All Chapters of もう少し待って、その言葉に殺された: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

真っ白な便箋には、絵麻の端正な筆跡が並んでいた。まるで彼女自身が清輔の前に立ち、静かに去っていく理由を語っているかのようだった。【この手紙を読む頃には、私はもういません。これからどこへ行くのかは、私自身にも分かりません。でも、あなたには絶対に見つけられないと思います。なぜ去るのか、理由は単純です。もう待ちたくないのです。最初、あなたは彼女に子供をひとり産ませるだけだと言いました。私はそれを信じました。でも娘さんが生まれた後、あなたは今度は「娘がひとりでは寂しいから、息子も産ませてから」と言いました。それも、私は信じました。けれど今、あなたは彼女と結婚するとおっしゃる。両親が愛し合って結婚したのだと、子供たちに信じさせたいから、と。私にはもう分かりません。私は、あと何年待てば、あなたは私を連れて行ってくれるのですか。もしかしたら、いつかまた、あなたと彼女の子供が成人し、結婚し、子を産むまで待てと言われるのでしょうか。それとも、彼女が老いるまでそばにいて、それからようやく私のもとへ来ると言われるのでしょうか。清輔、私も女です。私の青春にも限りがあります。終わりの見えない偽りの約束のために、これ以上あなたを待ち続けることは、もうできません。ここでお別れしましょう。もう二度と、会うことはありません】清輔は、絵麻が残したその手紙を、何度も何度も読み返した。どの文字も知っているはずなのに、そこに込められた意味を理解することができなかった。指の間で紙が震え、かすかにすれる音を立てた。喉の奥に、むせ返るような血の味が込み上げてきた。目の前の世界が歪み、回転し始める。色が剥がれ落ち、音が遠のいていく。足元の固い床が突然崩れ、形を失っていくようだった。底の見えない、氷のように冷たい流砂へと変わっていく。清輔は、その流砂に音もなく、抗うすべもなく飲み込まれ、沈んでいく。光もなく、音もなく、ただ果てのない冷たさだけが広がる深淵へと、まっすぐに落ちていった。彼の世界は、完全に闇に閉ざされた。「清輔!誰か呼んできて!」……一夜にして、夏山家はまた世間の笑いものになった。昨日は新郎が花嫁を置き去りにして式場を飛び出し、今日はその新郎が刃物を手に家族を脅し、屋敷を飛び出そうとしている、と。清輔の部屋はすでに荒れ果て、壊せるもの
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第12話

両者が睨み合い、一歩も引かずにいた、そのとき。知夏が突然、体を折り曲げて腹を押さえ、痛みに声を上げた。「あっ、痛い!」次の瞬間、彼女の手が緩み、腕の中の娘が今にも床に落ちそうになった!「知夏!」也哉子の顔色が変わったそのとき、白いドレスの裾に、見る間に鮮血の染みが広がっていくのが見えた。「誰か、早く来て!」慌ただしい騒動の末、夏山家の人々は、流産しかけた知夏を急いで病院へと運んだ。知夏が手術室に運び込まれると同時に、今度は草間家の人間が慌てて駆けつけてきた。知夏の母、草間朋美(くさま ともみ)は開口一番、清輔の頬を強く打った。風を切る音と共に、乾いた破裂音ががらんとした廊下に響き渡った。「あんたは、こんなふうに私の娘を大事にしてきたっていうの?この子にもしものことがあったら、絶対に許さないから!」平手打ちを受けた清輔の顔が大きく横を向き、口の端から血がにじんだ。それでも彼は、魂が抜けたように立ち尽くしたまま、朋美にどれほど激しく責め立てられても、何ひとつ言い返さなかった。その光景を見た也哉子は、たまらず駆け寄り、朋美の手を取りながら宥めにかかった。「すべて、うちの息子が悪いんです。本当に申し訳ありません。知夏が無事に戻ってきたら、息子には責任を持って、きちんとそばにいさせます。もう二度と、知夏を傷つけるようなことはさせません」だが朋美は、まるで信じていなかった。鼻で笑った。「責任を持つですって?あなたの息子は、今にもほかの女のところへ行こうとしているじゃない。それで、いったいどう責任を取るつもりなの?うちの娘は、あなたの息子のためにずっと我慢してきたんです。子供をひとり産んで、今だってまた身ごもっている。それなのに、何ひとつ報われないまま、こんな目に遭わされて……そちらできちんと大事にできないというなら、娘も孫も草間家で引き取ります。私たちにだって、ふたりを養うくらいの力はありますから」その言葉を聞いた也哉子は、すっかり慌てふためき、清輔の背中を強く叩いた。「何をぼんやりしているの、早く謝りなさい!」だが清輔は、動かなかった。視線すら向けようとしなかった。清輔は何もしていない。それなのに、周囲はすべての罪を彼に押しつけようとしていた。叫び声、懇願する声、さまざまな混乱した声が渦を巻き、見えな
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第13話

するとすぐ、中から朋美の得意げな声が聞こえてきた。「そうよ。誰の母親だと思ってるの?あの女はもう出ていったんだから、今度は同じ手で清輔をつなぎ止めればいいのよ」扉の外でそれを聞いていた清輔の瞼が、ぴくりと震えた。「でも、やりすぎは駄目よ。あの子だって、あなたの子供なんだから。上の子は少し熱を出させて、泣かせるくらいで十分。間違っても毒を飲ませたり、高いところから落としたりしないで。あなたのお腹の子にも、あまり負担をかけないようにね」「分かってるわ、お母さん。ちゃんと加減するから。でも私、清輔さんに約束しちゃったの。結婚式さえ挙げてくれたら、そのあとは好きにさせるって。今回は流産したふりをして、なんとか引き止められたけど、この先はどうすればいいの?清輔さんは、いつかきっと絵麻を捜しに行くわ。そうなったら、私、どうしたらいいの?」「大丈夫。夏山家とはもう話をつけて、絵麻は遠くへ送ってしまったから。二度と戻ってこないし、清輔を行かせることもないわ。安心して体を大事にしなさい。この子が生まれたら、夏山家がふたりの婚姻届を出す算段をつけてくれるはずよ」清輔の目が、すっと細まった。その瞳の奥には、狂気を孕んだ昏い光が宿っていた。車椅子の肘掛けを握る手の甲に、青筋が浮き上がる。そういうことだったのか。清輔はこの1年、子供に次々と起きた異変はすべて絵麻の仕業だと思い込んでいた。だが実際には、すべて実の母親である知夏自身の手によるものだったのだ。子供が体調を崩すたびに苦しみで青ざめたあの顔。深夜、清輔の腕の中で震えながら慰めを求めたあの姿。子供のために狂ったように絵麻を殴りつけたあの様子……そして、数え切れないほどの夜。清輔は何度も愛する絵麻を切り捨て、彼女に罰を受けさせ、その一方で知夏や子供の枕元に夜通し付き添ってきた。知夏の手を握り、彼女の泣き声や子供の泣き声を聞くたび、胸が締めつけられ、心が何度も砕けそうになった。だが今になって分かった。絵麻を傷つけることになったあの出来事も、息ができないほど苦しんだあの夜も、そのひとつひとつがすべて、知夏とその母によって冷静に計算され、周到に仕組まれたものだったのだ。世界が突然、音を失った。廊下に漂う消毒液の刺激臭も、遠くのナースステーションのざわめきも、すべて消え去り、残ったの
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第14話

病室から突然、甲高い叫び声が響き、続けて物が砕け散るすさまじい音がした。清輔が慌てて車椅子を自ら動かして病室へ入ると、そこには足の踏み場もないほど荒れ果てた惨状が広がっていた。也哉子が知夏のために選び抜いた栄養剤の瓶は、床一面に砕け散っていた。ガラスの破片は氷の刃のように飛び散り、陽光を受けて冷ややかな光を放っている。結婚式で也哉子が意気揚々と撮らせた、清輔と知夏のキスシーンの写真も、壁に叩きつけられていた。写真の中の知夏の笑顔は、斜めに突き刺さったガラスの破片によって無残に引き裂かれ、見る影もなく歪んでいた。也哉子は荒い息をつき、胸を激しく上下させながら、極限の怒りと苦痛で目を真っ赤に染めていた。その手で朋美の髪を強く掴み、外へ引きずり出そうとしていた。麻酔から覚めたばかりの知夏は、体に力が入るはずもなく、ベッドから降りようとした途端、床に崩れ落ちた。車椅子に座ったままの清輔は、それをただ冷たく見下ろしていた。彼女が苦しげに床を這い、清輔の足元に跪く姿を。青白い顔は涙にまみれていた。清輔はこれまで、知夏のさまざまな表情を見てきたが、これほどまでに恐怖に引きつった顔を見るのは初めてだった。「清輔さん、聞いて。私、わざと子供を傷つけたわけじゃないの。あなたのことが好きすぎて、こんなことをしてしまっただけなの。お願い、あなたの子供をふたりも授かったことに免じて、私を追い出さないで!」今日この瞬間まで、知夏は自分の人生が順風満帆そのものだと信じて疑わなかった。父の隠し子として生まれながらも、彼女は変わらず可愛がられて育ち、成長してからは也哉子の心をも掴み、望み通り思いを寄せる男の子供まで産んでみせたのだ。清輔には好きな女がいたが、それでも肩書きを求めず子を産んだことで、彼は少しずつ心を開いてくれていた。なのに今、すべてが終わってしまった。清輔に知られた。也哉子にも知られた。夏山家全体に知れ渡ってしまった!父には正妻と娘がいる。彼女の結婚式に出席してくれたのは、最後の情けに過ぎなかった。今後、彼女に残された唯一の道は、夏山家という太い止まり木にしがみつくことだけだった。絶対に、清輔を失うわけにはいかない。「子供?」清輔はしばらく黙っていたが、やがて凍りつくような声で言った。「君にとって、子供は俺をつなぎ
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第15話

これがひとつ目の悩みだとすれば、ふたつ目の悩みは、知夏のことだった。コンコンコン。オフィスの扉が叩かれ、許可を得た秘書が入ってきた。「社長、あの女がまた来ています。社長にお会いできるまで一歩も動かないと言い張っておりまして」夏山家と知夏、そして朋美との関係が完全に決裂して以来、知夏は流産し、朋美も病に伏せった。ふたりの立場は一夜にして地に墜ちた。だが知夏は、母のことも、流産したばかりの自分の体のことも顧みず、清輔に会いに来ることに固執していた。娘がまだ幼く父親を必要としていることに免じて、以前と同じ生活を保障してほしいと縋りつくためだった。知夏は、自分の過ちを心から悔い改めた、もう二度と子供を傷つけない、清輔と誠実に暮らしていくと誓ってみせた。清輔の同情を引こうと、ついには赤ん坊を抱いたまま会社に押しかけ、空腹で泣き叫ぶ我が子の声にも耳を貸さず、ロビーの床に跪き続けているのだ。子供がいる手前、ボディガードも無下に追い返すことができず、秘書を通じて清輔の判断を仰ぐほかなかった。清輔はその子供に対し、もともと、わずかながら父親としての情はあった。だが、その子の体には知夏の血も半分流れている。将来、母親と同じように心根の腐った毒婦に育つかもしれないと想像しただけで、僅かな憐憫の情すら跡形もなく消え失せた。清輔は何も答えず、ただスマホの画面をスクロールし、絵麻に関する情報を確認し続けていた。いつまで経っても返事が来ないことに、秘書が自分の判断で対応しようと動きかけたそのとき、ようやく清輔が口を開いた。「今後、こんな用件で俺を煩わせるようなら、お前もあいつと一緒にクビだ」秘書は思わず身をこわばらせ、慌てて頷くと、やや慌ただしい足取りで外へと向かった。1階ロビーでは、知夏がぴくりとも動かず、娘を抱いたまま跪き続けていた。顔は真っ青で、体もふらついている。腕の中の娘も、空腹の限界を超えたのか、泣き声がだんだん弱々しくなっていった。だが知夏は、それすら聞こえていないかのように、社長専用エレベーターだけをじっと見つめ続けていた。やがて、そのエレベーターが動いた。涼やかな電子音と共に、社長専用エレベーターが最上階から1階へと降りてくる。扉がゆっくりと開き、ひとつの人影が姿を現した。その瞬間、それまで虚ろだっ
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第16話

社交界の噂は、形のないもののようでいて、風よりも速く広まるものだ。それから数日もしないうちに、離島の小学校で学習支援員として働き始めた絵麻も、スマホのニュースで清輔と知夏のその後を知ることになった。読み終えた彼女の胸には、さまざまな思いがよぎった。彼女の印象では、清輔は知夏を愛していなかったものの、ふたりの子供のためにそれなりに誠実に向き合っていたはずだった。それなのに、彼女が去ってからそう時間も経たないうちに、ふたりはこんな結末を迎えていた。けれど、それはもう、絵麻には関係のないことだった。今の彼女には、自分自身のやるべきことがあった。彼女は木枠の窓を押し開け、外に並んだ鉢植えの花に水をやった。じょうろを置くと、長椅子に腰を下ろし、海を望む小さな校舎を静かに見つめた。今はちょうど夏休みで、校内に残っているのは、日直の教員と数人の職員だけだった。学習支援員として働く絵麻も、そのひとりだった。ぽかぽかとした午後の陽射しに微睡みながら、彼女はふと、昔のことを思い出した。あのとき、夏山家の両親から航空券と新しいスマホ、そして2000万円分の小切手を渡され、人に送られて空港へ向かった。彼女は何も言わず、そのまま保安検査場を通り抜けた。だが念のため、絵麻はこっそり便を変更していた。乗り換え先の目的地に着き、鉄道に乗ろうとしたとき、たまたま母校が学習支援員を募集する記事が目に留まった。すぐに電話をかけて確かめると、離島にある小さな学校で人手が足りず、学習支援員を探しているのだと分かった。赴任を希望する人が少なく、なかなか人が集まらないらしい。電話の向こうで疲れきった声を漏らす校長を思い、絵麻の胸は痛んだ。幼くして両親を亡くした彼女を、育ての親のように見守ってくれたのは、この校長だった。ここ数年、清輔のことに気を取られ、故郷や恩師への連絡をすっかり疎かにしてしまっていた。彼女は即座に帰国し、故郷で手伝うことを決意したのだ。そしてそれが、思いがけず清輔の追跡の目を完全に欺く結果となった。彼女は、自分の過去について清輔に一度も話したことがなかった。清輔が知っているのは、彼女が孤児だということだけで、それ以外は何も知らなかった。だからこそ、故郷に身を隠すことこそが、絵麻にとって最善の選択だった。これなら、誰にも見つから
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第17話

鍋を囲んだ後、皆はそれぞれ片付けを済ませて散っていった。絵麻が自分の部屋へ戻ろうとしたとき、校長が背後から声をかけた。「絵麻、話があるの」しばらくして、絵麻は校長と腕を組みながら、校庭の隅にあるベンチに並んで座った。「絵麻、視察には本当に出ないの?」校長の声には、惜しむような響きがあった。彼女は絵麻を我が子のように手塩にかけて育て上げ、この子がどれほどの汗と涙を流して、この離島を出ていったかをよく知っていた。ようやくこの離島を出た彼女が、今こうしてこの学校のために戻ってきて、しかも住民票まで島に戻してしまった。もう一度出ていくとなれば、今度はずっと難しくなるだろう。だからこそ、夏山グループの担当者が視察に訪れると知ったとき、校長は大いに喜んだ。視察に同行させる職員を選ぶ段になって、真っ先に思い浮かべたのも絵麻だった。絵麻は仕事もでき、人当たりもいい。視察に来た関係者の目に留まれば、声をかけられ、いずれ本土でもっと条件の良い仕事に就けるかもしれない。彼女はまだ若い。この小さな島だけにとどまり、将来の可能性を狭める必要はないと、校長は考えていた。絵麻はその気遣いをありがたく受け止めたが、それでも島を出るつもりはなかった。いつものように、穏やかな口調で断った。もうここで生きていくと決めていること。この島は自分が育った大切な場所で、離れたいと思ったことなど一度もないこと。そして、もうひとつ。「あの人には、もう会いたくないんです」それこそが、絵麻が視察に同行しない本当の理由だった。知夏のために何度も自分を欺き、傷つけたあの人には、二度と会いたくなかった。会わないことこそが、ふたりにとって唯一の答えなのだと、彼女は思っていた。校長は深いため息をつき、その目には惜しむ色が浮かんでいたが、最後には彼女の意思を尊重することにした。校長が立ち上がって去ろうとしたとき、絵麻が不意に呼び止めた。「校長先生、当日はどうか私のことは伏せておいてください」もし本当に清輔本人がやって来て、万が一顔を合わせでもしたら、厄介なことになる。校長は振り返らずに手を振った。「大丈夫、分かってるから」数日後、夏山グループの一行を乗せた船が、離島の小さな港へ近づいていた。その少し前、絵麻は真悠と一緒に連絡船へ乗り、必要な物資を買
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第18話

その瞬間、清輔の目に、鈍い痛みの色が滲んだ。視察も交渉も滞りなく進み、夏山グループはその場で、来月から毎年2000万円をこの学校に助成することを決定した。条件は、進学を希望するすべての生徒を、大学へ進学させること。4年制大学、短期大学を問わない。もし3年連続で、やむを得ない事情もなく中途退学する生徒が出た場合、または進学率が低下した場合は、夏山グループは即座にすべての助成を打ち切る。契約は滞りなく締結され、校長と同行の教師たちは、学校に新しく建てられた食堂へと、彼らを熱心に招いた。道すがら、清輔は何度も話を切り出しかけては飲み込んでいたが、最終的には校長のほうが先に口を開いた。「夏山さん、あなたは絵麻のことを私に尋ねたいのでしょう?」清輔の目が、たちまち輝いた。だが清輔が口を開くより先に、校長は続けた。「絵麻からあなたのことは聞いています。彼女が今どこにいるかも、私は知っています。でも、彼女はあなたに会うつもりはありませんよ」清輔の指が、痙攣したように固く握りしめられた。爪が掌の柔らかな皮膚に深く食い込み、鋭い痛みが走ったが、それでも胸の奥を抉る、あの骨の髄まで蝕むような痛みを和らげることはできなかった。かつて母が言ったのと、まったく同じ言葉だった。なぜ彼女は自分に会おうとしないのか。あんなにも自分を愛していたはずなのに。校長はまるで清輔の疑問を見透かしたかのように、遥か遠くに雲に煙る山の峰を眺めながら、昔を振り返り始めた。「絵麻は幼くして両親を亡くし、私が引き取って育てました。私は学校のことでいつも手一杯で、余裕がなかったのですが、絵麻はとても聞き分けのいい子で、駄々をこねるどころか、進んで私の手伝いをしてくれて……」校長の声は、遠い場所から響いてくるようだった。清輔の目の前には、小さな影が浮かび上がる。校長の後ろについて、けなげに、自分にできることをこなしていく幼い少女の姿が。「そんな環境の中で育ったからこそ、絵麻には強く、簡単には折れない心が備わったのです。何をされても、彼女を打ちのめすことはできません。誰にも彼女を追い出すことはできない。彼女が自分から離れていくとしたら、それは何かに深く失望したときだけです。あなたはきっと、そうさせるようなことをしたのでしょうね」絵麻は校長にふたりのことを詳しく話しては
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第19話

なぜ、絵麻を探しに来たのか。それは、清輔がどうしても確かめたいことがあったからだ。なぜ突然自分を置いて去ったのか。なぜ何も告げずに姿を消したのか。なぜ自分に探させようとしなかったのか。そして何より。彼女は今も、自分を愛しているのかどうか。だが、それらの言葉は、いざ口にしようとすると、どうしても出てこなかった。長い沈黙の末、清輔はようやくこう告げた。「君を、家に連れて帰りたい」清輔は、知夏の本性がどのように明らかになったか、そして彼女や子供のことにどう決着をつけたのかを語った。両親がどれほど後悔しているかを語った。この数ヶ月、彼女を探し続けてどれほど狂おしく、どれほど追い詰められていたかを語った。絵麻は手にしたスマホを強く握りしめ、全身の震えを必死に抑え込んだ。それは痛快さでも、悲しみでもなかった。あまりにも遅れて届いた真実が、かさぶたの張った傷を突然引き裂き、その下にある、決して癒えることのなかった膿んだ傷口を無理やりこじ開けるような感覚だった。遅すぎた。すべてが、もう遅すぎたのだ。彼女はもう、真実が明るみに出ることを必要とする段階を、とうに通り過ぎていた。清輔の償いも、後悔の言葉も、もう必要としていなかった。「清輔、私はあなたと一緒には帰れない。私たちはもう、昔には戻れないの。あなたがご両親に逆らいきれなかったことも、知夏との間に子供ができたことも、それ自体を責めるつもりはない。でもあなたは、別の女性と家庭を築きながら、私には叶えるつもりもない約束をし続けた。そうやって1年、また1年と、私をあなたのそばに縛りつけて、私の時間を奪ったの。あなたと彼女が寄り添っている姿を見るたびに、ずっと思ってた。もしかしたら、後から割り込んでいるのは私のほうなんじゃないかって」「違う、絵麻。君はそんな存在じゃない。俺が一番愛しているのは君だ」清輔は何度も否定し、思わず彼女の手を取ろうとした。だが絵麻は、触れられる前にそっと身を引いた。「でも、周りから見ればそうなのよ。あなたは彼女との間に子供をもうけ、夫婦同然に暮らしてきた。婚姻届を出していなかっただけで、あなたたちはもう家族だった。誰が見たって、あなたと彼女のほうが夫婦に見えるわ」絵麻は清輔をまっすぐ見つめた。「それなのに、どうして今さら私を捜
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第20話

絵麻はその子の腕の中に、たくさんのおもちゃが抱えられているのに気づいた。足元にも、まだいくつも積まれている。ふと、この子の母親が早くに亡くなり、それらが亡き母親の残した、かけがえのない形見なのだと思い出した。絵麻はその場で決めた。男性教師には先に子供を連れて学校へ戻ってもらい、自分は後から追いつくと告げた。子供には、このおもちゃを全部学校に持ち帰ってあげると約束した。男性教師が子供を抱えて立ち去った後、絵麻は素早く大きな袋を手に取り、おもちゃを次々と詰め込んでいった。それを担ぎ上げて出ようとした、その瞬間。土石流が窓を突き破った!時間が凍りついた。息の根を止めるような恐怖が、絵麻の全身を締め上げる。視界に映るのは、濁り、粘つき、折れた木や砕けた石を巻き込んだ土石流だけだった。それは咆哮を上げながら窓枠を越え、まるで地獄の口が開いたかのようだった。むせ返るような生臭い土の匂いが一瞬にして鼻腔を満たし、絵麻の呼吸を完全に奪った。頭の中は真っ白になり、膝から力が抜け、その場に崩れ落ちた。ただ、迫りくる死の波を、まっすぐに見つめることしかできなかった。そのとき。迫りくる濁流の轟音を切り裂いて、ひとつの人影が絵麻に向かって飛び込んできた!絵麻は目を大きく見開いた。清輔。どうして、彼がここに!?絵麻は、清輔が部屋へ飛び込み、燃えるような眼差しで瞬時に隅にいる自分を捉えるのを見た。彼は余計な言葉をひとつも発することなく、そのまま身をかがめ、肩を絵麻の腹部に押し当てたかと思うと、渾身の力で彼女の体を一気に持ち上げ、自身の肩へと担ぎ上げた。清輔は彼女を担いだまま、唯一の逃げ道である裏山の斜面へと通じる木の扉に向かって、全身の力を込めてぶつかっていった。だが、この家では家畜が逃げ出さないようにと、扉の裏側にわざわざ木製の閂を取りつけ、扉と壁をがっちりと固定していた。唯一の退路は無情にも絶たれ、背後には死の濁流が迫っている。そのとき、鈍く耳障りな、何かが裂ける音が響き渡った。続いて清輔の体が激しく震え、固く食いしばった歯の間から、極限まで押し殺した呻き声が漏れた。絵麻は全身を硬直させ、恐怖に駆られて下を見た。心臓が瞬時に凍りつく。扉が破られた瞬間、その中から突き出た木の破片が、まるで槍のように、清輔の右の脇腹深くへと突き刺さ
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