All Chapters of もう少し待って、その言葉に殺された: Chapter 1 - Chapter 10

22 Chapters

第1話

夏山家の家訓には、貧しい家の娘を跡継ぎの妻に迎えてはならないという掟があった。だが、社交界で名を馳せる夏山家の御曹司、夏山清輔(なつやま せいすけ)は、あろうことか魚屋の娘である伏見絵麻(ふしみ えま)と恋に落ちてしまう。彼女と一緒になるため、清輔は跡継ぎの座も家も捨てた。勘当を言い渡され、父に何度殴られても決意を曲げず、本家の仏間で3日3晩、正座を続けた。白いシャツを血で染めながらも、彼は笑ってこう言った。「絵麻、怖がるな。俺には君だけがいればいい」やがて夏山家もついに折れ、ふたりが家を離れて暮らすことを許した。ただし、家のために跡継ぎをひとりだけ残すという条件付きだった。それから、清輔が絵麻に最も多く口にした言葉は……「もう少し待ってくれ」彼は彼女を待たせた。自分が別の女を孕ませる、その日まで。……1度目、彼は絵麻に「待ってくれ」と言った。自分が別の女を孕ませるまで、と。そうして彼は草間知夏(くさま ちなつ)と何度も肌を重ね、彼女が子を宿すまで待ち続けた。2度目、彼はまた絵麻に待てと言った。生まれたのが娘であり、夏山家には男の跡継ぎが必要だから、と。そうして彼は再び知夏と数えきれないほど肌を重ね、彼女がまた身ごもるまで待ち続けた。ようやく報われる。絵麻がそう思い始めた矢先のことだった。清輔と知夏の娘が百日祝いを終えた直後、突然高熱を出して血を吐いたのだ。誰もが、それを絵麻の仕業だと決めつけた。知夏は狂乱して飛びかかり、爪で絵麻の顔を引っ掻きながら、身も世もなく泣き叫んだ。「恨むなら私を恨めばいいじゃない!どうしてあの子にまで手をかけるのよ!?」清輔の両親は激怒した。「これがうちの初孫だぞ、よくもそんな真似ができたな!」絵麻が服を剥ぎ取られ、マイナス20度の冷凍倉庫へ放り込まれたとき、清輔は扉の外に立っていた。霜の降りたガラス越しに、彼女はタバコに火を点ける彼の手が震えているのを見た。だが、かつて愛情に満ちていたはずのその瞳には、今はもう、骨まで凍らせるような冷たさしか残っていなかった。「もう少し待てと言ったはずだ」彼はタバコをもみ消し、失望の色を隠さずに言った。「なんで俺の子供に手を出した」――なるほど。「俺の」子供、か。絵麻は痛みに体を折った。心臓を生きたまま抉り取られるような痛みだった。ふと、脳裏によみがえる記憶が
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第2話

清輔が知夏を抱きかかえ屋敷を飛び出していった後も、絵麻はまだ床にへたり込んだままだった。後頭部の傷から流れる血が、首筋を伝って落ちていく。彼女はその背中を見つめた。あんなにも焦り、あんなにも取り乱して、一度も振り返らなかった背中を。頭が割れるような痛みの中、ふと思い出す。かつての彼も、こんなふうに自分を案じてくれていたことを。あの頃、絵麻はまだ魚市場で魚を売っていた。飾り気のない一つ結びに、すっぴんの顔。それでも際立つ清らかな容姿から、市場の人々には「魚屋の小町」と呼ばれていた。清輔が初めて彼女を見たとき、彼は店先に立ったまま丸2時間も動こうとしなかった。そして去り際、ブラックカードを取り出してこう言ったのだ。「俺と一緒に来ないか。これからの人生、こんな生臭いものに触れる必要はない」貧しくとも、絵麻には凛とした誇りがあった。一瞬戸惑いはしたものの、彼女はそのカードをまっすぐ突き返した。「結構です。私は働いてお金を稼いでいます。恥じることではありませんから」清輔はしばらく黙って彼女を見つめていたが、やがて長く整った指で名刺を差し出した。「夏山清輔だ。明日、また来る」絵麻は本気にしていなかった。だが翌日、彼は本当に現れた。黒塗りのマイバッハを乗りつけ、スーツ姿のまま生臭い匂いの漂う市場に立つ姿は、あまりにも場違いだった。それから3ヶ月、社交界随一の御曹司は、彼女を口説くためにありとあらゆる型破りな手を尽くした。バラを突き返せば、翌日から毎日、海外から空輸された高級魚介を店先に届けさせた。高級車での送迎を断れば、魚の血や水が飛び散る市場のど真ん中を、彼自身の足で歩いて突っ切ってきた。「私たちは住む世界が違う」と突き放せば、彼は鱗まみれの水槽の傍らにしゃがみ込み、自ら魚の鱗を取り始めた。彼女が魚を売るその場所に、彼は丸3ヶ月立ち続けた。断られれば2度目、3度目、4度目と、何度でも足を運んだ。心が揺れなかったわけではない。ただ、ふたりの間にある隔たりがあまりに大きいことを、嫌というほど分かっていた。だから、その思いに応えることができなかった。応える勇気もなかった。そんな彼女がついに陥落したのは、同業者から浴びせられた硫酸を、彼が身を挺して庇ってくれたときだった。そのせいで、彼の背中には見るも無惨な火傷の痕
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第3話

それから数日間、絵麻のスマホには毎日のように知夏から挑発的な写真が送りつけられてきた。写真の中では、清輔が娘をあやしながら優しく目を細め、知夏がその肩にもたれて甘い笑みを浮かべている。指先を震わせながら、絵麻は1枚1枚、それを見ていった。深夜まで知夏の病床に付き添う姿。自らスプーンでスープを飲ませてやる姿。知夏と娘を抱き寄せ、蕩けるような眼差しを向ける姿。1枚見るごとに、心臓をナイフで抉られるようだった。けれど、痛みを重ねるうちに、ふと気づく。もう、何も感じなくなっている自分に。たぶん、心はあの冷凍倉庫に閉じ込められた瞬間、とうに死んでしまったのだろう。知夏をブロックしようとした、その時。スマホがまた震えた。1枚の写真。彼女のブレスレットが、知夏の手の中で弄ばれていた。【あなたのお母さんの形見、欲しい?欲しいなら来なさい】絵麻は勢いよく立ち上がった。目の前が一瞬暗くなったが、構ってはいられなかった。上着を掴み、部屋を飛び出した。VIP病室では、知夏が子供を抱きながら子守唄を口ずさんでいた。「パパが一番大好きよね?パパは毎日、私たちに会いに来てくれるものね……」顔を上げ、絵麻の姿を見つけると、知夏の笑みはさらに深くなった。「来たのね。知ってる?私が入院してるこの数日、清輔さんったら会社にも行かず、ずっとここで私と娘の面倒を見てくれてるのよ」絵麻は爪が食い込むほど拳を握りしめ、聞きたくもない言葉を遮った。「あのブレスレットは?」知夏はゆっくりとベッドの脇からブレスレットを取り上げ、軽く揺らして見せた。「これのこと?」唇の端を吊り上げ、残酷な笑みを浮かべる。「じゃあこうしましょう。私に土下座しなさい。そうしたら返してあげる」絵麻の体が震えた。「いい加減にして」「私がいい加減にしないとしたら、どうだっていうの!」知夏の目には、あからさまな軽蔑が浮かんでいた。「あなたはしがない魚屋の娘に過ぎないわ。でも私は草間グループの令嬢であり、夏山家が選んだ正式な婚約者なのよ!身の程を弁えなさい。私と対等に立てるとでも思っているの?私に土下座する機会を与えられただけでも、ありがたく思いなさい」知夏はわざとらしく手を離す素振りを見せた。「3つ数えるわ。頭を下げなければ、これを叩き割る。3
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第4話

再び目を覚ましたとき、絵麻は病室のベッドにうつ伏せで寝かされていた。背中が焼けるように痛む。「絵麻!」清輔がすぐに駆け寄ってきた。その目は血走っている。「目が覚めたか?まだ背中は痛むか?」その心配そうな様子を見て、絵麻はふと現実感を失いかけた。以前、熱を出したときも、彼はこうしてベッドの傍を片時も離れずにいてくれた。けれど、今回は違った。病気で熱を出したのではない。彼の両親の命令で、暴力を受けたのだ。それなのに清輔は、最初から最後まで、冷ややかな目で見ているだけだった。彼女は黙って自分の手を引き抜き、彼と目を合わせようとはしなかった。清輔は一瞬固まったが、再び口を開いた。「絵麻、君を庇わなかったわけじゃない。ただ、あの場で俺が止めていたら、もっと重い罰を受けていたはずだ……」「……つまり」絵麻の声はひどく掠れていた。「あなたも、私があの子を傷つけたと思っているのね?」清輔の喉仏が上下に動いた。だが、結局最後まで彼は沈黙を選んだ。その一瞬の沈黙は、鈍い刃のように絵麻の胸を切り裂いた。彼女は目を赤くしたまま彼を見つめた。涙が今にもこぼれ落ちそうに揺れていた。「ひとつだけ聞かせて。あなたは、私を信じてる?」「絵麻」彼の眉間に深い皺が寄り、声が張り詰めた。彼自身も気づいていないほどの苛立ちが、その語調の底に滲んでいた。「証拠も証人も揃っているというのに、俺にどうやって君を信じろというんだ。もう少しの辛抱だと言っただろう。なぜ、わざわざ波風を立てる真似をするんだ」絵麻の瞳から、不意に涙がこぼれ落ちた。もう痛みなど感じないほど心は死んだと思っていたのに、胸はやはり生きたまま引き裂かれるように痛んだ。彼女は慌てて顔を背けた。これ以上、こんな惨めな姿を彼に見られたくなかったのだ。「……もう、行って」その声は、消え入りそうなほど細かった。「もう少し待ってくれないか」彼の声が和らいだ。「もうすぐ、俺たちは前のようなふたりに戻れる」――前のように?絵麻は目を閉じた。喉の奥が締めつけられる。本当に、戻れるのだろうか。彼には今、知夏がいて、ふたりの子供がいる。その人たちのために、彼は何度も自分を傷つけ、何度も他人を選び続けてきた。彼女はゆっくりと体の向きを変え、彼に背を向けた。もう、一言も
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第5話

絵麻は雷に打たれたように立ち尽くし、一歩も動くことができなかった。清輔が身をかがめ、その唇が知夏の胸に触れ、何度も唇を押し当てるのを、彼女はただ見ているしかなかった。永遠にも似た時間が流れ、1秒ごとに鋭い刃で心を切り刻まれていく。やがて知夏が小さく甘い声を漏らし、指を彼の髪に絡めた。「あっ……こっちも……」清輔がわずかに眉をひそめる。「こっちは張っていないじゃないか」知夏は答えず、そのまま彼の首に腕を回し、顔を自分の胸へと引き寄せた。清輔は一瞬黙り込んだが、再び顔を寄せた。絵麻はもう見ていられず、耐えきれず、踵を返して駆け出した。激しい雨が全身を打つ。それでも、冷たさは感じなかった。頭の中には、初めて結ばれた夜の記憶ばかりが明滅していた。あのとき、清輔は彼女を宝物のように抱きしめ、掠れた声でこう言ったのだ。「絵麻、君が俺の最初の女で、最後の女だ……」今、その同じ唇が別の女の肌を貪っている。痛い。身をよじるほどの痛みに、立っていることすらままならない。心臓を生きたまま引きちぎられるような痛みだけが、確かにそこにあった。清輔、あなたが私にくれた約束は、ひとつも守られなかった。それなら、どうしてあなたはあの日、私の世界に踏み込み、人生を狂わせたの?絵麻は泥水の中にへたり込み、膝を抱えた。両脚の感覚がなくなるまで、そこにいた。屋敷の灯りがひとつ、またひとつと消えていくのを見届けてから、ようやくふらふらと戻った。深夜、急激な悪寒と高熱が彼女を襲った。朦朧とする意識の中、隣室から清輔の優しい声が聞こえてくる。「よし。パパが物語を聞かせてあげるよ……」ああ、知夏のお腹の子に語りかけているのだ。かつて彼女に約束したのと同じ言葉で。「俺たちに子供ができたら、毎晩、物語を聞かせてやる……」どれくらい時間が経ったのか、誰かが自分を呼ぶ声がした。「絵麻?絵麻?」絵麻は重い瞼をどうにか開けた。清輔が薬と水の入ったグラスを手に、ベッドの脇に腰かけていた。「どうしてこんなに熱を……」彼は心配そうに額に手を当てた。その仕草は、以前と変わらず優しかった。けれど彼が近づくたび、絵麻の目には先ほどリビングで見た光景が蘇る。彼女は震えながら目を閉じ、彼から視線を逸らした。「薬と水はここに置いてお
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第6話

3日間高熱にうなされ続けた末、絵麻の熱はようやく下がった。そして、ようやく部屋の鍵が開けられた。その日は、ちょうど知夏の娘の快気祝いだった。華やかに飾り付けられた宴会場は、多くの来賓で埋め尽くされていた。清輔の父母は満面の笑みで孫娘を抱き、山のように積まれた高級な贈り物に囲まれていた。「清輔、これは知夏に」也哉子がにこやかに化粧箱を差し出した。中には、見事な輝きを放つ大粒のダイヤモンドの指輪が入っていた。「こんなに可愛い孫娘を夏山家に授けてくれて、よくやってくれたわね」清輔はその指輪を受け取り、自らの手で知夏の指にはめた。「よく頑張ってくれた」知夏は恥じらうように彼の胸にもたれかかった。どこから見ても、仲睦まじい親子3人だった。絵麻は会場の隅に立ち、祝い膳を囲んで記念写真を撮る一家を、黙って見つめていた。周りからは次々と褒め言葉が聞こえてくる。「本当に可愛らしいお嬢さんね、パパ似だわ」「澄んだ目元は知夏さんそっくりね」「まさに理想の夫婦ね、お子さんもこんなに愛らしくて!」絵麻は爪が食い込むほど拳を握りしめたが、痛みは感じなかった。「絵麻さん」不意に知夏が歩み寄ってきた。甘ったるい笑みを浮かべていた。「一緒に写真、撮りましょうよ?」絵麻は首を振った。「結構よ」「そんな遠慮しないで」知夏は有無を言わさず彼女の手を引き、無理やりカメラの前へと引きずり出しながら、声を潜めて挑発した。「見て、清輔さん、今の私にどれだけ優しいか。毎晩そばにいてくれて、子供に絵本を読んでくれて、私が眠るまでそばにいてくれるのよ……」絵麻は疲れたように目を閉じ、聞くまいとした。反論する気力もなかった。パシャリ。シャッターが切られた、その瞬間だった。背後に立てられていた大きな金屏風が、突然、轟音を立てて倒れてきた。「危ない!」清輔は弾かれたように飛び出し、絵麻を抱き寄せた。屏風の重い木枠は絵麻の着物の裾をかすめ、そのまま床へ倒れ込んだ。しかし、すぐそばにいた知夏は逃げ遅れ、下敷きになっていた。やがて、その体の下から鮮血がじわじわと広がっていった。「知夏!」清輔は絵麻の手を離すと、狂ったように駆け寄っていった。……手術室の外で、清輔はずっとタバコを吹かしていた。その落ち着かない様子を見て、絵
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第7話

絵麻は頭の中が真っ白になった。「どういう意味?」「うちの両親が調べさせたんだ。あの金屏風には細工がしてあった」清輔の眼差しは鋭かった。「君でなければ、誰がそこまでして知夏を陥れるというんだ」絵麻は全身が冷えていくのを感じ、指先が無意識に震えた。「もう一度言うわ。今度も、私じゃない。前回も、その前だって、私は何もしていない……それでも、あなたは信じてくれないの?」「君はいつも、俺に信じろと言う」清輔の目が次第に冷えていく。「じゃあ、君がしてきたことはどうなんだ?何度も知夏を陥れようとして、今度は子どもまで巻き込んだ。俺が知夏を気にかけているのは、子どものためだって何度も言っただろ。それなのに、どうして次から次へと騒ぎを起こすんだ?あの子を流産させて、いったい誰が幸せになる?」絵麻の胸が激しく波打つ。積み重なった悔しさと怒りが、喉元まで込み上げていた。問い詰めたかった。反論したかった。声を振り絞って、誰一人傷つけたことなどないと叫びたかった。かつて、あなただけを信じると言ったのを忘れたのか、と問いたかった。決して疑わないと約束したのを、忘れたのか、と。けれど最後には、ただ疲れきった目で彼を見つめ、震える声で一言一言、こう告げた。「もういい。私のことを信じられないなら、ここで終わりにしましょう。あなたたちは、あなたたち4人で幸せになればいい」清輔の体が固まり、瞳が大きく揺れた。「何を言ってるんだ」「まだ分かりにくかった?」絵麻は目を赤くしながら、頑なに彼を見据えた。「あなたたちの幸せを願うと言ってるの!」耳をつんざくような音と共に、清輔が蹴りつけたガラステーブルが粉々に砕け散った。清輔は彼女の手首を掴み、怒りに目を血走らせながら怒鳴りつけた。「絵麻!何を馬鹿なことを言ってるんだ。俺がずっと愛してきたのは君だけだ。それなのに、俺とほかの女の幸せを願うだと?」絵麻は目を赤くしたまま、頑なに彼を見つめ返し、何も言わなかった。長い睨み合いの末、清輔は深く息を吐いた。最後には無理やり怒りをねじ伏せ、彼女を強く抱きしめた。「この話はここまでだ。知夏はもう君を許した。俺も、これ以上は問わない」「だが覚えておけ」彼は腕に力を込めた。「二度と、別れるなんて言うな。俺がしてきたことは全部、君とふたりでここを出るた
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第8話

夏山家と草間家の結婚式当日、各界の著名人たちが顔を揃えた。まばゆい光に包まれた宴会場では歓談の声が絶えず、グラスの触れ合う音と共に、芳醇な酒の香りが人々の熱気の中に溶け込んでいく。本来は形だけの結婚式だというのに、夏山家はそれを盛大に執り行った。事情を知らない多くの客は、これが本当の結婚式だと信じ、知夏が子供を産んだことでようやく夏山家へ迎え入れられたのだ、彼女の長年の苦労がようやく報われたのだと、口々に祝いの言葉を述べていた。そうした声が清輔の耳に届くたび、彼は不快感を覚えたが、黙ってやり過ごすしかなかった。もともと清輔は、たとえ形だけのものであっても、この結婚式には頑なに反対していた。清輔が生涯を共にしたいと願う相手は、絵麻ただひとりだったからだ。だが、両親からは激しい非難を浴びせられ、知夏との結婚を強要された。双方が一歩も譲らない中、知夏が妥協案を持ちかけた。彼女は何の立場も与えられないまま一年以上も夏山家に身を寄せ、跡継ぎを産むために、産後の休養もそこそこに再び身ごもったのだと言う。何も望まない。ただ、清輔と形だけでも結婚式を挙げさせてほしい。子供たちに、両親がかつて愛し合い、結婚していたことを証明してやりたいだけだから、と。その言葉を聞いたとき、清輔の強硬な態度はすでに揺らいでいた。そして清輔がこの結婚式に抵抗しきれず、ついに折れたのは、知夏がある提案を持ちかけたからだった。それは、彼にとってあまりにも魅力的で、断ることのできない条件だった。この結婚式さえ滞りなく済ませてくれれば、清輔が絵麻を連れて出て行くことを許す。息子が生まれるのを待つ必要も、産後の世話をする必要もない、と。子供もでき、結婚式も挙げられれば、彼女にはもう思い残すことはない、と知夏は言った。清輔は、知夏がこれほど物分かりが良いとは思ってもみなかった。そのことに、いくばくかの後ろめたさを覚えた。もし清輔が先に絵麻に恋をしていなかったなら、知夏は間違いなく理想の妻になっていたに違いない。だからこそ、当初は形だけで済ませるつもりだったこの結婚式にも、清輔は莫大な時間と費用を投じることになった。せめて、この後ろめたさを少しでも償いたいと思ったからだ。この結婚式さえ終われば、ようやく絵麻とふたりで寄り添って生きていける。そう思
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第9話

その声は、記憶の底から蘇り、不意打ちのように清輔を打った。それは、ずっと前のこと。清輔の両親が初めて、彼と絵麻を引き離し、知夏と結婚させようとしたときのことだった。清輔は必死に隠そうとしたが、それでも絵麻の耳に噂は届いてしまった。あの日、彼女は清輔の前に立っていた。泣いてはいなかった。それなのに、泣かれるよりもずっと、清輔の胸を締めつけた。あのとき、清輔はどう答えたのだったか。彼は彼女を強く抱きしめ、誓ったのだ。「君以外の誰とも、結婚するつもりはない」あのとき紡いだ言葉のひとつひとつには、確かな熱情が宿っていて、清輔の記憶の奥深くに焼き付いていた。それが今、この神聖な結婚式の場で、この上なく残酷な皮肉となって突き刺さる。「清輔さん?ねえ、清輔さん!」笑みを含んだ、急かすような声が、清輔を現実へと引き戻した。はっと我に返ると、知夏がわずかに顔を上げ、恥じらいながら彼を見つめていた。完璧なメイクを施された目元には、この先の未来への純粋な期待だけが満ちていた。無数の祝福と期待の眼差しが、知夏の視線を追うように清輔へと集中する。まるで舞台のスポットライトのように、彼に逃げ場を与えなかった。清輔は重い腕を無理やり持ち上げ、あの高価な指輪をつまみ上げた。それはあまりにも精巧で、あまりにも冷たく、指先にずしりと重かった。続いて、知夏の白く柔らかな手を取る。目の前にある彼女の薬指は、わずかに震えていた。まるで、風の中で止まり木を探す蝶のように。指輪の冷たい金属の縁が、彼女の温かい指の関節に触れる。その瞬間、目の前にある知夏の指が、ふいに輪郭を失った。丁寧に手入れされ、深紅のマニキュアが塗られたその指が歪み、別の手へと変わって見えた。その手はいつも清潔に爪を整えていたが、何も塗られてはいなかった。それでも清輔がこれまで見た中で、最も美しい手だった。それは絵麻の手だった。清輔が誰よりも愛した、絵麻の手。続いて知夏も同じように、清輔の左手の薬指に指輪をはめた。「それでは、新郎は新婦に口づけを」歓声と拍手が、まるで怒涛のように一気に押し寄せ、会場全体を包み込む。その喧騒の頂点で、清輔は強張った体をゆっくりと屈め、目の前の知夏へと顔を近づけていった。距離が縮まるにつれ、知夏の纏う濃厚な花の香水が鼻腔を強く
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第10話

部屋の中は、清輔が出て行ったときのままだった。絵麻がいつも読んでいた本は、開かれたままベッドの上に投げ出されている。だが、その部屋の主の姿だけが、どこにもなかった。「絵麻?絵麻!」清輔の呼吸が一瞬止まった。震える声が、がらんとした部屋にむなしく響き渡る。だが、聞き慣れたあの声は、二度と返ってこなかった。扉の縁を掴んでいた手が力なく滑り落ち、清輔は勢いよく身を翻して階段を駆け上がった。書斎、休憩室、運動室、狭い物置まで、清輔はまるで手負いの獣のように、屋敷中の部屋を狂ったように探し回った。家具の陰や扉の奥まで、焦燥に染まった目で何度も確かめ、彼女が身を隠していそうな場所を手当たり次第に探した。動きはどんどん速くなり、次第に取り乱していく。荒く重い息遣いが、壊れかけたふいごのように響いた。恐怖が、澄んだ水に墨を一滴落としたように、胸の中で瞬く間に広がっていった。それは冷たく粘りつき、ひどく重く、息の根を止めるかのようだった。清輔は傍らの執事の胸ぐらを掴んだ。「絵麻はどこだ!ちゃんと彼女を見張っておけと言ったはずだろう。どこへ行った!」絵麻が突発的に逃げ出さないよう、清輔は彼女の部屋に鍵をかけ、スマホを取り上げ、専任の見張りまでつけていた。清輔の想定では、天涯孤独の絵麻には経済的な支えさえ断たれていたのだから、行ける場所などどこにもないはずだった。しかも、幾重にも人が見張っていた。この屋敷から出ることさえ、彼女にはできないはずだったのだ。なぜ、今、彼女がいなくなっている?清輔の剣幕に圧倒され、執事の顔は青ざめ、震えながらも満足に言葉を紡げずにいた。清輔は執事を乱暴に突き放し、階下へと駆け下りようとした。そのとき、玄関から也哉子の姿が現れた。冷ややかな眼差しで、清輔をじっと見据える。「もう探さなくていいわ。彼女はもう出て行った。あなたには、二度と見つけられない」也哉子は一拍おいた。その短い沈黙の間、空気がふいに凍りついたように感じられた。「知夏とはもう式を挙げたのだから、これからはあの子と子供をしっかり守って生きていきなさい。もう、あなたとは関係のない相手のことなど考えなくていいわ」「……出て行った?」その言葉があまりにも馬鹿げていて、思わず笑ってしまいそうだった。そんなはずはない。絵麻は自分と
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