LOGIN夏山家の家訓には、貧しい家の娘を跡継ぎの妻に迎えてはならないという掟があった。 だが、社交界で名を馳せる夏山家の御曹司、夏山清輔(なつやま せいすけ)は、あろうことか魚屋の娘である伏見絵麻(ふしみ えま)と恋に落ちてしまう。 彼女と一緒になるため、清輔は跡継ぎの座も家も捨てた。勘当を言い渡され、父に何度殴られても決意を曲げず、本家の仏間で3日3晩、正座を続けた。白いシャツを血で染めながらも、彼は笑ってこう言った。 「絵麻、怖がるな。俺には君だけがいればいい」 やがて夏山家もついに折れ、ふたりが家を離れて暮らすことを許した。ただし、家のために跡継ぎをひとりだけ残すという条件付きだった。 それから、清輔が絵麻に最も多く口にした言葉は…… 「もう少し待ってくれ」 彼は彼女を待たせた。自分が別の女を孕ませる、その日まで。
View More絵麻は、也哉子の言葉を静かに聞き続けていた。何も言わなかった。やがて也哉子が話し終え、期待に満ちた眼差しで彼女を見つめると、絵麻はようやく口を開いた。「以前のことを、私は許すつもりはありません。でも、これ以上恨み続けるつもりもありません。私には、私自身の人生があります。もう、こんなことに時間を無駄にしたくないんです」その言葉を聞いた也哉子は、しばらく沈黙し、やがて長いため息をつくと、鞄から1冊の日記帳を取り出した。絵麻はひと目でそれと分かった。それは、彼女と清輔が付き合い始めたばかりの頃、バイト代で買って彼に贈った、最初のプレゼントだった。あのとき、清輔はひどく感激した様子で、この日記帳を大切に使い、ふたりの思い出をひとつひとつ書き綴っていくと言った。いつか、ふたりの子供にそれを見せてやるのだと。子供たちに、自分たちの父と母がどれほど深く愛し合っていたかを伝えるために。「あなたがいなくなってから、清輔はすっかり変わってしまったの。毎日、この日記に何かを書いていたわ。何を書いていたのか、私も読んではいないけれど……あなたを迎えに行った日、連れて帰れたら、これをあなたに見せるつもりだと言っていたの。今のあの子には、もう自分で渡すこともできないから……勝手だとは思ったけれど、私が持ってきたの。よかったら、一度だけでも読んであげて」そう言うと、也哉子は席を立ち、先に清輔の病室へと入っていった。絵麻は椅子に座ったまま、膝の上の日記帳をじっと見つめていた。どれほどの時間が経っただろう。彼女はようやく手を伸ばし、ゆっくりと、その端が変色した日記帳を開いた。【2020年5月1日。今日、絵麻と正式に付き合い始めた。この日記帳も、彼女がくれた最初のプレゼントだ。とても嬉しい。そして胸が高鳴っている。この日記帳を大切にする。彼女のことも大切にする。絶対に、彼女を裏切らない】それから3年、清輔は言葉通りにその約束を守った。以後3年間、この日記帳には彼女への深い愛情ばかりが綴られていた。小さな1輪の薔薇から、夜空いっぱいに広がる花火まで。だがその愛情の記録は、ふたりが駆け落ちしたあの日を境に、ぷつりと途絶えていた。【2023年9月11日。両親がこの関係にひどく反対していることは知っていた。だが、自殺をちらつかせるほどまで
まもなく、清輔と絵麻はヘリコプターで最寄りの病院へと搬送された。着陸と同時に、医療スタッフは清輔をストレッチャーに乗せ、足早に手術室へと運んでいった。扉が閉まり、手術の同意書など、必要な書類に署名する。絵麻は朦朧とした頭で、医師の指示に従って手続きを済ませた。それが終わった途端、もう限界だった。目の前が暗くなり、その場に崩れ落ちた。「大変、誰か来て!ここに倒れた人が!」絵麻が再び目を覚ましたのは、1日後のことだった。看護師の話によれば、清輔の手術は成功し、すでに病室に戻っているという。だが出血が多かったため、いつ目を覚ますかは誰にも分からなかった。明日にも目を覚ますかもしれないし、二度と目を覚まさないかもしれない。その宣告は、絵麻の胸に重くのしかかった。彼は自分を救ってくれたのだ。見舞いに行くのが道理だろう。病室の扉を開けた瞬間、鼻を突く消毒液の匂いが漂ってきた。彼女はしばらくその場に立ち尽くし、それから中へと足を踏み入れ、最後には清輔のベッドの傍らに腰を下ろした。彼女が意識を取り戻した直後、あの児童を一緒に救った男性教師が、その子を連れて謝罪に来ていた。土石流があまりに突然だったこと、祖父母がうっかりその子のおもちゃを持ち出すのを忘れてしまったこと。それに気づいた子供は慌てふためき、学校を抜け出し、ひとりで家に戻ってしまったのだという。だがまさか自分のせいで、危うくふたりの命を危険にさらすことになるとは思ってもいなかった。その子は後で、祖父母から厳しく叱られたそうだ。男性教師はまた、この一件を受けて校長が安全教育を強化し、その子にも改めて安全指導を受けさせることになったと語った。災害時には、何よりも命を優先しなければならないと、しっかり理解させるために。絵麻は何も言わず、拾い出したおもちゃをその子に返し、二度とこんな危険なことをしないようにと言い聞かせてから、男性教師に連れて帰ってもらった。児童は、こうして無事に保護された。ただひとつ、目の前の清輔が依然として目を覚まさないことだけが、絵麻の胸に重く残っていた。眠り続ける彼の姿を見つめながら、絵麻は自分でも何を感じているのか、うまく言葉にできずにいた。男性教師は帰り際、清輔と道中で出会った経緯を教えてくれた。清輔は彼らが児童を捜索していることを知り、慌てて後を
絵麻はその子の腕の中に、たくさんのおもちゃが抱えられているのに気づいた。足元にも、まだいくつも積まれている。ふと、この子の母親が早くに亡くなり、それらが亡き母親の残した、かけがえのない形見なのだと思い出した。絵麻はその場で決めた。男性教師には先に子供を連れて学校へ戻ってもらい、自分は後から追いつくと告げた。子供には、このおもちゃを全部学校に持ち帰ってあげると約束した。男性教師が子供を抱えて立ち去った後、絵麻は素早く大きな袋を手に取り、おもちゃを次々と詰め込んでいった。それを担ぎ上げて出ようとした、その瞬間。土石流が窓を突き破った!時間が凍りついた。息の根を止めるような恐怖が、絵麻の全身を締め上げる。視界に映るのは、濁り、粘つき、折れた木や砕けた石を巻き込んだ土石流だけだった。それは咆哮を上げながら窓枠を越え、まるで地獄の口が開いたかのようだった。むせ返るような生臭い土の匂いが一瞬にして鼻腔を満たし、絵麻の呼吸を完全に奪った。頭の中は真っ白になり、膝から力が抜け、その場に崩れ落ちた。ただ、迫りくる死の波を、まっすぐに見つめることしかできなかった。そのとき。迫りくる濁流の轟音を切り裂いて、ひとつの人影が絵麻に向かって飛び込んできた!絵麻は目を大きく見開いた。清輔。どうして、彼がここに!?絵麻は、清輔が部屋へ飛び込み、燃えるような眼差しで瞬時に隅にいる自分を捉えるのを見た。彼は余計な言葉をひとつも発することなく、そのまま身をかがめ、肩を絵麻の腹部に押し当てたかと思うと、渾身の力で彼女の体を一気に持ち上げ、自身の肩へと担ぎ上げた。清輔は彼女を担いだまま、唯一の逃げ道である裏山の斜面へと通じる木の扉に向かって、全身の力を込めてぶつかっていった。だが、この家では家畜が逃げ出さないようにと、扉の裏側にわざわざ木製の閂を取りつけ、扉と壁をがっちりと固定していた。唯一の退路は無情にも絶たれ、背後には死の濁流が迫っている。そのとき、鈍く耳障りな、何かが裂ける音が響き渡った。続いて清輔の体が激しく震え、固く食いしばった歯の間から、極限まで押し殺した呻き声が漏れた。絵麻は全身を硬直させ、恐怖に駆られて下を見た。心臓が瞬時に凍りつく。扉が破られた瞬間、その中から突き出た木の破片が、まるで槍のように、清輔の右の脇腹深くへと突き刺さ
なぜ、絵麻を探しに来たのか。それは、清輔がどうしても確かめたいことがあったからだ。なぜ突然自分を置いて去ったのか。なぜ何も告げずに姿を消したのか。なぜ自分に探させようとしなかったのか。そして何より。彼女は今も、自分を愛しているのかどうか。だが、それらの言葉は、いざ口にしようとすると、どうしても出てこなかった。長い沈黙の末、清輔はようやくこう告げた。「君を、家に連れて帰りたい」清輔は、知夏の本性がどのように明らかになったか、そして彼女や子供のことにどう決着をつけたのかを語った。両親がどれほど後悔しているかを語った。この数ヶ月、彼女を探し続けてどれほど狂おしく、どれほど追い詰められていたかを語った。絵麻は手にしたスマホを強く握りしめ、全身の震えを必死に抑え込んだ。それは痛快さでも、悲しみでもなかった。あまりにも遅れて届いた真実が、かさぶたの張った傷を突然引き裂き、その下にある、決して癒えることのなかった膿んだ傷口を無理やりこじ開けるような感覚だった。遅すぎた。すべてが、もう遅すぎたのだ。彼女はもう、真実が明るみに出ることを必要とする段階を、とうに通り過ぎていた。清輔の償いも、後悔の言葉も、もう必要としていなかった。「清輔、私はあなたと一緒には帰れない。私たちはもう、昔には戻れないの。あなたがご両親に逆らいきれなかったことも、知夏との間に子供ができたことも、それ自体を責めるつもりはない。でもあなたは、別の女性と家庭を築きながら、私には叶えるつもりもない約束をし続けた。そうやって1年、また1年と、私をあなたのそばに縛りつけて、私の時間を奪ったの。あなたと彼女が寄り添っている姿を見るたびに、ずっと思ってた。もしかしたら、後から割り込んでいるのは私のほうなんじゃないかって」「違う、絵麻。君はそんな存在じゃない。俺が一番愛しているのは君だ」清輔は何度も否定し、思わず彼女の手を取ろうとした。だが絵麻は、触れられる前にそっと身を引いた。「でも、周りから見ればそうなのよ。あなたは彼女との間に子供をもうけ、夫婦同然に暮らしてきた。婚姻届を出していなかっただけで、あなたたちはもう家族だった。誰が見たって、あなたと彼女のほうが夫婦に見えるわ」絵麻は清輔をまっすぐ見つめた。「それなのに、どうして今さら私を捜