All Chapters of 恋文を晒されたので、婚約破棄です: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

同窓会の日、親友が抽選箱を取り出した。箱にはこう書かれている。【桜井糸(さくらい いと)、恋する乙女の名言集・大抽選会】その場がどっと沸いた。誰かが引き当てたのは、高3のとき角田旭(かくだ あさひ)に渡したラブレターだった。【旭くんが今日、私に笑いかけてくれた。だから明日も、彼に捧げたいと思った】別の誰かが引いたのは、大学時代のもの。【返事が来なくてもいい。忙しさが落ち着いたら、きっと思い出してくれるはずだから】けれど旭に宛てた手紙に、彼が返事をくれたことは一度もない。とっくに捨てられたのだと、今までずっと信じ込んでいた。最後に親友が引き当てたのは99通目。彼女は旭の胸に寄りかかったまま、笑いながら読み上げた。「もしいつか私のことが必要なくなっても、それでも幸せを祈ってる」旭は紙をひったくり、笑って親友をたしなめた。「よせよ。糸は恥ずかしがり屋なんだから」そう口では言いながらも、その目はどこか、私が恥をかくのを面白がっているように見えた。親友が手紙をめくった拍子に、箱がぐらりと傾き、中の手紙がこぼれ落ちた。それを拾おうとかがんだ私は、箱の底に小さく書かれた文字に気づいた。【毎月更新】【仲間内だけのお楽しみ】そこでようやく思い知らされた。私の本気は、みんなの笑い話でしかなかったのだと。黙り込む私に、旭が歩み寄ってきて機嫌を取るように言う。「もう拗ねるなよ。好きでもない相手の手紙を、何年も取っておくわけないだろ」やけに堂々とした物言いだった。まるで、恥をかかせることすら、自分からの恩恵だとでも言うように。だから私は、カバンから100通目の手紙を取り出した。旭はその封筒を見て、気だるげに手を伸ばしてくる。「やっと渡す気になったのか」私は彼を見つめ、ふっと笑みをこぼした。そして、皆の前でその手紙をずたずたに破いた。「旭。もう読まなくていいから。これからはもう、書くことはない」紙片が旭の黒いスラックスに落ちる。彼は一瞬目を伏せ、それから片眉を上げた。「お前さぁ、いったい何のつもりだ」個室に、一瞬の静寂が落ちた。けれどすぐに、誰かが低く笑いを漏らす。「あらら、本気で怒っちゃった?」「旭、早くなだめてやれよ。恋する乙女心が砕けちまうぞ」旭は笑
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第2話

店を出ると、雨が降り出していた。スマホが休みなく震えていた。同窓生グループに、さっきの動画が上がっていた。私が100通目の手紙を破る場面に、大げさな泣き声とテロップがつけられている。【旭、早く拾ってやれよ。お前のたまごっちが死にかけてるぞ】下にはずらりと笑顔の絵文字。私は画面を数秒見つめたあと、グループを退会した。スマホを鞄に投げ入れたその時、黒いカリナンが1台、道端にゆっくりと停まった。後部座席の窓が下りる。私が雨に濡れているのを見て、彼はわずかに眉をひそめた。「乗れ」昔もこうだった。高3のとき、階段の踊り場で笑いものにされていた私を、彼は人だかりの外からこう言って助けてくれたことがある。「どけよ」あの日から、私は自分が彼にとって特別なのだと、そう信じていた。けれど今になってようやく分かる。彼はただ、私の安っぽい好意を意のままに弄ぶことに慣れきっていただけなのだ。運転手が傘をさして降りてきて、後部座席のドアを開けた。「桜井様、角田社長が、お乗りくださいと」私は半歩下がった。「結構です」旭がとうとうドアを押し開けて降りてくる。黒い傘を広げ、私の頭上に差しかけた。びしょ濡れの肩を見下ろし、傘をさらにこちらへ傾ける。彼の袖口は、あっという間に雨で色を深くしていった。「胃の調子が戻ったばかりだろう。それでまた雨に濡れるのか」声が低く沈む。「入院するまで自分を追い詰めないと気が済まないのか」私は思わず笑いそうになった。胃が弱いことは、こんなにきっちり覚えているくせに。なのに、私だって傷つき、恥もかくということ、みんなに笑われているときに誰かにそばにいてほしいと思う気持ちには、少しも思いが至らないのだ。私は傘を避けて先へ歩き出した。旭の我慢は、そこでとうとう尽きたらしい。彼は私の手首をつかみ、傘の下へ引き戻した。「いいか」一言一言に苛立ちがにじむ。「今夜は十分、お前の顔を立てただろう。お前が皆の前で手紙を破っても、俺は大目に見てやった。不機嫌に出て行っても、こうして迎えに来た。これ以上、何を望むんだ」雨水が髪の先から目に流れ込んだ。私は顔を上げて彼を見た。「あなたから、離れたいだけ」旭は私を見つめたまま、ふっと笑った。軽い笑みなのに、背筋が凍
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第3話

部屋に戻ると、私は引き出しから身分証明書を取り出し、カバンの一番奥にしまい込んだ。それから、新幹線のチケットを予約した。明日の演奏を終えたら、もうここには戻らない。翌日、7時ちょうど、学校の講堂は煌々と明かりが灯っていた。車を降りた瞬間、講堂の側面の通用口から冷たい風が吹き込んできて、指先が強張る。旭は入口で電話をしていた。私を見つけると、すぐに電話を切り、視線を私の顔に落とした。「顔色、ずいぶん悪いな」彼はスーツのポケットから飴を1つ取り出し、私に差し出した。「また低血糖か」包み紙はレモンイエロー。昔、私が一番よく食べていたものだった。彼はいつも「酸っぱすぎる」と文句を言っていたくせに、車には必ずひと箱常備していた。私は俯いてその飴を見つめ、手を伸ばさなかった。旭は私の沈黙にすっかり慣れているようで、さりげなくストールを私の肩まで引き上げた。「肩をあまり出すな。楽屋は冷える」その仕草があまりに手慣れていて、私は一瞬忘れそうになった。昨晩、私を脅すために動画を突きつけたのも、同じこの手だったことを。そのとき、少し離れたところから遥香の声がした。「旭、イヤモニの調子が悪いみたい」旭の手が一瞬止まった。次の瞬間には、もう手を離し、彼女のほうへ歩いていた。「見てやる」遥香は白いロングドレスを着て、何人かに囲まれてメイクを直されていた。彼女はわずかに首を傾け、旭がかがみ込んでイヤモニを確認するのに任せている。ふたりの距離はとても近い。近すぎて、伏せられた彼の目には、もう彼女しか映っていないようだった。私は飴を口に入れ、掌の中で包み紙をぐしゃりと握りつぶした。けれど酸味よりも先に、喉元にこみ上げてくるものがあった。遥香が鏡越しに私を見つけ、目を細めて笑った。「糸、本当に来てくれたんだね」彼女はイヤモニを外しながら、ようやく私の存在を思い出したとでも言うように、満面の笑みで近寄ってきた。「昨日あんなに怒ってたから、今日は手伝ってくれないかもって思ってたのに」彼女が親しげに私の腕を取ると、旭の視線がそこへ落ちた。遥香の指先は、わざと昨夜彼につかまれて赤くなった箇所を押さえた。痛みに、私は思わず肩を震わせた。彼はわずかに眉を動かしたが、口にしたのは低い注意だけ
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第4話

楽屋の扉が、荒々しく閉められた。遥香はすぐ後ろについてきて、目を赤くしたまま、震える声で言った。「旭、私、本当に大画面であんなのが流れるなんて、知らなかったの……糸がどうして私を陥れようとするのかも、さっぱり……」旭は私の手を離し、振り返って彼女を支えた。表情は相変わらず穏やかだったが、目の奥には押し殺した苛立ちが濃く沈んでいた。彼女を落ち着かせてから、彼はようやく私のほうを向いた。「謝れ」聞き間違えたのかと思った。「何て?」旭の表情は冷え切っていた。「今夜の主役は遥香だったんだ。それなのに、お前は彼女の出番で演奏を止め、大勢の前で恥をかかせた。謝るのが筋だろう」胸を何かに押しつぶされているようで、息が詰まりそうになった。「あの手紙は、私があなたに書いたものよ?それを、みんなに見せるために取っておいたのはあなたじゃない」旭の眉間に皺が寄る。「取っておいたのは、捨てるのが面倒だったからだ。あいつらがあれで遊んだのは、単にあいつらの悪ノリだ。けど今夜、お前が皆の前で演奏を止めて、遥香に恥をかかせた。それはお前の責任だ」あまりにも自然に言ってのけた。まるで、私の惨めさも、私の恥も、私が10年抱え続けた本気の想いも、すべてが、遥香のデビューまでの道のりに起きた、ほんの些細なトラブルに過ぎないとでもいうように。遥香が彼の袖口をそっと引いた。「いいよ旭、糸もわざとじゃないと思う」彼女がそう庇えば庇うほど、旭の目はさらに冷たくなった。「そういうわけにはいかない」彼は私を見つめ、抑揚のない声で言った。「俺が甘やかしすぎた」私の指先が、じわじわと固く握りしめられていく。「旭。あなたは今まで、自分が間違ってるなんて思ったこと、一度もないんでしょう?」彼はその問いにうんざりしたように言った。「俺に落ち度があったとすれば、お前を甘やかしすぎたことだけだ」楽屋は恐ろしいほど静まり返っていた。旭は私の前まで来ると、手を伸ばし、私の顎をつかんだ。指の腹は冷たいのに、力加減だけは慎重に抑えられていた。「糸」低い声で彼が言う。「お前が10年間、俺を好きだったことは分かってる。今だって、俺の気を引きたいだけなんだろ。みんなの前で、俺にお前を選ばせたいだけなんだろ」その目に
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第5話

旭が異変に気づいたのは、それから30分後のことだった。遥香はソファに寄りかかり、青ざめた顔をしていた。「私、あなたを驚かせちゃったかな」旭は視線を落とし、彼女を見た。昔の彼なら、すぐに医者を呼ばせ、低い声でどこが辛いのか尋ねていただろう。けれど今、頭の中で繰り返し響いているのは、私が去り際に言った言葉だった。「これからもずっと、お似合いでいてね」拗ねているというより、まるで別れの言葉のようだった。旭はふいに、遥香に握られていた腕を引いた。遥香はその場で固まった。「旭?」彼は答えず、身を翻して扉を押し開け、外へ出た。廊下はがらんとしていた。スタッフが機材を片付けながら行き来し、彼を見ると慌てて頭を下げて挨拶する。旭はその場に立ち尽くしたまま、表情がじわじわと曇っていった。「桜井糸は?」スタッフは一瞬戸惑った。「桜井様なら、さっきお帰りになりました」「どこへ?」「分かりません……小さなスーツケースを引いて、なんだかとても急いでいるようでした」小さなスーツケース。その言葉は不意に、針のように彼のこめかみを刺した。彼はスマホを取り出し、私に電話をかけた。「おかけになった電話は、電源が入っていないか……」旭は表情を強張らせたまま、マンションの管理人に電話をかけた。相手が出るなり、低い声で尋ねる。「桜井糸が帰ってきたか、見かけていませんか」10分後、管理人がおずおずと答えた。「角田様、桜井様はいったんお戻りになりましたが、その後、荷物を引いて出て行かれました」旭はスマホを握る手に、ぐっと力を込めた。「どこへ行ったんですか?」「それは……分かりません」彼は電話を切り、身を翻して大股で外へ向かった。遥香が追いかけてきて、泣きそうな声で言った。「旭!どこへ行くの?」旭は足を止めなかった。彼女は焦った様子で、彼の腕をつかもうと手を伸ばした。「彼女を捜しに行く必要なんてないでしょう?わざと困らせてるだけよ。あなたが情にほだされやすい人だって分かってるから、何度もこんな騒ぎを起こすの」旭はついに振り返った。廊下の灯りが顔に落ち、ぞっとするほど冷たく見えた。「俺が情にほだされやすい人? 誰がそんなことを言った」遥香は固まった。旭は彼女を見据え、一語一語区切るように言
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第6話

南雲市に着いたときには、すでに深夜近くになっていた。改札を出ると、駅構内の人影はすでにまばらだった。私はスーツケースを引いて外へ出た。冷たい風が、痛いほど目に染みる。スマホの電源を入れ直すと、不在着信が次々と表示され、それに続いてメッセージも1件届いていた。【糸、電話に出ろ】2分後、また1件。【どこにいる】そのときになってようやく、彼の言葉から命令口調が消えた。【もう無理するな。迎えに行く】私はしばらくそれを見つめたあと、最後に彼の番号を着信拒否にした。タクシーの運転手に行き先を聞かれ、私はある住所を告げた。南雲療養病院。兄は、ここ2年ずっとそこで療養している。桜井家が窮地に陥ったあと、兄は多くのことを私の代わりに引き受け、その苦労を私には一切隠してくれていた。車が療養病院の前に着いたとき、空はすでに白み始めていた。車を降りた瞬間、入口にひとりの人影が立っているのが見えた。兄の桜井佑樹(さくらい ゆうき)は濃い色のコートを着て、ずいぶん痩せていたけれど、それでも昔と変わらず、まっすぐに背筋を伸ばして待っていた。彼は私を見ると、何も尋ねず、ただ両腕を広げた。「糸」私はスーツケースを引いたまま、彼のもとへ歩み寄った。兄の前に立った瞬間、一晩中こらえていた涙が、とうとうこぼれ落ちた。「お兄ちゃん……っ」彼は私の背中を、そっと叩いた。「帰ってきたなら、それでいい」私は言葉にならずに、ただ泣き続けた。この数年、旭のそばにいて、どれだけ悔しい思いをしても、大きな声で泣くことすらできなかった。彼を煩わせるのが怖くて、うっとうしい女だと思われるのが怖くて、また「桜井糸、どうしていつもこうなんだ」と言われるのが怖くてたまらなかった。けれど今、兄はただそこに立っているだけで、私はようやく認めることができた。本当に、苦しかった。心が割れるほど、痛かったのだと。兄は私を部屋へ案内した。テーブルの上には、湯気の立つ野菜のお粥が置かれ、ベッドの上には新しいパジャマが用意されていた。「まずは何か食べなさい」私はお粥を見つめながら、ふと昨夜、雨の中で旭に言われた言葉を思い出した。「胃の調子が戻ったばかりだろう。それでまた雨に濡れるのか」彼も、私の胃が弱いことを覚えていた。けれど、それ
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第7話

旭が南雲市を訪ねてきたのは、それから1週間後のことだった。その日、私はちょうど療養病院を出たところで、兄のために買った薬の袋を手に提げていた。ふと顔を上げると、彼が道端に立っているのが見えた。しばらくまともに眠れていないのだろう。瞳は赤く充血し、顎には無精髭が浮いていた。着ているスーツはきちんとプレスされているのに、彼自身はまるで魂を抜き取られたかのように、生気がなかった。私を見た瞬間、彼の目が一気に明るくなった。「糸」私は足を止めた。彼は足早に歩み寄り、私の手にある薬袋を受け取ろうと手を伸ばすが、私はそれを避けた。旭の手が、宙で止まった。少しして、彼は何事もなかったかのように、低い声で言った。「迎えに来た」私は彼を見つめた。「どこへ?」彼は眉をひそめた。「恵川市に決まってるだろう。お前のマンションは、もう更新しておいた。講堂の動画も処理した。もう誰にも拡散させない」彼は早口だった。まるで、ひとつひとつ問題を片付けていけば、私が素直に一緒に帰るとでも思っているように。「遥香は、恵川市から出て行かせた。抽選箱の件は、彼女に謝らせる」少し間を置いて、彼はさらに付け加えた。「お前がどう罰したいと言おうと、それでいい」私は静かに聞き終えたあと、ふと尋ねた。「それで、あなたは?」旭が固まった。私は彼を見つめた。「旭。彼女が私の手紙を面白半分に扱ったことも、みんなが私を笑いものにしたことも、それぞれ、あの人たちが悪い。じゃあ、あなたは?」彼の喉が、ごくりと鳴った。「俺は……」「あなたは、あの手紙が私があなたに書いたものだと、ちゃんと知っていた。あの曲が、私があなたのために書いたものだということも、私がみんなに笑われて、どれほど惨めだったかも、ちゃんと知っていた」私の声はひどく静かだった。「なのにあなたは、真っ先に彼女を庇った。私に、彼女へ謝れと言った。私を、甘やかされすぎて我が儘になった女だと、そう言った」旭の顔から、じわじわと血の気が引いていった。彼は口を開きかけ、掠れた声で言った。「あのときは、お前が本当に去るとは、思わなかった」私は笑った。「じゃあ、私が去りさえしなければ、あなたはずっと私を傷つけ続けられたってこと?」そのひと言に、彼はまるで平手打ちを食
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第8話

旭はなかなか諦めきれず、療養病院の近くに部屋まで借りていた。毎朝7時になると、玄関先に朝食が届けられた。ネギ抜きの卵雑炊に、温かい牛乳。それから、私が好きだったレモン飴。さらには、以前何気なく欲しいと口にした、今では手に入らないピアノの楽譜まで添えられていた。しかし、私は一度も受け取らなかった。兄は、日に日に積み上がっていく玄関先の荷物を見かねて、最後には介護士に頼み、すべて返してもらった。旭も、それで騒ぎ立てはしなかった。ただ、毎日療養病院の向かいの木の下に立ち続けていた。雨の日でも、傘を差さないことがあった。私は一度、窓辺からそれを見た。彼は雨の中に立ち、スーツの肩をびっしょり濡らしていた。あの夜、傘を私のほうへ傾けていたときと同じ姿だった。けれど今度は、私は下に降りなかった。兄が私の背後にそっと立った。「情にほだされたか?」私は首を振った。「ただ、彼もようやく私の気持ちを知ったんだなと思っただけ」兄は何も言わなかった。しばらくして、静かに口を開いた。「糸。彼の痛みで、自分を罰するな」私は振り返り、カーテンを閉めた。「分かってる」旭が本当に取り乱したのは、2週間後のことだった。その日、療養病院で小さな音楽会が開かれた。兄はだいぶ体調を取り戻していて、どうしても1曲弾いてほしいと言って譲らなかった。私はもともと出演するつもりはなかった。けれど兄は笑って言った。「まさか、旭ひとりのせいで、お前がピアノまで手放すつもりじゃないだろうな」それで私は、ピアノの前に座った。弾いたのは、あの曲。ただ今度は、遥香はいない。ただ兄が客席に座り、静かに私を見守っているだけだった。1曲弾き終えると、拍手は小さかったけれど、とても温かかった。立ち上がったとき、入口に旭が立っているのが見えた。いつから来ていたのか分からない。顔が、恐ろしいほど青白かった。音楽会が終わると、彼は廊下の突き当たりで私を待っていた。「本当に……俺のために書いた曲だったのか」かすれた声は、今にも消え入りそうだった。「あの日は思い出せなかった。何の変哲もない曲だと思ってた」私は何も言わなかった。彼の目の縁がひどく赤くなっていた。「高3の卒業式の日、俺が行かなかったのは、遥香が足を挫いたと言ったからだ。お前が、
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第9話

私が南雲市を離れる日、旭は現れなかった。アシスタントによると、彼は恵川市へ戻ったらしい。会社で大きな問題が起きたのだという。契約を打ち切られた遥香は、その腹いせに、創立記念祭の動画や抽選箱をめぐる一連の出来事をすべてネットに流した。自分は巻き込まれただけで、すべて旭が黙認していたことだと訴えるつもりだったのだろう。けれど、世間は彼女が無実かどうかなど気にも留めなかった。そこに映っていたのは、見るに堪えない集団いじめだった。旭への批判は瞬く間に広がり、会社の株価は3日続けて下落した。取引先からも契約の見直しや打ち切りを求められ、父親は怒りと心労で倒れ、入院したという。誰もが口をそろえて言った。旭がこれほど追い詰められたのは、初めてだと。けれど私がその話を聞いたのは、空港の搭乗口で飛行機を待っているときだった。兄が尋ねた。「見なくていいのか?」私は首を振った。「もう大丈夫」搭乗を待っていると、旭からメールが届いた。本文はなく、添付されていたのは1枚の写真だけだった。そこには、灰になるまで焼かれた、あの抽選箱が写っていた。その下に、ひと言だけ添えられている。【糸、すまなかった】私はその言葉を、しばらく見つめていた。そして、メールを削除した。かつては、このひと言をずっと待っていた。10年もの間、夢の中でさえ、彼の口から直接「糸、すまなかった」と聞きたいと願っていた。けれど、いざ届いてみれば、それだけだった。あまりにも遅すぎた謝罪では、あの日傷ついた心を元に戻すことなどできない。私はスマホをしまい、兄と一緒に飛行機へ乗り込んだ。やがて機体が雲を抜けると、窓の外には一面の白が広がった。その景色を見つめているうちに、ふと99通目の手紙に書いた言葉を思い出した。「もし彼がいつか誰かを好きになったら、それでも幸せを願う」あの頃の私は、なんて愚かだったのだろう。捨てられるその瞬間まで、彼のプライドが傷つかないように気を遣っていたなんて。けれど今なら分かる。もう、彼の幸せを願う必要はない。これからは、ただ自分の幸せだけを願えばいい。この先の人生で、二度と彼と関わることがありませんように。
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第10話

1年後、私は海外でピアノのソロコンサートを開いた。最後の曲は、「あの日の星空」。客席は満員だった。照明が落ちたとき、私はもう旭のことを考えていなかった。思い浮かべていたのは、自分のことだけだった。誰にも言えず、こっそり99通もの手紙を書き続けた、あの頃の私。不器用で、真っ直ぐで、持てる力のすべてを注いで、ひとりの人を愛していた。そして今、長い間続けてきた自己犠牲から、ようやく抜け出した私自身のことを思っていた。演奏が終わると、拍手はいつまでも鳴りやまなかった。立ち上がって一礼したとき、最後列に見覚えのある姿を見つけた。旭だった。彼はずいぶん痩せていた。薄暗い隅の席に座り、レモンイエローの小さな花束を、両手で握りしめていた。私はほんの一瞬、彼に目を向けただけで、すぐに視線を逸らした。終演後、彼は楽屋の外で私を待っていた。昔のように「止まれ」と命じることも、私に戻ってこいと言うこともなかった。ただ花束を私の前に差し出し、ひどくかすれた声で言った。「糸、今日は邪魔をするつもりはなかった。ただ、あの曲を最後まで聴きたかっただけだ」私は頷いた。「聴き終わったなら、帰って」旭の目の縁が、うっすらと赤くなった。「今、幸せか?」「とても」彼はふっと笑った。けれど涙がこぼれた。「それなら、良かった」彼は俯き、ポケットから古い封筒を取り出した。角はもう擦り切れて白くなっている。「100通目の手紙は、あのあと、少しずつ拾い集めて貼り合わせた」私はその封筒を見つめたまま、受け取らなかった。彼の指先が、かすかに震えていた。「見る資格がないことは、分かってる。それでも、見た。お前はこう書いていた。『旭、あなたを好きでいるのは、これで最後』」そこまで言うと、彼の声は完全に詰まった。「あのとき、お前はもう俺に別れを告げていたんだな」私はしばらく黙り込んだ。「ええ」旭は目を閉じた。涙が封筒の上に落ち、小さな染みを作った。「もしあの日、みんなに手紙を読ませなかったら、もし舞台に上がって真っ先にお前を庇っていたら、もしお前に謝れなんて言わなかったら、俺たちは……」「もし、なんてない」私は彼の言葉を遮った。「旭。私たちが壊れたのは、あの日が原因じゃない。その前から、少しずつ壊
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