は、言葉の意味が理解できないような顔をしていた。腕の中の花束へ視線を落とす。花びらには、まだ新しい水滴が残っていた。4年も経ってから、ようやく栞に花を贈ろうと思った。けれど、それすらもう遅かった。職員がさらに続けた。「藤沢様から、こちらをお預かりしています。高瀬様がいらしたら渡してほしいと」晃人は手を伸ばし、封筒を受け取った。それほど重くはないはずなのに、手の中に落ちた瞬間、指の骨が白く浮き上がるほど強く握り締めた。封を開くと、最初に転がり落ちたのは、婚約指輪だった。銀色の指輪が床に落ち、軽く跳ねてから、晃人の靴先で止まった。その顔色が、ようやく変わった。晃人はかがみ込み、指輪を拾おうとした。指先が触れたとき、内側に細かな傷がついていることに初めて気づいた。栞が3年間、身につけ続けた痕跡だった。これまで一度も、彼は気づかなかった。封筒の中にはほかにも、部屋のカードキー、ネックレス、婚前契約の撤回告知書が入っていた。そして、13月のカレンダーを複写したものも。最後のページには、赤い線で囲まれた一文があった。【もし13月があるなら、その1か月だけは彼女と過ごしたい】その隣には、栞の字でこう書かれていた。【晃人、私はもう婚姻届を出さない】【あなたの13月は、琴音にあげる】【私の12か月にも、もうあなたはいらない】晃人は、その数行をじっと見つめていた。喉に何かが詰まったように、声が出ない。しばらくして、ようやくスマホを取り出すと、何度も私へ電話をかけ始めた。一回目。二回目。三回目。無機質な音声が、同じ言葉を繰り返す。「おかけになった電話は、現在つながりません」晃人は突然顔を上げ、職員を見た。「栞はどこへ行ったんですか?」その目つきに気圧され、職員はわずかに身を引いた。「高瀬様、私どもには分かりません」「分からない?」晃人の声はひどくかすれていた。「さっきまでここにいたんでしょう。それなのに、どうして分からないんで
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第6話
飛行機が南浜に到着した頃には、空はもう薄暗くなり始めていた。私は新しいスマホの電源を入れた。弁護士からメッセージが届いていた。【藤沢様、高瀬様がずっと行方を捜していらっしゃいます】私は一度だけ目を通し、返信した。【相手にしなくて大丈夫です】南浜では、小雨が降っていた。スーツケースを引きながら空港を出る。冷たい風が頬に当たった瞬間、ずっと昔のことを思い出した。晃人と初めて出会ったのも、こんな雨の夜だった。あの頃の彼は、今ほど冷たい人ではなかった。自分のコートを私の肩にかけ、眉をひそめながら言った。「こんなに降ってるのに、雨宿りする場所くらい探せないのか?」私はあの頃、晃人は口が悪いだけで、本当は優しい人なのだと思っていた。けれど後になって分かった。口では冷たくても、本当は優しい――そんな顔を見せる相手は、最初から決まっていたのだ。琴音には優しく、私には言葉どおり冷たかった。迎えの車が道路脇に止まっていた。運転手がドアを開けてくれる。車に乗り込んでから、私はようやく、何もなくなった左手の薬指を開いて眺めた。指輪を外したあとには、うっすらと跡が残っていた。私はその跡を長い間見つめた。やがて手を袖の中へ引っ込める。きっと消える。どれほど深く残った跡でも、いつかは消えていく。……一方、晃人が栞の乗った便を突き止めた頃には、すでに夜8時を回っていた。彼は空港のロビーに立ち、まだあのオレンジ色のチューリップを抱えていた。花びらは風にさらされ、すっかり元気をなくしている。秘書が声を落として告げた。「社長、藤沢様の便は、すでに南浜へ到着しています」南浜……晃人は一瞬、動きを止めた。そこは、栞の亡くなった祖母が暮らしていた街だった。そして栞が何度も、いつか戻って小さな本屋を開きたいと話していた場所でもある。そのたびに、晃人は何と言っただろう。「栞、夢みたいなことを言うなよ。俺と別れて、一人で生活していけると思ってるのか?」今、栞は本当に彼のもとを去った。彼がずっと馬鹿にしていた人生へ向かって。秘書が慎重に尋ねた。「社長、南浜行きの便を手配いたしましょうか?」晃人はすぐには答えなかった。手にした花束へ視線を落とす。そして、
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第7話
晃人が私を見つけたのは、3日後だった。南浜の古い商店街に、小さな本屋が新しくオープンすることになっていた。入口には、まだ包装も解かれていない木製の看板が掛かっている。私は脚立に上り、窓辺に暖かな黄色の小さなライトを飾っていた。背後から、誰かが私の名前を呼んだ。「栞」手が止まった。けれど、振り返らなかった。4年間、聞き続けてきた声だった。以前なら、その声を聞いただけで心が揺らいでいた。今はもう、ひどく遠いものにしか感じなかった。晃人は雨の中に立っていた。黒いコートは濡れ、目は赤く充血している。手には、オレンジ色のチューリップの花束を抱えていた。市役所へ持ってきたものではない。新しい花だった。きっと、買い直したのだろう。「ずっと捜してた」私は脚立から下りた。「何か用?」晃人は私を見つめた。その一言に傷ついたような顔をした。以前の私は、晃人を見るたび、目に何かしらの感情を浮かべていた。つらくても。嬉しくても。怒っていても。そこには必ず、晃人がいた。けれど今は違う。もう何もなかった。晃人は花束を私に差し出した。「前に言ってただろ。婚姻届を出す日には、オレンジ色のチューリップが欲しいって」私は花を一度だけ見た。「遅すぎるよ」晃人の手が宙で止まった。雨粒が花びらを伝って落ちていく。彼は低い声で言った。「栞、ごめん。あの日は、本当に琴音のことで遅くなっただけなんだ。わざと待たせたわけじゃない」私は小さく笑った。「晃人、まだ分からないの?あの日のことだけが理由で、結婚したくなくなったんじゃない。この4年間、毎日の積み重ねの末に、もうあなたとは結婚したくないと思ったの」晃人の顔から、一瞬で血の気が引いた。「でも、お前は俺を愛してた。4年間も愛してたんだろ。それなのに、急にいらないなんて言えるわけないだろ」私は彼を見つめた。その瞬間、初めて少しだけ哀れに思った。許してあげたいと思うような哀れさではない。自分が何を間違えたのか、今になっても理解できていないことへの哀れさだった。「晃人。私があなたを好きだった頃、あなたは私の気持ちを、あって当然のものみたいに扱ってたよね。今さら私が離れたからって、どうして戻ってく
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第8話
それから晃人は、毎日のように店へ来るようになった。花を持ってきたり、朝食を届けたり。通りの向かい側に立ち、私が店を開けるところも、明かりを消すところも、客を迎える姿も、黙って見ていた。けれど私は、一度も受け取らなかった。花は店先に置き、欲しい人に持っていってもらった。朝食は店員に頼んで、そのまま返した。晃人本人については、そこにいないものとして扱った。1か月後、琴音が南浜へやって来た。白いワンピースを着て本屋の前に立つ姿は、相変わらずか弱げだった。「栞さん」私は本棚を整理していた。声に気づいて顔を上げる。「何か用?」琴音の目に、たちまち涙が浮かんだ。「もう晃人のもとを離れたのに、どうしてまだ彼を縛りつけるようなことをするんですか?」思わず笑いそうになった。「私が晃人を縛りつけてるっていうの?」琴音は手にしたバッグを強く握り締めた。「晃人は今、毎日自分を苦しめています。私の電話にも出ないし、会おうともしてくれない。家にだって帰らない。栞さんはもう晃人をいらないんでしょう?それなら、どうして放してあげないんですか?」私は手にしていた本を閉じた。「琴音さん、何か勘違いしてない?晃人がここへ来るのは、本人が勝手にしてること。私が許さないのも、私の自由でしょう。二人の問題を、私のせいにしないで」琴音の顔から血の気が引いた。そのとき、背後から晃人の声がした。「琴音」琴音が振り返ると、すぐに涙がこぼれ落ちた。「晃人、私はただ、栞さんに謝りたくて……」けれど晃人は、以前のように真っ先に彼女をかばおうとはしなかった。ただ黙って、琴音を見つめていた。「13月のカレンダーを俺の書斎に置いたのは、わざとだったんだろ?」琴音の体が固まった。私はそこで初めて、あのカレンダーにまだ続きがあったことを知った。琴音は唇をかんだ。「私はただ……晃人に、私のことを忘れてほしくなかっただけ。栞さんが見るなんて思わなかったの」晃人は目を閉じた。「思わなかった?だったら、どうして婚姻届を出す1週間前に限って、書斎を片づけるよう栞に言ったんだ?」琴音はさらに激しく泣き始めた。「怖かったから。本当にあなたが栞さんと結婚してしまうのが怖かった。晃人、私はずっとあなたを愛
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第9話
晃人は南浜を離れたあと、琴音との連絡をすべて絶った。琴音は取り乱し、泣き続け、とうとう入院までしたらしい。それでも晃人が姿を見せることは、二度となかった。そうした話は、すべて人づてに聞いた。私はただ一言、「私には関係ない」と答えただけだった。本屋の開店日には、朝から激しい雨が降っていた。客はあまり来ないだろうと思っていた。けれど夕方になる頃には、店内の席はほとんど埋まっていた。レジカウンターの後ろに立ちながら、私はふと、人生がひどく軽くなったように感じた。返ってこない連絡を待つこともない。誕生日を忘れられることもない。自分には愛される価値があるのだと、何度も証明しなければならない相手もいない。夜9時。店を閉めようと外へ出ると、晃人が街灯の下に立っていた。ずいぶん痩せていた。その手に花はなかった。ただ、使い込まれた一冊のカレンダーを持っていた。「栞」私は足を止めた。晃人は近づいてくると、そのカレンダーを差し出した。「作り直したんだ。12か月分全部、お前のことを書いた」私は受け取らなかった。晃人の目は、ひどく赤くなっていた。「もう遅いのは分かってる。それでも、埋め合わせたかった」彼は最初のページを開いた。1月。私の誕生日。そこには、こう書かれていた。【ケーキを忘れずに買う。栞を待たせないこと】2月。バレンタイン。【オレンジ色のチューリップを贈る。くだらないなんて言わない】3月。【胃が弱いから、冷たいものは飲ませない】4月。【雨の日は迎えに行く】5月。【一人で食事をするのが嫌い】どのページも、文字でびっしり埋まっていた。昔の私なら、きっと泣いていただろう。そのカレンダーを抱きしめて、ようやく待ち望んでいたものを手に入れたと思ったはずだ。けれど今は、ただ疲れるだけだった。「晃人、何がいちばん可笑しいか、分かる?」彼は黙って私を見つめた。私は静かに言った。「私は、こんなふうに埋め合わせてほしかったわけじゃない。ただ、私がまだあなたを愛していたときに、少しだけ覚えていてほしかったの」晃人の目から、とうとう涙がこぼれた。「栞、俺が間違ってた。本当に分かったんだ。もう1度だけ、機会をくれないか?」
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第10話
1年後。私は南浜で、27歳の誕生日を迎えた。本屋の仲間たちがケーキを用意してくれた。店を訪れた客からは花をもらった。メッセージボードには、こんな言葉が書かれていた。【店主さんが、これから先、どの月も幸せに過ごせますように】私はその一文を見つめ、しばらく笑っていた。その夜、晃人がやって来た。彼は店の外に立ったまま、中へは入ってこなかった。手には、オレンジ色のチューリップを抱えていた。この1年、何度もそうしてきたように。私は扉を開けなかった。晃人も、ガラス越しに私がろうそくの火を吹き消す姿を、ただ見つめていた。あとになって、友人が尋ねた。「あの人、誰?」私は少し考えてから答えた。「間に合わなかった人」友人は笑った。「それでも、まだ待つの?」私は首を横に振った。「もう待たない」窓の外にいた晃人にも、その言葉が聞こえたのかもしれない。彼はうつむき、肩をかすかに震わせた。私はそれ以上、彼を見なかった。その夜、店を閉める頃には、入口に一束の花が置かれていた。花束には、小さなカードが挟まっていた。相変わらず整った文字だった。【栞、誕生日おめでとう】【今度は、忘れなかった】私は数秒、その言葉を見つめた。それから、近くを通りかかった女の子に花束を差し出した。女の子は驚いたように目を輝かせた。「お姉さん、本当にいいの?」「うん」「でも、こんなにきれいなのに」私は笑った。「もう好きじゃないから」通りの向かい側に立っていた晃人の顔から、少しずつ血の気が引いていった。彼はようやく理解したのだろう。後から埋め合わせれば、すべて元どおりになるわけではない。一度離れてしまった人が、振り返ればいつでも同じ場所にいるわけでもない。その後、晃人はどんな記念日も祝わなくなったと聞いた。誕生日会も開かず、記念日の話もしない。バレンタインになると、一人でオレンジ色のチューリップを買い、誰もいない部屋に飾った。花が枯れれば、新しいものに替える。1年、また1年と。まるで、永遠に届くことのない人生を埋め合わせようとするように。一方、私は南浜で穏やかに暮らしていた。春には花を眺め、夏には雨音を聞き、秋には日に当たりながら本を読み
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