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第2話

Author: 狐坂
翌朝、婚前契約の撤回書類をスマホで確認してから、寝室を出た。

物音に気づいた晃人は、こちらを一瞥しただけだった。

「ずいぶん顔色が悪いな」

私が口を開くより先に、晃人は手元にあった白湯の入ったグラスを押しやった。

「ありがとう」

そう口にした自分が、いちばん驚いた。

晃人はすぐに眉をひそめた。

「なんだよ、急によそよそしいな」

けれど、私が答える前にインターホンが鳴った。

晃人はすぐに立ち上がり、玄関へ向かった。

扉の向こうには、晃人の母とスタイリストだけでなく、琴音も立っていた。

白いバラの花束を抱えた琴音の顔は、冷たい風にさらされてきたかのように青白かった。

部屋に入るなり、晃人は真っ先に彼女の足元へ目をやった。

「今日は冷え込むって言っただろ。どうしてそんな薄着で来たんだ?」

琴音は目を細めて笑った。

「昨日、会えるって言ってくれたから。服のことまで考えてなくて」

晃人の母は、傍らで満面の笑みを浮かべた。

「晃人は昔からこうなのよ。口では何だかんだ言いながら、結局は放っておけないんだから。琴音のことなんて、できることならいつもそばに置いておきたいくらいでしょうね」

私はまだ口をつけていないグラスを手にしたまま、そこに立っていた。

まるで、この家とは何の関係もない人間のように。

スタイリストが、披露宴で着る服を、ラックに掛けて運び込んできた。

晃人の母は、その中にあったパールホワイトのロングドレスを指さした。

「それ、琴音に試着させて」

スタイリストは戸惑った。

「奥様、こちらは藤沢様がお召しになる予定のドレスでは……」

晃人の母は私をちらりと見た。

「琴音は体が弱いし、晃人が子どもの頃から大切にしてきた子なのよ。当日は私たちと同じテーブルに座るんだから、あまり地味な格好をさせるわけにもいかないでしょう」

琴音は慌てたようにうつむいた。

「おばさま、そんな……栞さんが気を悪くします」

晃人はすぐには何も言わなかった。

ただラックからそのドレスを外し、琴音に手渡した。

「着てみろよ」

私は顔を上げ、晃人を見た。

けれど彼は私と目を合わせようとしなかった。

「栞は、ほかのを選べばいい」

胸の奥を、切れ味の悪い刃で少しずつ削られているようだった。

そのドレスは、2か月も前から私が選んでいたものだ。

晃人が何気なく、「お前は白が似合うな」と言ったから。

その一言が嬉しくて、私はずっと楽しみにしていた。

今となっては、あまりにも滑稽だった。

琴音はドレスを抱え、別室へ着替えに行った。

晃人の母はソファに腰を下ろし、ゆったりとした口調で言った。

「結婚相手として家に迎えられるかどうかは、相手を受け入れるだけの度量があるかどうかで決まるものよ」

私は静かに問い返した。

「もし、私にそこまでの度量がなかったら?」

部屋の空気が、一瞬で静まり返った。

晃人はそこで初めて眉をひそめた。

「栞」

まるで、これ以上何か言えば、私のほうが聞き分けのない人間になるとでもいうように。

私は彼を見つめた。

知らない人のように思えた。

「聞いてみただけ」

しばらくして、琴音が着替えを終えて出てきた。

ドレスは彼女には少しウエストが緩かったものの、それでもよく似合っていた。

晃人の母の顔がぱっと明るくなる。

「やっぱり琴音にぴったりじゃない」

晃人も琴音へ目を向けた。

その瞳に浮かんだ感嘆は、ほんの一瞬だった。

けれど、私を傷つけるには十分だった。

琴音は頬を赤らめながら、その場でくるりと回った。ドレスの裾がカーペットをなぞる。

「ごめんなさい、栞さん。ドレスにしわをつけちゃったみたい」

私はグラスを置いた。

「気にしないで」

晃人は私を見た。

聞き分けよく振る舞う私に、満足しているようだった。

けれど次の瞬間、琴音の足元がぐらついた。そのままテーブルへ倒れ込みそうになる。

晃人の反応は、驚くほど速かった。

ほとんど飛び込むようにして、琴音の体を受け止めた。

その拍子にポットが倒れ、熱湯が私の手の甲にかかった。

肌はたちまち赤くなった。

けれど、誰も気づかなかった。

晃人は琴音を抱き留めたまま、低い声で尋ねた。

「足をひねったのか?」

琴音の目に涙がにじむ。

「ううん。ただ、少し目まいがしただけ」

晃人の母は、すぐに私を睨みつけた。

「栞、あなたはそこで見ていただけなの?どうして支えてあげなかったの」

私は赤くなった手の甲に目を落とした。

「私からは離れていましたから」

晃人の母は鼻で笑った。

「口答えまでして。結婚してこの家に入っても、そんな態度を取るつもり?」

晃人は琴音をソファへ座らせると、振り返って私を見た。

「謝れ」

私は一瞬、何を言われたのか分からなかった。

「何を?」

晃人は声を低くした。

「お前のドレスを着ていて転びかけたんだ。ひと言くらい、大丈夫かって声をかけられないのか?」

その言葉が、あまりに理不尽すぎて理解できなかった。

それでも、4年間で身についた習慣は恐ろしい。

その瞬間、私は本当に反射的に謝りそうになった。

場を収めたい。晃人を怒らせたくない――そう思ってしまった。

けれど、手の甲に走った痛みが私を現実へ引き戻した。

私は顔を上げた。

「晃人、どうして私が謝らなきゃいけないの?」

彼の表情が険しくなる。

琴音はすぐに晃人の袖をつかんだ。

「晃人、もういいの。そもそも、栞さんのドレスを着た私が悪かったんだから」

その言葉は、かえって火に油を注いだ。

晃人の目が、完全に冷え切った。

「栞、琴音にこんなことまで言わせるなよ」

私は彼を見つめた。もう言い返す気力さえ残っていなかった。

晃人にとっては、琴音がひと言つらそうに訴えるだけで、私を悪者にするには十分なのだ。

私は目を伏せた。

「ごめんなさい」

晃人の母は、ようやく満足そうな顔をした。

晃人の表情も少しだけ和らいだ。

彼は私のそばへ来て手首をつかみ、赤くなった手の甲に気づいて眉を寄せた。

けれど、袖口を少し引き下げ、その赤みを隠しただけだった。

「今日は人が来てるんだ。みっともないことにするなよ」

胸の奥にかすかに浮かんだ痛みは、その瞬間、冷たい氷に変わった。

そのとき、スマホが震えた。

弁護士から、最後の確認が届いていた。

【明後日12時、お迎えの車を手配いたしました】

私は返信した。

【分かりました】

晃人は画面が目に入ったらしく、何気なく尋ねた。

「誰からだ?」

私はスマホを伏せた。

「ブライダルショップ」

晃人は淡々とうなずいた。

「ウェディングドレスのことは、まだ急がなくていい。先に琴音のこのドレスを直してもらえ。明日の披露宴には、琴音も出るんだから」

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